週末なので趣向を変えて、最近見たDVDをご紹介したい。
昨日のエントリで、ベートーベンの「第9」に言及したが、私が子供だった1970年代前半は、まだまだ社会主義や共産主義の神話が生きていた頃だった。家でとっていた新聞は朝日新聞、のち毎日新聞だったが、文革下の中国で、ベートーベンの第9交響曲の「歓喜の歌」が、ブルジョワ芸術として否定されているという記事が、毎日新聞に無批判に出ていて、子供心に疑問を感じたものだ。
その頃から、人間の内心の自由に平気で踏み込んでくる共産主義というものに対し、同様の傾向を持つファシズムに対すると同様、不信感を持ち始めていた。私は子供の頃から極右と極左が嫌いだった。ついでに言うなら、もう日本共産党はマルクス主義政党ではないのだから、党名を変更すべきだと思う。
中学にあがった年、私はクラシック音楽に興味を持つようになったが、買い与えられた学習百科事典を読むと、ソ連で行われていた「社会主義リアリズム」の音楽を褒め称える記述があった。
「社会主義リアリズム」とういうのは、歴史に残る共産主義ソ連の愚行である。芸術は、大衆にわかりやすいものでなければならないという屁理屈を振りかざして、実験的かつ難解な現代音楽や現代美術を否定したのである。ナチス・ドイツは抽象画や前衛音楽、ユダヤ人作曲家の作品などを「退廃芸術」などとして禁じ、戦時の日本でも戦意高揚の美術や音楽が奨励されたが、これと瓜二つである。しかし、まだ左翼の言論が力を持っていた当時は、そんな「社会主義リアリズム」が学習百科事典に肯定的に記述されていた。NHK-FMのクラシック音楽番組に出演していた音楽学者や評論家も、どういうわけかずいぶん東欧びいきの人が多かった。ついでに言うと、「わかりやすさ」を価値あるものとする考え方は、私には受け入れられない。それは、わかりにくい部分や差異の切り捨てにつながり、全体主義への道に通じると考えるからである。
さて、今年(2007年)、生誕75年と没後25年を同時に迎えたカナダのピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)が、今から50年前の1957年、25歳の時にソ連を訪問して演奏会や講演会を開いて、当時ソ連で事実上禁止されていたバッハや「新ウィーン楽派」と呼ばれる20世紀の前衛的な音楽を紹介して、一大センセーションを巻き起こした。当時、バッハは宗教音楽と関係があるとされて、宗教は唯物史観と相容れないため、難解な20世紀の音楽ともどもソ連ではご法度だったのだ(新ウィーン楽派の開祖・シェーンベルクはユダヤ人だったので、当然ナチス・ドイツでも禁止されていた)。
グールドは、そうした「反ソビエト的」な音楽をソ連に紹介し、聴衆に大きな衝撃を与えた。当時を知る音楽家らの証言や当時のフィルムをもとに、数年前、「グレン・グールド/ロシアの旅」というドキュメンタリー映画が作られた。私は最近、DVDでこれを見たのだが、映像に引き込まれ、映像作品ではまれなことだが、繰り返して三度も見てしまった。
オール・バッハのプログラムで、退屈に違いないという先入観から、演奏会の前半は客席はガラガラだったのに、グールドの生き生きとした素晴らしい演奏に驚いた聴衆は、休憩時間に友人、知人を呼び集め、演奏会が終わったときには客席には立錐の余地もなく、聴衆の拍手が鳴り止まなかった。演奏会には大ピアニストのウラディーミル・アシュケナージや、先日惜しくも亡くなった大チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチらもいて、映画には彼らの証言も収録されている。アシュケナージは、「グールドは私のアイドルだ。彼と張り合おうとは思わない」と述べている。
印象的だったのは、その場に居合わせた音楽家の一人が「グールドは、音楽界のベルリンの壁を早くも崩したのだ」と述べていたことだ。ベルリンの壁が崩れたのは1989年だから、それに先立つこと実に32年。芸術は、常に現実を先取りする。ロシアの文豪・ドストエフスキーの文学は、今なお現代社会に対して鋭い問題提起となる内容を含んでいると思う。
