きまぐれな日々

唐突な物言いだが、私はもともと理系の人間であって、人文科学や社会科学の分野に対して、抜きがたい偏見を持っている。
つまり、これらの分野が「科学」と名乗るのは僭称ではないかということだ。客観的に検証することなどできっこないこれらの分野が果たして「科学」であり得るのか、はなはだ疑問だと、私は考えている。

特に経済学に対して、この偏見を強く持っている。昔、「進歩的文化人」とやらが、「科学的社会主義」などと称していたものが、実は「カルト」と同義語だったというのは、もはや定説といっても差し支えないだろう。その反動か、現在、いわゆる「新自由主義」なるものが猖獗(しょうけつ)をきわめているが、これも「科学的社会主義」同様、カルト以外のなにものでもないと、私は考えている。

「コイズミ改革」なるものが拠って立つところのものが、この「新自由主義」なるカルトである。
たとえば、山本一太や佐藤ゆかりなどに代表される馬鹿者どもが「改革」を連呼している映像がテレビに映ると同時に、私はチャンネルを切り替えることにしている。あのような低劣な人間どもの映像を見ることは、人生の貴重な時間の無駄づかい以外のなにものでもない。

さて、だいぶ前のことになるが、弊ブログのコメント欄で、田島正樹さんのブログ「ララビアータ 田島正樹の哲学的断想」を紹介していただいたことがある。その中に、実に印象的な記事があったので、ここに紹介する。

 権力エリートたちが、一般にアクセスできない情報に、合法・非合法ぎりぎりの所で、たやすくアクセスでき(たとえば、ヒルズの私的パーティとか、軽井沢のお隣づきあいとか、東大の同窓会とか…)、それによって巨額の利益を得る事が出来るという事実が、それを小難しい議論で擁護しようとする論客の議論と密かに持つリンクを、暴きださねばならない。つまり、これらの論客が「日本型エリート秘密クラブ」へ喜んで招き入れられる見返りとして、この秘密クラブのメンバーを擁護するために、いざとなればその専門的知識を駆使するという黙契を結んでいることこそが、彼らの小ざかしい議論の背景にあることを、暴露せねばならないのである。
 我が国のエリートたちは、政界も財界も学会もプレスも、八ヶ岳のように並び立ち互いに競争する仕組みにはなっておらず、中心的エリートになればなるほど仲間意識で強く結ばれ、互いにかばいあう、多重の入子型の秘密クラブ的構造になっているのである。つまり、そこではメンバー全員がインサイダーなのであり、彼ら同志の日常生活そのものに、合法性を装ったインサイダー取引が組み込まれているのである。したがって、その中でより中心部にいる人間同士は、特に取引したりすることなく互いに情報をやり取りしたり、便宜供与し合う事が出来るのに、外部の人間からは、彼らが交し合う目配せがわからないように出来ている。
 そんなところで、あたかも理論的に厳密さを装った「論客」の屁理屈に付き合って反論しているだけでは、常に後れを取ることになるだろう。彼らは、法律家とか経済学者といった麗々しい肩書きで、レイマンを威圧するだけが取り得の小難しい議論を展開するが、結論はそんな議論によって与えられるのではなく、それ以前に彼らの「エリート秘密クラブ」からの暗黙の要請で、初めから決まっているからである。
 そんな時、ぐるになったこうした連中の実存形式から、彼らの言説の卑しい動機を暴露する事が出来れば、衒学的な議論の細部に幻惑されることなく、人々は己れ自身の不正感覚に基づいて「敵」を討つ事が出来るだろう。インサイダーに対しては、その靴でも舐めかねないほど卑屈なのに、外部のレイマンに対してはジャーゴンを居丈高に振りかざすこれらの立身出世主義者たちが、秘密クラブの「名誉」会員権を求めて、ヒルのように擦り寄る様を描き出すことによって、我々は、彼らに恥をかかせてやらねばならないのだ。

