「きっこの日記」が、安倍晋三が統一協会に祝電を送ったとの記事を書いたのは、その3日後の6月6日である。直ちにネット検索したが、その日は記事の真偽を確認できなかった。しかし、翌日の7日に再度ネット検索をしたら、ハムニダ薫さんの記事が引っかかった。そこで、ハムニダ薫さんの記事を引用して、この件でブログに記事を書いたところ、ハムニダさんからコメントをいただき、そこから、ブログでの安倍晋三批判へとのめり込んでいくことになったのである。安倍晋三は、ずっと以前から私の嫌ってやまない政治家であって、ブログ開設直後から安倍の批判記事を書き続けていた。だから、祝電事件に直ちに飛びついたのだ。
その後、6月17日に美爾依さんから初めてコメントをいただいたのでブログに伺ったら、なんと安倍にストップをかける運動の呼びかけがあり、直ちに賛同したのが、AbEnd(安倍ND)にかかわった始まりである。AbEndは6月18日にスタートした。
それに至る過程で、もっとも早い段階からコメントとトラックバックのやりとりがあったブロガーが、ピリカラさんだった。
ハムニダさんからのコメントは、実は弊ブログの開設以来、二番目にいただいたコメントだったのだが、そのあと早くもネットウヨのコメントが一件ついたあと、四番目にいただいたのがピリカラさんのコメントだった。6月10日のことである。ピリカラさんのブログを拝見すると、昨年の総選挙をきっかけに始められたとのことで、行動の早い遅いはあっても、動機は私と類似していた(もちろん早かったのがピリカラさんで、私は7か月も遅れた)。そう、私がブログを開設した遠因も、昨年の総選挙にあった。あの結果で危機感を強め、これは自分で意見を発信するしかないと思った。ただ、その後7か月も掲示板止まりだった怠惰な私とは対照的に、ピリカラさんは総選挙後直ちにブログを開設されていた。
ピリカラさんのブログは、温和で良識あふれるものだった。初めてコメントをいただいた直後くらいに、ちょっとした宗教談義をかわしたように記憶している。美爾依さん提唱のAbEnd開設後、AbEndへのTBをお願いしたことがあり、当初は尻込みされていたが、いつしか活発なアベンダー(今思いついた造語)になって下さった。
そのピリカラさんのブログ閉鎖を知ったのは、31日早朝のことだ。弊ブログへのTBで知った。あまりのことに言葉を失った。そんな気配なんて全然なかったのに。最新の記事から順にたどっていこうとして、8月27日の老子の記事を見た時、涙が出そうになった。良識あるブログから閉鎖していくなんて、本当にやりきれない思いだ。
世の中にはさまざまな人がいて、さまざまな人生がある。今活性なブログだって、仕事とか家庭の都合や病気その他で、いつ不活性になるかはわからない。それは、筋金入りのアベンダーを自認している私のブログとて例外ではない。もちろん、ブログを止めるつもりなど毛頭ないが、人生いつ何があるかなどわからない。
記事を書いているうちに日付が変わってしまい、もう9月1日だ。今見に行ったら、もう「ピリカラ納豆・甘納豆」は閉鎖されていた。だが、これで終わりだなんて絶対に思わない。そして、安倍晋三の祝電追及運動も、AbEnd運動も、まだまだ続いていく。ピリカラさんとも、またお会いできるだろうと信じている。
たとえば、「週刊現代」9月9日号には、次に示す3本の注目すべき記事がある。
『安倍晋三「空虚なプリンス」の血脈 第3回』
『「言論封殺テロ」を徹底追及しないメディアの大罪』
『ジェラルド・カーティスが大放言 安倍晋三は頭も心も体も弱い政治家』
安倍の血脈記事は、さもありなんという内容でしかないし、「頭も心も体も弱い」は、タイトルだけは痛快だけれど、それほどたいした安倍批判記事ではない。
今週号で注目されるのは、なんといっても『「言論封殺テロ」を徹底追及しないメディアの大罪』という記事だ。
記事は、加藤邸放火事件を紹介したあと、こう書いている。
(前略)犯行は言論封殺を狙った政治テロと見られる。
今年に入ってから、この種の言論封殺事件が頻発している。
7月21日には東京・大手町の日経新聞東京本社に火炎瓶が投げ込まれた。犯人はまだ捕まっていないが、日経新聞はその前日、A級戦犯への靖国神社への合祀をめぐる昭和天皇の発言メモをスクープしており、これを快く思わない者による犯行との見方が強い。
また、今年1月には、本誌(kojitaken註:週刊現代)でも細木数子を題材にしたルポ・『魔女の履歴書('06年5月?8月)を連載していたノンフィクション作家・溝口敦氏の長男(33歳)が山口組系関係者によって路上で刺されるという事件が発生した。(後略)
(「週刊現代」2006年9月9日号『「言論封殺テロ」を徹底追及しないメディアの大罪』より)
しかし、その他に、8月には忘れられない惨事が起きている。
1985年8月12日に起きた日航機123便の墜落事故である。
父の同僚の娘さんが、この事故の犠牲になった。私自身は犠牲者の娘さんにも親御さんにも面識はないが、親御さんは大変深く嘆き悲しまれていたそうだ。
事故から20周年に当たる昨年の8月12日、「きっこの日記」に、「人命よりも証拠隠滅」と題された記事が掲載された。
この記事によると、事故発生直後の救助活動に不可解な点が多く、自衛隊は生存者の救助を後回しにして、現場にあった「大きな謎の物体」を運び出しており、その間苦しんでいる被害者たちはほったらかしにされていたという。
