http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-645.html#comment3478
まず前半部分。
>fjを経験してきた私たちは、(政治系ブログの人たちなんかと比べて)一段上のステージに達しているんだ」という自負を感じた。
この部分が事実誤認だから(∵ステージといったものは存在しないし上下と呼べるものもない)、
>だが、本当にそうか。
の問いは意味がないと思う。
水伝を安易に信じることの是非を論じるという範囲で閉じる筈の議論が閉じていない上に終わらないのは
・書かれていないことを(双方が)読む
・論を個人に引き寄せて(双方が)解釈する
といったことを続けているからだろうという話をしただけで。
(apjさんのコメントより)
とのことだ。
前提が誤りだから、それ以後の文章に意味がないと仰るなら、その通りとお答えするしかない。一昨日のエントリは、印象批評というか「想像でものを書いた」文章だからだ。
なぜそんなことをしたかというと、「玄倉川の岸辺」のエントリ "「私闘」という言葉" で、下記のpoohさんのコメントを読んだからだ。
私怨かどうかは知りませんが、ぼくはたんぽぽさんの「私闘」と云う言葉を、「動機も成果も自分個人に帰属するもの」と読みました。つまるところそれは「勝敗と云う結果に向かうもの」と云うこととして捉えています。
それはそれでかまわないのです。ぼくはごく最初の時点でその私闘に与しないことを表明し、「好意的でない」との評価をいただきました。その後も直接の批判を行いました。そのあたりの当否は、読むひとが判断することです(まぁ結果は袋だたきですが、それは甘受すべきことでしょう)。
不思議なのは、彼女に対するその種の批判に、彼女に対して「好意的」な論者が露払いの如く登場して論陣を張り、その後で彼女が敷かれたレッドカーペットの上を登場してそれらの論陣に立脚した議論を展開する、と云う構図が成立してしまっていることです。
ぼくみたいに恒常的に罵倒され、軽侮されている論者はまぁそれでもなんとかなりますが、そうじゃない方はこの構図だけで潰れます。潰れた、と云うことは論が正当じゃなかった、覚悟が足りなかった、と云うことで片付き、それで終わりです。私闘は勝利、でしょう。
(「玄倉川の岸辺」へのpoohさんのコメントより)
このコメントの後半部分は、印象批評ではないか、想像でものを言っているのではないかと思ったので、こちらも印象批評を行ない、想像でものを言った次第だ。apjさんについてはそれは当てはまらないとのことだから、それについては了承したい。
但し、一昨日のエントリで書いた私の印象は、apjさんのエントリについたはてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=9655
のコメントのいくつかや、出典は明示しないがいくつかのブログのコメント欄でなされていた議論に由来している。
また、不本意ながら(注)「政治ブログ」の世界に身を置く者として認めざるを得ないのは、「書かれてもいないことを勝手に読み取る」ことは政治ブログの世界では日常茶飯事だということだ。正月以来の「遅れてきた水伝騒動」では、現在「共感派」と仮称されている側(当初たんぽぽさんから批判を受けた側)によって、ありもしない謝罪要求がでっち上げられたし、「批判派」(「共感派」によって「論理派」とも名づけられたが、私はこの名称が適切であるとは思わない)は「解同」(部落解放同盟)だの「連合赤軍みたい」だの「ソーカルト」(「創価学会」と「カルト」を複合させた造語)だのと誹謗されてきた。もちろん、こちら側からも「書かれていないことを読み取った」例があるとは思うが、「共感派」による例よりはずっと少ないはずだ。
思い込みによる誹謗中傷は政治ブログの世界の特徴ともいえるかと思う。また、イデオロギーに固執しやすいとか、ポピュリズムが蔓延しやすいなど、政治ブログの言論が普遍性を獲得するために解決しなければならない課題は山積している。
つまり、政治ブログの言論は未成熟であると言う認識が私にはあり、それが上記のような印象批評につながったものだ。つまり、政治ブログの言論を「下」に見る意識は、私自身にあった。だからこそ、あのようなひがみっぽい印象批評になった、とは正直に認めなければならない。
ところで、apjさんのコメントの核心は、その後半部分だろうと思う。
で、ちょっと教えていただきたいのですけど。
>だが、人間を切り離しての議論などできない、それが「政治批判系」の「水伝」批判派の何人かの主張だし、それには当ブログも賛成だ。
なぜ、この制約条件をわざわざ課すんですか?人間を切り離した方が議論は自由になると思うのですが。この制約条件を課した場合に得られるメリットは何ですか?
普段、ニセ科学批判をしている側から見ると、さっさと終わる筈の水伝騒動が、こちらでは元の水伝を離れて延々続いていて、しかも議論している対象への理解が深まったという形跡もないのを見ると、人間を切り離さない議論をする利点が見当たらないのですが。
(apjさんのコメントより)
「議論している対象への理解が深まったという形跡もない」と書かれていることから伺われるように、apjさんは「水伝問題」を念頭に置かれていることと思う。
そもそもの騒動が、「水からの伝言」を肯定的に取り上げたブログに対する批判に端を発している以上、それは当然の姿勢ともいえるが、私が「人間を切り離しての議論などできない」と主張する時に念頭に置いているのは政治のことだ。
政治とは何ぞや、というとさまざまな定義があるが、どの定義によっても人間と関係づけられている。すなわち、政治を人間を切り離して論じることはできない、ただそれだけの話だ。政治は極端な例かもしれないが、人文・社会に多少なりともかかわりのあるどんな分野でも、人間を切り離した議論は不可能だというのが私の認識だ。
わかりやすいたとえ話をすると、選挙で選ばれるのは候補者、すなわち人間だ。選挙において各政党は「マニフェスト」を発表する。しかし、多くの場合、選挙後にその公約は平気で反故にされる。政治を論じる際、「郵政総選挙」に圧勝したあとのコイズミはどんな政策をとるか、「国民の生活が第一」と訴えて参院選に圧勝したあとの小沢一郎はどのような行動をとるか、それは本当に国民の生活のためになるのか、極右の平沼赳夫などと結びついて国民を不幸にする方向に走ったりしないか、などということを予測し見極めて、彼らがあらぬ方向に突っ走ろうとした時にすかさず声をあげなければならない。その際、人間について考察することは不可避だ。そして、その考察の対象はブログ間で論争になった場合は相手方のブロガーに及ぶことも止むを得ないと私は考える。
つまり、「人間を切り離さないと言う制約条件を課した場合に得られるメリット」というよりは、否応なしに「人間を切り離さないわけにはいかない」宿命を、現実の政治を語る者は持っていると思う。
属人的議論は、論者に予断を与えてしまうというデメリットはよく指摘される。それは論者が十分心しなければならないことだ。だが、私は安倍政権を批判して昨年の総選挙では民主党を筆頭とする野党を応援する論陣を張っていたにもかかわらず、昨年秋の「大連立」騒動の際には、参院選の時に応援していた民主党の小沢一郎代表を批判する論陣を張った。その際、読者によっては「大連立」の仕掛け人と言われたナベツネ(渡邉恒雄)を私が弁護しているように読める文章があったらしい(これのことかなあ?)。つまり、私自身は、誰が発話したかということより、どのような発話であるかを重視して議論しているつもりだ。しかし、その一方で、誰の発話であるかということも考察から絶対に抜かしてはならないと考える。そのバランスが大事なのだ。
ちなみに大連立騒動の時は、当ブログのような主張は、民主党支持の多いこの界隈では少数派だった。「水伝騒動」における「共感派」の取り巻きのブログのコメント欄などを見ると、「kojitakenは大連立の時に小沢一郎を批判し、ナベツネを弁護していて、何を考えるんだと思った」と悪口を言っている者があった。これは、属人的考え方にのみとらわれすぎた悪例であって、われわれは属人的議論の問題点を十分に踏まえた上で議論しなければならない。しかし、政治というものの性質上、人間を切り離した議論はそもそも不可能なのだ。
なお、今回の議論については、本エントリで締めくくりにしたい。正直いって、かなり消耗してしまった。
(注) 「不本意ながら政治ブログの世界に身を置く」と書いたのは、3年前の「郵政総選挙」の結果および当時次期首相就任確実といわれていた安倍晋三の危険な体質に危機感を持ち、微力ながら現在の政治のあり方に異議を唱えるブログを立ち上げるしかないと思ったからだ。つまり、私が政治ブログを開設した動機は、安倍晋三という人間の属人的性質と強く関係する。
ブログを開設した最初の年には、政治思想や経済学を専門に勉強したわけでもない人間の書くこんなブログなど早々と押しのけられるだろうと予想していたのだが、そうはなっていない。嘆かわしい限りだ。
早くブログで好きなことだけを書ける時代が到来しないものか、それを願う今日この頃だ。
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‥‥そんなワケで、このところのいわゆる「リベラル・左派系」のブログも四分五裂の状態だ。
3年前に 「きっこの日記」 に夢中になった当ブログ管理人が、初めてインターネットにおける議論の 「フレーム」 を目撃したのは、もう18年も前のことだ。その頃はまだwwwなんかなかった。インターネットといっても、テキストベースの電子メールとネットニュースが中心だった。そのネットニュースで、インターネットにおける議論が 「フレーム」 を生じやすいことを知った。ネットニュースにおいては匿名が認められておらず、参加者は実名を出して議論の相手をアホ、バカと罵倒していた。あれを初めて見た時はカルチャーショックだった。当時の私はその議論には加わらず、インターネットの利用はもっぱら電子メールとソフトウェアのダウンロードに限っていた。だが、当時からインターネットで議論を行っていた人たちは、「炎上」を回避してネットでの議論から成果を得るための技法を磨いていったようだ。
同じ頃、パソコン通信も普及し始めていたが、私はあまり利用しなかった。パソコン通信の議論でもよくフレームが生じたようだが、それらに対しては、ネットニュースでのフレームの劣化版という印象を受けた。
個人でインターネットをやるようになったのは1997年のことである。掲示板での議論でも、やはりフレームが頻発したが、前記パソコン通信におけるフレームと同様の印象を持った。
ウェブログ(ブログ)が流行り出したのは4年くらい前だろうか。「政治ブログ」が目立つようになったのは3年前頃だった。当時はコイズミ支持派のブログが多かったが、反コイズミを掲げたブログ運動も始まった。後者についてはさまざまな毀誉褒貶があるが、その歴史的意義は認めておかねばならないと思う。
リベラル・左派系のブログ言論の全貌など、当ブログ管理人には知りようもないが、「トラックバック・ピープル」を利用していた人たちの一部を中心としたブログ言論には、一つ不思議な特徴があった。
それは、必要以上に議論を嫌い、異論に対して強い同調圧力をかけることだ。
これは、正月以来の「水からの伝言」騒動の最大のポイントであったと当ブログは考えている。
当ブログの読者の間では、「水からの伝言」騒動の記事は不人気で、当初の頃(1月)を除いて、この題材を取り上げた記事はアクセス数も「ブログ拍手」も少ないのだが、そこにはどうしても看過できないものがあるので、あえて書き続ける。
20年近く前のネットニュースでの議論において、同調圧力はなかったかというと、そんなことはなかった。当時から「レッテル張り」はあったし、それは対立する2つまたはそれ以上の陣営のフレームの火に油を注いだ。だが、それと今回のケースが異なるのは、「本来団結すべき両陣営が喧嘩をしてはならない」、「リベラル・左派は分裂してはならない」、「真の敵を見失ってはならない」などといって、論争を収拾しようとする人たちが少なからず現れたことだ。それは、結果として同調圧力を強める方向へと働いたが、今回の陣営で強く同調圧力を求めた側が、議論においてかなり早い段階から劣勢になっていたこともあり、事態を収拾させることはできなかった。
