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きまぐれな日々

月刊「現代」に、立花隆の「私の護憲論」が連載されている。7月号には、確か上下編の記事になると書かれていたと思うが、8月号を見ると「第2回」となっていて、どうやら数回にわたる連載に変更されたようだ。参院選の争点が「憲法」から「年金」へと変わったことの影響と考えるのはうがった見方だろうか。

ところで、立花さんの護憲論は、元東大総長の南原繁の思想に立脚している。コイズミが靖国に参拝した昨年8月15日、立花さんは東大で「8月15日と南原繁を語る会」という会を催した。会の少し前に、「メディア ソシオ-ポリティクス」に、『小泉政権最後の8月15日 南原繁の声に耳を傾けよ』 という記事も発表している。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060725_815/

立花さんは、この会に参加した識者たちの講演や、南原繁の演説集をもとに、東京大学出版会から 「南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由」 という本を出版した。

その中で、帝国陸軍とGHQの本郷キャンパス接収計画を頑としてはねのけた東大の事務局長・石井勗(つとむ)氏の『東大とともに五十年』の抜粋が、とても印象に残った。『東大とともに五十年』は、石井氏の私家版の回顧録で、一般には入手不可能とのことである。

以下、立花隆編「南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由」から、立花さんの解説文を引用する。


 陸軍がやってきたのは、1945年6月で、沖縄もすでに陥ち、あとは本土決戦をやるしかないという状況にたちいっていた時期である。
 陸軍の説明によると、本郷キャンパスに、首都防衛本部を作り、ここから最後の首都決戦の指揮をとりたいということだった。
 米軍が最初どこから上陸してくるにせよ、最後は、首都の攻防戦になる。そうなったときの防衛基本計画がすでにできていた。米軍が首都に迫ってきたら、隅田川と荒川をせき止めて、その上流で堤防を切る。そうすると、東京の下町一帯は洪水になり、海岸線まで水びたしになる。どこまで水がくるかというと、上野の西郷像のある台地と本郷の東大がある台地を結ぶ戦まで水がきてそこが波打ち際になる。
 つまり本郷キャンパスは、そこでの攻防戦を上から見下ろす戦略的要地になるというのである。
 軍部からそのような要求を受けて、どう押し返したかというと、次のような説得をした。この東大においても、日夜本土決戦にそなえて休みなく大切な軍事研究を行いつつある。また本土決戦になったら大量に必要になる軍医を急いで育てるべく、教授も学生も昼夜兼行で実習に励んでいる。そういう意味で、個々は既に最前線なのだ。指令本部用地にするわけにいかない。こういって押し返してしまうのである。
 またGHQは、戦争が終わる前から、東大を接収してここに占領軍総司令部を置くつもりでいた。(中略)
 これもまた、内田祥三総長、南原法学部長と石井事務局長が押し返してしまうのである。そのとき用いた理屈は、こうだった。日本は戦争に敗れた結果、文化国家として生きていくしか道がない。文化国家として生きるために必要なのは、なんといっても、教育と学術だ。教育も学術も、この東京大学が日本の中心になっている。それを接収するということは、日本の国に、もう滅びろというのと同じだ。そのような暴挙は日本陸軍すらあえてしなかった。それをお前たちはやるのか??。
 ギリギリのところで、この論理が通り、占領軍は、東大の接収をあきらめ、日比谷の第一生命ビルに本拠をかまえることになったのである。

(立花隆編 「南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由」 所載 「『東大とともに五十年』 解説」 より)


軍国主義日本の敗戦末期において帝国陸軍に対して、また敗戦国の被占領時代に占領軍に対して、それぞれ毅然とした態度をとって「学問の自由」を守った当時の大学人に対し、憲法第21条で「表現の自由」が保障されている現代において、ジャーナリズムが政府・与党への批判を遠慮しているように見えるのは、実に情けないことだ。敵は、思想・信条の自由に平気で容喙する政策をとってきているのに、それに全力で立ち向かわないようで「ジャーナリズム」の名に値するのか、と思う。

