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きまぐれな日々

鳩山由紀夫首相の強気は妥協の前触れというべきか、政府は普天間基地移設問題で、とうとう辺野古修正案の提示に踏み切る方向だとマスコミに報じられている。そんなことなら強気の発言などしないでほしいものだと思うが、いかんせん鳩山首相の言葉が軽いのは今に始まった話ではなく、2002年末に民主党の支持率を一桁にまで落とした後に民主党代表辞任に追い込まれたことを改めて思い出す。

少し前まで、私は鳩山首相には退いてもらって菅直人に後継首相をやってもらうしかないのではないかと考えていたが、野党・自民党の分裂というか崩壊も含めて混沌としてきた政局の現状では、菅直人も今このタイミングでは首相はやりたくないのではないか。

しっちゃかめっちゃかの連休直前(連休に入っている方も少なくないだろう)だが、混乱にさらに拍車をかけたのが、検察審査会が小沢一郎を「起訴相当」とする議決を下した件だ。やれやれ、また「検察 vs. 小沢一郎」の図式で、権力者である小沢一郎を「反権力」のヒーローでもあるかのように崇め奉る人たち、今ではすっかり人気が下火になってきた彼らの息を吹き返させてしまうのではないかと思った。

幸か不幸か、連休直前ということもあって、さほどネットで大騒ぎになっている様子はない。「検察 vs. 小沢一郎」については、権力と権力のぶつかり合いで、いまや民主党よりも自民党よりも大きな権力になっているかに見えるマスコミが検察側に立っている。

ここでは、憶測を交えて権力抗争の構図を陰謀論仕立てで描くつもりはない。ただ言いたいのは、この件に関して乱発された「市民の感覚」だの「市民感情」だのという言葉の胡散臭さである。事実に基づいて小沢一郎を批判することは、大いにやって良いと思うし、小沢一郎の顔色ばかりうかがって何もできない、何もやっていない民主党の政治家たちに対しては、私も頭にきている。しかし、「市民の感覚」だの、ましてや「市民『感情』」なるものを前面に押し立てて小沢一郎を論難しようとするその厚顔さが、私には我慢ならない。いったいこの国ではいつから「感情」なるものが大手を振って表通りをまかり歩くようになったのか。

ネットの世界にも、よく「庶民的感覚」を売り物にしているブログなどがあったが、彼らの大好きなものはトンデモと陰謀論だった。彼らは「専門性」が大嫌いで、アカデミズムを感覚的、感情的に否定するのが大好きだ。その典型例が「地球温暖化」をめぐる議論であって、たとえば極右の民族主義者・国家主義者たちが集まる『チャンネル桜』(城内実が常連であることでも知られる)には、「温暖化理論の虚妄」と題するスレッドがあって、そこでは地球温暖化懐疑論や、それをさらに敷衍(ふえん)した地球温暖化陰謀論が声高に語られている。こういう議論を好むのは、何も極右には限らず、池田信夫(ノビー)のごとき新自由主義者や、植草一秀のごとく、小沢一郎にコバンザメのようにくっつこうとする人間も地球温暖化懐疑論や同陰謀論が大好きだ。そこに共通するのは、専門性を否定して感覚や感情を優先させる姿勢であって、今回、「検察審査会」がしきりに市民感覚や市民感情を振りかざしたことと軌を一にしている。

民主党政権の事業仕分けにも、同じ心性の匂いがするが、要はポピュリズムなのである。ネット右翼にもノビーにも植草一秀にも民主党の事業仕分けにも、すべてその底流にポピュリズムがある。

そして、このポピュリズムは容易に排外主義に結びついてしまう。ネットが普及する以前にはどうだったのかはわからないが、ネット時代の拝外主義者にはポピュリズムとレイシズムを好む傾向があり、その代表格として無所属衆議院議員の城内実の名前を挙げることができる。議員が議員なら支持者も支持者で、城内実ブログの常連コメンテーターである「ピラリーちゃん」というハンドル名の人物は、リチャード・コシミズが主宰する「独立党」の党員であると同時に、ニセ科学系掲示板にも出入りしているようだ。