それにしてもいただけないのは、人間の内心の自由に介入する政治体制である。映画では、グールドが製作した、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチらソ連の音楽を紹介しながら、フルシチョフ体制下のソ連政治を批判するテレビ番組(1960年代前半)の映像も紹介されているが、「社会主義リアリズム」なる珍妙な芸術運動は、その後衰えたものの、結局ゴルバチョフ時代にソ連がその歴史を閉じた1991年まで続いた。
なにしろソ連では、スターリン時代にはメンデルの遺伝学が「ブルジョワ的」と批判され、「環境因子が形質の変化を引き起こし、その獲得形質が遺伝する」などというルイセンコの学説が正統とされた時代もあった。現在ではルイセンコ説を支持する人など誰もいないが、自然科学さえイデオロギーでねじ曲げるトンデモが、共産党独裁下のソ連では平気で行われていたのである。
だが、これを笑ってばかりもいられない。先般崩壊した、安倍晋三内閣の目指したイデオロギー政治も、ソ連共産党と似たり寄ったりだったと私は考えている。安倍の目指した「戦後レジームからの脱却」も、戦後民主主義の時代になって認められた内心の自由を、政府が制限しようとする方向性を持つものだった。
安倍を代表格とする極右政治家やその支持者には、カルト的な性格があった。たとえば、ありもしない「アインシュタインの予言」なるトンデモが喧伝(けんでん)され、「きち@石根」や先日スキャンダラスな話題を提供した「毒吐き@てっく」などの右翼ブログがこれを宣伝し、極右政治家である平沼赳夫(サッチャーの教育改革に心酔している安倍晋三の盟友)までもがこれを信じた。「アインシュタインの予言」の真相に関しては、「萬晩報」に掲載された中澤英雄・東京大学教授(ドイツ文学)による下記記事が詳しい。
こんなのにコロっとダマされる政治家が、日本の政治に国家主義を持ち込み、国民の内心の自由に介入しようとしていたのである。平沼は、コイズミ政権下の「郵政解散・総選挙」で郵政民営化法案に反対して刺客を送られ、現在は自民党を離れているが、安倍晋三は平沼の復権に熱心だった。安倍がヘタを打って自滅しなければ、平沼は復権し、安倍とともに教育カイカクを推進して、日本をナチスドイツかスターリンのソ連のような国にしてしまったに違いない。
せっかくグレン・グールドの芸術の話でいつになく高級に始めたのに、最後はよくやるパターンの極右政治家への罵倒になってしまったが、人間の内心の自由は最大限に保障されねばならず、それを侵す者は、ナチスだろうが共産党の独裁だろうが安倍晋三だろうが、断じて許すわけにはいかないのである。
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昨日のエントリで、ベートーベンの「第9」に言及したが、私が子供だった1970年代前半は、まだまだ社会主義や共産主義の神話が生きていた頃だった。家でとっていた新聞は朝日新聞、のち毎日新聞だったが、文革下の中国で、ベートーベンの第9交響曲の「歓喜の歌」が、ブルジョワ芸術として否定されているという記事が、毎日新聞に無批判に出ていて、子供心に疑問を感じたものだ。
その頃から、人間の内心の自由に平気で踏み込んでくる共産主義というものに対し、同様の傾向を持つファシズムに対すると同様、不信感を持ち始めていた。私は子供の頃から極右と極左が嫌いだった。ついでに言うなら、もう日本共産党はマルクス主義政党ではないのだから、党名を変更すべきだと思う。
中学にあがった年、私はクラシック音楽に興味を持つようになったが、買い与えられた学習百科事典を読むと、ソ連で行われていた「社会主義リアリズム」の音楽を褒め称える記述があった。