ネット検索などで調べてみると、事故当時、無人標的機を用いた自衛隊の演習が行われており、これがJAL123便と衝突したという説が根強くあることがわかる。
こうした背景があって、この日航機123便に関する本を一度読んでみたいと思っていたところ、2003年に出版された藤田日出男著「隠された証言 ?日航機123便墜落事故?」が文庫化されたので、買って読んでみた。読み始めたのは8月12日、事故から21年目の日だった。
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この本の著者はきわめて慎重、できるだけ正確を期す態度で記述を行っている。「自衛隊の無人標的機が日航機と衝突した」という仮説も採用していない。やはりこれはトンデモの範疇に属する説なのだろう。その慎重かつ実証的な姿勢は、この本の記述の信憑性を高めている。
本はまず、墜落地点をめぐる初期情報の混乱、そして自衛隊が意図的に情報を撹乱していたらしいこと、さらに自衛隊の反応は素早かったのにもかかわらず、生存者の救助活動が遅れたことを指摘している。
さらに、事故の原因が「航空・鉄道事故調査委員会」(略称・事故調)が結論づけた、圧力隔壁の修理ミスによる破裂が事故の原因であるという説に疑問を投げかける。事故調の報告書は、圧力隔壁が修理ミスのために破壊され、機内に急減圧が生じ、それが垂直尾翼の破壊を招いたというものだが、著者は、事故調の報告書が主張している「急減圧」など起きていなかったことを、事故機の客室乗務員だった生存者の落合由美さんの聴取記録などのさまざまな証拠や実験データを挙げて具体的に論証している。早い話が、事故調の報告書は「捏造」だということだ。
「首相、暴力での言論封殺を批判 加藤氏の事件で初言及」 (asahi.com 2006年8月28日 11時41分)
以下引用する。
小泉首相は28日朝、首相の靖国神社参拝を批判した加藤紘一元自民党幹事長の実家が右翼団体幹部に放火された疑いが強まっていることに関し、「暴力で言論を封ずるのは決して許されることではない。こういう点については厳に我々も注意しなければならない。戒めていかなければならない問題だ」と語った。15日に起きた事件について首相が言及したのは初めてで、首相公邸前で記者団の質問に答えた。
(asahi.com 2006年8月28日 11時41分)
この部分だけを切り取ってみれば、小泉純一郎の意見は正論だ。だが、この事件が起きてからいったい何日経っているというのか。もう二週間にもなろうとしているのだ。
加藤の実家が放火されたのは8月15日だ。この時、ネットウヨは言論封殺を憤るどころか、むしろこれを歓迎するような意見をネット上に撒き散らした。当ブログより一日あたりのアクセス数が2桁多い人気右翼ブログが、このテロを肯定したことがネットで話題になったのは、記憶に新しい。
小泉の靖国参拝が、こうしたネットウヨの跳ね上がりに火に油を注ぎ、テロリストに加藤邸を放火せしめたことは、疑う余地がない。加藤邸の放火は、小泉が靖国に参拝した、まさにその日に起きたテロである。
ところが、先週及び今週日曜日のテレビの政治番組で、普段小泉マンセーをしている田原総一朗その他が、珍しく「これは言論の自由への挑戦だ」と声を荒らげ、コメンテーターや小泉?安倍系列以外の自民党の政治家も、「小泉さんが強くなり過ぎて、自由にものを言えない雰囲気になった。それがこうした事件につながった」と批判するようになった。政界やマスコミ界でどういう力学が働いているのかはよくわからないが、このところ少しずつ、マスコミは小泉が思うようにはコントロールできなくなり始めているようなのだ。いろんな情報を吟味してみて一つだけわかることは、ナベツネはどうやら加藤側についているらしいということだ(やつのことだから、いつ寝返るかはわからないが)。小泉は、こういう状況を見て、やむを得ず加藤邸放火事件にコメントしたものだろう。もちろん、不承不承発言したものに違いあるまい。
管理人(私)は、当ブログを明確な方向性を持ったメディアと位置づけています。特に、美爾依さん「カナダde日本語」提唱の「AbEnd」運動(安倍晋三打倒運動)に賛同し、これを推進する立場に立って以来、目的を明確化させており、合目的性を最重視したブログの運営を行っています。
従って、コメント欄およびトラックバックの管理も、合目的性を最大の判断基準にします。
これは、反対意見を認めないという意味ではありません。多くの場合、反対意見も、事柄を多面的に見る上で役に立ちますし、場合によっては反対意見の良いところも取り入れていかなければならない場合もあります。
しかし、ブログの目的に反すると思われるコメントやトラックバックは、遠慮なく削除します。
この判断基準は、管理人が決めます。それについてこの記事で具体的な基準を明記する必要は認めません。場合によっては、そのコメントやトラックバックを記事中で晒し上げにした上で、コメントおよびトラックバック禁止措置をとらせていただきます。
これは、言論の自由の制限に当たるなどとは全く考えません。誰にだってブログを開設する自由はあるし、そのブログで弊ブログなりを思いっきり批判し、その言論が多数派になれば、言論戦で勝利を収めることができるからです。
