その映画『靖国 YASUKUNI』を製作した李纓監督がこの映画について語った内容をまとめた、映画と同名の本『靖国 YASUKUNI』が、先月(2009年8月)、朝日新聞出版から出た。本の前半は、李監督の自筆の形をとっているが、実際には李氏が自作について語った言葉をノンフィクションライターの黒田麻由子氏がまとめたもので、後半には李監督と「新右翼」といわれる「一水会」顧問の鈴木邦男氏との対談(2008年)、李氏とドキュメンタリー映画監督・故土本典昭氏との対談(2007年)、李氏に花田達朗、ジャン・ユンカーマン、班忠義、野中章弘各氏らが加わって今年6月に早稲田大学で行われたシンポジウム「ドキュメンタリーは世界を変える」の計3本が収録されている。
興味深いのはやはり李監督への聞き書きを収録した前半だ。1963年に広州で生まれた李監督が幼少時に文化大革命があったが、家の近くの川によく死体が流れていたそうだ。さらに、社会人となって中国中央テレビ(CCTV)に勤務を始めた頃、チベットで高山病にかかり、その治療の際に受けた静脈注射にミスがあった(不純物が混入していた)ためか、一時死に瀕し、その際意識が肉体を離れて治療を受けている自分を空から眺める臨死体験をしたとのことで、この経験から李監督は人間の魂の存在を確信するようになるとともに、人間の命や魂がどこから来てどこに行くのかということに思いをめぐらせるようになった。それが、『靖国 YASUKUNI』の製作につながったのである。
ところで、昨年5月に映画のレビューを書いた時、この映画についてネット検索をかけたところ、ネット右翼が映画および李監督を激しく批判したエントリが多数見つかった。特に多かったのが映画で核心的な役割を演じる靖国刀匠の刈谷直治氏が、映画から出演部分の削除を求めたとされる件への言及だった。この件について李監督は、以下のように述べている。
映画『靖国』の上映中止問題の中で、私と出演者の刈谷直治さんとの関係について、さまざまな憶測や情報が流れました。一部メディアでは、刈谷さん側が、映画の趣旨に賛成できない、ゆえに出演した場面の削除を望んでいると報道されたこともありました。騒動の最中には、刈谷さん宅に報道陣が殺到したことにより、心ならずも静かな生活を乱すことになってしまいました。
戦争体験の有無、中国人と日本人であることなど、多くの違いがあるなかで、私と刈谷さんはお互いに少なくない努力をして関係を築きあげてきたと信じています。だから、この事態はにわかには信じられないものでした。彼が出演場面を削除してほしいと言ったとしても、それが彼の本当の気持ちではなく、そう言わざるを得ない事情があったのだと理解しています。出会いから、刈谷さんとの数年間にわたるつきあいをもとに、私にはそう思えるのです。
(李纓 『靖国 YASUKUNI』(朝日新聞出版、2009年) 66-67頁)
その上で李監督は、刈谷氏から李監督および映画を製作したプロダクション「龍影」に削除依頼は来ていないことを明らかにする一方で、老夫婦を相同に巻き込むことになって静かな生活を一時的に壊してしまったことについて、申し訳なく思うと重ねて表明している。
本を読みながら、そういえば確かに騒動が鎮静化してから削除依頼の件は音沙汰なしになったなと思い出した。刈谷氏夫婦を騒動に巻き込んだことについては、右翼ジャーナリズム(やネットおよびリアルの右翼)により重い責任があると私は考えている。映画の公開から期間を置いて本を出版する意義も感じられる。
ところで李監督は、以前からこの映画『靖国 YASUKUNI』の中国での公開を目指してきたが、まだ実現しておらず、韓国とアメリカで一足先に公開された。李氏は自身について、日本と中国のいずれにおいてもアウトサイダーだと見られて、中国でも問題人物扱いされることがあると言っている。『靖国 YASUKUNI』が日本で公開された2008年5月に亡くなった李監督の父は、中国で詩集を出版していた人で、ノーベル賞作家の処女作となった詩を掲載したこともある。文化大革命の頃には李氏の兄、さらには李氏自身も「反革命分子の子供」としていじめられた。そんな李氏の父は、親日的な人物であり、1998年に妻とともに日本にいる李氏を訪ねたことがあるが、来日した時にも、ある小川に流れる桜の花びらを見て感激したりもしていた。しかし、靖国神社の境内で、少年時代に聞き覚えのある日本の軍歌を再び耳にした李氏の父はショックを受け、それがきっかけになったのか、すでに患っていた心臓病が訪日をきっかけに悪化してしまったのだという。そして、中国で映画『靖国 YASUKUNI』を父に見せられなかったことが李監督の心残りだそうである。
このほか、本の最後に収められたシンポジウムで、アメリカ人のジャン・ユンカーマン監督が2005年に『映画 日本国憲法』を完成させた2005年に、ユンカーマン氏が「あなたは共産党支持者ですか」と必ず聞かれたということにも考えさせられた。ユンカーマン氏も語るように、当時は憲法を守ろうと声を上げていたのは共産党と社民党くらいだった。かつて、1982年に小学館(「SAPIO!」の出版元!)から出た『日本国憲法』がベストセラーになったことを覚えている私としては、信じられないほどの空気の変化だったが、その空気が再び変わったのは、2006年に安倍晋三が首相になったことがきっかけだろう。国民生活にかかわる問題をすべてそっちのけにして、一直線に改憲に進もうとした安倍に対し、保守といってよい立花隆が「安倍晋三への宣戦布告」を発し、教育基本法改正反対の声をあげたあたりから流れが変わった。その直前の2006年夏は、前のエントリにも書いたように、戦後日本の政治史上、右傾化がピークに達した時期だったといえるだろう。この時期を象徴するのが、2006年8月15日に時の首相・小泉純一郎が行った靖国神社への参拝だった。世論調査では小泉の参拝に賛成する意見が反対意見を大きく上回った。
李監督の本には気になるところもあって、特に「新右翼」といわれる鈴木邦男氏との対談の部分で顕著なのだが、靖国神社は戦没者を慰霊する施設ではなく、戦死した「英霊」を「顕彰」して戦意を高揚させるための好戦的な施設であるとの認識がやや弱いことだ。映画でこの視点を強調すると、右側の観衆に拒絶反応を起こさせてしまうことは明らかなので、映画の表現としてはあれで良かったと思うが、せっかく右翼でありながら独善に走らず他民族の尊厳も尊重する鈴木邦男氏を相手にしての対談なのに、靖国神社の好戦性についての議論が行われていないために、対談に食い足りない印象が残ってしまった。
最後に、李監督が繰り返し強調していたのが、「表現の自由」の問題ばかりが話題になった映画『靖国 YASUKUNI』だが、一番表現したかったのは人間の魂の問題だということだ。
この本は、映画『靖国 YASUKUNI』をご覧になった方には一読の価値があると思うし、ご覧になっていない方も、本を読まれれば映画が見たくなるのではないかと思える。
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http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20090907/1252315598
はてなの裏ブログは、以前『博士の独り言』というネット右翼のブログを批判した時にコメント欄を荒らされたので、コメントをはてなユーザーに限定している。だから、はてなの記事をそのままこちらにも転載しようと思ったが、あまりに芸がないのでそれはやめた。もちろん、はてなの記事についてのコメントをこちらのコメント欄にお寄せいただいてもかまわない。
はてなの記事は、最初もう少しましな読書感想文にしようと思っていたのだが、結局本には全く書かれていない城内実のことばかり書き連ねてしまった。そこで、当エントリでは少しは本の内容にも触れて書いてみたい。