「社会主義リアリズム」とういうのは、歴史に残る共産主義ソ連の愚行である。芸術は、大衆にわかりやすいものでなければならないという屁理屈を振りかざして、実験的かつ難解な現代音楽や現代美術を否定したのである。ナチス・ドイツは抽象画や前衛音楽、ユダヤ人作曲家の作品などを「退廃芸術」などとして禁じ、戦時の日本でも戦意高揚の美術や音楽が奨励されたが、これと瓜二つである。しかし、まだ左翼の言論が力を持っていた当時は、そんな「社会主義リアリズム」が学習百科事典に肯定的に記述されていた。NHK-FMのクラシック音楽番組に出演していた音楽学者や評論家も、どういうわけかずいぶん東欧びいきの人が多かった。ついでに言うと、「わかりやすさ」を価値あるものとする考え方は、私には受け入れられない。それは、わかりにくい部分や差異の切り捨てにつながり、全体主義への道に通じると考えるからである。
さて、今年(2007年)、生誕75年と没後25年を同時に迎えたカナダのピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)が、今から50年前の1957年、25歳の時にソ連を訪問して演奏会や講演会を開いて、当時ソ連で事実上禁止されていたバッハや「新ウィーン楽派」と呼ばれる20世紀の前衛的な音楽を紹介して、一大センセーションを巻き起こした。当時、バッハは宗教音楽と関係があるとされて、宗教は唯物史観と相容れないため、難解な20世紀の音楽ともどもソ連ではご法度だったのだ(新ウィーン楽派の開祖・シェーンベルクはユダヤ人だったので、当然ナチス・ドイツでも禁止されていた)。
グールドは、そうした「反ソビエト的」な音楽をソ連に紹介し、聴衆に大きな衝撃を与えた。当時を知る音楽家らの証言や当時のフィルムをもとに、数年前、「グレン・グールド/ロシアの旅」というドキュメンタリー映画が作られた。私は最近、DVDでこれを見たのだが、映像に引き込まれ、映像作品ではまれなことだが、繰り返して三度も見てしまった。
![]() | グレン・グールド/ロシアの旅 ウォルター・ホンバーガー、ヴラディーミル・アシュケナージ 他 (2005/10/26) キング この商品の詳細を見る |
オール・バッハのプログラムで、退屈に違いないという先入観から、演奏会の前半は客席はガラガラだったのに、グールドの生き生きとした素晴らしい演奏に驚いた聴衆は、休憩時間に友人、知人を呼び集め、演奏会が終わったときには客席には立錐の余地もなく、聴衆の拍手が鳴り止まなかった。演奏会には大ピアニストのウラディーミル・アシュケナージや、先日惜しくも亡くなった大チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチらもいて、映画には彼らの証言も収録されている。アシュケナージは、「グールドは私のアイドルだ。彼と張り合おうとは思わない」と述べている。
印象的だったのは、その場に居合わせた音楽家の一人が「グールドは、音楽界のベルリンの壁を早くも崩したのだ」と述べていたことだ。ベルリンの壁が崩れたのは1989年だから、それに先立つこと実に32年。芸術は、常に現実を先取りする。ロシアの文豪・ドストエフスキーの文学は、今なお現代社会に対して鋭い問題提起となる内容を含んでいると思う。
それにしてもいただけないのは、人間の内心の自由に介入する政治体制である。映画では、グールドが製作した、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチらソ連の音楽を紹介しながら、フルシチョフ体制下のソ連政治を批判するテレビ番組(1960年代前半)の映像も紹介されているが、「社会主義リアリズム」なる珍妙な芸術運動は、その後衰えたものの、結局ゴルバチョフ時代にソ連がその歴史を閉じた1991年まで続いた。
なにしろソ連では、スターリン時代にはメンデルの遺伝学が「ブルジョワ的」と批判され、「環境因子が形質の変化を引き起こし、その獲得形質が遺伝する」などというルイセンコの学説が正統とされた時代もあった。現在ではルイセンコ説を支持する人など誰もいないが、自然科学さえイデオロギーでねじ曲げるトンデモが、共産党独裁下のソ連では平気で行われていたのである。