当ブログは、言論戦をブログ内のコメント欄で行う必要は全く認めません。言論戦は、イントラ・ブログではなく、インター・ブログで行うべきものだと思います(イントラ・ブログとかインター・ブログというのは、今思いついた造語です)。
現実には、当ブログでコメント及びトラックバックを削除したケースはほとんどなく、特にコメントについては、コメント投稿者からの依頼で消したケースを除くと、過去削除したのは1件だけですし、トラックバック削除はアダルトサイトへ導くものの1件だけです(同一サイトから2度ありました)。コメント及びトラックバックの禁止措置をとったのも、過去4件あるだけです(最初のコメントはそのまま残しておいて、以後二度と来るなと書いた上で、禁止措置をとったものです)。まあそれだけ影響力の弱いブログともいえるかもしれませんが、今後もこれまで通り、良識あるコメント及びトラックバックを期待しています。
なお、当記事を書くにあたり、下記の記事を参考にしました。
「時間泥棒」(「らんきーブログ」)
「コメント欄について」(「喜八ログ」)
「安倍のネット工作がいよいよ激しくなったようだ!」(「カナダde日本語」)
PS
2006年9月に入って、削除対象のコメント及びTBが急増しました。削除件数やコメント・TB禁止の対象件数は、もはや数え切れないくらいです。この事態に伴い、当ブログはコメント及びトラックバックを承認制にしました。管理人が承認しないコメント及びトラックバックは、ブログに掲載しません。
(2006.09.10 10:30追記)
「とくらblog」のとくらさん(戸倉多香子さん)が民主党から出馬されることになったことに関する記事も、そちらには書いたのだが(「kojitakenの日記」8月12日付「とくらさん出馬決定に思う」)、本家のブログであるこちらにも書いておこうと思い立った。
昨日も、SOBAさんがとくらさん出馬に関する記事を書かれていて、当ブログへもTBしていただいたが、それに対して、いつまでも分家のブログの古い記事しかない状態ではどうかと思ったからだ。
早期からブログで反小泉の言論を展開しておられた「とくらBlog」を知ったのは、私がブログを始めるはるか前、昨年秋のことだったと思う。総選挙よりはあとの11月頃だったはずだ。
当時私は、森田実さんのサイトで知った関岡英之氏の「拒否できない日本」(入手困難と言われていた)をやっとのことで入手して読み始めていたら、まさにそこで指摘されている問題点が噴出した耐震強度偽装事件が発覚し、それに関連して「きっこの日記」がスクープ記事を連発したのに驚いていた。きっこさんが昨年11月19日付でこの問題を最初に取り上げた時から、私は「きっこの日記」の固定読者になった。Googleで「きっこ 何者」という検索をかけたこと、当時の「きっこ」という文字列をブログに載せただけでヒット数が飛躍的に増えると書いていたブログがあったことなどを、懐かしく思い出す。
「きっこの日記」が「ブログ」と言えるかどうかについて議論があるのは知っているが、それはおいといて、遅まきながらブログの可能性に私がようやく気づいたその頃には、既にブログで目立った活躍をしておられたのがとくらさんだった。「とくらBlog」の魅力については、はるか後発のブロガーである私などが贅言を書き連ねる必要は全くないと思うので、あえてここには書かない。
とくらさんは記事中でしばしば関岡英之さんの他、魚住昭さんにも言及されている。魚住さんは私がもっとも信頼しているジャーナリストであることから、「とくらBlog」にコメントやTBを入れたり、「AbEnd」初期の頃にTBをお願いしたりしたことがある。何度かTB返しもしていただいた。
そのとくらさんが、来年の参院選で、民主党公認候補として、安倍晋三の地元から立候補される。ここでとくらさんが自民党候補を倒して当選されることは、もちろんAbEndの達成(安倍晋三の打倒)に直結することである。私は正直なところ民主党には信頼し切れないものを感じるが、小泉を引き継ぐ対米隷属・独裁指向・新自由主義(=フェアな自由競争を装いながら、その実アンフェアきわまりない、格差の固定された弱肉強食社会をよしとする一種のカルト思想)といった、絶対に容認できない体質を持つ安倍晋三を打倒するためには、なにがなんでもとくらさんを応援しないわけにはいかない。心からエールを送る次第である。
とりわけひどいのがNHKニュースだ。NHKは、ニュース以外の報道番組では、新自由主義の矛盾を暴く番組を制作、放送しているとのことで、評価する向きもあるが、ことニュース番組に限ると、目を覆いたくなるほどひどい安倍ヨイショの報道をしている。それも、安倍の政策構想を無批判に垂れ流したり、自民党総裁選の大勢は安倍に決したと自民党議員が判断している、などと言って、寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろ的なぶざまな行動をとる自民党議員を批判するどころか、彼らの行動を後押しするようなニュースを平然とアナウンサーに読ませている。NHKのアナウンサー自体は、民放より好感が持てる人が多いのだが、読んでいるニュース自体が極端に小泉・安倍側に偏向しているから、見ていて頭に血が昇ることがしばしばだ。
朝日新聞も、『「安倍氏を首相に」53% 本社世論調査』などという記事を載せ、国民の過半数が安倍を支持しているかのような印象操作をしている。以下引用する。
