きまぐれな日々

昨日(5月28日)、当地は早くも梅雨入りした。5月の梅雨入りはあまり記憶にないが、先週土曜日の雨を境に空気が変わって、じめじめと湿った不快な気候になっていた。

‥‥そんなワケで、このところのいわゆる「リベラル・左派系」のブログも四分五裂の状態だ。

3年前に 「きっこの日記」 に夢中になった当ブログ管理人が、初めてインターネットにおける議論の 「フレーム」 を目撃したのは、もう18年も前のことだ。その頃はまだwwwなんかなかった。インターネットといっても、テキストベースの電子メールとネットニュースが中心だった。そのネットニュースで、インターネットにおける議論が 「フレーム」 を生じやすいことを知った。ネットニュースにおいては匿名が認められておらず、参加者は実名を出して議論の相手をアホ、バカと罵倒していた。あれを初めて見た時はカルチャーショックだった。当時の私はその議論には加わらず、インターネットの利用はもっぱら電子メールとソフトウェアのダウンロードに限っていた。だが、当時からインターネットで議論を行っていた人たちは、「炎上」を回避してネットでの議論から成果を得るための技法を磨いていったようだ。

同じ頃、パソコン通信も普及し始めていたが、私はあまり利用しなかった。パソコン通信の議論でもよくフレームが生じたようだが、それらに対しては、ネットニュースでのフレームの劣化版という印象を受けた。

個人でインターネットをやるようになったのは1997年のことである。掲示板での議論でも、やはりフレームが頻発したが、前記パソコン通信におけるフレームと同様の印象を持った。

ウェブログ(ブログ)が流行り出したのは4年くらい前だろうか。「政治ブログ」が目立つようになったのは3年前頃だった。当時はコイズミ支持派のブログが多かったが、反コイズミを掲げたブログ運動も始まった。後者についてはさまざまな毀誉褒貶があるが、その歴史的意義は認めておかねばならないと思う。

リベラル・左派系のブログ言論の全貌など、当ブログ管理人には知りようもないが、「トラックバック・ピープル」を利用していた人たちの一部を中心としたブログ言論には、一つ不思議な特徴があった。

それは、必要以上に議論を嫌い、異論に対して強い同調圧力をかけることだ。

これは、正月以来の「水からの伝言」騒動の最大のポイントであったと当ブログは考えている。

当ブログの読者の間では、「水からの伝言」騒動の記事は不人気で、当初の頃(1月)を除いて、この題材を取り上げた記事はアクセス数も「ブログ拍手」も少ないのだが、そこにはどうしても看過できないものがあるので、あえて書き続ける。

20年近く前のネットニュースでの議論において、同調圧力はなかったかというと、そんなことはなかった。当時から「レッテル張り」はあったし、それは対立する2つまたはそれ以上の陣営のフレームの火に油を注いだ。だが、それと今回のケースが異なるのは、「本来団結すべき両陣営が喧嘩をしてはならない」、「リベラル・左派は分裂してはならない」、「真の敵を見失ってはならない」などといって、論争を収拾しようとする人たちが少なからず現れたことだ。それは、結果として同調圧力を強める方向へと働いたが、今回の陣営で強く同調圧力を求めた側が、議論においてかなり早い段階から劣勢になっていたこともあり、事態を収拾させることはできなかった。

この論争は、古くからネットにおける議論の技法を磨いてきた人たちにとっても違和感が強かったようで、そちらからの批判もこのところずいぶん目立つようになったが、そちらの世界にあとから入ってきた人たちの中には、スキルの高くない人もいて、やたらと長文を書く上、「落としどころ」や「手打ち」に言及するなどのベタな政治的発言を繰り返し、あげくの果てに論理が破綻している文章を書く人までいたのには、それこそビックル一気飲みだった。だが、ビックルどころかビッギーを飲んでしまったのは、そういう人を、議論のスキルを磨いてきたはずの人が庇って、対立する論陣を張っている人たちに対して感情的な批評を加えたことである。

文芸批評の領域では、「印象批評」は現在では通用しないと聞いている。同様に、古くからインターネットにおける議論のスキルを磨いてきた人たちにとっては、印象批評はご法度のはずだ、そう私は考えていた。ひとたび印象批評をやったら、「根拠を示せ」と突っ込まれるのが普通だ。ところが、今回アカデミズム側にいるある方に、「あなたのやっているのは印象批評だ」と指摘したら、「私は印象で書いている」と返されてしまった。これには、「膝カックン」だった。ひとたび確立したはずの、アカデミズムの世界の人たちの「ネットにおける議論のスキル」というのももしかしたら形骸化してしまっているのではないか、そんな「印象」(笑)を受けたのである。

そもそも私は、自然言語の性質上、書き手の人格と書かれたテキストを切り離すことはできないと考えている。「書かれていないことを勝手に読み取ってはならない」というのはその通りで、今回の騒動においては、政治批判ブログ系の「水からの伝言」批判派は、「共感派」の周辺に群がる有象無象の人たちによって、勝手に「解同」や「連合赤軍」や「ソーカルト」にでっち上げられた。これは、「共感派」の周辺には、平気で「書かれていないことを勝手に読み取る」人たちが多数いることを示している。だが、人間を切り離しての議論などできない、それが「政治批判系」の「水伝」批判派の何人かの主張だし、それには当ブログも賛成だ。

しかし、アカデミズム系の人たちの間では「属人的な議論」はタブーらしくて、政治批判系のブログでは「属人的な議論をしている(から程度が低い)」というのが、アカデミズム系の人たちの一部からなされた批判だった。しかし、この主張の急先鋒に立っていた人が、前記のように政治的発言を連発していて、論理もうまく操れず、それなのにその人を、議論のスキルに熟達しているはずの人が感情的になって庇い立て、対立論者を印象批評で批判した。この状況を見ていて、「なんだかなぁ」と思って考え込んでしまったのである。

やはり、人間のあり方、コミュニケーションのあり方というのは、十年や二十年程度では変わらないもののようだ。あちら側では、「十数年前の 『fj』 の議論を思い出す」とか、「今の人は『fj』なんか知らないからなあ」などと言っているが、前者についてはこちらも同じ思いであり、後者については、「fjを経験してきた私たちは、(政治系ブログの人たちなんかと比べて)一段上のステージに達しているんだ」という自負を感じた。だが、本当にそうか。これからは、「メタモヒカン」の視点が必要になるんじゃないかと思った。そういえば、20年近く前に「fj」で起きた「差別用語論争」でも、1年後に再燃した時にはメタな視点からの議論がなされ、数年後には静かにかつてのテーゼが否定され、「差別用語」に関して「文脈を無視した議論は無意味だ」という主張がなされ、それに対する目立った反論はなかった。

当時の「fj」の方言では、「反論がなければ合意」だったはずだ。もっともそんなことを主張していたのは約1名だけだったが(笑)。


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