この論争は、古くからネットにおける議論の技法を磨いてきた人たちにとっても違和感が強かったようで、そちらからの批判もこのところずいぶん目立つようになったが、そちらの世界にあとから入ってきた人たちの中には、スキルの高くない人もいて、やたらと長文を書く上、「落としどころ」や「手打ち」に言及するなどのベタな政治的発言を繰り返し、あげくの果てに論理が破綻している文章を書く人までいたのには、それこそビックル一気飲みだった。だが、ビックルどころかビッギーを飲んでしまったのは、そういう人を、議論のスキルを磨いてきたはずの人が庇って、対立する論陣を張っている人たちに対して感情的な批評を加えたことである。
文芸批評の領域では、「印象批評」は現在では通用しないと聞いている。同様に、古くからインターネットにおける議論のスキルを磨いてきた人たちにとっては、印象批評はご法度のはずだ、そう私は考えていた。ひとたび印象批評をやったら、「根拠を示せ」と突っ込まれるのが普通だ。ところが、今回アカデミズム側にいるある方に、「あなたのやっているのは印象批評だ」と指摘したら、「私は印象で書いている」と返されてしまった。これには、「膝カックン」だった。ひとたび確立したはずの、アカデミズムの世界の人たちの「ネットにおける議論のスキル」というのももしかしたら形骸化してしまっているのではないか、そんな「印象」(笑)を受けたのである。
そもそも私は、自然言語の性質上、書き手の人格と書かれたテキストを切り離すことはできないと考えている。「書かれていないことを勝手に読み取ってはならない」というのはその通りで、今回の騒動においては、政治批判ブログ系の「水からの伝言」批判派は、「共感派」の周辺に群がる有象無象の人たちによって、勝手に「解同」や「連合赤軍」や「ソーカルト」にでっち上げられた。これは、「共感派」の周辺には、平気で「書かれていないことを勝手に読み取る」人たちが多数いることを示している。だが、人間を切り離しての議論などできない、それが「政治批判系」の「水伝」批判派の何人かの主張だし、それには当ブログも賛成だ。
しかし、アカデミズム系の人たちの間では「属人的な議論」はタブーらしくて、政治批判系のブログでは「属人的な議論をしている(から程度が低い)」というのが、アカデミズム系の人たちの一部からなされた批判だった。しかし、この主張の急先鋒に立っていた人が、前記のように政治的発言を連発していて、論理もうまく操れず、それなのにその人を、議論のスキルに熟達しているはずの人が感情的になって庇い立て、対立論者を印象批評で批判した。この状況を見ていて、「なんだかなぁ」と思って考え込んでしまったのである。
やはり、人間のあり方、コミュニケーションのあり方というのは、十年や二十年程度では変わらないもののようだ。あちら側では、「十数年前の 『fj』 の議論を思い出す」とか、「今の人は『fj』なんか知らないからなあ」などと言っているが、前者についてはこちらも同じ思いであり、後者については、「fjを経験してきた私たちは、(政治系ブログの人たちなんかと比べて)一段上のステージに達しているんだ」という自負を感じた。だが、本当にそうか。これからは、「メタモヒカン」の視点が必要になるんじゃないかと思った。そういえば、20年近く前に「fj」で起きた「差別用語論争」でも、1年後に再燃した時にはメタな視点からの議論がなされ、数年後には静かにかつてのテーゼが否定され、「差別用語」に関して「文脈を無視した議論は無意味だ」という主張がなされ、それに対する目立った反論はなかった。
当時の「fj」の方言では、「反論がなければ合意」だったはずだ。もっともそんなことを主張していたのは約1名だけだったが(笑)。
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この記事だけ読んでも何のことかさっぱりわからないと思うが、昨年4月に起きた伊藤一長・長崎市長(当時)射殺事件の犯人である元暴力団幹部・城尾哲弥が、本名を「白正哲」であるという説がインターネット上でまことしやかに流されたことがあった。「2ちゃんねる」や人気ネット右翼ブログ「博士の独り言」(「イザ!」に開設された「闘魂編」のほう)が垂れ流したものだ。「博士の独り言・闘魂編」の記事は、http://grandbee.iza.ne.jp/blog/entry/154426/ に公開されていたが、現在では削除されている。「博士」にとっては、おそらく触れられたくない過去なのだろうが、削除された記事は下記のようなものだった。
伊藤一長・長崎市長が17日夕刻に銃撃を受け、18日未明に亡くなった事件で、報じられた犯人の指定暴力団山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)の本名は「白正哲」であることが判明。読者より情報をいただき、通信社筋に確認したところ、確認が得られたので小稿に報告する。
一方、米国・バージニア工科大で、米犯罪史上最も多い32名(米時間17日現在)の犠牲者を出した銃撃事件が報じられたが、凶行に及び、現場で自殺した犯人は、韓国人で同大学の寮に住むチョ・スンフィ容疑者(23)であった。
まさに、悲惨な両事件は、朝鮮系による「日米同時銃撃事件」であった。「やはり」と思われる方もおられるに違いない。
無防備、無抵抗な者を銃撃する。後ろからフイ撃ちする。身体の中でもっとも無防備な顔面を狙う。これらは、朝鮮人の犯罪の特徴である。要注意のご参考まで!
日本の尊厳と名誉を守り、国民の手で日本を取り戻しましょう!
(「博士の独り言・闘魂編」に掲載されていたデマ記事)
こんなデマはどこが出所なのかと思って私が調べたところ、「nikaidou.com」が4月17日に書いていたのが最初だった。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20070421/1177154096
城尾哲彌こと白正哲が長崎市長銃撃<追記アリ>
2007/04/17(火) 20:42
長崎市長銃撃事件。伊藤一長市長は搬送先の病院で死亡した。犯人は山口組系水心会の城尾哲彌こと白正哲。朝鮮人である。故伊藤元市長は、北朝鮮の核実験反対の発言がある事から「言論テロ」という見方もあるが、それは違う。
(「J-CIA」より)
その後、これより早くこの噂を流したソースは見つかっていない。
以上、読者の方々にネット右翼が流言蜚語を撒き散らした悪例を思い出していただこうと思って、前振りが長くなってしまったが、昨日(5月26日)長崎市長射殺事件の犯人・城尾哲弥の判決公判が長崎地裁であり、松尾嘉倫裁判長は、求刑通り死刑を言い渡した。これに対し、弁護側は判決を不服として即日控訴した。
今朝の朝日新聞は、「テロへの怒りを新たに」と題した社説でこの判決を取り上げており、
暴力で言論や政治活動を封じようというのは、民主主義に対するテロである。裁判官はテロの社会的な影響の深刻さを重く見て、いまある刑罰の中で最も重い死刑を選んだということだろう。厳罰化の流れが背景にあるとはいえ、そうしたテロに対する厳しい姿勢は十分うなずけるものだ。と書いている。
私は死刑廃止論者だが、城尾哲也の行った行為は、言論の自由に対する許されざる挑戦であり、こんな男に二度と娑婆の空気を吸わせてはならないと思う。死刑廃止は、終身刑創設とセットで行われなければならないというのが私の主張だ。ブログでは、眠り猫さんも昨日の記事で同様の主張をしている(下記URL)。
http://heiwawomamorou.seesaa.net/article/98064432.html
眠り猫さんも書いているように、生涯出所を認めない真の「終身刑」に対して、「死刑より残酷」という声もあるが、私はむしろ城尾のような人間には、その「死刑より残酷」な刑を科すのが相応だと考える。城尾とつきあいのあった人物には、「日本会議」の関係者もいるし、城尾の所属していた暴力団とさる極右政治家の非公然後援会とのつながりが指摘されたこともあった。それらを思い起こすにつけても、城尾哲弥は断じて許すことができない。
さきに紹介した朝日新聞の社説は、「(昭和)天皇の戦争責任はある」と発言した本島等・長崎市長(当時)が1990年に銃撃されて重傷を負った事件を例に引き、テロや暴力を恐れて萎縮した例として、東京のホテル(プリンスホテル)が日教組の集会を断ったり、一部の映画館が「靖国」の上映を取り止めた例(その背後に稲田朋美や有村治子の妄動があったことも忘れてはならない)をあげ、
民主主義に対するテロや暴力をいっそうはびこらせるのか。それともここで踏みとどまって、言論や政治活動の自由を広げていけるのか。そうした流れに影響を与えるという点でも、今回の判決は意味がある。と書いている。
論旨は理解できるが、それでも当ブログとしては死刑には反対であり、その代わりこの城尾哲弥には一生涯出所を許さない真の意味での「終身刑」を科すべきだと思う。
5月15日に、死刑存置論者も加えて、自民党から共産党まで含む議連「量刑制度を考える超党派の会」が加藤紘一を会長にして結成され、終身刑創設を盛り込んだ刑法などの改正を今秋の臨時国会に提起する考えを示したと報じられた。
http://www.asahi.com/politics/update/0515/TKY200805150276.html
是非とも終身刑創設にこぎつけてもらいたいと思う。
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トルコに向かう途中に十数人の仲間とともに拘留された、中国ウイグル自治区の住民であるトルキスタニ氏が、英国BBCに収容所での人権抑圧を告発する手紙を届けた。同氏はトルコに向かう途中、十数人の仲間とともに捕縛され、6年間、無裁判のまま1日22時間を独房で過ごす環境下で拘束され続けている。
ウイグルもチベット同様、独立や自治権拡大を求める運動が盛んで、活動家の大多数は非暴力の抗議行動を行っているが、中国政府によって過激派と同列にみなされ、弾圧されている。トルキスタニ氏とその仲間がテロ活動を行ったという証拠も、もちろん皆無である。
中国政府によるチベットの人権侵害に関心を持つ者なら誰でも、トルキスタニ氏らの即時釈放を関係当局に要求すべきだが、そうはなっていない。なぜか。
実は、トルキスタニ氏とその仲間はイスラム教徒で、米軍によって捕縛され、悪名高いグアンタナモ(キューバ)の捕虜収容所に収容されているのだ。
米ブッシュ政権はチベットの自治権拡大運動を支持する一方で、「テロとの戦い」の一環として中国政府に過激派への厳しい監視も要求した。これは中国政府にとっても好都合で、独立や自治権拡大を求める活動家に「テロ分子」のレッテルを張って弾圧を強めた。少数民族への抑圧や人権侵害は決して、一部の「人権後進国」によって引き起こされているものではない。
チベットの人権問題では、世界中のほとんどすべての人権活動家が中国政府を批判しており、それは当然だが、同じ人たちがウイグルの人権問題に口をつぐんではいけない。
(朝日新聞 2008年5月22日付文化面掲載のテッサ・モーリス・スズキ氏の寄稿文より前半部分を要約)
トルキスタニ氏を捕縛したのは、中国政府ではなく米軍だったという種明かしだ。
アメリカも人権活動家もダブルスタンダードを使う。日本のネット右翼などはひどいもので、「フリー・チベット」を叫びながら、四川大地震では天罰だの中国人はもっと死ねなどとほざくありさまだ。
テッサさんは
日本で行われた五輪の聖火リレーでは、「人権問題の衣装を着た反中国のナショナリズム」とみなされる抗議行動もあったと聞く。悲しいことだが、反中国のナショナリズムは、必ずや中国における反日本のナショナリズムとしてお返しされるだろうと書いている。
リベラルや左派は、チベットの問題にどう対するべきか。中国政府の人権抑圧を批判すべきなのは当然だが、それが右翼の反中プロパガンダに利用されてはならない。しかし現実にはそうなってしまっている。