こういうポピュリストに限って、「上から目線」がどうのと、人に文句をつけたがるのだが、「検察審査会」は「市民の目線」を僭称していたようだ。一般にポピュリストたちは同様の僭称を好み、自分たちは「庶民の目線」で物事を見ていると主張する。どこからこういう態度が出てくるのかと考えてみると、これは新聞に代表されるジャーナリズムの視点に端を発しているのではないかと気づいた。

市民的感覚は、言葉本来の意味においてなら、社会にとって必要不可欠である。市民一人一人がそれなりの教養を身につけ、政治について発言し、権力をチェックすることは大事なことだ。そして、職業としてそれを行うのがジャーナリストだろう。

だが、権力のチェックも、事実に基づいて行わなければならないのが基本だろう。臆面もなく「感覚」や「感情」を前面に出す姿勢は、容易に権力に取り込まれる。「難しいことはわからないが小泉首相に親しみを感じる層」として支配者に見下された「B層」として、大衆操作の対象となる。

それに対して市民のなすべきことは、各人が自覚して事実に基づく思考を行って意見を発していくことであって、決して権力に対抗して権力側同様の「B層作戦」を行うことではない。かつて「反自公政権」を掲げたブログの中でも、「庶民の感覚」をウリにして「B層」は「いい層」だ、などと持ち上げ、小泉?竹中やその後継の安倍政権に「目には目を」ならぬ「B層作戦にはB層作戦」で対抗しようとした動きがあったが、ニセ科学などのトンデモに引っかかって自滅した。

今回やたらと「市民目線」だの「善良な市民の感情」だのを前面に押し立てた「検察審査会」の議決に、現政権という政治権力に対抗した今ひとつの権力、それは自民党が衰えた今となっては官僚と結託したマスコミとしかいいようがないのだが、それにいとも簡単に誘導されたことを私は見て取った。その手口には、マスコミのやり方の刻印が押されている。

小沢一郎の再捜査を余儀なくされる検察官としても気が重いだろう。検察上層部と小沢一郎の権力闘争のとばっちりを食って、強引な操作を行ったものの、結局証拠を挙げられずに嫌疑不十分で不起訴を余儀なくされたのに、また捜査しろと言われる。そして再度不起訴を決定しても、もう一度検察審査会に「起訴相当」の議決を出されると、強制的に起訴され、法廷闘争になるが、強引な捜査まで行いながら起訴できなかった件の裁判で検察側の不利は目に見えている。これでは検察官の士気も上がらないだろう。

断っておくが、私は「検察審査会」の意義を全否定するものではない。権力のチェックする機能は必要だ。だが、それは愚民による人民裁判であってはならないし、今回のように市民を愚民化しようと企むマスコミ権力に悪用されては(そのように私は今回の議決を位置づけている)ならないと強く思うものである。

小沢一郎への批判、権力に対する批判は、あくまでも事実に基づいて行われるべきであり、「感覚」や「感情」を臆面もなく前面に出す態度は、反知性ここにきわまれりとしか言いようがない。


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昨年3月3日の大久保隆規氏逮捕で西松事件は幕を開けたが、当ブログは翌3月4日付で「小沢一郎代表は潔く退陣を、麻生太郎首相は早期解散を」と題した記事を公開した。読み返すと、朝日新聞の社説を引用するなど、現在の当ブログの論調からは考えられない記事だが、90年代初頭には「金竹小」(こんちくしょう、金丸信、竹下登、小沢一郎を指す)と呼ばれて、マスコミに叩かれていた小沢一郎なら、「政治とカネ」の問題に問われて当たり前という感覚だった。今でも小沢一郎がクリーンな政治家だとは全然思っていない。

