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きまぐれな日々

どうにももどかしいのがこのところのリベラル・左派系といわれるブログの記事で、私自身日々「何のためにブログで政治のことを書いているのか」と自問し続けているが、なかなか良い記事が書けない。迷いがあり、それからどうにも脱しきれない。

政治には子供の頃から関心はあった。小学生時代、プラモデルを作ったり戦記ものの漫画を読んでいる同級生もいたが、私は中沢啓治の「はだしのゲン」を読んで戦争の悲惨さに背筋を凍らせ、戦後の時代に憲法9条を持つ国に生まれてよかったと考える子供だった。プラモにも軍事技術にも興味は起きなかった。別に左翼の親や学校教育に感化されたわけではなく、父親はむしろ右翼だったし、学校でも小学校4年生頃までは思想を強制するような教育は受けなかった。小学校高学年では、「同和教育」の洗礼を受け、子供心に行き過ぎを感じたものだったが、これとて、そのあまりの「トンデモ」ぶりによって、その影響力は限定的なものだったと思う。

当時は自民党支持者の間でも「護憲」は当たり前の意見だったと思うのだが、それがいつの間に「護憲」がイデオロギー色の強い硬直的なものとなり、逆に「草の根保守」が大衆の心をとらえて力を増していった。最近読んだ魚住昭の 『証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも』 (講談社)の帯に、「「右派勢力」はなぜ台頭したのか」とある。実はここ数日、この本のレビューを書いてこの問いに答えようとしているのだが、どうしても紋切り型のことしか書けず、得心のいくレビューにならないので、書き始めてはそれを破棄する状態が続いている。ただ、「草の根保守」が足を地につけた活動をしていた70年代以降の時期に、「護憲」運動が大衆から遊離していったことはいえると思う。そして、多数を占めるようになった「右派勢力」の方もかつての「リベラル・左派」と同じ陥穽に落ちたことの象徴が、わずか1年で崩壊した安倍晋三内閣だったのではないか。だから、リベラルや左派も安倍晋三の失脚や右派言論人の狼狽ぶりを笑ってばかりもいられないと思う。

ブログキャンペーン 「AbEnd」 の旗を振った人間の一人として、このところ、「これは違う」と思うことが多い。たとえば「庶民的」とか「庶民の感覚」っていったい何なのか。それって、レベルの低さとか、レベルを上げようとする努力をしないことを言いくるめる詭弁に過ぎないのではないか。いったい、何のためにブログキャンペーンをやっているのか。それが伝わってこないブログが多いし、ひるがえって当ブログからもそれを伝え得ていないのではないかと思える。そうなると、考え込んでしまって今までの、というか「大連立」騒動以前のような調子では記事を書けなくなっているのである。

私の場合、ぶっちゃけた話、新自由主義に対する怒りがあり、自分自身もさることながら、周囲にいた人間が過去十数年の間にさまざまな艱難辛苦を舐めたのをずっと見続けてきたので、80年代以来日本をこのような社会にしてしまった新自由主義を打倒したいという動機がもっとも強い。新自由主義の象徴が、コイズミであり竹中平蔵である。次いで、日本を戦争のできる国にしようという、安倍晋三的なものへの反発があった。安倍は、コイズミほど狂信的な新自由主義者ではないが、コイズミ路線を無批判に継承したため、新自由主義と思想極右の両方を持った史上最凶の政治家だと考えていた。このため、安倍への攻撃には特に力が入ったものだ。

安倍晋三内閣が自壊のような形で倒れたあと、キャンペーンは「自End」に引き継がれたが、ブログキャンペーンが分裂傾向にあるのはご存知の通りだ。私としては、スローガン連呼型のブログ、同じようなフレーズが毎回のように出てくるブログは好まない。思索を行わずにひたすらスローガンを連呼するのって、ヒトラー、スターリンや毛沢東らと同じやり方ではなかろうか。なんのために自民党を倒すのか、野党共闘をするのか、郵政民営化をやめるのか、もちろんそれぞれにもともとは理念があるのだが、スローガンが一人歩きした時、理念は硬直化し、仮説はドグマと化す。このところキャンペーンに参加する新しいブログの台頭も少なく、ブログキャンペーンが頭打ち気味なのはそういったところにも原因があるのかもしれない。

このままではいけない、とブレイクスルーを求めてあがく今日この頃である。


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