テッサさんは文章を以下のように締めくくっている。
すでに、中国の作家である王力雄氏や劉暁波氏らは「中国政府は暴力的な鎮圧を即停止すべきだ」とする声明を発表した。彼ら彼女らを国境の壁によって孤立させてはならない。チベットでの人権侵害に対抗するには、普遍的人権の保障という共通目的で、国境を越えて連帯・協働することこそが必要なのである。
そしてその運動は当然、無裁判のまま拘留されているグアンタナモの被収容者の人権救済要求も視野に入れたものであるはずだろう。
(朝日新聞 2008年5月22日付文化面掲載のテッサ・モーリス・スズキ氏の寄稿文より
チベット問題を論じるたびに思い出したいテッサさんの文章だ。
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実は、ネットに割く時間を減らして、もっと勉強したり、以前のように外に出て体を動かしたりしなければならないと思っているのだが、思うにまかせない今日この頃なのだ。
自分のブログのコメント欄もコメンター同士がバトルをするがままに任せておいて(5月17日のエントリへのコメントは、50件以上に達して過去最多となった)、よそさまのブログでバトルをするとは、なんて勝手なやつかと自分自身でも思う(笑)。
私がブログを始めた頃は、いろんなブログにお邪魔してコメントをすることが多かったが、次第にその頻度が減って自分のブログに専念するようになり、コメント欄にいただくコメントに返事する頻度も減らしていった。基本的に、私は自分のブログのコメント欄をコメントを下さる方との議論の場とは見ていないからだ。但し、コメントされる方同士の議論は放任している。よほどひどいコメントや荒らしの常習犯によるコメント、あるいはスパムコメント以外は、右翼のコメントだろうが極左のコメントだろうが承認している。当ブログにコメントを削除された方は、「よほどひどいコメント」だと私がみなしていると考えてほしい。なお、削除する/しないの基準は私の勝手な判断によるものであり、苦情は受けつけないことをおことわりしておく。
そういう状態だったのが、このところよそさまのブログに出向いてコメントしたり、時にはケンカをしたりすることが多くなったのは、正月以来の「水からの伝言」騒動がきっかけである。この騒動については、1月15日付エントリ "「水からの伝言」をめぐるトラブルの総括" で一度当ブログとしての区切りをつけようとしたし、騒動も1月の後半には下火になったが、その後 「週刊金曜日」 が編集後記で取り上げたことがきっかけになって騒動が再燃した(4月19日エントリ "再燃しかかった「水からの伝言」騒動" 参照)。
再燃した騒動の特徴は、「水からの伝言」を肯定的に紹介したブログを批判した 「たんぽぽのなみだ?運営日誌」 およびそれに賛意を表するブログ(「批判派」と名づけられた)が、批判を受けたブログに同情するブロガーやコメンター(「共感派」と名づけられた)から感情的な非難を受けたことだ。
その最たる例が、たんぽぽさんが批判の対象とした 「らんきーブログ」 のぶいっちゃんさんに「謝罪を要求した」という事実無根の風評が生まれたことだ。これを元に「批判派は『連合赤軍』みたいだ」とか、「いや、あれは『解同』(部落解放同盟)のやり口だ」とか、果てには「批判派は『ソーカルト』(創価学会とカルトをかけ合わせた造語)だ」と言いだす人まで現れた。1月の騒動の時にはたんぽぽさんは「雑談日記」のSOBA氏に「日共」とのレッテルを張られていたから、同じ人が「日共」「連赤」「解同」「ソーカルト」の4種類のレッテルを張られたことになる。「共感派」の陰謀論を好む体質が浮き彫りになっていて興味深い(笑)。
なお、謝罪要求が事実無根であったことを示したのは、「玄倉川の岸辺」 の名エントリ "幻の謝罪要求" である。
しかし、当ブログが指摘しておきたいのは、「共感派」の間では、共感を重んじ議論を嫌うあまり、議論をしたがる人間を「連合赤軍」にたとえるような体質(つまり、「極左」「過激派」といわんばかりのレッテルを張りたがる体質)は、何も今に始まったものではなく、「騒動」以前からあったということだ。これを以下に示す。
昨年11月22日付 「わんばらんす」 の記事 "またまたブログについて・・・緊急エントリー!" のコメント欄に、喜八さんが
「議論」は万能などではない。と書いている。
「議論」が物事を悪化(最悪化)してしまうことも珍しくない。
つねづね、私はそう思っています。
「連合赤軍事件」で仲間を大虐殺した青年たちも、殺し合いを始める前にたっぷりと「議論」をしていたみたいです。
(だから、議論をするべきではない、と言うわけではありませんが・・・)
つまり、「共感派」の間には、コミュニティの平和(=馴れ合い)を破る闖入者を「ギャーギャーうるさい屁理屈をこねるやつだ。まるで連合赤軍みたいだ」と言って排除する「空気」はもともとあったということだ。たんぽぽさんは、彼らにとって「KY」であり、排除されるべき対象だった。
再燃した「水からの伝言」騒動は、1月の論戦で劣勢だった「共感派」のカタルシスを求めた絶望的な闘争だったと思う。彼らの何人かはブログの閉鎖や休止を宣言した。ブログなんて勝手に始めて勝手に更新しなくなって、もういいや、と思ったときに静かに閉鎖すればよいものだと私はブログを始めた時からずっと思っているから、ブログをやめるのやめないのと言ったり、それを慰留したりしている人たちの気がしれなかった。批判派を「連合赤軍」呼ばわりした人はブログを閉鎖したけれど、ブログを「辞める」のをやめた人もいたし(「やめる」に「辞める」という字を当てること自体大仰だと思うが)、ブログを閉鎖しないであちこちのブログに出没して自己愛に満ちたコメントを書き散らした人もいる。
こういった状況は、従来の「水からの伝言」が問題になるたびに論じられた「擬似科学批判」とはかけ離れたものになっている。これを指して、アカデミズムやそれに近い世界にいる人たちからは、「公論であるべき "水伝" 批判が私闘になっている」という批判がある。1月に当ブログが騒動に乱入した時に私は 「雑談日記」 のSOBA氏に宣戦布告をしたのだが、それが個人的動機に基づいているという批判も受けた。
だが、今だから白状するが、「個人的動機に基づいて」の宣戦布告は、意識的にやったのである。公論と私論なんてはっきり分けられるはずがない。日本の政治史を顧みても、たとえばロッキード事件での田中角栄元首相の逮捕は、時の総理大臣が三木武夫でなければあり得なかった。あの逮捕劇には三木の「私闘」という側面が確かにあった。そして、近年で最悪の「私闘」の例は、コイズミの「郵政解散・総選挙」だろう。
「水伝」騒動でも、一時、「共感派」に対する批判派は「論理派」と称されたこともあったし、今も「共感派」から「論理村の人たち」と呼ばれて攻撃されている。しかし一方で、政治ブログにおける「水伝」批判派は、アカデミズムの「水伝」批判派を意識して、"「私闘」宣言" をしている(「nagonaguの日記」)。私もこれに賛同したい。
そもそも、「私論」だの「公論」だのというのは、発話者が決めるものではない。本人は「私論」のつもりでもそれがパブリックな性格を帯びることもあるし、発話者が力み返って「公論」を述べていたつもりが、はたから見ればごく限定された範囲でしか通用しない私論に過ぎなかったりする。「私闘」批判をして「公論であるべし」と主張した人の文章は、不必要に長大だった。それだけでも「公論」失格だ、そう私は思った。
ところで、アカデミズムの世界の人がネットでやる議論には、一部でかもしれないが、「議論は属人的であってはならない」というルールがあるらしい。これは、円滑なコミュニケーションをするためには、「書かれてもいないことを勝手に読み取ってはならない」という経験則からきているようだ。しかし、「議論は属人的であってはならない」というテーゼはいささかエキセントリックであって、経験則を不必要に拡張したものであるように私には思われる。特に、人文・社会科学においては、人間的・社会的コンテキスト(文脈、脈略。あるいは状況、環境)を抜きにして、テキストのみに基づいてすべてを議論することはナンセンスだ。
「擬似科学批判」というのは、自然科学の分野には属さないと私は思う。擬似科学を悪用する人たちがいて、擬似科学にいとも簡単に引っかかる人たちがいるから、擬似科学批判が必要なのではないのか。つまり、すぐれて人文・社会科学的な分野だ。だったら、「議論は属人的であってはならない」というのは、議論を深めるのを阻害するドグマなのではないのか。
当ブログの2006年7月28日付記事 "差別用語なんて存在しません" で、20年近く前にネットニュースで話題になった「差別用語論争」をとりあげたことがある。そこでも当初、「差別用語なんて存在しません」という「合意」が成立したが、このフレーズがコンテキストを無視して用いられたために論壇は混乱し、さらなる対立と激論を招いた。そして、「言葉が使われているコンテキストを無視して、差別用語があるとかないなどと議論しても意味がない」というまっとうな指摘がなされて、その認識が定着するのには3、4年の歳月を要したのである。
人間なんてそんなに簡単に進歩するものではない。現在繰り広げられている騒動も、20年近く前と何も変わっていないし、何百年の昔と比較してもそんなに変わっていないのではないかと想像する今日この頃だ。
[追記] (2008.5.25)
玄倉川さんのご指摘を受けて、本文を一部修正しました(「このエントリは、最初に「幻の謝罪要求」をでっち上げたのがニケ氏というブロガーであることを示した。」という部分を取り消し、赤字部分を追加)。
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「サンデー毎日」の先週号(5月25日号)の記事 "平沼赳夫「さらば自民党」奈良・吉野の夜" が伝えるところによると、今月15日に収監された村上正邦元労相が主宰する「日本再生 一滴の会」の勉強会が5月9日に奈良・吉野で行われた。この会は、当ブログでも何度か取り上げた佐藤優氏(外務省起訴休職事務官)を講師にした、草の根右翼というか民族派の人たちの集まりだ。
村上正邦については、昨年11月24日のエントリで、少しだけ触れたことがある。村上へのインタビューをまとめた本を出版した魚住昭は、
彼ら(注:村上正邦ら)の運動は、敗戦直後から60年安保を経て全共闘へとつづく左派の運動形態とよく似ている。特に日本会議の現事務総長である椛島有三氏らがとった、地方から中央へ攻め上る戦略は、中国革命の「農村から都市を包囲する」という毛沢東戦略の亜流と言ってもいいのではないか。と書いた。70年代以降に左翼の平和運動が徐々に支持を失っていった時代に、草の根から右派民族主義の支持を広げていった(右派から見た)立役者が村上正邦であって、その経歴からいって左翼になってもおかしくなかった村上が右翼活動にのめりこんでいったことは考えさせられるものだが、これについては頭が整理できておらず、文章にすることができないのがもどかしい。
(魚住昭著 『証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも』 (講談社、2007年)より)
私にいわせれば、平沼赳夫など、この村上正邦らの地道な活動にただ乗っかっただけの薄っぺらな政治家であり、肝心な場面で適切な判断のできない男だ。今後成立する政権が平沼一派を取り込んでも、害にこそなれ国に利益など何ももたらさないと思う。
「サンデー毎日」の記事に戻ると、その平沼は吉野で行われた「日本再生 一滴の会」の勉強会で「コイズミ、竹中は火あぶりだ!」と吼えたそうだ。以下同誌の記事を引用する。
「小泉さんも竹中も、中世に生まれていれば火あぶりの刑だ。皆さん笑うけど、10億円で売った銀行(注:日本長期信用銀行)がその株を(リップルウッド社に)売却したら、今度は2300億円になったんですよ」
「なぜ竹中が参院議員を辞めたか。彼は講演すると1時間200万円取る。(議員)バッジが着いてたらカネが取れないんです」
(「サンデー毎日」 2008年5月25日号より)