しかし、今回の石川議員逮捕劇では、小沢一郎の説明責任を問うよりも、東京地検特捜部を強く批判した。何故か。それは、彼らが全然結果を出せなかったからだ。当ブログは小沢一郎退陣を求めてから19日後の昨年3月23日には、「ネズミ一匹出なかった「西松事件」とひどかった「リーク報道」」で既に結果を出せなかった検察と、そのリークを垂れ流すだけのマスコミを批判する記事を公開している。但し、記事をお読みいただければおわかりと思うが、私は小沢一郎に対するスタンスを変えたわけではない。検察とマスコミに対するスタンスを否定的なものへと変えただけだ。結果を出せなかった者を評価せず、疑いの目を向けるのは、政治に絡む問題を論じる上ではあまりにも当然の態度だ。

そんな私だから、今回の石川議員逮捕劇では、最初から検察やマスコミを厳しく批判している。昨年の西松事件の捜査でも十分な結果を出せなかった東京地検特捜部が、今回は通常国会召集直前の金曜日深夜に、国会議員を逮捕するさらなる暴挙に出た。昨夏の総選挙で政権は自民党から民主党に交代しているから、構図は国策捜査ではあり得ず、権力と権力の正面衝突であり、双方に対する批判精神が求められると思うが、どちらか一方にしか批判の目を向けない人が多すぎる。私が検察やマスコミを批判するだけで、「小沢信者」と歩調を合わせている、などと評する読者もいるが、馬鹿を言っちゃいかん! あんたらには文章の読解力があるのか! そう言いたい。私の小沢一郎に対するスタンスは昨年3月4日に民主党代表辞任を求めた時と全く変わっていない。変わったのは、マスコミ及び検察への評価を大きく引き下げたこと、それだけだ。

ネットを見渡しても、私同様検察やマスコミへの評価を引き下げたブログは多い。たとえば『反戦塾』がそうだ。同ブログは、

このブログでもこれまでに小沢氏に関する記事を書いてきたが、小沢氏の金権体質はぬぐいようがなく、その政治的信条や政治手法からみても代表は辞任すべきだと書いたことがある。

と書いていることからもわかるように、かつて小沢一郎代表(当時)の辞任を求めるエントリを上げていたのに、今では検察やそのリークを垂れ流すマスコミを批判している。

そもそも検察が歴史的に何をしてきたか。そこから見ていくべきだろう。このことに関連して、当ブログが昨年4月11日付のエントリ「『文藝春秋』5月号?平凡だった立花隆と驚かされた中西輝政」で取り上げ、『kojitakenの日記』及び当ブログの前回のエントリでも触れた、右翼学者・中西輝政の論文に関して、読者から批判のコメントを受けているので、これに言及しておく。

これらは、『文藝春秋』の昨年5月号に掲載された、中西輝政の「子供の政治が国を滅ぼす」と題された論文を紹介した文章であって、周知のように中西は「正論」文化人にして安倍晋三のブレーンでもある極右学者だが、その中西が「司法の暴走が昭和史を歪めた」という主旨の論文を書いたのを読んで驚き、これを昨年4月の当ブログで取り上げた次第だ。ここで中西は検察によるデッチ上げ事件である1934年の「帝人事件」を引き合いに出し、

端的に言えば、戦前の議会政治の息の根を止めたのは、この検察のデッチ上げの疑獄事件だったのである。

と書いた。これは、前述の昨年4月11日付当ブログ記事で紹介した通りだが、Black Jokerさんから、帝人事件以前の「五・一五事件」(1932年)によって戦前の政党政治は終わっていた、「帝人事件」をきっかけに「検察による政党政治への挑戦」を受け、その結果として政党政治が転覆された、というのは史実に反する、というご指摘を受けた。さらにぽむさんからは、これは中西輝政の斎藤実内閣への過大評価である、史実は斎藤内閣時代に満州国を承認し、国際連盟を脱退したし、小林多喜二の虐殺、滝川事件なども起きているとのご指摘をいただき、中西のような極度に偏向した学者の論文を紹介する際には十分な慎重さが求められる、とのお叱りも受けた。