「左翼の言語戦略(1)」〜「ララビアータ 田島正樹の哲学的断想」より

実に痛快な指摘だ。これを読んで、胸のつかえが取れた気がした。もっとも、恥ずかしながら「レイマン」と「ジャーゴン」という言葉を、私は知らなかった。調べてみたところ、「レイマン」(layman)は「素人、門外漢」の意で、「ジャーゴン」(jargon)は「普通の人にはわからない専門用語」の意らしい。技術系の人間が言う「テクニカル・ターム」(technical term)などとは違って、「ジャーゴン」という語には否定的なニュアンスが込められているようだ。

安倍晋三は、この文章に描かれている連中に担がれている御輿にすぎない。なぜ安倍晋三なのか。それは、かつて小沢一郎が海部俊樹を指していみじくも言った通り、「担ぐ御輿は軽くてパーが良い」からだ。御輿に乗る人間は、馬鹿である方が好ましいのだ。

ここで、安倍晋三と対極に位置する男の話題に切り替える。

森永卓郎という男がいる。経済アナリストを自称しているが、結構いい加減なことを言ったり書いたりしているので、テレビで「識者」たちの集中砲火を浴びることも少なくない。実際、森永の主張にはデタラメが多い。しかし、不思議と肝心かなめのところは押さえている男だ。

私は、2000年に出版された森永の著書「リストラと能力主義」(講談社現代新書)をきわめて高く買うものである。これは、現代の大企業ではびこる「成果主義」の問題点を、早い時期に鋭く突いた本だ。入口(職種種や勤務地についての従業員の希望)を制限しておきながら、出口(成果)を問うという、日本の多くの企業における人事システムの理不尽さを、鋭く告発した書である。

斎藤貴男によるこの本の書評が、上記アマゾンのサイトに張ったリンクから参照できるので、興味のおありの方はご参照いただきたいが、斎藤も指摘しているように、『まるでスターリン体制下の旧ソ連のように、思想統制も含めた恐怖政治が企業社会に罷り通る。「ただ目立たず、はしゃがず、決してボロを出さない、そしてひたすら会社にしがみついていくだけのサラリーマンが急増している」』(斎藤貴男による森永卓郎「リストラと能力主義」書評、「日経ビジネス」2000年4月17日号初出)と、私も思う。そして、それは何も企業に限らず、わが国における言論状況全体にも同じことが言えると思うのだ。
「物言えば唇寒しだねえ」と、自民党の島村宜伸がテレビで無責任に放言していたが、いとも簡単に信念を曲げて自民党にしがみついたこの男なども、典型的な悪例の一人だと私は思う。

話を森永卓郎に戻そう。「森永卓郎 - Wikipedia」には、次のような記述がある。

2004年から、2005年にかけて、テレビ朝日で放映されている朝まで生テレビや、サンデープロジェクトで、「日本の課税最低限は先進国中最悪レベル」と発言した。この発言に対して、司会の田原総一朗はじめ、ほぼ全員の出演者から「日本は課税最低限が高い」といった非難を浴びた。田原は番組の度に森永を批判していたが、2005年11月放送の朝まで生テレビにおいて、「(財務省のホームページや、各種資料を見たところ)森永さんの発言は正確です」と説明している。

この記述を読むと、田原は森永を馬鹿にし続けていたが、2005年11月に、自らの誤りを認めたことがわかる。つまり、小泉自民党が総選挙で大勝したあとに、間違ったことを言って森永さんを批判してゴメンナサイ、と言ったワケだ。なんとも見下げ果てたデマゴーグと評するほかはない。

もっともらしい理屈で人々を煙に巻く経済学者たちのやっていることも、本質的に田原総一朗と変わるところはないと、私は考えている。彼らが用いているのは、人々を騙すための詭弁に過ぎず、到底学問という名になど値しない。

もちろん、中にはまっとうなアプローチで経済学を研究している学者もいるだろう。だが、竹中平蔵に代表されるような、政治と深く結びついた「学者」たちがやっていることは、断じて「学問」や「科学」などの名を冠するにふさわしいものではないと、私は確信している。

彼らは、単なる詐欺師である。御用学者にだまされてはいけない。


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