といっても、これは差別に関する本である。差別について書くことは容易ではない。差別される側でなければ痛みはわからないし、人間誰しも自分自身の持つ差別意識からは自由になれないからだ。
だが、それでも書かないわけにはいかない。野中広務と辛淑玉の対談本には、辛淑玉による注釈が大量についていて、読者によってはこれを過激であるとして敬遠するむきもあるが、この注釈があるから本の価値があると私は思う。
たとえば、関東大震災(1923年)が起きた時にデマが流布して朝鮮人が虐殺されたことはあまりにも有名だが、震災の時に虐殺されたのは朝鮮人だけではなく、被差別部落出身の人たちも虐殺された。以下、本から引用する。
この時被害に遭ったのは朝鮮人だけではなかった。震災から5日後の9月6日、香川県の被差別部落から売薬行商で千葉を訪れていた女性や幼児、妊婦を含む10人が、自警団に組織されたごく普通の人々によって殺され、利根川に沈められた。
(中略)
加害者は、福田村および隣接する田中村(現柏市)の自警団だった。虐殺に加わった8人が殺人罪に問われて懲役3?10年の刑を受けた。しかし、彼らの大半は、結局、昭和天皇即位による恩赦で釈放された。取調べの検事は「彼らに悪意はない。ごく軽い刑を求めたい」と新聞に語り、村は弁護料を村費で負担。村民は義援金を集め、被告人たちの家の農作業を手伝うなどして留守家族を助けた。加害者は村のヒーローのように扱われたのである。
虐殺の中心人物の一人は、出所後、村長になり、合併後も市議として市の要職にとどまり続けた。なんと麗しい助け合いであろうか。どんな非道な行いであっても、それが共同体のためという大義名分の下に、外部の「忌まわしい者」とみなされた人々に対して行われたときは、内部の人々は、その是非を自動的に不問にし、献身的に身内を守り通すのである。それが日本の村落共同体の本質なのだろう。
(野中広務・辛淑玉著 『差別と日本人』 (角川oneテーマ21, 2009年) 53-54頁)
この部分は、虐殺された人たちが香川県出身だったということもあって特に印象に残った。そして、「内部の人々は、その是非を自動的に不問にし、献身的に身内を守り通す」というくだりでは、城内実の国籍法改正に絡んだ差別的言辞を不問に付して、仲間である「リベラル・平和系」ブロガーを守ろうとした一部のブロガーたちを連想してしまった。これぞまさしく「ブログ村」である。今はまだ城内実を支持したってそれによって死者が出るわけではないが、今後民主党政権が批判を浴び、国家社会主義が台頭するようなことになったとしたら、彼らも責任を問われなければならないだろう。今に至るも、城内実の差別的言辞を正面から擁護するネット言論に、私はお目にかかったことがない。
ところで、保守政治家である野中広務は、一筋縄ではいかない人物である。『kojitakenの日記』にいただいた「はてなブックマーク」で、biconcaveさんから、
というコメントをいただいたが、おそらく城内実の場合は郵政民営化反対から発展した「反小泉・竹中改革」のポーズが、そして野中広務の場合は、平和主義志向や反差別の姿勢がそれぞれ左翼に評価される理由だろう。私は城内については「反改革」は人気取りの手段であるとしか考えていないが、野中の場合はもっと内的な必然性に根ざしたものだろうと思う。しかし、その反面、野中は常に自民党のタカ派との妥協を繰り返してきたし、小渕内閣時代の1999年に自民党が一気に危うい法律をいくつも可決させた責任も重い。そして、麻生太郎に対しては全否定に近い態度を取るが、麻生に勝るとも劣らないひどい差別主義者である石原慎太郎とは、平気で一緒に食事をとったことを明言し、それを難詰する辛淑玉に対して、「いやあ、あれはまたいい男だからだ」などとぬけぬけと言い放っている(同書162頁)。野中広務にはそんな限界があることは踏まえておかなければならない。野中広務と城内実は方向性は違うがどちらも「左翼」に人気がある「右翼」だよね、とふと思った。それにしても日本の左翼ってなんでこんなに右翼が好きなんだろう、海外でもこういう現象はあるのだろうか。
そんな野中ではあるが、80代半ばに達した彼は今後、前首相の福田康夫と話をしながら戦後未処理の問題をやりたいのだという(同書178頁)。当ブログ管理人は、以前から書いているように、自民党が福田康夫首相の下で解散総選挙を行って、「よき敗者」として下野する道を選ばなかったことを残念に思う。そうしておけば自民党に再生の道はあっただろうが、麻生太郎のもとで、解散を引っ張りに引っ張ったあげく総選挙に惨敗したのは、自民党が最悪の道を選んだことを意味する。しかし、そんな選択をした人間に限って総選挙で当選したのだから、今後の自民党には未来がないと思うのである。
本から脱線してしまった。話を戻すと、今後おそらくネット右翼や「真正保守」(平沼赳夫や城内実を含む)たちが騒ぐであろう外国人参政権の問題についても、野中広務は推進した側である。これに抵抗して、「いま若手で何もかもムチャクチャにしようとしている」(同書184頁)と名指しで批判されているのが渡辺喜美と中川昭一であるが、後者は総選挙で落選した。一方、戦後未処理の問題をやろうとしたとして野中に評価されているのが竹下登と小渕恵三である。一方、同じ田中角栄の系列でも、橋本龍太郎には否定的な評価が下されている。竹下と小渕は、それぞれ悪いこともずいぶんやったけれども、それでも2000年以降の清和会支配の時代と比べると、戦争に対する反省があったといえそうだ。清和会時代、特に2001?2007年の小泉・安倍時代は本当にひどい時代だった。中でも、小泉から安倍に清和会内で権力を移譲しようとしていた2006年は最悪ではなかっただろうか。個人的な話をすると、現在、2006年当時に買った雑誌を処分しようとしているところだが、安倍内閣発足直前の同年夏には、小泉や安倍は個人崇拝の対象となっていて、週刊誌にさえ安倍批判記事がなかなか載らなかったので、数少ない安倍批判記事が載った週刊誌を必死に買い求めたものである。
その最悪の時代は脱し、衆議院における自民党の議席は今までの4割にまで激減したが、これでめでたしめでたしというわけにはいかないと思う。民主党を中心とした政権が迷走すれば、辺見庸が警告したような「国家社会主義の変種」が台頭する脅威は去っていないことは、それにつながる政治家と私が考えている稲田朋美や城内実が、前回総選挙より大幅に得票を増やして当選したことが示していると考えている。
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http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-881.html#comment5504
今日は。
同感です。新憲法制定議員同盟(中曽根康弘元首相が会長)が2日国会内で経団連など経済団体と懇談を持ち、次の解散総選挙で憲法改正を取り上げ、盛り上げる話をしています。総務省は、改憲手続き法の「周知」パンフレット(500万部)を、多額の血税を使って作製し、4月から都道府県・市町村の窓口を通じて配布しています。
尚、今回の読売の調査結果では、9条については下記のようになっております。(読売は報じたくないようですが)
「しかし、調査結果を詳細に読むと、憲法9条については改正反対がやっぱり過半数を占めていることが明らかになっています。9条第1項と第2項に分けた質問で、それぞれ、「改正の必要がある」と答えたのは第1項17.7%、第2項42.0%なのにたいし、「改正する必要はない」は第1項 77.5%、第2項50.9%となっています。」
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2009/04/03205048/
