このところ、映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題をめぐる記事ばかりになっているが、以前から稲田朋美を批判してきた当ブログは、今回の騒動で、昨年11月の「大連立」騒動の時以来のアクセス数を記録している。そして、それよりも何よりも、われわれ日本人が「戦後レジーム」を維持できるかどうかが問われる正念場だと思う。ここで踏ん張らなければ、われわれは「戦後民主主義」を失ってしまうだろう。
だから、今日もこの話題を続ける。これまでの経緯については、昨日(4月7日)の「カナダde日本語」がまとめてくれている(下記URL)。
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-855.html
同ブログもこの件を何度も取り上げていて、「しつこいと言われるかもしれないが」とのことだが、当ブログの方がよほどしつこいといえるだろう。「また稲田朋美の記事か」と思われる読者も多かろうが、ここで引き下がるわけにはいかない。
当ブログは、「言論の自由」とか「表現の自由」という問題になると、ついむきになってしまう。右からにせよ左からにせよ「表現の自由」に制限をかけようとする動きに対して反発を感じ、ヴォルテールの言葉とされる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利には賛成だ」に共感を持つものなのだが、ネット検索してみると、この言葉はヴォルテールの言葉かどうか疑わしいらしい。昨今は、この言葉に対して留保をつける超有名ブログや、「公共の福祉」によって表現の自由に規制がかけられて然るべきだと主張する有名ブログがあったりもする。
もちろん、当ブログとて野放図な権利が認められるべきだとは考えておらず、人間の生存権を脅かすような主張には規制があっても止むを得ないと考える。たとえば、テロを肯定する言論などがその例である。
たとえば、4月4日付エントリでも批判した「良識の星」なるHNの人物は、昨日のエントリにも現れて、下記のような呆れたコメントを送りつけてきた。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-609.html#comment3102
いうまでもなく、死刑制度のある日本では、「極刑」とは「死刑」を意味する。つまり、「良識の星」なる非常識人は、加藤紘一代議士へのテロを教唆したも同然だ。このコメントを受けて、当ブログは「良識の星」に対して、コメントおよびトラックバック禁止措置をとった。当ブログは、これが言論封殺であるとは全く考えていない。基本的人権、なかんずく生存権を脅かす言動に対しては、制限がかけられて当然だ。
しかし、この種の規制は止むを得ない場合に限るべきだろう。特に権力に反対する側が規制に容認的だと、それこそ権力によって同じ論法で言論を規制されてしまう。「表現の自由」や「言論の自由」というのは、とても重いものだと思うのだが、私の認識は間違っているのだろうか?
ところで、例外中の例外ともいえる規制を適用されてもよい対象として直ちに思いつくのは、石原慎太郎である。石原は、2003年に、テロを肯定する発言をした。
当時、多くのマスコミがこれを批判したが、その中から、Google検索で筆頭で引っかかった「沖縄タイムズ」の2003年9月13日付社説を紹介する。
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20030913.html
真に許してはならないのは、この時の石原のような言論だ。だが、こんな発言を平然とする石原を、東京都民は昨年の都知事選で3選させてしまった。だから、私は石原に投票した東京都民は「愚民」だと臆することなく書くのだ。みすみす自分から言論の自由や表現の自由を手放してもよいという選択を、東京都民はした。
これまでにも何度も書いたように、稲田朋美は、加藤紘一の実家が焼かれた件をシンポジウムで笑いながら紹介した。当ブログの2006年11月23日付記事で紹介したように、2006年9月5日付の「北海道新聞」は、下記のように稲田を批判している。
稲田もまた石原同様、「言論の自由」や「表現の自由」を侵す危険な人物だ。だが幸い、今回の映画「靖国」上映中止問題で、世論は稲田を全く支持しなかった。次回の総選挙で稲田を落選させることができれば、規制に頼ることなく危険な言論を葬ることができるといえるのではないか。
繰り返すが、規制は、あくまで止むを得ない場合に限られるし、規制を濫用してはならないと考える。
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だから、今日もこの話題を続ける。これまでの経緯については、昨日(4月7日)の「カナダde日本語」がまとめてくれている(下記URL)。
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-855.html
同ブログもこの件を何度も取り上げていて、「しつこいと言われるかもしれないが」とのことだが、当ブログの方がよほどしつこいといえるだろう。「また稲田朋美の記事か」と思われる読者も多かろうが、ここで引き下がるわけにはいかない。
当ブログは、「言論の自由」とか「表現の自由」という問題になると、ついむきになってしまう。右からにせよ左からにせよ「表現の自由」に制限をかけようとする動きに対して反発を感じ、ヴォルテールの言葉とされる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利には賛成だ」に共感を持つものなのだが、ネット検索してみると、この言葉はヴォルテールの言葉かどうか疑わしいらしい。昨今は、この言葉に対して留保をつける超有名ブログや、「公共の福祉」によって表現の自由に規制がかけられて然るべきだと主張する有名ブログがあったりもする。
もちろん、当ブログとて野放図な権利が認められるべきだとは考えておらず、人間の生存権を脅かすような主張には規制があっても止むを得ないと考える。たとえば、テロを肯定する言論などがその例である。
たとえば、4月4日付エントリでも批判した「良識の星」なるHNの人物は、昨日のエントリにも現れて、下記のような呆れたコメントを送りつけてきた。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-609.html#comment3102
加藤紘一氏の発言は問題ですよね。一個人の単なる抗議をネット右翼の悪影響と結び付けようとしたり、自身の実家が放火されたのまで結び付けようとしていましたしね。それに本当に稲田氏にテレビ出演の依頼をしたのでしょうかね。なんといっても政治家として一個人の言論を封鎖しようとしたことは極刑に値しますね。
いうまでもなく、死刑制度のある日本では、「極刑」とは「死刑」を意味する。つまり、「良識の星」なる非常識人は、加藤紘一代議士へのテロを教唆したも同然だ。このコメントを受けて、当ブログは「良識の星」に対して、コメントおよびトラックバック禁止措置をとった。当ブログは、これが言論封殺であるとは全く考えていない。基本的人権、なかんずく生存権を脅かす言動に対しては、制限がかけられて当然だ。
しかし、この種の規制は止むを得ない場合に限るべきだろう。特に権力に反対する側が規制に容認的だと、それこそ権力によって同じ論法で言論を規制されてしまう。「表現の自由」や「言論の自由」というのは、とても重いものだと思うのだが、私の認識は間違っているのだろうか?