ここまで露骨にコイズミや竹中を批判した以上、平沼は自民党とは一線を画して反新自由主義の極右新党を作り、民主党に接近するつもりだろう。
しかし、平沼は安倍晋三から復党の誘いを受けていて、心が揺れ動いていた。安倍晋三が自民党を離党することはあり得ない。安倍はあくまでコイズミとセットの政治家であり、現在「再チャレンジ」を目指して活動中だが、その本質は首相在任時と何も変わっていない。思想極右にして経済右派である。こんな政治家は政界から放逐すべきだったと思うのだが、民主党の攻めが甘かったせいもあってトドメを刺し損ねた。
「サンデー毎日」の記事を見ると、勉強会に参加した国会議員の名前として挙がっているのは、滝実衆院議員(無所属)、西村眞悟衆院議員(同)と、元職の坂井隆憲元衆院議員くらいのものだ。私の予想では、自民党の議員は、いざ本当に自民党がぶっ潰れる直前まで自民党に固執すると思う。リベラルの側からいうと、「加藤の乱」の苦い思い出もある。自民党は権力を維持し、政官業癒着構造を温存するのを目的とする政党だから、自民党の議員はみな党を離れたがらないのだ。
平沼が「勉強会」で「コイズミ・竹中は火あぶりの刑だ」などと、いささか穏やかでない表現を用いたのも、全然仲間が集まらないことからくる焦りなのではなかろうか。確実に平沼についていくのは城内実だろうが、この間、城内と同じ選挙区の片山さつきがブログで、
「テレビインタビューによると、うちの選挙区の落選元職は自民党批判と民主党批判の両方をやってましたよ、事務所のビデオにとっておきました」「そんなことすぐに、ころと翻すよ、節操ないから。だって極右の西村眞悟から、人権擁護法案推進派までいれた落選組救済新党つくるらしいから。」と城内および平沼新党をからかっていた。片山のほうも、平沼に負けず劣らず露骨な物言いだが、平沼同様片山にも焦りがあるせいだろう。「思想右派」(平沼、城内ら)と「経済右派」(片山)の醜い争いだ。
民主党に注文したいのは、こんな思想右派と経済右派はともに相手にせず、「国民の生活が第一」を訴えて参院選に大勝した時の公約をしっかり守ってほしいということだ。平沼新党と組んではならない。何度も書くが、5月11日の「報道2001」に出てきた平沼は、ネット右翼かと思うほど下品な物言いでヒステリックに反中プロパガンダをしていた。政権に平沼が加わると、日中関係が悪化し、日本経済にダメージを与える可能性が高い。「国民の生活が第一」と訴える民主党は、かかる事態を避けなければならないと思うのである。
日本の政治に、平沼赳夫など必要ない。
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この映画については、既にいろいろなメディアで映画評を読むことができる。上映を予定していたいくつかの映画館が右翼の圧力を恐れて上映を取り止め、その背後に稲田朋美や有村治子ら国会議員の圧力が取りざたされて話題となった映画だ。憲法第21条に規定された「表現の自由」とも絡めて論じられたこの騒動によって、この映画は一躍脚光を浴びることになり、憲法記念日の5月3日に一般公開された時には、マスコミでも大きく報じられた。
メディアなどに出ている映画評は、評者たちに「話題先行の映画」という先入観があるせいか、必ずしも芳しいものではない。朝日新聞社の論壇誌「論座」にこの映画の特集が出ていたが、そこにもまともな映画評は掲載されていなかった(結局この号の購入を見送ったほど失望させられた)。
映画を見る時は、先入観などに惑わされてはならない。私は、この映画は超一級のドキュメンタリーとはいえないまでも、一級の作品だと思う。右翼が騒ぐようなプロパガンダ映画では全くなく、見る人に考えさせる映画だ。右派にも左派にも受け入れられる懐の深さを持った作品というべきだろう。
私は、靖国神社に対して否定的な人間なので、そのようなバイアスのかかった感想文であることをあらかじめおことわりしておく。同じ映画でも、人によって違った見方をするのは当たり前のことだ。
(以下ネタバレを含みます。ご覧になりたくなりたくない方は、ここで読むのを止めて下さい。ご覧になる方は More ... へどうぞ)
「人気ブログランキング」上位のネット右翼のブログは、さすがにそんなことは書かない。書いたが最後、コメント欄が「炎上」し、あちこちのブログや掲示板に叩かれ、場合によってはブログの閉鎖に追い込まれるリスクがあるから、ブロガーはそんなバカなことはしない。そして、そんなネット右翼のブログが被災者に対するお見舞いの記事を書くと、コメント欄には「○○まで屈中に寝返ったか」とか「気でも狂ったか」などのコメントが殺到するのである。ネット右翼ブロガーはいちおうそれをなだめる文章を書くのだが、コメンターを強く批判することはしない。そんなことをしたら、当該ブログは読者の大部分を失ってしまうからである。
要するに、ネット右翼のブログが、2ちゃんねるに代表されるきちがいネット右翼の温床になっているということだ。
リベラル・左派とされるブログのコメント欄にも、ネット右翼の非常識なコメントが寄せられることがある。たとえば、「「猫の教室」 平和のために小さな声を集めよう」には、下記のようなコメントがあった。
http://heiwawomamorou.seesaa.net/article/96533526.html#comment
日本の震災時にシナ人の連中はあざ笑って居たそうですよ。
もっと中国大陸で地震が発生してシナ人なんか全員
死ねば良いですね。今、瓦礫の中で苦しんでるシナ人はせいぜい苦しんで死にな。
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支那蛆虫のクソガキが折り重なって野垂れ死んだのは爽快でした。日本国民は、全員、大爆笑しました。
支那蛆虫のクソガキが折り重なって野垂れ死んだのは爽快でした。日本国民は、全員、大爆笑しました。
支那蛆虫のクソガキが折り重なって野垂れ死んだのは爽快でした。日本国民は、全員、大爆笑しました
Posted by 2ch ネット右翼代表 at 2008年05月15日 01:09
当ブログの一昨日のエントリ "四川省地震を「天罰」というネット右翼?筋の通らぬネット言論" にも、下記のようなコメントがあった。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-637.html#comment3344
中国人は日本の災害時に日本人死ねと言って
騒いだ連中ですので同情の余地はありませなね。今回はネット右翼の行動が正しいです貴方の言い分だと日本人全員が中国人に親近感
を持って居る様に言っていますが大半の日本国民は中国が嫌いですよ。愛国心の無い左翼偏向思想の者など今は流行せん。
最後に私から中国に送る言葉を述べます。
中国人の皆さん大地震おめでとうございます。もっともっと死者が増えると良いですね。今瓦礫の中で苦しんで居る被災者の方は
せいぜい苦しんで死んで下さいねwwwww。
2008.05.15 16:24 URL | ネット中立 #qcUiy8ek [ 編集 ]
このコメントに対して私は、
和歌山県からここにコメントしてきた「ネット中立」なる人物のコメントは、とてもひどいものですが、ネット右翼の醜悪なコメントの典型例としてさらしものにしておきます。というコメントを返して、そのままブログ上にさらしものにしておいた。
このコメンターのリモートホストは、p4212-ipad12wakayama.wakayama.ocn.ne.jp だ。つまり、和歌山県から発信されたメッセージである。和歌山県人の方は、このコメンターを「和歌山県の恥」として怒るべきだろう。
ところで、同じエントリに対し、いくつか気になるコメントがあった。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-637.html#comment3358
一部のキチガイを引用してネット右翼全体の発言と捉えるほうがよっぽどアレかと思うんだけど、俺って間違ってるかな。
2008.05.16 10:18 URL | Sera #HfMzn2gY [ 編集 ]
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-637.html#comment3359
相変わらず相手にしなくていい、ネット掲示板のネタに反応しなくても・・・・ね。
今回、見ていて胃が痛くなるのは、こんな事態でも中共が面子を守るために沢山の中国国民が犠牲になっていることですかね。
それで被災地の状況が分からないまま、高度な位置からペットボトルの水を落下したり、軍隊を落下させたりと回収・合流に困難が生じるのに、無駄な想像力も働かせない暴挙に出る。
さらに、海外に高度な救助技術を持った国があるのに受け入れを要請しない中国政府、逆に派遣に関して中国を説得できない日本政府も無能。
そもそも東南アジア地域は、ここ最近を見ても分かる通り自然災害が多い地域なんだから、今までの首脳会談や協議で災害対策についての協定を作ればいいのに、そんな思い付きもない点でも両国政治家は無能過ぎ。
日中友好や信頼関係修復だのパンダ外交だの、あんた達の好きな妄言に役立つのにね。倒壊した学校校舎で泣いている親達の姿と情けなさでコチラが泣けてくるよ。
2008.05.16 16:58 URL | 与志 #- [ 編集 ]
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-637.html#comment3362
今回のような災害があれば、どこの国でもネット上で馬鹿なコメントをする輩はいるので、そんなものにいちいち反応すること自体無意味なのでは。
傍から見ると、わざわざブログで記事にして、あなたが「ネット中立」のような人物をわざと煽って、↑のようなコメントをさせているようにしか見えません。
2008.05.16 20:44 URL | 右派 #- [ 編集 ]
はっきり言わせてもらうと、最初に挙げた2つの2ちゃんねる系ネット右翼の暴言よりもっと許せないと私が感じるのは、ここに挙げた「Sera」、「与志」、「右派」といったHNのコメンターたちの発言だ。
「あんなキチガイと本物の右派は関係ないよ」と言わんばかりだが、なぜ彼らは「右派言論」の信用を落とす役割しか果たさない「きちがいネット右翼」を強く非難しないのか。
テレビでは、勝谷誠彦を筆頭とする極右コメンテーターが、ヒステリックな中国非難を展開している。四川大地震という大惨事を、自らの政治的プロパガンダに利用しているように私には見える。勝谷の最近の活躍ぶりは、「勝谷誠彦」を検索語とする当ブログへのアクセスがこのところ増えていることからも伺われる。当ブログ開設以来、累計アクセス数のもっとも多い記事は、2006年7月29日付の "電波芸者・勝谷誠彦の生態" であり、この記事には毎日数十件のアクセスがあるのだが、チベット騒乱あたりからそのアクセス数が一段と増えているのである。
もちろん、勝谷自身はこのエントリの最初のほうで触れたネット右翼のブロガー同様、中国人は死ねなどとは言わない。だが、中国(や韓国、北朝鮮)に対して普段から憎悪に満ちた言論を展開している勝谷が、四川大地震における中国政府の対応を非難する時、ネットワークの末端では主張が極端になって、「中国人は死ね」などという言葉になってしまうのだ。こういう状況について、勝谷にはきわめて重い責任があるし、「あんな掲示板のキチガイ」などとうそぶく「良心的右派」のつもりでいる人たちにもそれぞれ責任がある、そう当ブログは主張する。インターネット上の主張は全世界に対して発信されていることを忘れてはならない。例の「水からの伝言」騒動で、「コメント欄で他人の陰口を叩くな」などと意味不明のことを言う人がいるが、私は全世界に向けて特定ブロガーやコメンターに関する批判的言辞を発信しているつもりだ。陰口を叩くんだったら、メールでやる。