しかし、本記事にあるように、憲法を蔑ろにして反国民、反民主政治を推進している勢力は、憲法改正の大キャンペーンを敢行すると思います。主権者国民は自分の存在をかけて、法の支配を守るためにも油断無く憲法をまもらなければならないと思っております。
2009.04.06 16:17 URL | hamham
9条改憲について、ネットで読める読売新聞の記事は、下記のようになっている。
憲法改正「賛成」51・6%、再び多数占める…読売世論調査
読売新聞社の全国世論調査(面接方式、3月14?15日)によると、今の憲法を改正する方がよいと思う人は51・6%と過半数を占め、改正しない方がよいと思う人の36・1%を上回った。
昨年3月調査では改正反対が43・1%で、改正賛成の42・5%よりわずかに多かったが、再び改正賛成の世論が多数を占めた。国際貢献のための自衛隊の海外派遣が増えたことや、ねじれ国会での政治の停滞などで、今の憲法と現実との隔たりを実感する国民が増えたためと見られる。
1981年から実施している「憲法」世論調査では、93?2007年は改正賛成が多数派だった。ただ、04年の65・0%をピークに賛成派が減り始め、昨年は反対派を下回った。それが今回は増加に転じた。
賛成派は自民支持層で54%(昨年比7ポイント増)に増え、民主支持層で53%(同12ポイント増)に急増した。
改正賛成の人に理由(複数回答)を聞くと、「国際貢献など今の憲法では対応できない新たな問題が生じているから」49%(昨年45%)が最も多かった。インド洋での給油活動、ソマリア沖の海賊対策への海上自衛隊派遣を巡る議論などを通じて、憲法を見直そうという意識が高まったようだ。
戦争を放棄し戦力を持たないとした憲法9条については、「解釈や運用で対応するのは限界なので改正する」38%が最も多く、昨年(31%)から増えた。「解釈や運用で対応する」33%(昨年36%)、「厳密に守り解釈や運用では対応しない」21%(同24%)は、ともに昨年より減少した。
国会の二院制については、「二院制を維持し衆院と参院の役割や権限を見直す」39%と「一院制にする」28%を合わせ、何らかの見直しを求める人が約7割に達した。
憲法で関心がある点(複数回答)は「戦争放棄、自衛隊」47%が8年連続でトップ。「生存権、社会福祉」は昨年比7ポイント増の25%に増えた。金融危機や年金不信で暮らしへの不安が増していることを反映したようだ。
(2009年4月3日00時04分 読売新聞)
ここから読み取れるのは、「憲法9条を改正をすべき」と考えている人が38%、解釈や運用による対応をすべきという意見を含めて「憲法9条を改正すべきでない(または改正しなくても良い)」と考える人が54%だということだ。第1項と第2項に分けた質問およびそれに対する回答は、読売新聞の紙面でしか載っていないようだが、ネットに公開されている情報だけを見ても、確かに9条改憲不要派の方がまだ過半数を占めている。
しかし、読売の記事にあるように、中曽根康弘が改憲の旗を振っている。そして、読売新聞の主筆にして会長であるナベツネ(渡邉恒雄)は中曽根の盟友である(「刎頚の友」とまではいえないかもしれないが)。中曽根は今年91歳、ナベツネは今年83歳になるが、人生最後の大仕事として憲法改正に執念を燃やしており、今後大キャンペーンを張ってくることは間違いない。2006年にナベツネがやった戦争責任の検証は、憲法改正の前段階であったと考えるべきであって、その中にたまたま靖国神社に否定的な部分があったからといって、うれしそうにナベツネにすり寄っていった朝日新聞は、結局自らも改憲志向新聞になっただけだった。朝日新聞の3日付のオピニオン面で、休刊した『論座』の編集長を務めていた薬師寺克行が論説委員になっていたことを知ったが、その主張を読むと、コイズミに立場の近いことがうかがわれるし、2007年1月のテレビ朝日『サンデープロジェクト』では自ら「改憲派」だと明言していた。その時は、他のコメンテーターから「朝日の社論と薬師寺さんの意見は違うのか」と突っ込まれていたような気もする(古い話なので記憶違いかもしれない)が、いまや薬師寺克行は朝日新聞の社論を決める論説委員になっている。毎日新聞も、かつて論説委員だった岸井成格が、「護憲」から「論憲」へと方向転換させた。日本の大手紙で「護憲」を明確に主張する新聞は存在しなくなったと言って良い。
勢いづいた自民党のタカ派議員たちは、またぞろ「敵地攻撃論(敵基地攻撃論)」を唱え始めた。今朝の『日本がアブナイ!』に、時事通信の記事を引く形で紹介されているが、自民党外交、国防両部会などの合同会議で、山本一太、土屋正忠、鈴木馨祐らが「敵地攻撃論」ではしゃいでいたらしい。
何か3年前の夏を思い出させる。安倍晋三が次期総理大臣になることが確実になったその夏、アメリカの建国記念日に北朝鮮がミサイルの実験をやった。それに便乗して、額賀福志郎が敵基地攻撃論を唱え、麻生太郎や安倍晋三が呼応したのではなかったか。
その後、安倍が総理大臣になって、狂ったように改憲一本槍の政治を行って、「国民の生活は二の次、三の次」にしたために、一昨年の参院選で自民党は惨敗、それとともに改憲の機運は潰えたかに見えた。しかし、勝った方の民主党の支持者が「右も左もない」と言い出したり平沼赳夫一派に接近したり、いや、それはいくらなんでも極端な例外なのだろうが、安倍が政権を去って日が経つにつれ、あの異常な安倍が強迫観念に駆り立てられるように進めた改憲準備に対する警戒感は国民の間から薄れていき、そうこうしているうちにリーマンショックに端を発する経済危機が発生し、それに気を取られているうちに田母神俊雄のアパ懸賞論文問題が起き、陰謀論者の田母神がテレビで発する勇ましい国防論が視聴者の心を捉え、北朝鮮が「飛翔体」を発射すると自民党の国会議員が「敵地攻撃論」を唱えた。つまり、3年前に逆戻りしてしまったのである。
いや、安倍晋三はもう終わったと思って野党支持者、特に民主党支持者が憲法のことを言わずに小沢一郎の秘書の「国策捜査」のことばかり言っている今は、3年前よりむしろ改憲の危機が高まったといえるのではないか。
新自由主義には反対だが政治思想右派には寛容な人の中には、「9条護憲派」と「25条護憲派」が共闘すれば良い、という人もいる。しかし、前々から主張しているように、憲法9条と憲法25条が分けて考えられるべきものとは私は思わない。
憲法9条と25条を関連付けて考えるべきだとは、湯浅誠も昨年8月31日に「反貧困キャラバン」で高松に来たときに講演で言っていた。そして、最近刊行された辺見庸の『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(大月書店、2009年)にも、「憲法九条と二五条の危機」と題された項がある(同書第三章「価値が顛倒した世界」より、62?66頁)。この本は、今年2月1日にNHK教育テレビで放送されたETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」の内容を再構成し、加筆・修正したものだ。辺見庸は、人の生存権が脅かされている現状について書いたあと、以下のように続ける。
これからは二五条だけではなく、連動してまちがいなく九条もますますないがしろにしていくでしょう。たとえばODA(政府開発援助)のような予算が大きく削られていくなかで、自国民、自国中心になっていく。これは歴史的な恐慌時には確実にどこの国でもおちいっていく傾向です。同時にナショナリズムが起きて、九条的な不戦思想、非戦思想が薄まり、外側に対して戦闘的になっていく。それが怖い。だから、二五条という生活権、社会権の保障と九条という平和の保障は関係ないようでいて、じつは本質としては引きあう磁場というものがある。ぼくはそれを基本的に同じものだとおもっているし、そうでなければいけないとおもうのです。