だが、これを笑ってばかりもいられない。先般崩壊した、安倍晋三内閣の目指したイデオロギー政治も、ソ連共産党と似たり寄ったりだったと私は考えている。安倍の目指した「戦後レジームからの脱却」も、戦後民主主義の時代になって認められた内心の自由を、政府が制限しようとする方向性を持つものだった。
安倍を代表格とする極右政治家やその支持者には、カルト的な性格があった。たとえば、ありもしない「アインシュタインの予言」なるトンデモが喧伝(けんでん)され、「きち@石根」や先日スキャンダラスな話題を提供した「毒吐き@てっく」などの右翼ブログがこれを宣伝し、極右政治家である平沼赳夫(サッチャーの教育改革に心酔している安倍晋三の盟友)までもがこれを信じた。「アインシュタインの予言」の真相に関しては、「萬晩報」に掲載された中澤英雄・東京大学教授(ドイツ文学)による下記記事が詳しい。
アルベルト・アインシュタインと日本
http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm
アインシュタインと日本 Part 2
http://www.yorozubp.com/0506/050626.htm
(アイン)シュタインと日本 Part 3
http://www.yorozubp.com/0511/051109.htm
こんなのにコロっとダマされる政治家が、日本の政治に国家主義を持ち込み、国民の内心の自由に介入しようとしていたのである。平沼は、コイズミ政権下の「郵政解散・総選挙」で郵政民営化法案に反対して刺客を送られ、現在は自民党を離れているが、安倍晋三は平沼の復権に熱心だった。安倍がヘタを打って自滅しなければ、平沼は復権し、安倍とともに教育カイカクを推進して、日本をナチスドイツかスターリンのソ連のような国にしてしまったに違いない。
せっかくグレン・グールドの芸術の話でいつになく高級に始めたのに、最後はよくやるパターンの極右政治家への罵倒になってしまったが、人間の内心の自由は最大限に保障されねばならず、それを侵す者は、ナチスだろうが共産党の独裁だろうが安倍晋三だろうが、断じて許すわけにはいかないのである。
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今年は日本が世界に誇る作曲家、武満徹の没後10年に当たります。
1996年2月の寒い日、武満氏の訃報を知った時の衝撃は忘れられません。難解な音楽が多いため、熱心な聴き手というわけではありませんでしたが、神経を音楽に集中させて聴くと、必ず引き込まれる、そんな音楽を書いた人でした。
1996年は、司馬遼太郎(2月12日)、藤子・F・不二雄氏(9月23日)、遠藤周作(9月29日)と、わが国が立て続けに偉大な創作家を失った年でした。司馬氏と武満氏、藤子・F氏と遠藤氏は、それぞれ命日が近かったため、余計に立て続けに、という印象が強かったです。人間はいつかは必ず死ぬものだとは言え、四氏はいずれも日本人の平均寿命に達しない年齢での死でした。
創作活動には多大なエネルギーを必要とし、それが彼らの寿命を縮めたのかもしれません。
武満徹の話に戻りますが、私は彼の現代音楽作品のCDを何枚か持っていて、それを聴いていたのですが、2002年にドミニク・ヴィスというカウンターテナー歌手が、武満徹の「うた」を録音したCDを買いました。
武満の「うた」は、彼の書いた難解な現代音楽とは全く異なり、ポップス系の音楽です。武満は生前、流行歌に非常に詳しく、多くの歌をそらで歌えたそうですが、彼が作曲した「うた」も、そんな側面を表したものです。
1996年2月の寒い日、武満氏の訃報を知った時の衝撃は忘れられません。難解な音楽が多いため、熱心な聴き手というわけではありませんでしたが、神経を音楽に集中させて聴くと、必ず引き込まれる、そんな音楽を書いた人でした。
