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きまぐれな日々

現在は、新書ブームだそうです。

昔は、新書というと、岩波新書、講談社現代新書、中公新書といったあたりがシェアの大半を占めていたのではないかと思うのですが、文春新書あたりの成功からなのか、雨後のタケノコのように、各社から新書が出ています。そして、私もご多分に漏れず、新書を読むことが多くなっています。なにより、手軽に読める。しかし、反面、読んでからしばらく経つと内容を忘れてしまいます。

新書の隆盛に対し、文庫本の文化がどんどん廃れていっているように思います。
特に、外国文学の文庫本はどんどん絶版になっていっています。

外国文学の文庫本というと、なんといっても思い出深いのは、ドストエフスキーの長編小説です。社会人になりたての頃、文学青年でもある同期生(年齢は私よりも下)が、「これからはもう小説を読む時間もない」などと言うのに対し、「そんなことがあるか、俺はこれからドストエフスキーの五大長編を全部読んでやる」と宣言しました。

でも、それは酒の席でのでまかせで、すぐには実行に移さなかったのですが、ある日のこと、新潮文庫の「罪と罰」が、工藤精一郎氏の新訳で出たのを本屋で見かけ、買いました。買ってから読み始めるまでが、またかなりのタイムラグがあったのですが、読み始めるとたちまちはまってしまいました。読み手に、異様なまでの集中力を要求するという点では、稀有の小説だと思います。

その後、一年に一作品くらいのペースで、「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」「白痴」「未成年」の順で読み進み、ついに五大長編をすべて読破しました。最後に読んだ「未成年」は、長らく文庫本では絶版になっていた作品ですが、1993年に岩波文庫が一時復刊した時に買って読みました(現在はまた絶版で、全集の一部でも買うしかないと思います)。

この中でもっとも面白かったのは、ドストエフスキー最後の作品である「カラマーゾフの兄弟」です。ドストエフスキーの小説の特色の一つとして、登場人物がステレオタイプ化していないことが挙げられます。一人のキャラクターには、さまざまな側面があり、矛盾も抱えているし、人間的な成長を遂げたりもする。多くの小説においては、善玉は善玉であり、悪玉は悪玉であるとして定型化されていますが、そういう小説は、読んでも薄っぺらな読後感しか残りません。ドストエフスキーの小説は、そうした定型化から解放されています。

「カラマーゾフの兄弟」には、崇高な精神性や、「大審問官」の問いかけに代表される深遠な哲学的思考がある一方、心理小説でもあり、推理小説でもあるというエンターテインメント性(筒井康隆氏が、ドストエフスキー作品のエンターテインメント性を力説しておられます)もあります。実際私は、「カラマーゾフの兄弟」を読んで以来、推理小説を読む気が失せました。それは、この作品を上回るほど面白い推理小説が世の中に存在するとは思えなくなったからです。

「カラマーゾフの兄弟」を深読みした、故・江川卓氏(えがわ・たく、元プロ野球選手の江川卓=えがわ・すぐる=氏とは別人)の「謎解き『カラマーゾフの兄弟』」という本も読みました。「カラマーゾフの兄弟」は、実はさらに巨大な長編の本書の第一部に過ぎず、ドストエフスキーには第二部の構想があったことが知られていますが、江川氏は、第一部の最後で少年たちの支持を得たアリョーシャが、様々な体験を経て、彼らが結社した皇帝暗殺サークルの黒幕となって処刑されるとしています。これは、第一部自体の大どんでん返しを意味しますが、江川氏の説はかなりの支持を得ているようです。何でもありの、とてつもない大きさと広さと深さを兼ね備えた小説、それが「カラマーゾフの兄弟」です。

とにかく、これほど面白い小説は、あとにも先にも読んだことがありません。「カラマーゾフの兄弟」を読まずに死ぬのは、人生にとって大きな損失だと思います。まだ読まれたことのない方には、是非一読をおすすめします。