でも、予想される近未来の中では、二五条が危ういと同時に、九条の位置というのも明らかにどんどん低くなるのではないか。危ういというか、もうすでに無視されているとおもうのです。おそらく、自国優先になっていって、二五条重視というかたちはとりえない。なにが優先されていくかというと、人ではなくて、国家です。つまり、その国に住まう人間たちよりも国家の利害というものを優先していくような発想がどんどんつよくなっていく。いってみれば、シーソーゲームのように二五条に重きを置けば九条が危うくなるということではなく、じつはどちらもまちがいなく危うくなっている。
(辺見庸 『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(大月書店、2009年)より)
だが、人間とは悲しいもので、かつて核兵器の保有や使用も違憲ではないと主張した安倍晋三が9条改憲志向をあらわにすると、左翼は「国民の生活」を(安倍と同じように)二の次、三の次にして9条改憲反対ばかりを叫び、経済危機に瀕して国民の生活が脅かされると、今度は9条改憲の危機には目もくれなくなる。そして、したり顔で「9条護憲派と25条護憲派の共闘を」などと言うのだが、ご当人が「25条護憲派」の一部として意識している平沼赳夫一派は、「大きな政府」志向ではあるが決して「25条護憲派」などではなく、それどころか現憲法を廃棄して「自主憲法制定」を主張する国権主義者なのである。政党や政治家の立ち位置を、横軸に「民権主義?国権主義」、縦軸に「大きな政府?小さな政府」をとった2次元ダイアグラムを、トラックバックいただいた『広島瀬戸内新聞ニュース』が示しているので、読者の皆さまには是非ご参照されたいと思う。このダイアグラムによると、かつて「国権主義」かつ「小さな政府」志向で、明らかなネオコン・ネオリベ政治家であった小沢一郎は、民主党入りに際して労組政治家に「転向」したことに伴って、今では「やや民権主義寄り、やや大きな政府寄り」へと立ち位置を移している。「民権主義寄りだが小さな政府寄り」の前原誠司があまり好ましくないのは当然だが、それ以前に「大きな政府寄りだが国権主義寄り」の平沼赳夫など問題にならない。平沼の立場は、『広島瀬戸内新聞ニュース』も書くように、ナチズムと親和性の高い「国家社会主義」である。
幸い、最近平沼赳夫は「麻生太郎も小沢一郎も新党結成を俺にけしかけてきたのに、その後何の話もない」などとぼやいているそうで、自民党からも民主党からも見捨てられているようだ。安倍内閣が成立した年に平沼が自民党に復党しなかったのは、新党でも作ってキャスティングボートを握りたいという野心があったからだろう。平沼の一の子分・城内実には、一時民主党公認で静岡7区に立候補するとの観測もあったが、これを潰したのはおそらく小沢一郎自身だ。小沢は、口では平沼に甘いことを言いながら、造反して「改革クラブ」を結成した渡辺秀央と大江康弘を民主党から除名した。彼らは、平沼赳夫に思想の近い極右議員である。極右は、自公政権にとっても邪魔になったのかどうかわからないが、「教育再生 地方議員百人と市民の会」の事務局長・増木重夫と、会員の遠藤健太郎が逮捕された。この件については、『dj19の日記』、『黙然日記』などを参照されたい。逮捕された遠藤健太郎は、ブログ『KNN TODAY』の管理人で、平沼信者である。
「教育再生 地方議員百人と市民の会」には、中山成彬や山谷えり子、伊吹文明らも名を連ねているが、それにもかかわらず増木と遠藤は逮捕された。彼ら極右が大手を振って歩ける時代にまではまだ至っていないとはいえそうだ。
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3月には地下鉄サリン事件が起き、4月には1ドルが79円75銭まで円高が進んだ。同じ月、東京都と大阪府の知事選で、青島幸男と横山ノックが当選した。7月の参議院選挙では、与党の自民・社会・さきがけが敗北、特に社会党は大敗を喫した。8月の終戦記念日に、その社会党の村山富市首相が、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する談話(村山談話)を発表し、日本が戦前、戦中に行った侵略および植民地支配について公式に謝罪した。アメリカに渡ってMLB(メジャーリーグベースボール)で活躍した野茂英雄や、全英オープンテニス(ウィンブルドン)でベスト4に進出した伊達公子が話題を呼んだ年でもある。
だが、今日的な観点から、この1995年でもっとも特筆すべきできごとは、この年の5月に日経連(2002年に経団連に統合)が「新時代の『日本的経営』」を発表したことだ。日経連はこの提言で、労働者を、「長期蓄積能力活用型グループ」「高度専門能力活用型グループ」「雇用柔軟型グループ」という3つのグループに分け、労働力の「弾力化」「流動化」を進め、総人件費を節約し、「低コスト」化しようとした。これに呼応して、企業ではリストラが急に進んだ。そもそも、「再構築」を意味する "Restructuring" という英単語がクビ切り、解雇の意味に用いられるようになったのはこの頃ではなかったか。そして、労働者派遣法は1999年の改正で一部の対象業務は除いて原則自由化され、さらに2004年の改正で製造業にも解禁された。
日本における新自由主義の開祖は中曽根康弘であると言って良いが、中曽根政権時に円高不況への対処を誤って発生させたのがバブル経済であり、その対処をさらに誤って、政策に新自由主義色が強まっていったのが90年代後半だった。その流れの中で、財界が政治に及ぼした悪影響の元凶が、この「新時代の『日本的経営』」なのである。
その1995年に、内橋克人が書いた岩波新書の『共生の大地―新しい経済がはじまる』を、出版後14年にして初めて読んだ。1995年に刊行された岩波新書の中で、もっとも話題を呼んだ1冊だったそうだ。
政治が新自由主義へと舵を切ろうとしていた時、それに真っ向から対立する方向性を指し示した本だ。日本の経済政策は、内橋氏が主張したような方向性で進めるべきだったのだが、市場原理主義、新自由主義などと呼ばれる方向性の政策をとってしまった。
この本では、「新自由主義」という言葉は用いられていない(1995年当時はまだ一般的な用語ではなかった)が、市場が成熟すればすべてはうまくいくという新自由主義の考え方を、内橋克人は真っ向から否定している。そして、第3章では、再生可能エネルギーについて、かなりのスペースを割いて論じている。また、食料自給率の向上を、安全保障の問題としてとらえている。
この本では、トラフィック・カーミング(交通鎮静化)に取り組んだデルフトやフライブルクの事例が紹介されている。爆発する自動車交通をいかに抑制し、街を人間の手に取り戻そうとする試みだ。
しかし、その後の日本政府がとった政策や、新自由主義系の御用学者が唱えていた説は、内橋氏の主張とは正反対のものだった。地方では、公共の交通機関網は年々やせ細っており、お年寄りやハンディキャップのある人たちが安心して住める状態からどんどん遠ざかっている。コイズミ政権(2001?06年)は、再生可能エネルギーに不熱心なブッシュに追随するかのように、太陽光発電への補助金を打ち切ったし、「経済学者」(もどき)の池田信夫は一昨年、「そもそも「食料自給率」とか「食料安全保障」などという言葉を使うのも日本政府だけで、WTOでは相手にもされない」などという妄論をブログに書いた。しかし、昨年の食料価格の急騰によって、新自由主義者たちの主張がとんでもない誤りだったことが明らかになった。
昨日(18日)行われた民主党の党大会で、小沢一郎代表が「2つのニューディール」として、「環境のニューディール」(太陽電池パネルの全戸配置)と「安心・安全のニューディール」(全小中学校の耐震化、介護労働者増員)を打ち出した。長い新自由主義政策の誤りの政策を続けたあげく、日本経済がめちゃくちゃになってしまった今になって、ようやく内橋氏が思い描いた方向性に政策の舵が切られる可能性が出てきた。