幸い、手元にまだ『文藝春秋』の当該号が残っていたこともあり、当ブログの過去ログを読み返しながら、再度中西の論文を吟味してみたのだが、結論から言うと、中西の論文にも当ブログのエントリにも、「帝人事件が政党政治を終わらせた」とはどこにも書かれていない。但し、そう誤読されても仕方ない文章になっていた。中西の歴史認識にも確かに問題はあるけれども、それ以上に私の引用が誤読を誘う主な原因になっている。

中西論文の、当ブログの過去のエントリには引用しなかった部分に、下記のように書かれている。

 よく、「五・一五事件で、戦前の政党内閣制は崩壊した」と言われるが、斎藤内閣は実質的には政党に支えられた内閣といえた。首相の斎藤実こそ海軍出身だったが、高橋(是清)、鳩山(一郎)、三土(忠造)は政友会に属し、主要官僚には多くの政党人が起用されていた。

(『文藝春秋』 2009年5月号掲載 中西輝政「子供の政治が国を滅ぼす」より)


つまり、中西は斎藤内閣が政党内閣とはいえない史実は一応おさえているわけで、それを引用しなかった当ブログに問題があったかもしれない。ただ繰り返すが、当ブログも「帝人事件が政党政治を終わらせた」とは書いていない。

中西は、戦前の検察官僚(元検事総長)だった平沼騏一郎(平沼赳夫の養父)が、「政党政治に対して半ば公然と反対の姿勢をとっていた」とか、「政党つぶしを目論」んでいた、とは確かに書いている。しかし、それは「帝人事件」を単独に指すものではなく、極右としても有名な平沼騏一郎という男が一貫してとってきた態度を指す。これについては、昨年4月の「ダイヤモンド・オンライン」に上久保誠人氏が書いているし、『kojitakenの日記』でも、「戦前には極右・平沼騏一郎が牛耳っていた検察」と題した記事で、上久保氏の記事を引用しながら平沼騏一郎がなした主な悪事をまとめた。特に上久保氏の記事を参照いただくと良いと思うが、平沼騏一郎は約100年前に、汚職事件に関連している政治家を罪に問うかどうかを交渉材料として、政治に対して影響力を行使しようとする「政治的検察」を誕生させた。その頃平沼騏一郎は、大逆事件で幸徳秋水らに死刑を求刑している。1914年のジーメンス事件では山本権兵衛(ごんのひょうえ)首相を失脚させた。1925年には加藤高明内閣に接近して治安維持法の成立を認めさせ、この法律によって、検察は政友会を内部崩壊させ、「議会中心主義」を標榜する民政党を攻撃し、社会主義政党や共産党を弾圧した。これらは、中西論文には書かれていないけれども、中西が、平沼騏一郎(検察)が政党政治を破壊しようとしたと書いたのは、こうした事実を踏まえてのことだったと考えるべきだろう。「帝人事件」はその総仕上げに過ぎなかった。中西は、戦前の日本が道を誤ったのは、一般的には軍部の暴走が原因だったとされているが、それは結果であって原因ではない、原因は政党政治を内部から崩壊させていったことだ、と主張しており、それを行ったのが検察であり、そのトップに立っていた平沼騏一郎だったと指摘している。斎藤内閣は続く岡田内閣とともに、軍人首班ながら、政党人を多く入閣させた「中間内閣」とされていて、斎藤内閣は軍国主義化を止められず、岡田内閣時代は「二・二六事件」で倒れたが、斎藤内閣成立の時には、軍部及び政友会右派は軍人の斎藤よりも検察官僚の平沼を総理大臣にしようとしたし、岡田内閣時代には平沼に近いとされた蓑田胸喜(みのだ・むねき)らが岡田内閣を攻撃したとのことだ(注:これらについても中西論文に書かれているわけではなく、別途調べたものです)。つまり、戦前において平沼騏一郎は一貫して政党政治を攻撃し続けたとんでもない人間だった。「戦前政治のガン」と言っても良いだろう。検察には、こんな歴史があるし、私が常日頃から批判して止まない平沼赳夫の養父・平沼騏一郎は、そんな戦前の検察のトップに立って、政党政治の破壊を自らの使命としていたかのような人物だった。岸信介の比ではないほどたちの悪い人間だったと、私には思える。

