毎年12月になると、新聞の文化面に論壇、文芸、美術、音楽などの「回顧」が掲載されるのだが、朝日新聞文化面の「回顧2008 論壇」(大阪本社発行統合版では12月6日付)を読んでも、アメリカが100年に一度の金融危機に見舞われてそれが日本経済をも傾け、アメリカ大統領選で「チェンジ」を掲げたバラク・オバマが当選した年だというのに、どういうわけか日本の論壇はぱっとしなかったとしか思えない、印象に残らない記事になっている。
ブログの世界も同じで、エポックメイキングなできごとはなかった。個人的には今年もっとも印象に残ったのは「左のほうの水伝騒動」だった。私は、この騒動で、ポピュリズムや陰謀論、擬似科学などに与する者たちがあぶり出され、そのうちのある者は淘汰されたと思っているのだが、私自身一方の側に立って論陣を張っていたから、騒動を客観的に評価などできないことはいうまでもない。
講演会では、しばしば当ブログで言及する10月25日の辺見庸講演会(大阪)がもっとも印象に残った。新自由主義勢力に代わって、「国家社会主義の変種ともいうべき者が、革新づらをして出てくるだろう」という辺見さんの言葉は特に忘れ難い。この講演会以降、「佐藤優現象」や、「リベラル・左派」のブロガーに持ち上げられる右派民族主義者・城内実に対する関心が高まった。まあ、佐藤や城内程度の人物では日本を再びファシズムに導くことなどできようはずもないが、最近、ネットで彼らを持ち上げたある人物の空虚な内実をちょっと知ってしまって、こんな人が旗を振って、狭い「政治ブログ」の世界の内側だけとはいえ、それがある程度影響力を持ってしまったのかと唖然とした。ネット内だけならまだしも、「佐藤優現象」は岩波書店が煽った。この退廃にも心が寒くなる。同じ感覚は、麻生太郎首相の空虚さを知ってしまった時にも持ったが、麻生は保守派の論客が真剣に期待し、自公与党の政治家がこぞってその人気にすがりついた人物だ。その内実がかくも空虚だと知った時、日本の政治や社会全体の中身が、いつの間にかすっからかんになってしまったのではないかと虚しさを覚えた。トップの質が劣化していったのは、何も政治の世界だけではない。
辺見庸の言葉でもう一つ印象に残っているのは、「今こそ過去に学ぶべき時だ。日本人の自画像を描かなければならない」という言葉だ。昨日のエントリで紹介したジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(日本語増補版は岩波書店、2004年)は、アメリカ人による占領下の日本の描画だった。また、稲田朋美らによる妨害工作をはねのけて今年5月に公開された李纓(リ・イン)監督の映画『靖国 YASUKUNI』は、中国人による日本人の描像だった。私は公開初日に東京までこの映画を見に行ったが、映画が始まる直前、列の後に並んでいた老人が、「日本人は情けないねえ、中国人にこんな映画を作ってもらうなんて」と言ったことが印象深い。映画評(上、下)もブログに書いたが、最上とは言えぬまでも、なかなかよくできた映画だったと思う。
だが、いずれの作品も日本人の手になるものではない。今回の米国発金融危機は、10年前のアジア通貨危機とそれが引き起こした不況を思い出させるものだが、本や資料でしか知らない1929年の大恐慌を想起させ、そのあと日本が歩んだ道を再び選択してはならないという強い危機感を起こさせる。実際、前記の「佐藤優現象」に見られる、「排外主義」を共通項とした悪しき「左右共闘」の芽が生じている。ネットで人気の天木直人も、「田母神発言は国民必読の発言だ」などという見過ごせないことを書く始末だ(これは「左右共闘」のとんでもない悪弊である)。今こそ過去に学び、誤りを繰り返させず、「人民の人民による人民のための政治」を日本で初めて獲得するために努力すべき時だと思う。
ダワーは、大作『敗北を抱きしめて』のエピローグで、