この本は、1994年4月から同年12月まで、毎週日曜日の日本経済新聞に連載された記事をもとにしている。もう15年も前の記事だ。あの頃、内橋さんのような考え方に基づいて政策を立てれば、こんなにひどい国にはならなかったものを、と惜しまれるが、死んだ子の歳を数えても仕方がない。今年は、新生日本再建のスタートを切る年にしたいものだ。
さて、年明け最初の平日の今日は、読者の皆さまを拍子抜けさせてしまうかもしれないが、岩波新書から昨年5月に刊行された、大泰司紀之・本間浩昭著『カラー版 知床・北方四島』を紹介したいと思う。
![]() | 知床・北方四島―流氷が育む自然遺産 カラー版 (岩波新書) (2008/05) 大泰司 紀之本間 浩昭 商品詳細を見る |
大泰司紀之(おおたいし・のりゆき)氏は北海道大学名誉教授で現在、同大学総合博物館資料部研究員。また、本間浩昭氏は毎日新聞記者。旧石器発掘捏造事件の端緒を入手し、毎日新聞に大スクープをもたらした敏腕ジャーナリストである。
私はかつて首都圏に在住していた頃、よく夏休みの旅行で北海道を訪れた。特に利尻島・礼文島を含む道北と、知床に代表される道東に魅せられた。そして、北方四島にはいかなる自然があるのだろうとよく思ったものだ。しかし、ひとたび四島が日本に返還されるや、乱開発で自然はめちゃくちゃになってしまうだろうな、そうなるくらいならまだ返還されないほうがマシかもしれないなとも思っていたのである。既に乱開発されてしまった北海道と違って、四島には豊富な自然が残されていることはよく知られている。
ところが、この本を読み始めてすぐ、当時から変わらなかった私の考えはすっかり時代遅れになってしまっていることを知った。冷戦終了後のロシアの急激な資本主義化によって、北方四島の自然は今や急激に脅かされつつあるのだ。
特に慄然としたのは、北方四島で行われているウニやカニなどの密漁だ。ソ連崩壊後の90年代から、北方四島で密漁により獲れたウニやカニが日本に輸入され、日本では海産物の値段が下がって喜ばれていたというが、密漁によって生態系が乱され、海域でウニやカニが激減した。上記のように、ラッコの写真がこの本の表紙を飾っているが、ウニやカニはラッコのにとって重要な食料なのに、ほとんど捕り尽くされてしまっているのが現状だ。さらに追い討ちをかけるように、2007年、ロシアの中央政府からの巨額の予算投入に支えられた「クリル諸島(日本名:千島列島)社会経済発展計画」が始まった。資金は当面、空港や港湾などの整備、道路網整備、地熱発電所建設などに向けられるそうだ。さらに、外国企業の誘致やリゾート開発も狙っているらしい。
著者らは、かつて高度成長期に開発のために自然を犠牲にしてしまった日本(本州)の失敗を北方四島で繰り返してはならないと危機感を抱く。そして、貴重な北方四島の生態系を保全するために、世界遺産「知床」を、北方四島及びその北隣のウルップ島(ロシア領)にまで広げることを提唱する。北方四島は、その帰属をめぐって日本とロシアの間で対立関係があるので、日本の領土である知床と、ロシア領のウルップ島(日本共産党によると全千島の日本への返還を求めるべきとのことだが、それは措いておく)をともに含めることで、両者の妥協点を見出そうとするやり方だ。
これは、なかなかナイスアイデアだと思ったのだが、なかなか実現は難しいようだ。日露平和条約の締結後は、四島を日露混住の地として、日本人にもロシア人にも動物たちにもプラスになるような方法も模索されている。
開発と自然保護。この両立は本当に難しい。新自由主義の社会が破綻して、次にどんな社会を目指すべきかという議論において、70年代の高度成長期をよみがえらせよという主張をする人もいるが、当時都会地区(関西)で育った私が生まれて最初に関心を持った、というよりも持たざるを得なかったのは公害問題だった。神崎川の悪臭は、この世のものとは思われないほどひどいものだったからだ。当時、水俣病、第二水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病の「四大公害病」をはじめとする公害は、深刻な問題になっていた。今、現代の「ニューディール政策」として、再生可能エネルギー(自然エネルギー)が注目されているのは、過去の反省の上に立っている。だが、再生可能エネルギーといえど、自然破壊と無縁というわけにはいかない。悩ましい話だが、可能な限り両立を目指して努力するしかあるまい。
なお、この本は、「カラー版」と銘打たれているように、本のおよそ半分は写真が占めており、表紙のラッコのほか、クジラ、アザラシ、シャチ、ヒグマ、シマフクロウ、エトピリカなど、動物の写真が満載されている。これらの写真だけでも見る価値のある本だと思う。
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小渕恵三内閣(1998?2000年)の「経済戦略会議」で議長代理を務めていた中谷巌が、近著の『資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言』(集英社、2008年)で、規制緩和を推進してグローバル資本主義を信奉してきた自らの誤りを認めた。その中谷巌のインタビューが、『週刊現代』の12月27日・1月3日合併号に出ている。
もっとも、ここに出ている中谷巌の言い訳は、眉に唾をつけて読んだ方が良い。
中谷巌は、1969年に留学した時にアメリカの中産階級の豊かさに魅せられ、市場原理主義によってそれがもたらされたと思ったが、豊かさは実際にはケネディやジョンソンといった民主党政権の元でもたらされた政策によるものだったことにあとから気づいたという。だが実際にアメリカが新自由主義政策を取り始めたのはレーガン政権の頃であり、レーガン以降、民主党のクリントン政権も含めたアメリカの政策が製造業を弱らせ、貧富の差を拡大させていったことは、その間ずっと常識の範疇に属することだったはずだ。
『週刊現代』のインタビューで中谷巌は、今も構造カイカク路線に固執する竹中平蔵を批判し、「北欧諸国は国民負担率が75%に達しているが国民は生活の不安がなく幸せだ」とまで言っている。180度の転向と言っても良いが、これはアメリカでオバマが大統領になり、今後社会民主主義指向がトレンドになると中谷巌が判断したからではないかと、私などは勘繰ってしまうのである。
もっとも、『週刊朝日』で開き直って自説を吠え続けている竹中平蔵よりは中谷巌のほうがずっとマシだと思うし、政治家の世襲を禁止せよという氏の主張には、私も賛成だ。
このように、新自由主義の見直しが潮流になりつつある今日この頃だが、それだけに余計に「今後、国家による統制をよしとする潮流が生まれ、国家社会主義の変種とも言うべき者が、『革新づらをして』現れるだろう」という辺見庸の言葉(大阪における講演会、10月25日)が真実味をもって迫ってくる。
一昨年以来私は辺見庸の読者になり、先日も新著『愛と痛み 死刑をめぐって』(毎日新聞社、2008年)を読んだ。今年4月に東京で行われた講演会をもとに書かれたこの本で、辺見庸は山口県光市母子殺害事件に関して、橋下徹(辺見庸に言わせれば「テレビがひり出した糞のようなタレント」=前掲書64頁)やネット右翼たちが同事件弁護団の懲戒請求を煽ったことを批判している。この時、弁護団は「公共敵」とまで呼ばれてバッシングされたが、辺見は、日本では「公共」ということばが「世間」と取り違えられて真逆の意味で用いられていると指摘している。日本では「世間」はあっても「社会」はないと。個が確立されていない日本における「世間」を発見したのは、故阿部謹也だとのことだが、なるほど個人が埋没し、「鵺(ぬえ)のようなファシズム」ができあがる日本社会をうまく説明していると思った。あとこの本で印象に残ったのは、国権の発動たる戦争を放棄する憲法第9条を持つ日本が、同様に国権の発動で人を殺す死刑制度を存置するのかという問題提起だった。