それと同じことだ。「たかが掲示板のネット右翼」のコメントが多数、全世界に向けて発信されている。中国のブログや掲示板で日本や日本人を敵視するメッセージが多数発信されていることが日本でも報じられているが、日本から世界に向けて発信されているメッセージについて日本人が鈍感であってよいはずがない。ましてや、信用を傷つけられているはずの右派の論者がなぜ怒らないのか全く理解できない。彼らが「一部のキチガイのやることにいちいち騒ぐな」と言うのは、彼ら自身がその「一部のキチガイ」と同意見だからではないのか。
今回いただいたコメントの中でもっとも悪質だと私が考えるのは「与志」氏のコメントで、同氏は最初に「相変わらず相手にしなくていい、ネット掲示板のネタに反応しなくても」と書き、それに続いて四川大地震への中国政府の対応を批判し、「日中友好や信頼関係修復だのパンダ外交だの、あんた達の好きな妄言に役立つのにね。倒壊した学校校舎で泣いている親達の姿と情けなさでコチラが泣けてくるよ。」と結ぶ。被災者の方々に同情するような文章を書いてはいるが、真意はリベラル・左派系の言論を批判することにある。四川大地震への言及は、ダシに使われているに過ぎない。その偽善的な文章には反吐が出る。
ちょっと想像もつかないほど卑劣な言論だ。2ちゃんねるなどで「中国人はもっともっと死ね」と叫んでいるきちがいネット右翼どもの千倍も万倍もたちが悪いと、私は思う。
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この地震の震源地はアバ・チベット族チャン族自治州ブン川(ブンはサンズイに文)県であり、震源地は壊滅的な打撃を受けていて、同県南部の映秀地区だけで死者が7700人に達する可能性があると報じられている。
http://www.asahi.com/special/08004/TKY200805140108.html
この地震を「天罰だ」などとほざく連中に、「フリー・チベット」を叫ぶ資格などないのは当然のことだ。
一方、「左」の方でも、ベンジャミン・フルフォードが「中国で起きた地震はアメリカの攻撃の可能性が高い」などと言っている。
http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/2008/05/post-9.html
これをうれしそうに取り上げるブログも存在し、お決まりの「ユダヤ陰謀論」に結びつけて自己満足に浸っている。こういう態度を「反知性的」と言わずしてなんというのだろうか? 同じ政権に反対する者同士が分裂してはならない、などというたわごとを言う人たちがいまだに後を絶たないが、「筋の通らない味方は筋の通った敵より性質が悪い」という当ブログの主張を繰り返しておきたい。
もっとも、「人気ブログランキング」上位を占めるネット右翼のブログは、「筋の通らない敵」である。たとえば、瀬戸弘幸なる人物は、もともとは街宣右翼で、会社整理にまつわる恐喝で1986年10月に逮捕歴もあり、現在では暴力路線は捨てているそうだが、やはり徹底した反ユダヤ主義者らしい。こんなのが参院選に立候補しても得票がほとんどなくて惨敗するのは当然であり、ネット論壇での人気者は世間一般では全く相手にされていないのだ。
いわゆる「左」側にも同じことがいえ、擬似科学を簡単に信じてしまったり、天変地異を何でもかんでもアメリカや「ユダヤ」の陰謀に結びつけるネット言論が世間から相手にされないのは当然だが、そういう言論に対する批判を許さず、「政権に反対する勢力が分裂してはいけない」と言い出す馬鹿者があとを絶たないのには本当に困ったものである。
彼らの一部は、感情的になって「寄ってたかって一般人に対して傷つけるような悪口を書くことが許されるのか」と、おそらく顔を真っ赤にして怒り狂っている人もいる。そういう人の文章を読んでいると、驚くほど情緒過剰だ。
そういう言説を見ていると、なんともいやな気分になる。昨年1月14日付のエントリ "年末年始に読んだ本(4)?「ナショナリズムという迷宮」(下)" で、立花隆さんが安倍晋三を批判しながら、「センチメンタリズムが国を危うくする」と指摘していることを紹介した。以下再掲する。
センチメンタリズムが国を危うくする
実はそんなこと以上に、私がかねがね安倍首相の政治家としての資質で疑問に思っているのは、彼が好んで自分が目指す国の方向性を示すコンセプトとして使いつづけている「美しい国」なるスローガンである。情緒過多のコンセプトを政治目標として掲げるのは、誤りである。
だいたい政治をセンチメンタリズムで語る人間は、危ないと私は思っている。
政治で何より大切なのは、レアリズムである。政治家が政治目標を語るとき、あくまでも「これ」をする、「あれ」をすると、いつもはっきりした意味内容をもって語るべきである。同じ意味を聞いても、人によってその意味内容のとらえ方がちがう曖昧で情緒的な言葉をもって政治目標を語るべきではない。
人間Aにとって「美しい」ものは、人間Bにとっては、「醜い」ものかもしれない。政治は人間Aに対しても、人間Bに対しても平等に行われなければならないのだから、その目標はあくまでも明確に具体性をもって語ることができる内容をともなって語られなければならない。
歴史的にいっても、政治にロマンティシズムを導入した人間にろくな政治家がいない。一人よがりのイデオロギーに酔って、国全体を危うくした政治家たちは、みんなロマンティストだった。
政治をセンチメンタリズムで語りがちの安倍首相は、すでにイデオロギー過多の危ない世界に入りつつあると思う。
(「メディア ソシオ-ポリティクス」第93回「未熟な安倍内閣が許した危険な官僚暴走の時代」より)
政治ブログについても同じことがいえると思う。正月からの「水からの伝言」をめぐる騒動は、一部で三たび燃え上がっていて、それは先の二回の議論での落ち着き先に感情的に納得のいかない人たちが、たびたび議論で否定された事柄(実際には存在しない「謝罪要求」を、さもあったかのように論じること)を、何度否定されても蒸し返してきて、しまいには情緒過剰の世界に行ってしまうというパターンを繰り返している。当ブログ管理人は、過去の二回については、ほぼ議論を追っていたが、三回目の今回はさすがにつき合い切れないので、そのごく一部しか把握していない。それでも、対立する両派には「共感派」対「批判派」というネーミングがついていることは知っている。この分類だと、当ブログは「批判派」に含まれる。そして、「批判派」から、「共感派」を「全体主義」だとする批判が出たのだが、私はこの批判は的を射ていると思う。上記の昨年1月14日付エントリでは、佐藤優の著書を引用して蓑田胸喜(みのだ・むねき)という戦前の国家主義思想家を紹介しているが、佐藤によると、
蓑田は、論理の問題と心情の問題という、本来、分けて考えるべき問題をいっしょにこね回すことができる天才だったんです。そうして生み出された言説は、当時の日本人が抱いていたいらだちや集合的無意識を見事に掬うことができたんです。そんな天才的なアジテーション能力が彼の強みであり武器でした。01年の自民党総裁選で小泉さんが勝ったのは田中眞紀子さんによるところが大きいですよね。彼女の応援演説を思い出してください。聴衆は爆笑、拍手喝采でした。蓑田については、外国語や和歌に通暁した田中眞紀子さんが、戦前の10年間、論壇を席捲(せっけん)した。こんなふうにイメージしたらいいと思います。とのことだ。
(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』=朝日新聞社、2006年=第14章より)
当ブログは、蓑田胸喜に煽られた戦前と同じ危うさが、コイズミに煽られた21世紀初頭の日本にもあるだけではなく、そのコイズミの流れをくむ政権を批判しているはずのブログの言説にも危うさが充満していると考える。
これを克服しない限りは、政治ブログの言説が普遍性を獲得することはできない。
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http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2008051200243
平沼氏との連携に前向き=民主・鳩山氏
民主党の鳩山由紀夫幹事長は12日午前、無所属の平沼赳夫元経済産業相が次期衆院選前の新党結成に意欲を示していることについて「平沼氏は自民党にひどい仕打ちをされ、愛想を尽かしていると思う。新たな動きをされるときは、日本の政治を大きく塗り替える方向で極力、協力を願いたい」と述べ、連携に前向きな考えを示した。都内で記者団に語った。
(時事通信 2008年5月12日 11時47分)
鳩山由紀夫がここまではっきり平沼との連携を口にするとは、民主党と平沼の連携話はかなり進んでいるのではないか。
ここで気になるのが静岡7区の動向だ。ここは、コイズミチルドレンの片山さつきと郵政民営化に反対して自民党の公認を得られず落選した城内実、民主党から立候補を予定している斉木武志の三つどもえが予想されている。城内は平沼の子分格だから、もしこの連携話が進んだら、民主党は斉木氏を他の選挙区に回す可能性がある。
それを牽制しているのが、片山さつき陣営だ。同氏の「さつきブログ」は、先日隣接区の自民党議員に絡んだ筆禍事件を起こしたらしいが、5月10日付記事 「ゲンダイと喜八ログはリンクが早いですね」 では、こんなことを書いている。
他の党幹部のかたが、「郵政造反落選組は、民主党に頼み込んで、3つどもえじゃ勝ち目がないので調整してくれ」という話を連休中にしたらしいよ」と教えてくれました。「テレビインタビューによると、うちの選挙区の落選元職は自民党批判と民主党批判の両方をやってましたよ、事務所のビデオにとっておきました」「そんなことすぐに、ころと翻すよ、節操ないから。だって極右の西村信吾(原文ママ)から、人権擁護法案推進派までいれた落選組救済新党つくるらしいから。」
(「さつきブログ」 2008年5月10日付記事 「ゲンダイと喜八ログはリンクが早いですね」 より)
「極右の西村信吾(むろん西村眞悟のことだろう)から、人権擁護法案推進派までいれた落選組救済新党」というのは、平沼新党のことなのだろうか。片山陣営から見れば、三つ巴であれば反自民票が城内と斉木に分かれるので勝ち目があるが、連携話が進めば、前回の選挙でさえ接戦だった片山は、いきなり不利になる。それで上記のような牽制を行ったのだろう。それにしても、自らのブログでこんなことを書くとは、片山さつきにもかなりの危機感があるものと思われる。
だが、寄せ集めの落選組救済新党というのは、ある意味平沼が構想している新党の性格を言い当てているのではないだろうか。
スポーツニッポンには、こんな記事も出ていた。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2008/05/12/02.html
平沼議員 選挙前に新党“侍”結成か
郵政造反組で無所属の平沼赳夫元経済産業相が11日、フジテレビ「報道2001」に出演し、次期総選挙前の新党結成に強い意欲を見せた。平沼氏は「選挙前に新党を立ち上げるのもやぶさかではない」と話し、名称については「新党侍」とする意向も示した。状況次第では次期衆院選後に自民、民主両党に続く第3極となる可能性もあり、言動が注目されている。
「昔、侍ということを言われた気がします」と平沼氏。番組司会者から「新党“侍”ですかね?」と問われ、「ええ、侍がいいんじゃないかと。日本は“侍精神”を持っている。そういう良い政党の名前を考えねばならないと思っている」と力強く話した。
(中略)
民主党の小沢一郎代表とは先月28日に都内の料亭で会談し、民主党への協力を要請された。その2日後には、自民党の伊吹文明幹事長と食事。今月8日には国民新党の綿貫民輔代表らと会談するなど、各党の幹部と会談を重ねている。平沼氏は「キャスティングボートを握るのが新しい受け皿の使命」としており、次期衆院選後に過半数に届かない「自民・公明」か「民主党を中心とした野党連合」と組んで“平沼新党政権”を発足させたいところだ。
ただ、平沼氏は「HANAの会」(平沼氏、麻生太郎前幹事長、中川昭一元政調会長、安倍晋三前首相)のメンバーとの関係が強く、「民主党よりも自民党寄りの第3極になるのでは」(永田町関係者)との見方も。その一方、「小沢氏が平沼新党に民主党議員をレンタルして、選挙後に連立を組む。その際の首班は平沼さん」(与党関係者)との臆測も出ている。