きたる参議院選挙は、戦後民主主義を守るための最後のチャンスだ。ここで与党を惨敗に追い込んではじめて、戦いを継続することができる。万一与野党逆転さえ実現できないようなら、安倍晋三ではなくて、安倍に対抗する側が 『the End!』 になってしまう。野党第一党の党首が交代するどころの騒ぎではないのである。心してかからなければならない。


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東京都知事選はいよいよ明日告示だが、今日はテレビ朝日の「スーパーモーニング」で、有力4候補による討論が放送された。

今回は、18日のフジテレビ「報道2001」で石原慎太郎が袋叩きにあった築地市場の移転問題や「新銀行東京」の問題は扱わず、福祉問題を中心に扱ったが、テレビ討論会も6回目ともなると、各候補の話す内容もだいたいわかってきたこともあり、あまり印象に残らない内容だった。なお、首都圏以外は10時前に番組終了となり、あるいは10時以降も関東では討論の続きが見られたのかもしれないが、私は地方在住なので見ることができなかった。

テレビ討論会は、6回のうち昨日(3月20日)放送された「朝ズバッ!」以外はすべて見た。「朝ズバッ!」は、仕事に出なければならないので見ることができず、録画して出かけたが、ありがたいことに、当ブログにトラックバックいただいた 「大津留公彦のブログ2」 の記事 『今朝の朝ズバの都知事候補討論会』 に紹介されている。この番組は、司会が大嫌いなみのもんたということもあり、ビデオは見ていないが、大津留さんのおかげで、討論のおおまかな内容はわかった。むろん、みのの司会だから、石原にとって厳しい討論にはならなかったことだろう。

大津留さんの記事で、ちょっと面白いなと思ったのは、「今の心境を歌かフレーズでいうと」という問いに対して、浅野史郎さんが中山千夏の「あなたの心に」を挙げたことだ。この歌については、私は全然知らないが、調べてみたら1964年の歌だという(Wikipedia 「中山千夏」 より)。この歌は、最近岩崎宏美もカバーしているのだそうだが、私が面白いと思ったのは歌のことではなく、中山千夏を私が初めて認識したのは、1977年の参院選の時だったからだ。この時、選挙に向けて「革新自由連合」が結成され、中山さんはその代表の一人となったが、当時28歳で、参院選の被選挙権のある30歳に達していなかったので、立候補はできなかった。その後、80年の参院選で当選したが、86年に落選し、以後国政から身を引いた。
その中山さんの歌を、「心境を表わす歌」として浅野さんがあげたことには興味深いものがある。

なお、吉田万三さんが美空ひばりの「柔」、黒川紀章氏が山本譲二の「みちのくひとり旅」を挙げたのに対し、石原は「千万人なりとも我往(ゆ)かん」という孟子の言葉を挙げたそうだが、日和見のチキン・石原が何を生意気なことを言うかと思った(笑)。郵政総選挙を前にしたテレビの政治番組で(フジの「報道2001」かテレビ朝日の「サンデープロジェクト」のいずれかだった。たぶん前者)、小林興起を擁護しようとして周りの冷たい視線を浴びた石原は、気圧されて小林擁護の言葉を発することができなくなったのを、私は目撃している。石原は、以後小林を見捨て、コイズミの軍門に下った。当時、石原とはなんと小心な男かと呆れ果てたものである。

さて、前置きがずいぶん長くなってしまった。ここからが本題である。

今日は、都知事選で石原に挑む浅野史郎さんの著書 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』 (岩波書店、2006年)を紹介したい。

過去6回行われたテレビでの都知事選有力候補の討論会で、石原に対する対立3候補のうち、一番目立ったのが黒川紀章氏であることは、衆目の一致するところだろう。とにかく、他の候補者の発言を遮って自説を延々と述べる。かなりいい加減なことでも、とうとうとまくし立てる。それに対し、浅野史郎氏と吉田万三氏は、真面目に石原都政の問題点を指摘していたが、両氏に対して少々堅い印象を持たれた視聴者も多いのではないかと思う。

浅野さんの著書 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』は、そんな浅野さんの印象を吹き飛ばすに足る本だ。浅野さんには10冊以上の著書があるが、この本は初めての書き下ろしだそうだ。