この議論になると私が反射的に思い浮かべるのが、しばらく前まで私自身も騙されていた佐藤優および「佐藤優現象」のことだ。
私はこれまで何度かブログで「佐藤優現象」に言及しながら、「佐藤優現象とは何か」という説明はしてこなかった。『たんぽぽのなみだ-運営日誌』の12月21日付エントリ「佐藤優現象批判」を読んでそのことに気づいたので、概要を手早く知りたいと思われる方は上記リンク先を参照いただければ幸いである。
このエントリで特に目をひくのが、
というくだりだ。リンク先のエントリには「特報:「「<佐藤優現象>批判」スルー現象」を構想中です。」というタイトルがついている。つぎのエントリを見ると、批判された対象の人たちは、無視黙殺みたいです。
(それゆえ、あまり知られない状況が、1年も続いたのでしょう。)
しかも、論文を書いたかたは、出版者でいじめられるというお話です。
もはや、自浄作用が働かないところまで、来ているようです。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081210/p1
「佐藤優現象批判スルー現象」。そういえば、たんぽぽさんがかかわった「水伝騒動」でも「スルー戦略」を提唱した人がいた。名前はカッコいいが、要するに「あんなやつは村八分にしてしまえ」という意味だ。まさしく、辺見庸のいう「世間」の論理。これがリベラル・左派系言論の世界でも平気でまかり通る。「水伝騒動」ではたんぽぽさんを「村八分」にしようとした方の人たちの言説があまりにもお粗末だったので、彼らのもくろみは失敗に終わったが、「大」岩波書店ではそうはいかなかった。「佐藤優現象批判」を行った金光翔氏は、残念ながら社内で冷遇されているようだ。
興味深いのは、「水伝騒動」で「スルー戦略」を提唱した人物は、佐藤優や城内実の熱烈な支持者であって、城内が国籍法改正問題に関して自らのブログで醜悪な差別発言を公開して激烈な批判を浴びても、その件に関して「スルー作戦」を貫いているという事実だ。やはり、行動様式だけは一貫しているようだ。
これからは、「国家社会主義の変種ともいうべき」人たちとの戦いも重要になってくると思う今日この頃である。
だが、上記の「はてブ」についたコメントをご覧いただけばわかるように、記事に対して批判的な反応が多数を占めた。「ゆとり教育」を批判した当ブログ昨年9月27日付エントリ「福田内閣支持率50%超に見る日本人の知性の劣化」や「kojitakenの日記」に書いた「[予告]夏休み明けには「毎日新聞叩き」に反対するキャンペーンを開始します」にも、多数の批判コメントをいただいた経験があるが、これらはいずれも意図的に読者を挑発したエントリだった。しかし、昨日のエントリは、ブログにいただいたコメントおよびその方のブログの紹介をしたもので、週末でもあり、普段よりアクセス数は少なくなるだろうと予想して書いた。だから、まさかこれに多数の批判的コメントを伴った「はてブ」をいただくとは思わなかった。批判コメントを寄せられた方の多くは大阪府民だと思うが、大阪ではまだまだ新自由主義が全盛で、多くの橋下信者がいることを思い知った。石原慎太郎を知事に戴く東京帝国と双頭の鷲ならぬタカともいうべき大阪帝国の臣民を結束させるエントリだったかもしれない。ハイル・ハシモト!(笑)
そこで、今日はここ最近ブログ定休日にしている日曜日なのだが、ネオリベ帝国・大阪にちなんだエントリを上げることにした。といっても、現代の大阪ではなく、江戸時代の「堂島米会所」の話である。
堂島というと、昔、毎日新聞大阪本社があったところで、その跡地に建つビルに「ジュンク堂書店」という神戸発祥の本屋さんがある。私が大阪に用がある時には決まってこの本屋に立ち寄る。
その堂島に、「堂島米会所」が開設されたのは、享保15年(1730年)のこと。当時の大坂(大阪の旧表記)は経済で栄えた町だった。この堂島米会所では、
とされている。敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済による先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕組みを備えた、世界初の整備された先物取引市場であった。(Wikipediaより)
本山美彦著『金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス』(岩波新書、2008年)からの孫引きだが、ノーベル経済学賞受賞者の故マートン・ミラー (1923?2000)は、NHKテレビで放送された「マネー革命」という番組(1999年)の取材に答えて、
などと言っていた。「先物市場は日本で発明されたのです。米の先物市場が大坂の真ん中の島で始まりました。それは現代的な取引制度をもった最初の先物市場でした。それはあまりにも成功しすぎてしまったので、(明治)政府につぶされてしまって、今日では存在していません。そして、同じようなものは生まれませんでした」
「世界最初の先物市場が政府につぶされてしまいました。最終的にはさすがの大蔵省も先物やオプションの取引を許可しましたが、それは私たちがうるさく文句をいったから、仕方なく引っ張られたのです」
「(日本の先物市場は)残念ながら不毛の土地に落ちた種に似て、まったく発展しなかったのです。規制さえなければ、日本はこの分野の先駆者になれたかもしれません」
(以上、NHKテレビ「マネー革命」(1999年)より?本山美彦『金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス』(岩波新書、2008年) 101-102頁による)
ノーベル賞学者のお墨付きをいただいたせいか、この堂島米会所をもって、「大坂には先見の明があったのに、明治政府につぶされた」という言い方をする人は多い。特に新自由主義者がそう言いたがる。
しかし、本山氏によると、事実は全く異なる。酒井良清・鹿野嘉昭著『金融システム(改訂版)』(有斐閣アルマ、2000年)を参照しながら、こう批判している。
堂島米会所の歴史を正しく認識していれば、民間の力の拡大を恐れた明治政府が会所を廃止したという馬鹿げた議論などはとてもできなかったであろう。
堂島米会所が明治政府によって廃止されたのは、マートン・ミラーの言うように、市場の力を新政府が恐れたからではなかった。堂島米会所は自壊したのである。この会所は、極端な投機に走り、民衆の最重要の生活物資である米の価格が暴騰し過ぎ、経済社会混乱の元凶となっていた。没落過程にあった旧幕府権力がこの会所を利用して投機に走っていたのである。
幕末の幕府、諸藩の財政窮乏化が、会所崩壊の原因であった。この会所を利用して、担保となる米がないにもかかわらず、諸藩は過米切手、空米切手と呼ばれる融通手形を過剰に発行していた。これが全国に出回り、経済は大混乱に陥ってしまったのである。米価格は大暴騰し、会所はもはや先物市場も価格付け機能も喪失していた。幕末の金融システムを破壊したものこそ、先物取引の堂島会所だったのである。(酒井・鹿野[2000])
明治政府は、堂島周辺に集まっていた諸藩の大名蔵屋敷を没収した。当時の堂島は大名を最大の顧客にしていた。大名の没落が会所を没落させたのである。それは、歴史の当然の成り行きであった。けっして繁栄する民衆の力を弾圧するために、明治政府が会所を廃止したのではなかった。
(本山美彦『金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス』(岩波新書、2008年) 102-103頁)