今年は、朝日新聞社の『論座』や、講談社の『現代』といったリベラル系の月刊誌が休刊した年でもあった。世論では改憲に対する賛成意見が減って反対意見が増え、経済政策に関しても、国内・国外を問わず新自由主義への反対論や見直し論が主流となっている(竹中平蔵は、「新自由主義はもう限界でこれからは社会民主主義だ」などと言っているのは世界中で日本だけだ、などと主張しているが、もちろんこれは嘘である)のに、日本国内では右翼論壇誌ばかりが残っている。今日ではそれらも新自由主義には批判的で、たとえば平沼赳夫は『諸君!』2009年1月号で、ほかならぬ「新自由主義」という用語を用いて「カイカク」批判をしている。一部の「左右共闘」論者にとっては歓迎すべき自体なのだろうが、私には平沼の新自由主義批判は「排外主義」のあらわれにしか見えない。もともと反中・反韓だった彼らに「反米」が加わったら、これはもう単なる排外主義以外の何物でもないのだ。万一、こんな考え方が論壇の主流を占めるようなことがあったら、それこそ日本は破滅への道をまっしぐらに突き進むだろう。
一方で、そんなことにはなりっこない、そこまで日本人は愚かではないと思う気持ちもあるが、昨今の「ネット発」といわれる国籍法改正の反対の議論に、「リベラル」と思われていた人たちまでが巻き込まれて右往左往している状態を見ていると、日本人の理性もあまりあてにはならないかもしれないなあ、などとも思う。
そんな年の最後に、加藤周一が亡くなってしまった。今年の年末は、とても暗いものになった。
#この記事は、「トラックバックピープル・自民党」 にトラックバックしています。ここにTBされている他の自民党関係の記事も、どうかご覧下さい。
↓ランキング参戦中です。クリックお願いします。

ブログの世界も同じで、エポックメイキングなできごとはなかった。個人的には今年もっとも印象に残ったのは「左のほうの水伝騒動」だった。私は、この騒動で、ポピュリズムや陰謀論、擬似科学などに与する者たちがあぶり出され、そのうちのある者は淘汰されたと思っているのだが、私自身一方の側に立って論陣を張っていたから、騒動を客観的に評価などできないことはいうまでもない。
講演会では、しばしば当ブログで言及する10月25日の辺見庸講演会(大阪)がもっとも印象に残った。新自由主義勢力に代わって、「国家社会主義の変種ともいうべき者が、革新づらをして出てくるだろう」という辺見さんの言葉は特に忘れ難い。この講演会以降、「佐藤優現象」や、「リベラル・左派」のブロガーに持ち上げられる右派民族主義者・城内実に対する関心が高まった。まあ、佐藤や城内程度の人物では日本を再びファシズムに導くことなどできようはずもないが、最近、ネットで彼らを持ち上げたある人物の空虚な内実をちょっと知ってしまって、こんな人が旗を振って、狭い「政治ブログ」の世界の内側だけとはいえ、それがある程度影響力を持ってしまったのかと唖然とした。ネット内だけならまだしも、「佐藤優現象」は岩波書店が煽った。この退廃にも心が寒くなる。同じ感覚は、麻生太郎首相の空虚さを知ってしまった時にも持ったが、麻生は保守派の論客が真剣に期待し、自公与党の政治家がこぞってその人気にすがりついた人物だ。その内実がかくも空虚だと知った時、日本の政治や社会全体の中身が、いつの間にかすっからかんになってしまったのではないかと虚しさを覚えた。トップの質が劣化していったのは、何も政治の世界だけではない。