(スポーツニッポン 2008年5月12日)
この最後の「憶測」などが現実になったのではたまったものではない。11日の「報道2001」で見せたヒステリックなまでの反中の主張を平沼首相が叫んだりしたら、日本の国益に大きなダメージを与える。
11日の「サンデーモーニング」に出演していた寺島実郎は、「日本ではチベットと北京五輪とギョーザ問題が三題噺みたいになって対中非難が盛んだが、環境問題や、あまり言われないが知的財産権の問題で、中国を国際ルールに従わせるための話し合いのテーブルにつかせなければならない」と主張し、チベット問題にばかりこだわる江川紹子と対照を見せた。寺島実郎は、民主党に近い主張をする人のはずだし、これが冷静な正論だと私は思う。だが、平沼が首相になったりしたら、政権はこんな方向性をとることはできないだろう。折りしも、四川省で大地震が起き、8500人超の死者が出たと報じられている。阪神大震災の経験を持つ日本は多くのノウハウを持っているはずだから、救済や復興に援助すべきではないだろうか。
平沼赳夫を首相にするというのは、1994年の自社さの裏返しの発想ともいえ、権力を握るためなら何でもやる政治家たちならやりかねないという危惧を持つ。これは亡国への道だ。民主党には理性的な行動を求めたい。
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当ブログは、5月3日付エントリで、「民主党は平沼赳夫一派との連携を模索するな」と主張したが、コメント欄の反応は芳しいものではなく、一級の政治家である平沼を、改憲派というだけで「極右」扱いするのかとか、リベラル・左派の方からも、「不愉快なタカ派政治家だが、信念を持って郵政民営化に反対しただけマシ」などというコメントをいただいた。実際には、同じ改憲派でも民主党の枝野幸男のような理詰めのリベラル派もいるのに対し、日本会議の首魁である平沼は、国家神道への傾斜の顕著な神がかり的政治家で、だからこそ「極右」と私が評するゆえんだが、リベラル・左派系の有力ブログの中には、平沼の子分格である城内実を応援するブログがいくつかあるせいか、はたまたたまたま平沼が今現在自民党から離れているせいか、平沼を批判する言説は、リベラル・左派系ブログの世界でもあまり歓迎されないのが実情だ。
しかし、「報道2001」を見ていて、声高に反中を叫び、南京虐殺を否定しようとする平沼を見ていて、怖い右翼のオヤジという印象を改めて受けた。それだけではない。いただけなかったのは、中国のパンダ外交に対する平沼の批判だ。平沼は、「タイミングよくパンダのランラン(ママ)が死んで、何らかの策謀があるんじゃないかと言う人もいた」などと発言し、伝聞形とはいえ、あたかも中国がパンダ外交をやりやすくするために、上野動物園が中国の意を受けて(?)パンダを見殺しにしたとも言わんばかりの発言をしていた。なんという下品な物言いだろうか。この男が「信念を貫く第一級の政治家」だなんて誰が言ったんだ? 平沼のあまりの下劣さに、テレビを見ていて激しい怒りを抑えられなかった。民主党は、断じてこの男と連携してはならない、その思いをますます強くした。もし民主党が平沼と連携しようとするなら、当ブログは民主党を攻撃することを宣言しておく。
この平沼赳夫と対照的な印象を残したのは、「サンデープロジェクト」に出演した中曽根康弘だった。中曽根は、土井たか子、不破哲三とともに出演し、背後に座った若者たちを対象に、政治について語った。1982年から87年までの首相在任中、私はこの中曽根が大嫌いだった。政治思想的には右派、経済思想的には日本で最初に新自由主義を導入した政治家である。私は、バブル経済は中曽根の民活(民間活力の活用)路線によって生じたもので、その責任はきわめて重いと考えている。
しかし反面、中曽根は自らの言葉で語るべきものを持った最後の総理大臣だった。これは、朝日新聞の石川真澄記者(故人)が下した評価だが、納得できるものだ。石川氏は、「中曽根以前と竹下以降の大きな違いは、首相としての抱負や識見の有無にあります」(『戦争体験は無力なのか』=岩波書店、2005年)と指摘し、竹下以降では、首相ではなかった小沢一郎の論と挙措動作の背後にある抱負がかすかにある程度だ(同)と述べている。
実際、竹下登以降、総理大臣は急に小粒になったのだが、橋本龍太郎以降、世襲の総理大臣が続くようになって、質はさらに低下した。中でも、日本をぶっ壊したコイズミと、無能の代名詞のような安倍晋三の2人は特にひどかった。政治権力が衰える時というのは、こんなものかもしれない。
中曽根は、今も改憲に執念を燃やすタカ派の政治家だが、首相在任時に国会で不破哲三の質問に答え、「先の戦争はアジア諸国に対しては侵略戦争だった」と明言した。番組でも不破氏が語っていたが、田中角栄をはじめ、三木武夫も福田赳夫も戦争の性格については「後世の歴史家が判断することだ」と答えて侵略戦争であるとの明言を避けたのに対し、中曽根が初めて侵略戦争であったことを認めたのだという。自民党の改憲案についても中曽根は、憲法9条の第2項は変えるが、第1項は堅持する、生存権を規定した第25条などは維持すると番組で明言したが、土井たか子が「中曽根さんは信用できても今の自民党は信用できない、9条の第1項の扱いもフラフラしている」と混ぜっ返した。その信用できない政治家の極致が、官房副長官時代の2002年に「戦術核の使用も意見ではない」との驚くべき主張をした安倍晋三であり、安倍の盟友である平沼赳夫だ。アジアに対する侵略戦争だったことを認めようとしない現在の自民党タカ派の政治家について、中曽根は「歴史を勉強していない」と一刀両断にした。
中曽根は、自ら新自由主義を導入した人物でもあるが、「市場原理主義には反対だ、特に教育などは市場原理に任せてはならない分野だ」と言っていた。ところが、教育に市場原理を導入して失敗したサッチャーの「教育カイカク」を真似ようとしたのも安倍晋三であり、「英国教育」調査団団長としてイギリスを視察した平沼赳夫なのだ。当ブログは、過去にも安倍や平沼の教育カイカクを何度も批判してきた。
"安倍晋三につながる極右人脈"
(2006年11月16日)
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-179.html
"安倍内閣 「教育カイカク」の行き着く先"
(2007年2月20日)
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-259.html
"「新自由主義」の存在と「哲学」の不在が教育の荒廃を招く"
(2007年5月24日)
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-350.html
"極私的 「安倍晋三」 論"
(2007年10月9日)
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-468.html
ここで見たように、安倍晋三と平沼赳夫はとてもよくウマが合う。それは、この2人がともに政治思想的には極右、経済思想的には新自由主義者だからだ。平沼赳夫は安倍晋三とつながっている。民主党の支持者が、単に現在自民党を離れているというだけで、平沼赳夫との野合を容認することが私には信じられない。民主党と平沼新党が連立を組んだりしたら、安倍晋三内閣崩壊以来止まっていた改憲への流れが再び加速する可能性もあるし、経済政策だって福祉国家指向には決してならない。
同じタカ派でも、中曽根康弘と平沼赳夫には天と地ほどの落差がある。平沼赳夫は、本物の政治家ではない。タカ派の政治家もずいぶんひどく劣化したものだと思う。ところが、「報道2001」の最後に、平沼は、小沢一郎が平沼に新党結成をけしかけたと告白した。明らかに小沢は、「敵の敵は味方」の論理で、政権奪取のために平沼を利用しようとしている。だが、民主党と平沼新党の連携は、昨年画策されながらお流れになった自民党と民主党の「大連立」よりさらにたちが悪い。「報道2001」での平沼の言葉を聞いていると、今にも中国と戦争を始めんばかりの勢いだった。民主党はこんな政治家と連携して良いのか。党内のリベラル派はどう考えているのか。
民主党と平沼一派との連携は、一時的な数合わせにはなるかもしれないが、のちのちに禍根を残す最悪の選択肢だと、当ブログは考える。
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現在の空気は、1993年の細川政権発足前夜を思い出させるものだ。特に、コイズミと小池百合子、前原誠司の3人が会談した件や、3日のエントリでも触れた、平沼赳夫が民主党との連立を考えているとされる件の2つは、とてもきな臭い。
そういえば昨年の「大連立」構想も政界再編の動きの一つだった。あの時、福田首相と民主党の小沢一郎代表は、ともに厳しく批判された。当時は小沢一郎の方が大きなダメージを受けたように見えたが、今になってみると、あの連立の頓挫は福田首相の方がダメージは大きかった。
あの時、当ブログは小沢一郎を厳しく批判するスタンスをとったが、リベラル・左派系ブログではむしろ小沢一郎支持を表明する声が圧倒的に強かった。その代表例が「喜八ログ」の下記記事である。
http://kihachin.net/klog/archives/2007/11/seikenkoutai.html
喜八さんは、以下のように書いている。
細川内閣実現を可能にした新生党・日本新党・日本社会党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合・新党さきがけの8党派連立の「立役者」は誰が何と言おうとも小沢一郎でした。
もし、小沢がいなかったら? あるいは自民党離脱を決意しなかったら?過去50年のあいだ日本では政権交代が一度もなかっただろう。これは私の確信するところです。いま小沢一郎だけが本格的政権交代を実現できる。こう考えるのも小沢がこの分野に関して唯一「実績」を持つ男だからです。
(「喜八ログ」 2007年11月7日付より)
「喜八ログ」を取り上げたことに他意はない。政権交代を待望する人たちの間では、ごく普通の感覚なのだろうと思う。だが、私には細川内閣には評価できる面とできない面があった。
当時私が勤めていた会社の同僚は、「細川さんは良いんだけど、取り巻きが良くない」と言っていた。その「取り巻き」の代表人物が小沢一郎だった。当時の小沢一郎は、実態は旧来自民党政治の体質を持っていたが、主張はそれとは裏腹の新自由主義だった。私も同僚に近い意見を持っていて、細川内閣は、自民党支配に、ほんのいっときだったが風穴を開けた功績はあったし、細川氏は政治思想的にはリベラルだったが、どうにもいただけなかったのがこの内閣の新自由主義指向の性格だった(当時は「新自由主義」という言い方は一般的ではなかったが)。
一方、細川内閣およびそのあとの短命だった羽田孜内閣のあと成立した自民・社会・さきがけ3党の連立による村山富市内閣は、当時も今も評判がすこぶる悪いが、実は私は当時リベラル政権として期待した口だった。リベラルにとっての痛恨事は、村山政権が成功したとはいえなかったことだ。
さて、私はゴールデンウィークの休みを利用して、2000年1月に中央公論新社から発行され、のち中公文庫に収められた 『渡邉恒雄回顧録』 を読んだ。発売当時、買って読もうかと思ったがあまりの分厚さに恐れをなして結局購入を見送り、昨年初め頃文庫化されたので買ったが、それでもなかなか読む気になれず、やっと先日思い立って読破した。700ページ以上に及ぶ本だが、ナベツネ(渡邉恒雄)の語り口は読みやすいので、比較的すらすら読める。
この本は、ナベツネの著書 『わが人生記』 (中公新書ラクレ、2005年)や 『君命も受けざる所あり』 (日本経済新聞出版社、2007年)とオーバーラップする部分も多く、当ブログの読者には必ずしもオススメできる本ではない。だが、ナベツネに関心のある人にとっては必読書だ。内容は、御厨貴、伊藤隆、飯尾潤3氏によるナベツネのインタビューをまとめた「オーラルヒストリー」である。