大坂には、確かに世界に先駆けて先物取引市場があった。あるいは大阪人は新自由主義のDNAを持っているのかもしれない(笑)。しかし、「庶民の町」という大坂(大阪)のイメージとは裏腹に、堂島米会所は幕府や大名と癒着していたのである。そういえば、阪神タイガースのシニア・ディレクター星野仙一も、ライバル球団の親会社・読売新聞のボスにして保守政治のフィクサー・ナベツネと癒着している(笑)。
冗談はともかく、「金融工学」なんてものが存在しなかった江戸時代にも、現在と同じようなことが行われていたわけで、人類の進歩なんてたかが知れているんだなと思わせる。それとともに、明治維新というのはやはり革命だったんだなあ、とも思う。
そして、今の日本は幕末に似ているとつくづく感じる今日この頃なのである。
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当ブログの更新間隔は、このところ1日おきくらいになってしまっているが、これは参院選前からの予定の行動であり、自民党が参院選で大敗した今、あんな安倍ごときの悪口を書くのなど2日に1度で十分、それよりもっとやりたいことに時間を割きたいと思っているからだ。
その一つが読書であり、買い込んでいながら読めていない本がたくさんあることでもあり、これからじっくり読んでいきたいと思っている。
一昨日のエントリ「言論が一方向に振れる時 ? 山口県光市母子殺人事件をめぐって」も、かつて読んで印象に残った本があればこそ書けた記事だった。
その本とは、魚住昭著「特捜検察の闇」(文藝春秋、2001年)だった。
この本で著者の魚住は、田中森一、安田好弘という「悪徳」弁護士として知られる、ともに逮捕された二人の弁護士を題材にして、特捜検察の「国策捜査」を描いた。そして、安田好弘こそは「山口県光市母子殺害事件」の弁護団の中心人物なのである。この本を読んでいたからこそ、私は「安田=悪徳弁護士」という図式を、はなから全く信用せずに斥けることができた。「特捜検察の闇」によると、安田弁護士は、中坊公平率いる住宅金融債権管理機構(住管)が「国策」の名のもとに行っていた捜査や債権回収の実態と対峙していた。しかし、裁判官、弁護士、検事の法曹三者が一体となった「国策捜査」が行われ、安田は、債権回収を妨害するために不動産会社に「資産隠し」をしていたとして警視庁に逮捕されたのだった。
「国策捜査」については、佐藤優の「国家の罠」(新潮社、2005年)が名高いし、優れた本だ。佐藤優の逮捕も鈴木宗男の逮捕も国策だったし、鈴木宗男を追い落とすのに利用された辻元清美は、その役割を終えると自らも「国策捜査」の罠にはまって逮捕された。佐藤は、旧来自民党のケインズ型経済政策からコイズミ・竹中らのハイエク型経済政策に転換する「時代のけじめ」として、前者を代表する政治家である鈴木宗男が逮捕されたのだろうと考えている。
その鈴木宗男と佐藤優の対談本である「反省」(アスコム、2007年)がよく売れているようだ。私も読み、面白いとは思ったが、「必読の書」とまではいえないと思う。佐藤の対談本なら、これよりは以前にもご紹介した魚住昭との対談本「ナショナリズムという迷宮」(朝日新聞社、2006年)の方がずっと面白い。
私が今読んでみたいと思っている本の一つが、魚住が「特捜検察の闇」で扱っているもう一人の「悪徳弁護士」である田中森一が書いた「反転?闇社会の守護神と呼ばれて」(幻冬舎、2007年)である。410ページもあるハードカバー本で、読みでがありそうだ。
あと、最近読んで面白かったのが岩波文庫の「石橋湛山評論集」(1984年)である。
私が石橋湛山に興味を持ったのは昨年夏のことだ。「きっこの日記」の昨年8月6日付「原爆の日」は、非常に印象的な一編だが、日記の末尾に、「戦争を語り継ぐ60年目の証言」というサイトにリンクが張られている。そして、その中に「石橋湛山(第55代内閣総理大臣)の反戦論」というページがあるのだ。これは、半藤一利著『戦う石橋湛山』(東洋経済新報社、2001年)を紹介したものだ。その後、高橋哲哉「靖国問題」(ちくま新書、2005年)で湛山が敗戦直後に靖国神社廃止論を唱えていたことを知り、ますます興味は高まった。
岩波文庫の「石橋湛山評論集」には、その靖国廃止論は収録されていないが、100年近く前の二十代にして、早くも日本人に哲学が欠如していることを嘆き、1920年代に朝鮮・台湾・樺太・満州などの放棄や軍備不要論を説き、税源の地方移譲を主張した。湛山は個人主義と社会主義を融合させた「新自由主義」を唱えたというが、これはいうまでもなく「市場原理主義」の蔑称である現在の「新自由主義」とはベクトルが180度異なるものだ。
この石橋湛山が首相就任2か月で病気のために退陣し、代わって岸信介が首相になったのは、日本にとって痛恨事だった。
「石橋湛山評論集」は、昔の人が書いた本とは思えないくらい読みやすく、その内容は現在でも全く色あせていない。イッキ読みできるし、是非オススメの一冊だ。
最後に、政治関係から離れて読んでみたいと思っている本として、亀山郁夫氏によるドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳(光文社古典新訳文庫、2006-07年、全5巻)をあげておく。私は新潮文庫の原卓也訳(1978年)で18年前に読んだが、読みやすいとの評判の高い亀山の新訳は、買い込んではあるものの未読である。参院選も終わったことだし、ここらでじっくり読んでみたいと思っている。
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さて、当ブログでは、参院選までは目の前の動きを追うのに精一杯だったが、参院選で安倍自民党の「惨敗」という結果が出た今、歴史的な観点から日本の政治の現在を見つめられないものかと考えている。
そこで、夏休みでもあったので、しばらく前に買い込んでいながら読めていなかった本をいくつか読むなどしている。
その中から今回は、石川真澄の「戦後政治史・新版」(岩波新書、2004年)を紹介したい。
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著者の石川真澄氏は、3年前(2004年)に亡くなられた元朝日新聞記者だが、データを緻密に解釈した選挙結果の解析が面白くて、70年代の昔から好きな新聞記者だった。この本は、1995年1月に出版された旧版に手を加えたものだが、著者の病状悪化のため、政治学者の山口二郎氏による補筆の手が入っている。そして、本には2004年参院選の結果までが記述されているが、参院選の行われた5日後の2004年7月16日、石川氏はこの世を去ったのだった。
生前から「政治改革」の欺瞞を喝破し、新自由主義的思潮を嫌って、社会党の現実化や自社さ連立政権に期待していた石川氏は、当時は世の中の流れから取り残された人のように思われていたが、氏の先見の明は、コイズミの「構造改革」のひずみが明らかになった今、はっきり証明されていると思う。石川さんが長生きしてくれたら、と何度思ったかしれない。
今年、没後3年の石川さんがずいぶん注目された。それは、「亥年現象」という仮説を石川さんが立てていたためだ。12年に1度の亥年、統一地方選と参院選が重なる年には、参院選の投票率が下がり、自民党が苦戦を強いられるというのがその説だ。
「亥年現象」は、統一地方選の運動に疲れた地方議員が、参院選に注ぐ力を奪われてしまうために起きるというのが石川さんの説明だった。しかし、今年の参院選は3年前より投票率が上がり、「亥年現象」のジンクスは破られた形になった。
ところで、「戦後政治史・新版」は、石川さんが主観を排して、できるだけ客観的な立場に立ってまとめているので、貴重な史料になっている。通して読めば、戦後政治の最初から、保守勢力は憲法を変えようとしていたし、保守勢力の約半分の規模を持つ革新勢力は改憲を阻止しようとしていたことがよくわかる。