麻生外相が自民党総裁選への立候補を正式に表明し、安倍官房長官、谷垣財務相の3人で争う構図が固まったことを受け、朝日新聞社は21日夜から22日にかけて緊急の全国世論調査(電話)を実施した。次の首相にふさわしい人は安倍氏が53%で、麻生氏14%、谷垣氏10%を引き離した。
(asahi.com 2006年8月23日 0時37分)
記事中には、次期首相の靖国参拝に対しては、賛成31%、反対47%と、反対の声の方が多いとも書かれているが、そんなものはマスコミの印象操作によって簡単に変えられてしまうことは、ほかならぬこの記事中で明らかにされている。
小泉首相の「8・15参拝」は「よかった」49%、「するべきではなかった」37%で肯定的な見方が多いが、次の首相の靖国参拝となると一転、反対が増える。
(asahi.com 2006年8月23日 0時37分)
私はこの本を2000年の夏休みに読んだのだが、大いにはまった。2つの点で、私の好きな作家・筒井康隆を思い起こさせるところがあったからである。
この作品は、物語仕立てで哲学史を語っていく。これは、1991年に日本でベストセラーになった筒井の「文学部唯野教授」と同じやり方である。そして、物語のちょうど真ん中に、あるトリックが仕掛けられている。これ以上書くとネタバレになるので表現をぼかすが、このトリックはいかにも筒井が好みそうなものだ。
この本の訳者の池田香代子さんは、2002年にヴィクトール・E・フランクルの名著 「夜と霧」の新訳 も手がけている(みすず書房から出版)。この本は、アウシュヴィッツに送られたユダヤ人精神医学者による体験記録書で、1961年刊の霜山徳爾の翻訳(同じくみすず書房から出版)で知られているが、その41年ぶりの新訳になった。
私は新版の出る前年の2001年に霜山氏の手になる旧訳でこの本を読んだので、池田さん訳の新版は持っていないのだが、こういう本の翻訳書を出すことからも想像がつくように、池田さんは反戦・平和の側に立つ方である。
その池田さんの「再話」によって構成されたのが、ベストセラー「世界がもし100人の村だったら」(2001年、マガジンハウス)である。これは、もともと「ネットロア」(インターネットによる民話)であり、発信者不詳の、インターネットを通して広まった物語を、池田さんが再構成したものである。当然、格差社会否定の側に立ったものである。
ところが、6月にフジテレビがこの「世界がもし100人の村だったら」に基づく番組を、あろうことか安倍晋三のプロパガンダとして悪用したのである。
私にはこれがどうしても許せなかった。それが、この記事を書く動機になった。
その9日の記事できっこさんに紹介された「カナダde日本語」の美爾依さんは、「小泉や安倍にもぜひ読ませたい文章だった」と書かれているけれど、私はいまさら「きっこの日記」を読んで改心するような小泉や安倍ではあるまい、と突き放してしまいそうだ(笑)。
ところで、その「終戦の日」の記事の終わりの方で、きっこさんは、安倍晋三が「日本も小型であれば原子爆弾を保有することに何も問題はない」と発言したといって驚き呆れているのだが、これは私が知っている情報とは異なる。
と言っても、安倍を擁護するわけではない。その逆だ。このバカは、なんと「戦術核を使うということは、昭和35年(1960年)の岸総理答弁で『違憲ではない』という答弁がされています。日本人はちょっとそこを誤解しているんです」と言っていたのだ(「サンデー毎日」 2002年6月2日号より)。
なお、これは、「サンデー毎日」を直接参照したのではなく、8月4日付の当ブログの記事でも紹介した、月刊『現代』2006年9月号掲載の、吉田司氏による「『岸信介』を受け継ぐ安倍晋三の危うい知性」からの孫引きである。吉田氏は、この安倍発言をとらえて、「岸より物騒な安倍」というサブタイトルを記事につけている。
ちなみに、吉田氏も書いているように、昭和35年に岸は「核保有」と発言したのであって、「核使用」ではない。
これは、「きっこの日記」にも書かれているように、早稲田大学の「非公開」の講演会において安倍がしゃべった内容なのだが、「サンデー毎日」はこれを記録しており、スクープとして、雑誌の記事にしたものである。安倍は直ちに「サンデー毎日」を恫喝したが、「サンデー毎日」は果敢にこれに反論し、合計三度にわたって安倍批判の記事を載せた。ここらへんのいきさつについては、下記URLの記事に詳しい。
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Our_actions/accuse_cabinet.htm
この記事からわかるように、きっこさんが安倍の発言として引用したのは、福田康夫に質問した記者団が「安倍の発言」とした内容であって、安倍自身はそれよりもっと過激な好戦的発言をしていたのである。
なお、この記事に書かれているように、早稲田大学で安倍がこの問題発言をしたのは、2002年5月13日である。4年後の2006年5月13日、安倍は統一協会系の大会に祝電を送った。この二つの件は、本来ならそれだけでも安倍晋三にとって大きなダメージになってしかるべきなのだが、のうのうと生き延びているばかりか、次期総理大臣確実になっているとは、正気の沙汰とはとても思えない。
日本が核兵器を使用することを「問題なし」と考えているような基地外が、この国の次期総理大臣にふさわしいかどうかって?