戦後、平沼騏一郎はA級戦犯容疑で逮捕され、東京裁判で終身禁固刑の判決を受けて、1952年に病気で仮釈放された直後に死亡したが、平沼が築いた検察の伝統である政党政治への攻撃は、戦後も続いた。昭電事件や造船疑惑などがその現れとなった事件だ。政権政党と官僚との癒着が進んだ自民党政権の後半期には、検察が政権与党を攻撃することはほとんどなくなったが、その方が例外的な時代だったのかもしれない。

安倍晋三のブレーンである極右の中西輝政を弁護することなど当ブログの本意ではないのだが、本件に関しては、斎藤実内閣への評価が甘いことなどを除けば、中西は間違ったことは書いていないと思うし、むしろ読者の誤読を誘ったのは私の引用に問題があったと思われるので、それだけは書かねばならないと思った次第である。もちろん、中西の思想信条に私が露ほども共感していないことはいうまでもない。だが、権力と権力のぶつかり合いである現状を分析するのに、マスコミが主導して世論の主流になっている意見は、検察への批判が弱すぎるように私には思えるし、昨年の中西論文は、戦前の検察のゆがんだ権力行使を批判した点で、一定の評価は与えられるのではないかと考える。この論文は、中西がブレーンを務める安倍晋三らの利益に沿ったものにもなっていない。だから、極右学者の論文であることを百も承知の上で、あえて紹介した次第だ。もっとも、確かにぽむさんが指摘されるように、戦前の政府の戦争犯罪については評価が甘く、私の引用の仕方にも問題があったのは確かで、この点については真摯に批判を受け止めて反省したい。

平沼騏一郎の養子である平沼赳夫は、17日に岡山で開かれた政治資金パーティーで、極右新党結成をぶち上げたが、その際にレイシズム剥き出しのトンデモ発言を行った。これは毎日新聞が報じ、『日本がアブナイ!』も紹介し、毎日新聞記事についた400件を超える「はてなブックマーク」に添えられたコメントの大半が、平沼赳夫を批判するものだった。今日のエントリでは平沼赳夫批判にもスペースを割くつもりだったが、平沼騏一郎批判が長くなりすぎたので、赳夫批判の方はまたの機会に回したい。


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予想通り週末の政治番組は小沢一郎の「政治とカネ」問題一色に塗りつぶされた。今日召集される通常国会でも、この件をめぐる質疑応答に注目が集中するだろう。だが私は、はっきり言って、自民党議員の追及を聞いたところで、「お前が言うな」としか思えないから、今からうんざりしている。かつて、小泉純一郎が首相に就任した頃、「われわれこそが改革者だ」と自民党議員たちが口にするのを聞いた時に感じた白々しさを、再び感じるだけだ。

民主党における小沢支配は、確かに由々しき問題だし、いずれそう遠くないうちに民主党も国民も小沢一郎を乗り越えなければならないと私は考えている。それには、「政治とカネ」の問題ももちろん含まれるし、小沢一郎や鳩山由紀夫、菅直人をはじめとしてほとんどの民主党議員が主張している、衆議院の比例区定数80削減は、なんとしてでも止めなければならない。