権力志向の強いナベツネは、若い頃から政治を動かそうとしていたが、中でも70年代から「保革連立政権論」を唱えて政権に公明党や民社党を取り込もうとしたのは、明らかに90年代以降の「自公」や「自自公」「自公保」の連立政権を先取りするもので、事実これらの連立政権発足にはナベツネ自身が関与したとされている(そんなことは、もちろん本には書かれていない)。
本エントリとの絡みでいうと、日本新党と新生党を中心とした政権から社会党が離脱した1994年の時点では、ナベツネは連立政権側の陣営を、市場原理重視の「小さな政府」を指向する勢力、自民党リベラル派と社会党およびさきがけ側の陣営を、リベラルで社民主義的な方向を指向する勢力ととらえて、前者を支持していた。当時、自民党では加藤紘一、亀井静香、野中広務らが村山富市を首班とした内閣の樹立を目指していたが、ナベツネは自民党全体がそちらの方向に行ってしまうとは思わなかったと言っている。当時の自民党総裁が、やはりリベラルの代表格である河野洋平だったからそうなったといえるかもしれない。私はもともと社民主義的な方向性を持った人間なので、当然ながら細川護熙や羽田孜の内閣よりも村山富市内閣に期待したものだ。
一昨日のエントリでチベット問題を取り上げたが、日本の少数民族であるアイヌ民族に関して、北海道旧土人保護法を廃止し、アイヌ文化振興法が1997年に施行されたのは、アイヌ人の社会党参議院議員だった故萱野茂氏の貢献が大きい。阪神大震災時の対応などで批判されることの多い政権だったが、新自由主義への批判が高まり、福祉国家が見直されてきた現在、自社さ連立政権の再評価が行われる必要があるのではないかと思う。
次の政界再編において、鍵を握るのはなんといっても民主党の動向だ。小沢一郎は現在では新自由主義を捨てたとされている。だが、それに代わる方向性を見出し得ていないのではないかと、地元の小沢支持者も懸念しているようだ。菅直人も、その経歴からいっても、もっと社民主義指向であって当然だと思うのだが、時折妙に新自由主義的な方向に振れる。とりわけ、今年に入ってから道路問題にばかりこだわる小沢・菅両氏の動きは、私には強い違和感がある。かといって、鳩山由紀夫はコイズミ内閣時代に、コイズミとカイカクの過激さを競おうとして私を激しく失望させた人物だ。若手の前原誠司は、コイズミよりも過激な新自由主義者とされている。民主党には、いつ何時新自由主義の方向に再び大きく振れるかわからない危うさがある。しかし、現在の日本ではコイズミカイカクはすでに破綻しており、日本を再建するためには、新自由主義を廃して、福祉国家指向の政策をとることによって中産階級を再建するしかないのである。そうでなければ、日本経済の活力は失われる一方だ。
単に、自民党負けろ、民主党頑張れというだけではダメな時期にきている。「野党共闘」といったって、上に見たように、野党が共闘して新自由主義政権を樹立したこともあったのだ。日本国民にとってどんな政権が望ましいかを国民一人一人がよく考えなければならない時期にさしかかってきたように思う。
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日本の右翼たちのターゲットは、ソ連から中国、韓国、北朝鮮の3国に変わった。「特亜」などという符丁が「2ちゃんねる」などでは通用している。一方で、天安門事件やチベット騒乱に対する対応で、中国の共産党政権が理不尽な暴挙に及んでも、中国共産党を擁護したり同情的な論陣を張ったりする旧来左翼も多い。右翼は、そんな旧来左翼を、「チベット問題になると口を閉ざす」と嘲笑するのだが、そんな右翼もアメリカがイラクやアフガンでやった虐殺を不問に付しているのだから、左翼のことを笑う資格など全くない。
結局左翼も右翼もご都合主義の二重基準を平然と使っており、中国をめぐるブログ言論は本当に不毛だなあと思うのだが、今月初めに発売された月刊「現代」6月号に、作家・辺見庸の「潜思録 存在の剽窃」と題された巻頭言が掲載されている。辺見氏は元共同通信記者で、北京特派員時代の1987年に、胡耀邦総書記辞任に関連した中国共産党の機密文書をスクープし、中国当局から国外退去処分を受けたことがある。同時に、憲法改悪には断固として反対し、アメリカの「報復主義」や、それに追随する日本政府を痛烈に批判した人でもある。
当ブログ管理人は、あるブログのコメント欄で、辺見が9.11のテロの際に「快哉を叫んだ」と紹介した上で、「アメリカはテロをやられても仕方がない国だ」と書いたことがあり、これが不謹慎だとして批判され、筆禍事件となったが、この時私を論難してきた人たちの文章を見て、「なんだかなあ」と思ったものだ。
今回、このエントリを書く際に自らが起こした筆禍事件について調べていたら、下記のブログ記事に行き当たった。
「諸悪莫作」より "コヤニスカッティ――平衡を失った世界"
(2008年1月23日)
http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20080123/1201095856
このエントリは、当時の論争やそれに関する論評を紹介するとともに、両陣営および論評のすべてを批判するものであり、是非一読をおすすめしたい。このような批判を受けるのであれば、問題提起をした甲斐があったものだ。
ブログ管理人のt_keiさんは書く。
僕は冒頭の応答を読んでいる間、「まるで僕たちはマリー・アントワネットみたいじゃないか」という思いを抑えることができなかった。自分たちの狭い世界の中で、自分たちの振る舞いがどのような結果を招いているのかを見ることもなく、現実を置き去りにして、「"やられても仕方がない"という発想は不謹慎だ」だとか、「誤謬や偏狭や怨嗟を認識し、感情の"自然状態"を克服すべき」だとかおしゃべりをしている。まるでマリー・アントワネットが、無邪気に「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」、と言い放ったかのように。
(「諸悪莫作」 ? "コヤニスカッティ――平衡を失った世界" より)
t_keiさんはきっと辺見庸の良い読者なのだと思う。私など、ほんの表面を掠めただけの読者に過ぎない。論争の最中、テロを論じる時に辺見庸を持ち出さないほうが良いなどと言われてがっくりきたものだが、確かに私程度の人間が持ち出さないほうが良いのかもしれない。
などと言う舌の根も乾かないうちに、またも辺見庸を持ち出すのだが、「存在の剽窃」で辺見は、中国共産党政府を厳しく批判している。以下書き出しの部分を引用する。
いまから三十年前、外国人記者団の一員としてチベットに入ったとき、なぜここが中国でなければならないのだろう、という疑問がつよくわいたものだ。言語、宗教、哲学、生活習慣のどれをとっても、チベットが中国共産党の支配下にあるのはおかしいと思ったのである。たてまえとうらはらに、中国側が対等の仲間としてチベットに敬意をはらっていたとはとうてい感じられず、むしろ "たちおくれた民族" 視していたことが明らかであった。早晩ぶつかるだろうと予感したが、案のじょう、一九八九年に大規模な反中国暴動がおきて人民解放軍の鎮圧行動により多くの死傷者をだした。
(月刊「現代」 2008年6月号掲載 辺見庸「潜思録 存在の剽窃」より)
辺見はさらに、菩提心と智慧を尊ぶチベットの大乗仏教的精神と共産党の支配が合致できるはずがない、昨年は当局の許可なしに活仏の転生を認めないと中国が決定したという驚くべき報道があった、チベット問題は内政問題だから外国は干渉すべきでないという中国首脳の言い草はすさまじいばかりの中華大国意識だ、などと中国批判を続けている。
この巻頭言のタイトル「存在の剽窃」は、エミール・シオランというルーマニアの作家・思想家の言葉からとったのだそうだ。以下巻頭言の末尾の部分を引用する。
たとえば「何ものも存在しない、事物は仮象という規定にさえ値しない。……私たちは救われており、そして永遠に不幸なのである」(『悪しき造物主』金井裕訳)などというくだりを読むと、ラピスラズリ色の深い湖のようなラサの空や海抜三千六百メートルの高地にある静謐な寺院、観想のすじ道を具現したような長い回廊を思い出したりする。ねがわくば中国共産党はチベットという、資本に骨がらみまみれた現世(うつしよ)とかならずしもなじまない例外的存在に、もっともっと謙虚で寛容であるべきである。
よくよく考えれば、チベット問題など存在しない。あるのは本質的に中国問題なのであり、それは十三億人の巨大国家を共産党が一元的にすべなければならないという、ある種異様な集団的オブセッションに発する。この強迫観念から解かれるとき、中国は混沌のるつぼと化すのかいなか――このかんのできごとは、そうした端倪すべからざる未来図の一端もかいまみせている。
(月刊「現代」 2008年6月号掲載 辺見庸「潜思録 存在の剽窃」より)
たいへんに印象的なチベット問題論だが、それも改憲に強く反対し、アメリカの大国主義の横暴を強く批判してきた辺見庸が書くから読み手の心に訴えるのだ。昨今は死刑存廃問題の議論がかまびすしいが、辺見庸は死刑廃止を強く訴えている人でもある。
以前の筆禍事件では、私は軽率にも辺見庸への印象を毀損する軽挙妄動をしてしまったが、一人でも多くの読者に、辺見庸に関心を持っていただけたら、と思う。
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このところ、憲法記念日というと読売新聞が「新憲法試案」をぶち上げたりして、一昨年くらいまでは世論調査でも年々改憲を是とする意見が増えていたのだが、今年は三大紙を比較しても、朝日、毎日が社説を一本に絞って憲法を論じていたのに対し、読売は通常と同じ二本立てで、「憲法記念日 論議を休止してはならない」というタイトルの気の抜けたような社説を掲載した。そこには、例年のような憲法改定に向けたナベツネの執念が感じられず、拍子抜けした。
朝日は憲法9条改定反対が66%にのぼったという自社の世論調査を紹介し、毎日は名古屋高裁がイラク戦争での航空自衛隊の活動を違憲とした判決を強調した。その上で、両紙とも憲法第25条に規定された生存権の問題および憲法第21条に規定された表現の自由の問題を論じた。毎日新聞は、特別編集委員を務めている岸井成格が論説委員長在任時に、社論を「護憲」から「論憲」へと転換したそうだが、今年の社説は「論憲」というより「護憲」の印象が強い。これは、議論の分かれる9条よりも、議論の余地のほとんどない21条や25条に力点を置いた社説だからだろう。朝日も同じ論法を用いていて、
むろん、政界再編などを通じて、9条改憲が再浮上する可能性は否定できない。ただ、今の世の中の流れをみる限りでは、一本調子の改憲論、とりわけ自衛隊を軍にすべきだといった主張が訴求力を失うのはあたり前なのかもしれない。という表現で、9条改定反対論としては、どことなく歯切れが悪い。
とはいえ、朝日・毎日両紙の社説は基本的にはよく書けていて、日本国憲法の復権を印象づけるものだ。さらに特筆すべきは、映画 『靖国』 が憲法記念日の3日から一般に公開されたことで、稲田朋美や有村治子らによる「表現の自由」への容喙(ようかい)によって公開が遅れたものの、彼らの妄動がかえって映画を宣伝する効果を生み、映画館は連日満席が続いている。この映画には、他ならぬ稲田朋美の映像も出てくるそうだ。
4日から6日まで、幕張メッセで「9条世界会議」も開催された。こちらも盛況だったようだ。
だが、ちょっと気になることもあった。「9条世界会議」に「9・11陰謀論」で知られるきくちゆみ氏が映画の上映とトークをやったという情報だ。
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080504/1209918455