言うまでもあるまい。
これからAbEndへTBされた記事を読んだり、明日以降はまた記事を書いたりしたいと思うんですけど、とりあえず復帰したことだけ書いときます。こういうのは分家の方に書くことにしてたんですけど、はてなが異様に重いし、こちらの本家には、盆休み中だし全然更新がないのに、結構な数のアクセスをいただいていたので、こちらに書くことにしました。
そうそう、小泉が靖国に「公式参拝」したらしいけど、それも16日、俗界に戻ってきてから知りました。同行の友人に、「あの馬鹿、やっぱり靖国に行きやがったな」と言ったら、当然だ、と言わんばかりに鼻で笑って、「○ね!」とひとことの返事。こういう人や、AbEndにTBしてくれる人ばっかりだったら、世の中良くなると思うんですけど、小泉か安倍晋三か、はたまた馬鹿な2ちゃんねらーに感化されたか、加藤紘一の実家に放火するような基地外テロリストがいるんだから、始末に終えません。
安倍が首相になろうが、AbEnd運動はさらに盛り上げていかなければなりませんね。
「kojitakenの日記」
「きっこの日記」に取り上げられた美爾依さんの「カナダde日本語」への祝賀記事もそちらに書いてあります、ってヒット数1万超の「カナダde日本語」で取り上げていただいたので、わざわざここで書く必要はないかもしれませんが。
今週は夏休み前にもかかわらず忙しい上、めちゃくちゃな暑さでちょっと参り気味ですが、「AbEnd」に燃える心には全く変わりがありません。
私は、大津留公彦さんのブログの記事「東野氏の世界初証言」でこの番組を知ったのだが、番組の前半で、日本で行われていた原子爆弾の開発研究が紹介され、後半では、遠藤周作の小説「海と毒薬」のモデルになったことで現在でもよく知られている、戦争末期に九州大学で行われた米国人捕虜の生体解剖事件が取り上げられ、これに立ち会った東野利夫氏と番組キャスターの鳥越俊太郎氏が対談を行った。
番組や東野さんについては、私の稚拙な筆力では十分表現できないので、大津留さんの記事「戦争は人間をおかしくする」や、大津留さんのブログからリンクを張られている「九州大学同窓生九条の会のブログ」等を参照していただくとして、私は、昔読んだ遠藤周作の「海と毒薬」のあらすじをあまりよく覚えていなかったため、読み直してみた。
なお、大津留さんご指摘のように、『「海と毒薬」は彼(遠藤周作)のキリスト教の考え方に基づく全くのフィクションである』ことには十分留意する必要がある。小説に出てくる人肉嗜食も事実ではないそうだ。
遠藤周作自身も、作品発表から4年後の1962年に、以下のように書いている。
『生体解剖が行われたという現実の行為以外は登場人物もそこに至る過程もぼくは自分で勝手に考え、自分で勝手に創っていかねばならぬ。‥‥もちろんこんな医師(勝呂と戸田)は現実のあの事件の中にはいない。
しかしあの小説を書いてから、ぼくは実際に事件に参加した人たちから手紙をもらった。そのなかのある人たちは、ぼくがあの小説によって彼等を裁断し非難したのだと考えたようである。だが、とんでもない、小説家には人間を裁く権利などはないのである。ぼくはその人たちに返事を書いたが、この誤解はぼくにとってたいへんつらい経験だった』
(1962年に遠藤氏が書いた文章として、新潮文庫「海と毒薬」の佐伯彰一氏の解説文に紹介されている)
もちろん、これは小説家側の言い分だ。大津留さんのブログで知った、東野利夫さんの著書「汚名」(文春文庫、1985年)は、是非読んでみたいと思っている。
ずいぶん長い前振りになってしまった。今日取り上げたいのは、「海と毒薬」にも書かれている、加害者としての日本兵に関する言及である。
小説の冒頭、東京に引っ越してきたばかりの「私」は、風呂屋でガソリンスタンドの主人とこんな会話を交わす。最初がガソリンスタンドの主人のセリフである。
『「中支に行った頃は面白かったなあ。女でもやり放題だからな。抵抗する奴がいれば樹にくくりつけて突撃の練習さ」
「女を?」
「いや、男さ」
彼は頭にシャボンをつけて、こちらに顔をむけた。はじめて私の白い痩せた胸や細い腕をみたように、ふしぎそうな眼つきをした。
「痩せているな、あんたは。その腕じゃ人間を突き刺せないね。兵隊では落第だ。俺なぞ」と言いかけて彼は口を噤んだ。「‥‥‥もっとも俺だけじゃないがなあ。シナに行った連中は大てい一人や二人は殺(や)ってるよ。俺んとこの近くの洋服屋----知っているだろう、----あそこも南京で大分、あばれたらしいぜ。奴は憲兵だったからな』
(遠藤周作「海と毒薬」より)
「海と毒薬」が書かれたのは1958年、終戦から13年後である。近所に人を殺した経験がある人がいることは珍しくない。そんな時代だった。そして、南京における日本兵の残虐行為についても触れられている。
これはもちろんフィクションであるが、遠藤周作氏は決して「左翼」ではない。遠藤氏のエッセイは何冊か読んだが、政治的な立場を明確にした文章はほとんどないものの、比較的保守的な人だったことが推察される。そして、遠藤氏と親交のあった人たちの中には、阿川弘之、三浦朱門・曽野綾子夫妻、故村松剛など、右寄りあるいははっきりと右翼的な人も多い。