だがそのことと、どう考えても無理筋の、今回の東京地検による石川知裕議員の逮捕劇は話が別だ。一言で言うと、小沢一郎は、今後、民主党にとっても国民にとっても乗り越えなければならない存在だが、乗り越えるべきは民主党員あるいは国民なのであって、東京地検特捜部というか検察権力では断じてない。ましてや、自らの既得権益を守ることに汲々としているマスコミなどでは絶対にない。

今回の件は、検察による政党政治への挑戦である。前回のエントリ「岸信介一派は追及されず、角栄系列ばかりが追及される怪」は、石川議員逮捕の前に書いたものだが、当ブログとしてはおそらく過去最多の、300件を超える「ブログ拍手」をいただいた。これは、記事中で前々回のエントリ「産経新聞と自民党は潰れてもらった方が世のため人のため」にいただいた「ブログ拍手」の数に言及した影響もあったのだろうけれども、今回の石川議員逮捕や、それに至るまでに東京地検特捜部の捜査、それに「検察リーク」を垂れ流すだけのマスコミ報道に納得しない読者の方々から、記事の内容にご賛同をいただいたものだと思っている。

前回のエントリでも書いたように、1989年に小沢一郎が自民党幹事長に就任した時以来、私は一貫してアンチ小沢だったし、1994年に反小沢の自社さ連立政権が成立した時にはこれを支持した。そして、昨年の西松事件の際には、早々に小沢一郎代表の辞任を求める記事を書いて、これに反発した「自エンド」主流の方々と袂を分かった。そのおかげで「裏切り者」と言われ、「自公の工作員」呼ばわりまでされたものである。しかし、そんな私でさえ、今回の石川代議士逮捕には抗議の声を上げるしかないし、16日に開かれた民主党大会で小沢一郎への批判の声が上がらなかったことを、異常とも何とも思わない。異常なのは東京地検特捜部の方である。

そもそも、石川議員が逮捕されるのなら、昨年の西松事件捜査の時に可能だったはずだし、それなのに、通常国会召集を翌週月曜日に控えた週末、金曜日の深夜になって、虚偽記載による政治資金規正法違反で国会議員を逮捕するとは、どう考えてもおかしい。現在は自民党政権から民主党政権に代わっているから、「国策逮捕」という表現は当たらないかもしれないが、思い出せば2006年のライブドア事件だって、前年の総選挙に自民党が候補に立てた堀江貴文が逮捕されたのであり、あの捜査は小泉純一郎、竹中平蔵、武部勤ら政権首脳の利益に反するものだった。あの当時私は、ライブドア事件を「旧保守による新保守への挑戦」という権力闘争だととらえ、大谷昭宏の「これは良い国策捜査だ」という言葉にうかつにも共感してしまった上、そのことを昨年にもブログに書いて批判を受けたが、これは批判者の方が正しくて私が間違っていた。そもそも、小泉政権にダメージを与えたライブドア事件の捜査を「国策捜査」だととらえること自体矛盾している。小泉純一郎や竹中平蔵とは異なるベクトルを持った勢力が政権に挑んだ権力闘争として、もっと突き放したとらえ方をしなければならなかった。あの時、東京地検特捜部に期待する発言をした大谷昭宏自身も、昨日放送のテレビ朝日『サンデープロジェクト』では検察を批判していた。

自民党の新自由主義勢力に敵対的と推察される検察権力だが、昨年の西松事件や今回の石川議員逮捕などを見ていると、民主党というか小沢一郎に対しても敵対的だとみなせる。そして、検察は過去、ロッキード事件で田中角栄を逮捕したが、田中よりはるかに薄汚れた、否、どす黒く汚れ切った岸信介を逮捕することはついになかった。そう考えると、彼らは岸信介系列の旧保守タカ派勢力と高い親和性を持っているといえるのではないか。私は彼らがアメリカの意を受けているとは思わないし、清和会の中にだってリクルート事件に関係したために総理大臣になり損ねた安倍晋太郎のような人物もいて、逆に経世会の野中広務が検察の網にかからなかった例があるから、全部が全部とはいえないけれども、少なくとも傾向としては、検察権力が清和会系の旧保守タカ派勢力と高い親和性を持っているとはいえると思う。