1996年は、司馬遼太郎(2月12日)、藤子・F・不二雄氏(9月23日)、遠藤周作(9月29日)と、わが国が立て続けに偉大な創作家を失った年でした。司馬氏と武満氏、藤子・F氏と遠藤氏は、それぞれ命日が近かったため、余計に立て続けに、という印象が強かったです。人間はいつかは必ず死ぬものだとは言え、四氏はいずれも日本人の平均寿命に達しない年齢での死でした。
創作活動には多大なエネルギーを必要とし、それが彼らの寿命を縮めたのかもしれません。
武満徹の話に戻りますが、私は彼の現代音楽作品のCDを何枚か持っていて、それを聴いていたのですが、2002年にドミニク・ヴィスというカウンターテナー歌手が、武満徹の「うた」を録音したCDを買いました。
武満の「うた」は、彼の書いた難解な現代音楽とは全く異なり、ポップス系の音楽です。武満は生前、流行歌に非常に詳しく、多くの歌をそらで歌えたそうですが、彼が作曲した「うた」も、そんな側面を表したものです。
ブログの名前は、気まぐれで決めました。
良い名前が浮かばなかったので、適当に決めたところ、あとでネット検索をかけてみたら、同名のブログがたくさんありました。「気まぐれ」だったら多いだろうと思って、ひらがなの「きまぐれ」にしたのですが、それでも多かった。
おそろしく没個性的な名前、といえるでしょう。
クラシック音楽で「気まぐれ」な曲、特に定まった形式を持たない曲を「カプリッチオ」(capriccio, イタリア語)といいますが、capriccioは既にふさがっていたので、caprice(カプリース)というフランス語の表記にしました。とはいうものの、フランス語は全然できません。学生時代の第二外国語はドイツ語でしたが、だからといって、ドイツ語ができるわけでもありません。
ところで、パガニーニに「24のカプリース」という音楽があり、ヴァイオリンの超絶技巧を要することで知られていますが、上記のように適当に決めたブログ名なので、別にこの曲集を愛好しているわけではありません。
ただ、その第24番は、多くの作曲家にインスピレーションを与えた有名な曲で、これは良い作品だと思います。
この曲自体が変奏曲ですが、同じテーマを用いた変奏曲を、多くの作曲家が書いています。有名なのはラフマニノフの曲で、フィギュアスケートでよく用いられます。
しかし、実はこのラフマニノフの曲は、私の苦手な(つまり、あまり良いとは思えない)曲だったりします。
ま、書き手のいい加減さを表すブログ名だといわれても仕方ないところです。
良い名前が浮かばなかったので、適当に決めたところ、あとでネット検索をかけてみたら、同名のブログがたくさんありました。「気まぐれ」だったら多いだろうと思って、ひらがなの「きまぐれ」にしたのですが、それでも多かった。
おそろしく没個性的な名前、といえるでしょう。
クラシック音楽で「気まぐれ」な曲、特に定まった形式を持たない曲を「カプリッチオ」(capriccio, イタリア語)といいますが、capriccioは既にふさがっていたので、caprice(カプリース)というフランス語の表記にしました。とはいうものの、フランス語は全然できません。学生時代の第二外国語はドイツ語でしたが、だからといって、ドイツ語ができるわけでもありません。
ところで、パガニーニに「24のカプリース」という音楽があり、ヴァイオリンの超絶技巧を要することで知られていますが、上記のように適当に決めたブログ名なので、別にこの曲集を愛好しているわけではありません。
ただ、その第24番は、多くの作曲家にインスピレーションを与えた有名な曲で、これは良い作品だと思います。
この曲自体が変奏曲ですが、同じテーマを用いた変奏曲を、多くの作曲家が書いています。有名なのはラフマニノフの曲で、フィギュアスケートでよく用いられます。
しかし、実はこのラフマニノフの曲は、私の苦手な(つまり、あまり良いとは思えない)曲だったりします。
ま、書き手のいい加減さを表すブログ名だといわれても仕方ないところです。