その遠藤氏が、当たり前のように南京の残虐行為について触れている。つまり、この件はかつて日本人の共通認識として「恥ずべき残虐行為」だったということだ。
それにしても、こっそり参拝しておいて、あとからバレるという形にするとは、コソコソと姑息なやり方だ。「靖国を争点にしない」という口実で、事実上反対派の意見を封殺していることいい、いかにも安倍らしい卑劣さというほかない。
しかも、「内閣官房長官 安倍晋三」と記帳していながら、「参拝したとかいないとか申し上げるつもりはない」とは、なんという無責任な言い草だろう。そういえば、統一協会系総会に安倍が祝電を送ったときも(あ! 例の画像のリンクを張ろうとしたら削除されていた!)、「内閣官房長官」の肩書きつきだったが、私人として、しかも事務所が勝手にやったんだとか見苦しい言い訳をしていた。
さて、前の記事で、小泉純一郎もまた女系で祖父・又次郎につながっていると書いたが、たまたま読んでいた佐野眞一の『小泉純一郎 - 血脈の王朝』(文藝春秋、2004年)に、小泉の血脈のことが書かれているので、紹介することにする。
小泉純一郎の母・芳江は、「入れ墨大臣」として知られた政治家・小泉又次郎の妾腹の娘である。小泉純一郎の父・純也は、「デビューしたての北大路欣也によく似た色っぽい美男子」(松野頼三の言=前記佐野眞一「小泉純一郎 - 血脈の王朝」による)だったというが、純也に惚れ込んだ芳江が、駆け落ち同然で結婚したものだそうだ。小泉家の養子となった純也は、三女二男をもうけた。順に道子、隆子、信子、純一郎、正也である。
小泉純也は、義父・又次郎に続いて政界入りしたが、平和主義者だった安倍寛とは異なり、1942年の翼賛選挙で大政翼賛会推薦で当選したため、戦後は一時期公職追放になった。追放解除後に国政に返り咲き、自民党のタカ派代議士として活躍したが、防衛庁長官時代に、自衛隊が「三矢研究」と呼ばれる有事シミュレーションをしていたことを、1965年の国会で社会党議員に暴かれ、長官辞任に追い込まれたことがある。
功罪はともかく、著名な政治家であった純也だが、小泉家での扱いはにべもない。前掲の佐野の著書によると、小泉の元秘書は、こんなことを言っている。
「小泉家では、純也先生はあくまで養子です。いうなれば"鹿児島の種馬"なんです」(筆者注:小泉純也は鹿児島県出身)
「だから、小泉純一郎は"又次郎の孫"であって、"純也の息子"ではないんです」
(佐野眞一 『小泉純一郎 - 血縁の王朝』=文藝春秋、2004年=より)
こんなことを聞くと、どうしても、「安倍晋太郎の息子」というより「岸信介の孫」であると常々口にする、「われらがサワヤカな安倍晋三」を連想せずにはいられない。
それにしても、小泉の家族というのは謎に満ちている。たとえば、よく「陰で小泉を操っているのは、姉の信子だ」などといわれるが、佐野眞一の本では、純也の長女・道子のことが取りあげられている。
道子には離婚歴があり、それ以降再婚はせず、独身を貫いている(しかも、離婚はおろか、道子の結婚のいきさつを知る人さえほとんどいないという、謎に包まれた話だ)とのだが、この件は小泉家のタブーになっているらしく、佐野が取材をしようとしても、小泉家の人々も、関係者も、また小泉の地元の横須賀の人々も、なかなか口を開かないという。
中には、佐野に次のように言った小泉道子の同級生がいたという。
「なぜ、そのようなことをお聞きになるんですか。その程度のご不幸はどなた様のご家庭にもあることじゃないですか。日本のマスコミは、小泉さんを批判する材料ばかり探しているから、嫌いです。お国のために、あんなに頑張っていらっしゃるのに、失礼です。いまは何でも自由に言える時代だからいいですが、昔だったら、警察に通報されてお縄つきになりますよ」
(前掲書より=赤字ボールド体は筆者による)
これについて、佐野は次のような感想を述べている。
総理大臣という最高権力者を生み出した家について取材する人間を、あたかも「国賊」扱いせんばかりの発言を聞きながら、小泉を熱狂的に支持する人びとの意識の中心が、どのあたりにあるかがよくわかったと思った。
論議を尽くすことを無視し、世俗受けするパフォーマンス政治のみにこだわる小泉の「わかりやすい」言動は、衆議の上に煩雑な手続きを要する民主主義のルールと、憲法で保障された表現の自由を生命線とする「戦後」体制を清算し、明らかに戦前への回帰を指向する大衆層の掘り起こしに成功している。
(前掲書より=赤字ボールド体は筆者による)
佐野がこの本を書いたのは2004年である。この流れは、翌年の総選挙でさらに一気に加速され、安倍晋三に引き継がれようとしている。まさに民主主義の危機というほかないだろう。
さて小泉家の話に戻す。道子の夫・竹本公輔は結局道子と離婚した末、破滅していくのだが、道子は自分と竹本の娘・純子は、なぜか道子の籍ではなく、父・純也の籍に入れ、父の幼女とした。従って、小泉純一郎の姪である純子は、戸籍上は小泉の「妹」になったのである。
佐野は、小泉のすぐ上の姉・信子は、道子の結婚の失敗に衝撃を受け、それが原因で結婚生活にも男にも幻滅し、「政治と結婚」しようとしたのだろうと推測している。
小泉家について、佐野は書く。