こう書くと、すぐに陰謀論だと言われるし、一昨日に『kojitakenの日記』に書いた記事「中西輝政に教えられる時代がくるとは」は一部からそのように評価されているが、政治に陰謀がつきものなのは当然である。実際、岸信介や佐藤栄作がCIAから資金援助を受けていたことは、アメリカにおける文書公開によって公知の事実となっているし、前記『kojitakenの日記』の記事で孫引きした右翼学者・中西輝政の論文(『文藝春秋』2009年5月号掲載の「子供の政治が国を滅ぼす」)が指摘しているように、1934年に検察がでっち上げた「帝人事件」によって斎藤実政権が総辞職に追い込まれ、その背後には司法官僚出身で当時枢密院副議長を務めていた平沼騏一郎(平沼赳夫の養父)がいたとされる歴史的事実もある。そもそも陰謀を仮定すること自体は陰謀論ではない。それを陰謀論だと言うなら、たとえば、デヴィッド・ハーヴェイは、新自由主義を「富裕層が格差を拡大して階級を固定するためのプロジェクト」だとする仮説を立てているのだが、それだって陰謀論になってしまう。いや、右側の論者はハーヴェイこそ陰謀論者だと言うに違いないけれども、陰謀を行うのは権力を持った者に限られるのである。もちろん力のない者も陰謀を企むけれども、そんなものは何の効果もないので論じるに値しないのだ。そして、岸信介や佐藤栄作がCIAから資金援助を受けていた件のように、証拠が現れれば陰謀の事実が確定するし、陰謀仮説を否定する材料が現れれば仮説を修正するか、または棄却するだけの話だ。それでは、何をもって「陰謀論」だとか「陰謀論者」などと批判するかというと、それは仮説がドグマと化してしまって批判を許さず、批判者を「裏切り者」とか「工作員」呼ばわりするような輩のことをいう。実際、私自身も「アメリカから金をもらっているに違いない」と書かれたことがある(笑)。

「陰謀論」論はこのくらいにしておいて、ここらで昨年の西松事件の公判について眺めてみよう。当ブログ管理人は大ざっぱな人間なので、いつも細かく政治のニュースを追いかけている『日本がアブナイ!』の記事に助けられているのだが(当ブログが大騒ぎしてネットで広めた城内実の国籍法反対に絡んだ差別エントリも、同ブログ経由で知ったものだった)、昨日(1月17日)付の「検察が焦ったのは、小沢&石川への不信と、大久保公判の失敗ゆえか?」も良い記事だ。エントリ後半で、昨年12月に始まった小沢一郎秘書・大久保隆規被告の後半について新聞報道がまとめられているのだが、これが全く検察の思うように進んでいないのだ。詳しくは同ブログをご参照いただきたいが、エントリ中で紹介されているのと同じ読売新聞記事について、当ブログにも「負け組みの矜持」さんからコメントをいただいているので、これを紹介する。

またまた、お邪魔します。以下の記事は全く面白いですね。
「2政治団体「ダミーと思わず」西松元幹部が証言」という見出しの記事です。読売の記事だから、皮肉を込めてですが、間違いないでしょう。

http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20100113-567-OYT1T01250.html

この記事によると、東京地検は窮地に立っているようです。だからこそ、またまた大久保元秘書を逮捕せざるを得なくなったようですね。実際、逃亡の恐れもないし、証拠書類も検察に取られてしまったわけだから、証拠隠滅の恐れもないし、本当に何故に今更再逮捕、と思っていたのですが、読売にさえこんな記事が出てしまうのだから、東京地検、地に落ちたと言えます。