さすがにこの「映画とトーク」では「9・11陰謀論」はやらなかったと思うが、「9・11陰謀論」を唱える人の困ったところは、その思い込みの強さだ。よく陰謀論を批判すると、「世間にはあまたの陰謀があるし、特に政治の世界に陰謀はつきものだ。陰謀論批判は、権力の陰謀を疑う態度に「陰謀論」というレッテルを貼ることによって思考を停止することだ」という反論を受ける。だが、「9・11陰謀論者」の言説は、権力(米政府)の陰謀を「疑う」という「科学的な」ものなどではなく、「9・11テロは米政府による自作自演である」と決めつけ、懐疑論者や反対論者に対して、「そんなに躍起になって陰謀説を否定するのは、明るみに出たら困ることがあるからではないか」などと言うことを特徴とする、独善的かつ被害妄想に満ちた頑ななものだ。「水からの伝言」騒動でも、陰謀論者たちは、「水伝」批判派は「9.11陰謀論」批判派と顔ぶれが重なる、と主張し、あげくの果てに「9.11の真相が明るみに出たら困ることがあるのではないか」という彼らの決まり文句が出てきたのには、心底うんざりさせられた。
上記リンク先のgood2ndさんの記事が指摘するように、護憲運動に「9.11陰謀論」が絡みついてくることは、護憲運動の普遍性を損ね、主張が幅広く受け入れられるのを阻むマイナスの効果しか持たないと私も思う。「9条ネット」の天木直人氏も昨年、「9.11陰謀論者」にして悪名高いレイシストであるリチャード・コシミズなる人物と講演会で親しく話したと知って、愕然としたものだ。
朝日新聞の世論調査で、「9条改定」に反対する意見が66%に達したことからもわかるように、憲法9条自体には十分すぎるほどの普遍性がある。しかし、それを世界に向けて発信しようとする催しに、普遍性をはなはだしく損ねるものが混入していては、せっかく盛り上がり始めた「日本国憲法の復権」に水を差さないか。それを懸念する。
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1年前のエントリを読み返しながら思い出すと、昨年の憲法記念日は改憲への道をひた走る安倍晋三内閣の支持率が持ち直す中、「日本国憲法の改正手続きに関する法律」(通称・国民投票法)が衆院で可決され、参院での可決を目前に控えていた。
しかし、安倍の性急な改憲志向への警戒感からか、各社の世論調査では、ひところずいぶん減っていた、憲法改定を「必要ない」とする意見が「必要だ」とする意見を再び上回るようになってきた。しかも、国民の主な関心事は憲法改定よりも年金や社会保障問題にあり、それを軽んじる安倍は国民の支持を失って、5月に「消えた年金」問題が表面化するや支持率が急落した。松岡元農水相の自殺も追い打ちをかけた。安倍自民党は7月の参院選に惨敗し、安倍は9月に退陣に追い込まれた。改憲の鍵を握るのは民主党の議員だが、参院選では改憲に否定的な議員が多く当選し、改憲の機運は去ったかに見えた。
しかし油断は禁物である。先日、民主党の小沢一郎代表と05年の「郵政総選挙」の際に郵政民営化法案に反対して自民党を離党した平沼赳夫が会談したことが報じられた。これは、看過できない動きだ。
もともと平沼赳夫は、「極右新党」を立ち上げて、自民党と連立する構想を持っていた。昨年10月27日付の当ブログ記事 "極右新党を立ち上げ、自民党との連立をたくらむ平沼赳夫"(下記URL)に書いた通りである。
http://http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-484.html
このエントリで、「サンデー毎日」に掲載された平沼赳夫インタビューを紹介したが、ひとことでいうと、平沼は自民党と民主党の極右議員を集めて新党を作り、キャスティングボートを握ろうとしているのだ。
平沼は「日本会議」という日本最大の右翼団体に連なる「日本会議国会議員懇談会」の会長を務めている。前記リンク先をご覧いただければおわかりのように、副幹事長に安倍晋三、会員に福田康夫の前職および現職総理大臣を抱え、民主党よりはるかに自民党と親和性が高い団体である。憲法改定やサッチャー流の教育カイカクに異様なまでの執念を燃やしていることはいうまでもない。
ついでに書くと、前述の昨年10月27日付エントリでも書いたように、平沼という人物は、「アインシュタインの予言」 なるトンデモを信じているおめでたい男だ。「水からの伝言」 も、こんなに悪名が高くなっていなければ、平沼の大好きな道徳教育の格好の教材になるとばかりに飛びついたかもしれない(笑)。
私は、民主党はこんな平沼のごとき筋の悪い政治家が率いる一派と連携などしてはならないと以前から主張し続けているのだが、民主党は平沼の選挙区である岡山3区に候補を立てるのを見送る方針を決めるなど、好ましくない動きをしている。平沼は改憲志向だし、民主党内にも改憲論者は多数いるので、平沼らの動きは改憲の機運を再び盛り上げようとするものであることはいうまでもない。何しろ平沼は安倍晋三に近い人物であり、民主党と安倍晋三が手を組むなどということになったら、悪夢以外のなにものでもない。
もっとも、現実にはそんな動きになるはずはない。この記事はまだ3日付の各紙記事を読む前に書いているので、新聞報道がどうなっているかはわからないが、従来憲法問題というと第9条のことばかり議論されてきたが、今年は生存権及び国の社会的使命を規定した第25条がクローズアップされるものと思う。国民も、医療制度や年金の問題への関心が特に高く、これらの問題が選挙の争点になった昨年の参院選や先日の衆院山口2区の補選では、自民党は惨敗した。そもそも、コイズミ?安倍と続いた政権が推進した新自由主義政策は、憲法第25条の精神に反するものだったから、選挙結果はその必然の論理的帰結だ。
平沼らのもくろむイデオロギー政治は、国民からは関心を持たれておらず、平沼らの主張を取り入れることは、直ちに民心の離反を招く結果となる。損得勘定からいっても、平沼一派との連携は百害あって一利なしなのである。
平沼は、「アインシュタインの予言」を信じるような純真無垢な人のようだから、本人は大真面目なのだろうが、残念ながらピントが外れており、国を良くする政治家では断じてない。民主党は平沼一派との連携を模索することなど止めて、岡山3区には強力な対立候補を擁立することを検討してもらいたい。
[追記]
以上の記事を書き上げたあと朝日新聞を開くと、1面トップが「憲法9条改正 反対66%」(賛成は23%)という記事で、9条改定反対派は、昨年の49%からさらに大幅に増えた。また、社説では予想通り貧困の問題を取り上げて憲法25条について論じていた。また、毎日新聞は生存権とともに表現の自由をクローズアップした社説を掲載した。
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選挙区には、母子殺害事件があった光市も含まれ、自民党は、前首相安倍晋三が、光市母子殺害事件の被害者親族の方までも山本繁太郎の応援に駆り出して必死だったが、結果は惨敗。と書いた。
上記のように書いた根拠は、安倍が光市で山本繁太郎の応援演説をしている以下の動画ファイルを見たからだ(注:一時閲覧不能でしたが、復活しました)。
この動画は、「きっこの日記」 (4月30日)でも紹介された。ここで安倍は、本村さんが出席していることを紹介した上で、「自民党は犯罪被害者対策に力を入れている」と言っており、聴衆に本村洋さんが山本繁太郎の応援に来ているかのような印象を与えている。
この「きっこの日記」によると、きっこさんが江川紹子さんを介して本村さんに真意を聞いてみたところ、本村さんは「自民党から応援の要請など一度もないし、どうしてこうなるのか」と困惑しているとのことだった。
4月30日付の 「Egawa Shoko Journal」 にも、この件が取り上げられている。下記URLに飛んでご参照いただきたい。
http://www.egawashoko.com/c011/000260.html
ここで江川さんは、次のように書いている。
お昼休みに会社の近くで演説会があったので聞きに行った。誰から頼まれたわけでもなく、ましてや応援の依頼があったわけでもない。ところが、たまたまテレビ局の人が来ていて、本村さんを見つけて声をかけてきたので、「一市民としているだけなので、お構いなく」と言ったけれど、そのやりとりで周囲の聴衆も気が付いて囲まれるような形になってしまった。ということもあって、弁士が「今日は本村さんも来ておられるが、自民党は犯罪被害者対策にも力を入れ」云々と、演説の中で本村さんの名前に触れた。
ただそれだけなのに、この事実が伝えられていくうちに、それぞれが自分の価値観や思惑を加味し、新たな意味づけがされて、ネットの世界で広がっていったのでした。なんと、次の選挙では本村さんが自民党から立候補するというウワサにまで飛躍しているらしく、話に尾ひれがついた、というより、背びれ胸びれまでくっついて、ネットという大海を泳ぎだしてしまった感じです。
本村さんは、自分が無防備に演説会に行ってしまったために、候補者を初めとする他の人たちに迷惑をかけてしまったのではないか、自分が色づけをされることで犯罪被害者の立場を向上させるための活動に何らかの影響が出るのではないか、と自分を責めていました。そのうえ判決の後の記者会見やら手記の執筆、その他いろいろな対応をした後とあって、とてもくたびれている様子でした。
(「Egawa Shoko Journal」 2008年4月30日付記事 "ネット社会を生きる人へ?自戒を込めて" より)
本村さんに関する、「自民党からの立候補云々」という噂がネットで出てきたことは、私も何回か見た。それどころか、本村さんは広島大学工学部在学中からの 「日本会議」 のメンバーであると喧伝する輩まで存在することを知っており、かねてからそれは根拠のないガセネタだろうと考えていたので、このことを 「kojitakenの日記」 にも書いた(下記記事)。
"kaetzchenが言っている「本村洋氏は日本会議のメンバー」という主張には根拠があるのか?"
(「kojitakenの日記」 2008年4月25日)
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20080425/1209129168
リベラル・左派系のブログの間では、このkaetzchenと友好関係を保っているところが多いが、当ブログは以前から不信を抱いていたところに、当ブログに彼から寄せられたコメントや、「水からの伝言」批判派を「解同」(部落解放同盟)呼ばわりしたブログに彼が寄せたコメントを読んでブチ切れ、当ブログへの出入り禁止措置をとった。kaetzchenと友好関係にあるブログは、その言論の信頼性を疑われると私は思っているので、ブロガーの方々にはkaetzchenとの関係を考え直すことをおすすめしたい。
江川さんは次のように書いている。
それより私が問題だと感じたのは、本村さんがその場にいた経緯など、事実を確認しないまま、それに様々な意味づけや憶測を付け加えて流していく人たちです。どこかのサイトや掲示板で見たウワサをコピー&ペーストすれば、今度は自分が発信源になれます。しかも、日本のネット社会は匿名が当たり前のようになっているので、自分が責任を問われません。すごく安易に、とても気軽に、かなり無責任に、情報の流通の担い手になっている人たちがいます。彼らにとっては、単なる面白い情報の一つにすぎなくても、そうやって流された情報によって傷ついたり、困ったりする人がいる、ということを、もう少し考えてもらいたいと思います。
(「Egawa Shoko Journal」 2008年4月30日付記事 "ネット社会を生きる人へ?自戒を込めて" より)
kaetzchenの流した、ほぼ間違いなくガセの情報などはその最たるものだろうが、当ブログ管理人も、安倍が山本繁太郎の応援をしている動画で、安倍が「本村さんが出席している」と明言しているのを確認したので、昨日のエントリで、「自民党は、前首相安倍晋三が、光市母子殺害事件の被害者親族の方までも山本繁太郎の応援に駆り出して必死だった」と書いた。当ブログでも光市母子殺害事件に関してはいくつかのエントリを上げているが、それと当ブログの「反自公政権」の政治的スタンスはなるべく絡ませないように注意を払ってきたつもりだ。しかしそれでも江川さんの書いた上記の苦言を肝に銘じなければならないと反省させられた次第である。
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