辺見庸の言葉でもう一つ印象に残っているのは、「今こそ過去に学ぶべき時だ。日本人の自画像を描かなければならない」という言葉だ。昨日のエントリで紹介したジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(日本語増補版は岩波書店、2004年)は、アメリカ人による占領下の日本の描画だった。また、稲田朋美らによる妨害工作をはねのけて今年5月に公開された李纓(リ・イン)監督の映画『靖国 YASUKUNI』は、中国人による日本人の描像だった。私は公開初日に東京までこの映画を見に行ったが、映画が始まる直前、列の後に並んでいた老人が、「日本人は情けないねえ、中国人にこんな映画を作ってもらうなんて」と言ったことが印象深い。映画評(上、下)もブログに書いたが、最上とは言えぬまでも、なかなかよくできた映画だったと思う。
だが、いずれの作品も日本人の手になるものではない。今回の米国発金融危機は、10年前のアジア通貨危機とそれが引き起こした不況を思い出させるものだが、本や資料でしか知らない1929年の大恐慌を想起させ、そのあと日本が歩んだ道を再び選択してはならないという強い危機感を起こさせる。実際、前記の「佐藤優現象」に見られる、「排外主義」を共通項とした悪しき「左右共闘」の芽が生じている。ネットで人気の天木直人も、「田母神発言は国民必読の発言だ」などという見過ごせないことを書く始末だ(これは「左右共闘」のとんでもない悪弊である)。今こそ過去に学び、誤りを繰り返させず、「人民の人民による人民のための政治」を日本で初めて獲得するために努力すべき時だと思う。
ダワーは、大作『敗北を抱きしめて』のエピローグで、
と書いた(同書下巻、397頁)。人々がまだ夢を持っていた時代に育った私は、その目標は捨て去ってはならないと強く思うのだ。そして、日本の歴史は日本人自身が再検証しなければならない。ナベツネの読売新聞が一昨年に行った戦争の再検証の試みは、その意図は評価できるが、ナベツネ自身が右寄りの人物であるため、その検証には甘さが多く見られる。たとえば岸信介はナベツネにとっては無実だし、一昨年に日経新聞がスクープした「富田メモ」(私はこのスクープにもナベツネが一枚噛んでいると推測している)は、昭和天皇の戦争責任を免罪する効果も持っていた。日本の戦後システムのうち、当然崩壊すべくして崩壊しつつある部分とともに、非軍事化と民主主義化という目標も今や捨て去られようとしている。
今年は、朝日新聞社の『論座』や、講談社の『現代』といったリベラル系の月刊誌が休刊した年でもあった。世論では改憲に対する賛成意見が減って反対意見が増え、経済政策に関しても、国内・国外を問わず新自由主義への反対論や見直し論が主流となっている(竹中平蔵は、「新自由主義はもう限界でこれからは社会民主主義だ」などと言っているのは世界中で日本だけだ、などと主張しているが、もちろんこれは嘘である)のに、日本国内では右翼論壇誌ばかりが残っている。今日ではそれらも新自由主義には批判的で、たとえば平沼赳夫は『諸君!』2009年1月号で、ほかならぬ「新自由主義」という用語を用いて「カイカク」批判をしている。一部の「左右共闘」論者にとっては歓迎すべき自体なのだろうが、私には平沼の新自由主義批判は「排外主義」のあらわれにしか見えない。もともと反中・反韓だった彼らに「反米」が加わったら、これはもう単なる排外主義以外の何物でもないのだ。万一、こんな考え方が論壇の主流を占めるようなことがあったら、それこそ日本は破滅への道をまっしぐらに突き進むだろう。
一方で、そんなことにはなりっこない、そこまで日本人は愚かではないと思う気持ちもあるが、昨今の「ネット発」といわれる国籍法改正の反対の議論に、「リベラル」と思われていた人たちまでが巻き込まれて右往左往している状態を見ていると、日本人の理性もあまりあてにはならないかもしれないなあ、などとも思う。
そんな年の最後に、加藤周一が亡くなってしまった。今年の年末は、とても暗いものになった。
#この記事は、「トラックバックピープル・自民党」 にトラックバックしています。ここにTBされている他の自民党関係の記事も、どうかご覧下さい。
↓ランキング参戦中です。クリックお願いします。

スポンサーサイト