2010.01.16 17:05 負け組みの矜持


以下、その読売新聞記事を引用する。これは、読売のサイトにも載っている。

2政治団体「ダミーと思わず」西松元幹部が証言

 準大手ゼネコン「西松建設」から小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」などへの違法献金事件で、政治資金規正法違反(虚偽記入など)に問われた小沢氏の公設第1秘書で同会の元会計責任者・大久保隆規被告(48)の第2回公判は13日午後も、岡崎彰文・元同社取締役総務部長(68)の証人尋問が行われた。

 岡崎元部長は、同社OBを代表とした二つの政治団体について、「西松建設のダミーだとは思っていなかった」と証言した。

 公判では、大久保被告が両団体を同社のダミーと認識していたかどうかが争点で、審理に影響が出そうだ。

 岡崎元部長は、裁判官の尋問に対し、「二つの団体については、対外的に『西松建設の友好団体』と言っていた。事務所も会社とは別で、家賃や職員への給料も団体側が支払っていた」と説明。前任者に引き継ぎを受けた際にも、「ちゃんとした団体で、問題はないと言われていた」と答えた。

 昨年12月の初公判で、検察側は、同社が信用できる社員を政治団体の会員に選び、会員から集めた会費を献金の原資にしていたと指摘したが、岡崎元部長は「入会は自分の意志だと思う。私自身は、社員に入会を強要したことはない」と述べた。

(2010年1月13日21時23分 読売新聞)


この公判の焦点は、大久保被告が2つの団体をダミーと認識していたかどうかの一点なのだが、検察側の証人がこんな証言をしたものだから、公判は一気に検察不利に傾いたようだ。

今回、石川議員らとともに、大久保隆規被告も逮捕されたが、前記『日本がアブナイ!』は、大久保被告の訴因変更を検察が裁判所に申し立てる可能性が報じる読売新聞の17日付記事を紹介しながら、

 まさか、西松事件だけでは無罪判決になるおそれがあるので、
それを避けるために、訴因変更(追加?)することも意図して、
逮捕をしたんじゃないでしょうね?。(ーー)

と皮肉っている。

あれほど大騒ぎした大久保隆規氏の公判は、こんな状況なのである。それでなくとも納得しがたい石川議員の逮捕劇なのに、検察のこのていたらくを知ると、今回の捜査を根拠にして小沢一郎を非難する気になどならないのは当然である。ことこの件に関しては、民主党の議員たちが小沢一郎を非難せず、逆に団結を強めているように見えるのも、異常でも何でもない。ただ、鳩山由紀夫首相が小沢一郎に「戦ってください」などと言っていることはおかしいと思うし、小沢一郎は十分に説明をしてこなかったとも思う。後者は、郷原信郎氏なども繰り返し指摘していることだ。

しかし、繰り返して書くが、今回もっとも異常なのは東京地検特捜部の無理筋の捜査であり、それを無批判で全面的に応援しているかのようなマスメディアの報道である。「検察リーク報道」の異様さは、昨年の西松事件当時以上にひどいもので、「ジャーナリズムは死んだ」と言いたくなる。

最後に、最初に書いたことを繰り返すが、小沢一郎はいずれは与野党の政治家たちや国民によって乗り越えられなければならない存在だ。だが、小沢一郎を乗り越えるべきは、あくまで政治家やわれわれ国民なのであって、検察権力などでは断じてない。検察の尻馬に乗って騒ぐだけの言論は、「検察が何とかしてくれそう」という発想に基づく無責任な態度の露呈以外のなにものでもない。そんな姿勢では、やすやすと全体主義につけ込まれてしまう。われわれのなすべきことは、今回の件を機に、企業・団体献金全面禁止の世論を盛り上げていくことであって、明らかに暴走している検察に加担して「悪玉」の捕り物に拍手喝采することなどではない。


[併読をおすすめしたいエントリ]
『広島瀬戸内新聞ニュース』より
「政党政治転覆の「帝人事件」の轍を踏んではいけない」(下記URL)
http://hiroseto.exblog.jp/11978030


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