複雑に入り組んだ小泉家の女系の歴史は、インナーサークルへの旺盛で執拗な男系の取り込みを感じさせて圧倒される。それをもし通俗小説にするなら、タイトルはうんと下品に「タネ取り物語」とでも名づけたくなるほどである。その軌跡は、必要なものさえ取り入れたらあとの遺物は容赦なく吐き出す原生動物のアメーバじみた種の保存本能を想起させて、不気味ですらある。
こうした流れのなかでは、芳江の夫の純也にしろ、道子と結婚して別れた竹本にしろ、小泉家の血を保持するDNAがはじめから埋め込まれた女王蜂の言うがままに仕える働き蜂の役割しか与えられていなかったようにも見える。
小泉家の「種馬」でしかなかった純也は、晩年、世捨て人が凝るような石の趣味に走った。純也は石をなでながら、側近によく言った。
「石をなでていると、癒されるんだ。どうしてこんな形になったのかと考えていると、心が落ち着くんだ」
(前掲書より)
晩年、癌に侵されながら妻の洋子や息子の晋三に冷たくされたといわれる安倍晋太郎も、同じような悲哀を感じたのではないかと想像したくなる。安倍晋太郎もまた、岸-安倍家の「種馬」でしかなかったのではあるまいか。
さて、周知のように小泉純一郎には離婚歴がある。この離婚劇を巡って、小泉の二人の姉(道子と信子)と小泉の元妻・宮本佳代子の陰湿な人間関係も本には書かれているが、ここでは割愛し、離婚後の親権をめぐる対立のことだけ紹介する。
小泉家の血への強いこだわりは、純一郎の離婚後、親権をめぐって妻側と激しく対立したわが子の争奪戦にも現れている。元妻の宮本佳代子とごく親しい関係者によれば、小泉家は長男の孝太郎、二男の進次郎の親権をとっただけではまだ満足できなかったという。
「妊娠六ヵ月で離婚された佳代子さんが一人で三男の佳永くんを産むと、小泉側は親権を主張し、家裁での調停に持ち込まれました。その結果、ようやく佳代子さんが佳長くんを引き取ることができたんです」
(中略)
この関係者によれば、三男の佳長が、「父親と二人きりで会いたい」と涙ながらに小泉事務所に電話で訴えてきたことがあったが、その話を秘書官の飯島から伝え聞いた信子は、「血はつながっているけど、親子関係はない」と冷たく言い放ったという。
(前掲書より)
おそるべき小泉家の冷血である。
最後に、私が小泉を決定的に見限ったタイミングは、佐野眞一と全く同じであることを知った。それは、2001年の大相撲夏場所で、横綱貴乃花が、彼の土俵生命を断つことになる大怪我を負いながら、千秋楽で横綱武蔵丸を破って優勝した時、優勝賜杯を貴乃花に渡しながら、「痛みに耐えてよく頑張った。感動した」と小泉が絶叫した時である。
これを見て、私は小泉の底の浅いパフォーマンスに対して本能的な嫌悪感を感じ、以後徹底した反小泉になったのだった(それまでは、故安倍晋太郎は大嫌いだったが、小泉は好きでも嫌いでもなかった)。
佐野は書く。
土俵の上でひとり興奮してエキセントリックに叫ぶ姿をテレビで見たとき、私はマスコミが手ばなしで持ち上げる小泉人気に、少なからぬ疑念と違和感をもった。
小泉という男の頭のなかにあるのは、国民の人気取りへの執心だけではないのか、この男は、言葉というものをいったん自分の脳髄に濾過させ、それから言語として発するという政治家として最も重要な基礎訓練を一度も受けてこなかったのではないか。そんな印象を強く抱かされた。
(前掲書より)
事実、「痛みに耐えて頑張った」貴乃花は、その後一度も優勝することなく土俵を去った。そればかりか醜い兄弟喧嘩を繰り広げたり、「慧光塾」にかぶれたり(笑)など、悪い話しか聞こえてこない人間になってしまっている。
「小泉カイカク」の痛みに耐えてきた国民に待ち構えていたのは、ワーキングプアの「格差社会」だった。
そして、小泉がめちゃくちゃにした日本にトドメを刺そうとしているのが安倍晋三なのである。
実はこのことは、同じく祖父・小泉又次郎と「女系」でつながっている小泉純一郎と関連づけながら、いずれ論じようと思っていたことだった。
さすがはカマヤン、と思っていたところに、月刊「現代」2006年9月号に、先日当ブログの記事でとりあげた「AERA」3月20日号の記事「昭和の妖怪継ぐ血と骨」の筆者・吉田司氏による『平成の夏に「妖怪」が甦る・「岸信介」を受け継ぐ安倍晋三の危うい知性』という記事が掲載された。この記事で、吉田氏はまさに小泉純一郎と安倍晋三のつながりを指摘しながら、「DNA政治主義」の話を持ち出している。
以下引用する。
『小泉首相と安倍晋三を結ぶ因縁の糸車は、実はもう一つある。福田派の源流はあの「昭和の妖怪」と呼ばれていた岸信介にあり、同時に安倍晋三も「私は安倍晋太郎の子だが、岸信介のDNAを受け継いでいる」と主張するDNA政治主義者だからだ。
(中略)
つまり小泉純也も福田赳夫も、みんな岸信介の手元で大きくなったのだ?だから小泉と安倍を結ぶ因縁の糸は福田派の源流である「岸派」までさかのぼるのであり、もしこれから小泉→安倍後継体制が出来るとしたら、それは格差社会の「微調整」(再チャレンジ)内閣などではなく、60年安保以後死滅したと思われていた大軍事産業国家の確立を目指した超タカ派『岸路線』の本格的登場=再起動が始まるということを意味するのだ。小泉劇場の5年間とは、実はそのための"露払い"という歴史的役割を担ったのだということが、やがてわかってくるだろう』