「55年体制」の確立までは、保守は合従連衡を繰り返していたし、社会党も右派社会党と左派社会党に分裂したが、1955年の「保守合同」と社会党の統一によって、二大政党制、否、1と1/2政党制が成立した。その過程は、90年代から今世紀はじめにかけての政党の分立と、自民・民主の二大政党への再編成と二重写しになる。
欧州の社会主義勢力が社会民主主義に傾斜していったのに対し、日本の社会党は左傾・教条主義化して、政権担当能力を失っていった。私は1977年の社会主義協会(マルクス主義を信奉する社会党左派)と江田三郎派の抗争を今でも覚えているが、あの時「数の力」で江田派を圧倒し、江田を憤死させた社会党左派の非人間性には、今でも忘れられないものがある。江田は社会党を離党して社会市民連合を設立し、自らも77年参院選に立候補するつもりだったが、参院選を2か月後に控えた同年5月に、志半ばにして急逝したのだった。その江田三郎の息子・江田五月が参議院議長に選出されたことは、まことに感慨深いものがある。
社会党は、自民党・さきがけと連立政権を組んだことが有権者の支持を失って、議席を大幅に減らしたあげく、民主党に合流した人たちと、残って社民党を結成した人たちに分かれた。必ずしも右派が民主党に行き、左派が社民党に残ったわけではない。民主党には旧社会党の最左派の人たちもおり、一方でコイズミ以上に過激な新自由主義者もいるというおそるべき幅の広さを持った寄り合い政党だ。
それはともかく、自さとの連立政権当時、社会党が支持を失ったことについて、私は社会党が「左翼バネ」による安易な運動方針に安住し、肝心の政権をとった時の政権担当能力を失っていたからではないかと思う。自民党との政策協議において、従来の社会党の党是に背くような妥協を次々と行い、過去の左傾路線は単に同党が「易きに流れていた」結果に過ぎなかったことを露呈した。
民主党は、当時の社会党の轍を踏んではならない。当時の社会党とは対照的に、今の民主党で警戒しなければならないのは、前原誠司に代表される「右バネ」をもった勢力だ。30年前の社会党は、「左」の教条主義者に蹂躙されたが、今の民主党が絶対に陥ってはいけないのは、前原ら「右」の理想主義者に蹂躙されることではなかろうか。
よく思うのだが、「中道」とは、「性悪説」というか、苦い人間不信を底流に持つ、意地の悪い思想だ。理想論が好きな日本人は、社会主義協会みたいな教条主義や、コイズミ流の「カイカクファシズム」を好む傾向がある。これらは、いずれも「性善説」に基づく思想だ。「性善説」は受け入れられやすいけれど、現実からは隔絶している。
ところで、十年一日のごとく変わらないかのように思える政治の流れだが、実際には少しずつ動いていっているものだ。社会党が実質的に崩壊・消滅したのもその一つだが、自民党の終焉も、いよいよカウントダウンを迎えた。
自民党が敗北した04年参院選のあとにまとめられた「戦後政治史・新版」の末尾近くには、こう書かれている(おそらく、山口二郎氏の補筆であろうと想像する)。
ポスト小泉のリーダー候補が存在しない自民党では、(2004年参院選の)敗北の責任を問う声は起こらず、自公連立の継続と小泉政権の続投が決まった。衆参両院議員の任期を考えれば、2007年までは国政選挙をする必要がない。したがって、自公連立で国会の安定多数を維持できる以上、小泉政権は安泰である。しかしそれは自民党にとってつかの間の、そして最後の安定でしかあるまい。
(石川真澄著『戦後政治史・新版』=岩波書店、2004年=より)
この後の、誰も予想しなかった2005年の「郵政総選挙」によって、自民党は安定を強化するかに見えたが、それは一過的なフィーバーに過ぎなかった。今年の参院選の方が、長期トレンドに沿った結果だった。一足お先に党勢を衰退させた社会党に続いて、自民党も歴史的役割を終えたと私は考えている。自民党はもはや、政権の座を維持することだけを唯一の運動原理とする政党であって、政権を持っていない自民党に存在意義はない。今後はますます民主党が強くなり、次の総選挙では政権交代が起きるだろうが、政権奪取のための寄り合い政党である民主党は、いずれ大きく分裂する。その時こそ、日本の政党政治が新しい段階を迎えるのではないかと私は考えている。
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今思い返しても、「はだしのゲン」が少年漫画誌に載った70年代というのは、戦後日本の歴史でももっとも反戦の思想が人々に共有された時代ではなかったかと思う。もう少し前の時代には、戦記漫画が結構あったし、80年代以降に入ると、ラブコメが全盛となって、戦争などという重いテーマを扱う漫画はすっかり下火になった。
手塚治虫(1928-1989)の数ある漫画のうちにも、戦争を扱った作品がある。先頃、それらを集めた祥伝社新書 『手塚治虫「戦争漫画」傑作選』 が出版された。
![]() | 手塚治虫「戦争漫画」傑作選 (祥伝社新書 81) 手塚 治虫 (2007/07) 祥伝社 この商品の詳細を見る |
収録された作品は、下記の7編だ。
「紙の砦」 (「週刊少年キング」 1974年9月30日号初出)
「新:聊斎志異 女郎蜘蛛」 (「週刊少年キング」 1971年1月17日号初出)
「処刑は3時に終わった」 (「プレイコミック」 1968年6月創刊号初出)
「大将軍 森へ行く」 (「月刊少年マガジン」 1976年8月号初出)
「モンモン山が泣いているよ」 (「月刊少年ジャンプ」 1979年1月号初出)
「ZEPHYRUS(ゼフィルス)」 (「週刊少年サンデー」 1971年5月23日号初出)
「すきっ腹のブルース」 (「週刊少年キング」 1975年1月1日号初出)
手塚治虫は、1945年6月7日に「学徒勤労動員」によって働かされていた軍需工場で空襲を受け、地獄図を見た。大阪・淀川の堤には焼け焦げた死体がいくつも転がっていた。女の人が燃え上がるのを見たのは、特にショックだったそうだ。
手塚の戦争漫画には、この時の体験が色濃く反映されている。だから、時にグロテスクな表現もいとわない。上記の本には収録されていないが、手塚には「カノン」(「週刊漫画アクション」 1974年8月8日号初出)という印象的な作品があるが、この作品にもショッキングなシーンがある。
今回紹介した 『手塚治虫「戦争漫画」傑作選』 でもっとも印象的だったのは、巻頭に収録された「紙の砦」で、主人公の少年が傷ついた米兵に復讐の一撃を加えようとしたが、米兵の傷ついた無惨な姿にショックを受けて果たせなかったくだりだ。少年は「だ、だれのせいだよ、こんな戦争」とつぶやく。
手塚は、「大将軍 森へ行く」に登場する少年にも、「正義の軍隊なんてどこにもいない」と語らせている。本の解説(漫画評論家・中野晴行氏)も指摘しているように、これは手塚作品に一貫するメッセージだ。もし手塚が存命だったら、「テロとの戦い」という名で、現実には理不尽な殺戮を行っている米軍を正当化する言論がまかり通っている現状をどう思うだろうか。
それにしても、『手塚治虫「戦争漫画」傑作選』 に収録されているような漫画が少年誌に普通に掲載されていたのが70年代という時代だった。繰り返しになるが、学生運動が燃え盛った60年代と若者が政治に関心を失って急速に社会が右傾化していった80年代(自民党の全盛期)にはさまれた70年代は、戦争の悲惨さ、平和の大切さがもっとも普通に語られた時代だった。
その時代に少年期を過ごした人間として、日本が再び戦争への道を突き進んでいくことだけは、なんとしてでも阻止したいと日々考えている。
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