ところで、例外中の例外ともいえる規制を適用されてもよい対象として直ちに思いつくのは、石原慎太郎である。石原は、2003年に、テロを肯定する発言をした。
「田中均という奴は爆弾を仕掛けられた。当ったり前の話だとわたしは思う」
当時、多くのマスコミがこれを批判したが、その中から、Google検索で筆頭で引っかかった「沖縄タイムズ」の2003年9月13日付社説を紹介する。
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20030913.html
石原発言
「テロ容認」は許されない
「田中均という奴(やつ)は爆弾を仕掛けられた。当ったり前の話だとわたしは思う」
外務省の田中均外務審議官宅に時限式発火物とみられる不審物が仕掛けられた事件で、対北朝鮮外交に不満を持つ石原慎太郎東京都知事が自民党総裁選の応援演説でこう述べた。
その後、「テロは悪いに決まっている」と釈明したが、発言はテロを容認したものといえ認めるわけにはいかない。
田中審議官は家族とともに避難した。いかなる暴力も許してはならず、早期の事件解決を求めたい。
石原氏は共同通信社の世論調査で「首相にふさわしい政治家」として、小泉純一郎首相を上回る支持を集めている。
脅迫や暴力行為を認めるような発言は、政治への信頼を裏切るものと自覚すべきだ。
犯人は「建国義勇軍国賊征伐隊」と名乗っている。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)関連施設への狙撃や爆発物設置、自民党の野中広務元幹事長に弾丸を送付するなど一連の事件との関連が疑われている。
朝日新聞社には同名の犯行声明も届いており、同一グループによる犯行の可能性が強い。
小泉首相は「(石原氏の)発言は極めて不適切だ」と批判。外務省も「一連の外交は政府一体で行っており、特定の個人が勝手に交渉を進めているという事実はない」として、厳重に抗議するとの川口順子外相のコメントを発表した。
石原氏の発言には第三国人、支那人、朝鮮人などというように、国内におけるマイノリティー(少数者)への差別や排外的な主張が目立つ。
今回の発言も北朝鮮への強い反発が背景にあり、田中審議官の対話路線を批判したものと考えられる。
確かに、解決をみない拉致問題に加え、ミサイル実験や核開発問題など、北朝鮮のエスカレートする瀬戸際外交は批判されてしかるべきだ。
しかし、一連の爆発物事件にみられるテロ行為が許されるはずがない。
石原氏の発言に潜む問題は、外交を一外務官僚の責任に帰し、なおかつ爆弾が仕掛けられてもいいという姿勢である。
発言を容認する空気が醸成されてはならない。
異論を暴力で封じ込めようとする風潮は極めて危険である。
犯行をエスカレートさせないためにも、一日も早い犯人逮捕を望みたい。石原知事は潔く発言を撤回すべきだ。
(「沖縄タイムス」 2003年9月13日付社説)
真に許してはならないのは、この時の石原のような言論だ。だが、こんな発言を平然とする石原を、東京都民は昨年の都知事選で3選させてしまった。だから、私は石原に投票した東京都民は「愚民」だと臆することなく書くのだ。みすみす自分から言論の自由や表現の自由を手放してもよいという選択を、東京都民はした。
これまでにも何度も書いたように、稲田朋美は、加藤紘一の実家が焼かれた件をシンポジウムで笑いながら紹介した。当ブログの2006年11月23日付記事で紹介したように、2006年9月5日付の「北海道新聞」は、下記のように稲田を批判している。
稲田氏は、地元福井の新聞で首相の靖国参拝を批判する加藤紘一元幹事長と対談したことを紹介。加藤氏の実家が右翼団体幹部に放火された事件について「対談記事が掲載された十五日に、先生の家が丸焼けになった」と軽い口調で話した。約三百五十人の会場は爆笑に包まれた。
(「北海道新聞」 2006年9月5日付1面記事より)
稲田もまた石原同様、「言論の自由」や「表現の自由」を侵す危険な人物だ。だが幸い、今回の映画「靖国」上映中止問題で、世論は稲田を全く支持しなかった。次回の総選挙で稲田を落選させることができれば、規制に頼ることなく危険な言論を葬ることができるといえるのではないか。
繰り返すが、規制は、あくまで止むを得ない場合に限られるし、規制を濫用してはならないと考える。
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