(月刊「現代」 2006年9月号 『「岸信介」を受け継ぐ安倍晋三の危うい知性』(吉田司)より)
私が小学生の頃、父の書棚に、「重要紙面に見る朝日新聞の九十年」(朝日新聞社、1969年)という本があった。これは、1879年(明治12年)に朝日新聞が大阪で発刊されてから1969年(昭和44年)に創刊90年を迎えるまでの間に起きた大事件の紙面を縮刷してまとめたものである。私は、明治以降の日本の歴史については、この本で学んだといっても過言ではない。
昭和に入って、日本が戦争への道を走った時代の記事は特に生々しくて、子供心に強烈な印象を受けた(岸信介が東条内閣に入閣していたことも、この本で知った。岸という男が佐藤元首相の兄で、やはり首相をやっていたことは知っていたので、その男が戦争内閣の閣僚だったことを知って、本当に驚いた)。
7月6日の記事にも書いたように、朝日新聞もまた、政権に迎合し、それまでの反政府的な論調を昭和初期に一転させ、軍国主義を煽りに煽っていたのである。松岡洋右の国際連盟脱退の演説を報道した「連盟よさらば!遂に協力の方途尽く。総会、勧告書を採択し、我が代表堂々退場す」という記事は、その代表的な例である。世界から孤立する無謀な選択を松岡がとった時、彼は内心、「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ」と思ったそうだ(Wikipedia「松岡洋右」より)。しかし、朝日新聞をはじめとするマスコミは松岡を絶賛し、それに煽られて大衆は熱狂した。松岡の言葉といわれる「千万人といえども我往かん」は流行語になったそうだし、朝日新聞の「今日の問題」子を作詞者とする、その名も「連盟よさらば」というタイトルの軍歌が作られ、流行したという。ここにその歌詞を紹介する(いくつかのネット情報をもとに構成したが、細部に誤りがあるかもしれない)。なお、星影里沙さんのブログ「憧れの風」で、著作権権利期間の延長の話題が書かれている(「作曲家の憂い」)が、この軍歌は1933年に発表されたもので、著作権は正真正銘消滅している。
「連盟よさらば」
作詞 朝日新聞今日の問題の子・作曲 江口夜詩
一番
遂に来れり現実と 正義の前に眼を閉じて 彼等が無恥と非礼なる 四十二票を投げし時 我が代表は席を蹴る
二番
見ずや新たに満州の 五彩の国旗翻る 軍閥多年暴圧の 涙を拭けば血ぞ沸きて 三千万は甦る
三番
ああアルプスの峰高く レマンの水は清けれど 理想のかげは地に落ちて 深き理解はくみ難く ジュネーブの空春暗し
四番
さらば別れん連盟よ また逢う日こそ極東の 平和のひかり輝かに 盟主日本の雄々しさを 微笑のうちに迎えんか
夜郎自大も良いところのこの軍歌は、松岡洋右のアジテーションに国民が熱狂したことと同時に、朝日新聞がこれを大いに煽ったことの動かざる証拠となっている。今また、朝日新聞の主張は定まらず、従来の反政府的主張にとどまるか、翼賛側に転じるかで逡巡しているように見える。もちろんこれは朝日に限らず、毎日系その他についてもいえることだが、今なお最も影響力のある朝日の動向は、今後の日本を大きく左右することになる。このところ、朝日新聞が翼賛側に走ろうとするかのような報道がしばしば見られるが、そのつどそれを批判する声をあげる必要があろうかと思う。さしあたっては、A級戦犯・岸信介の孫であり、松岡洋右とも親戚関係にある安倍晋三に関する朝日新聞その他の無批判な報道ぶりを見過ごすわけにはいかない。
旭日旗を思わせる朝日新聞の社旗は、昔も今も変わっていない。朝日新聞が「君が代」の歌詞を変えろと主張しているかどうかは知らないが、少なくとも朝日新聞社旗は平和指向的なものに変えなければならないだろう。
「週刊ポスト」2006年8月11日号の『昭和天皇「靖国不快メモ」で激震! 誰が菊のカーテンを開けたのか』という記事である。以下引用する。
「松岡洋右」名指しの衝撃
『松岡元外相(筆者注:松岡洋右)と安倍さんの祖父・岸元首相は同じ長州(山口県)出身、満州経営の盟友であり、縁戚関係にもある。
(中略)
安倍氏はインタビューに答える際に、「私の政治的DNAは、父・晋太郎(元外相)より祖父・岸信介から濃く受け継いでいる」という言い方を好み、著書でも日米安保条約改定に苦労した首相時代の岸氏の思い出話が再三登場する。
岸家(安倍家)と松岡家は親戚というだけではなく、現在でも政治的なつながりがうかがい知れる。前回の参院選で安倍氏の実弟、岸信夫氏が地元・山口選挙区から当選した。当時、現職は松岡元外相を大叔父にもつ民主党の松岡満寿男氏だったが、岸氏が出馬すると突然引退を表明し、民主党陣営からは「岸氏の大勝に一役買った」といわれた。
(「週刊ポスト」 2006年8月11日号より)
なんと民主党までもが岸・安倍・松岡一族の世襲議員を国会に送り込んでいた上、参院選で八百長というか敗退行為を働いていたのだ!
こんなインチキ、イカサマ選挙がまかり通っているとは、あきれたものである。
なお、この記事では、「菊のカーテン」を開けた黒幕として、中曽根康弘の可能性を示唆しているが、ナベツネは中曽根の盟友としてよく知られている。
もちろん週刊誌の記事だから、鵜呑みにしてはならないが。