疾走12年 アサノ知事の改革白書 疾走12年 アサノ知事の改革白書
浅野 史郎 (2006/05)
岩波書店

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これは、浅野さんが宮城県知事を辞めてほどない2006年5月に発行された本で、オビに「これにて知事を卒業します。」と銘打たれており、寺島実郎さんの下記のような推薦文が書かれている。

「浅野史郎ほど爽やかに筋を通す人物を知らない。彼の知事としての12年は地方の在り方だけではなく日本の針路にとって示唆的である。」
(浅野史郎 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』(岩波書店、2006年)への寺島実郎さんの推薦文)


先にリンクを張った、出版元の岩波書店のウェブページには、次のようなあおり文句が書かれている。

これにて知事を卒業します」.突然の不出馬宣言は県民を驚かせた.「宮城県の誇りを取り戻す」一心で取り組んできた12年間,ユニークな選挙,議会との激しい応酬,障害者施設解体宣言の衝撃,県警とのバトル,楽天イーグルス誘致の内幕.そこには地方発改革断行に賭ける強固な意志が貫かれ,知事業にともなう喜怒哀楽が溢れていた.
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/8/0234210.html


同書店のページをさらに開くと、前記寺島さんの推薦文のほか、著者・浅野史郎さんからのメッセージ、著者略歴、それに本の目次を見ることができる。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0234210/top.html

本は8章から成り、第1章「私が知事を辞めたわけ――57歳転職最後のチャンス」では、出馬すれば4選は間違いないといわれていた浅野氏が出馬しなかった理由を語っている。「権力は長く続けば、腐敗するとは言わないが、陳腐化する」として、最初から知事は3期12年と決めていたそうだ。

第2章 「組織スキャンダル――情報公開に聖域なし」には、宮城県庁の「食糧費」不正支出問題をめぐって、住民訴訟が起きたことをきっかけに、浅野県政が情報公開を進めた経緯が書かれている。
なお、「食糧費」とは、『霞が関の役人を接待した懇親会や、その他のパーティー、宴会の経費として使われている』(二重括弧は浅野氏の著書からの引用、以下同様)支出科目とのことだ。

都知事選を控えた現在、もっとも注目を引くのが第3章 「選挙は楽し――基盤なし借りなしで3選」 だろう。浅野さんが最初に宮城県知事選に出馬したのは1993年だが、この時は現職知事がゼネコン汚職で逮捕され辞職したことを受けての「出直し選挙」で、浅野さんは告示日のわずか3日前に出馬表明をした。「20対0で負けている野球の試合で、9回裏ツーアウト、ランナーなしの場面の打者だ」とまでいわれた浅野さんだが、みごと波を生み出して、『このままでは、いけない』 『みやぎの誇りを取り戻したい』と感じていた有権者に支持され、29万票対21万票という大差で、自民党、社会党、民社党の3党が推していた副知事を破って当選した。

2選目の1997年には、「県民一人ひとりが主役の選挙」をスローガンに、政党や団体からの推薦を拒んだ。自民党も新進党も浅野氏を推薦したいと申し入れてきたのに、これを断った挙句、当時国政では与党と野党に分かれていた自民・新進両党が組んで立ててきた対立候補を、ナント62万票対31万票の大差で破って再選を果たしたのである。

3選目の2001年には、自民党は対立候補を立てることができず不戦敗。浅野さんは共産党推薦の候補を53万票対8万8千票の大差で破った。

3度の選挙を通じ、浅野さんは県民が主役の選挙を心がけてきた。『選挙のありようが、当選後の知事のありようを決める』というのが浅野さんの持論である。その伝でいうと、「石原軍団」なるものに頼ってきたポピュリズム選挙を毎回展開している石原慎太郎が、東京都政を私物化するのは当然の成り行きということになるだろう(笑)。

さて、だいぶ長くなったので、第4章、第5章を飛ばして第6章 「福祉の現実と理想――障害者施設解体宣言」を紹介しよう。「障害者施設解体宣言」などというと驚かれる方も多いと思うが、これは、障害者を施設に押し込めるのではなく、地域全体で受け入れていこうというコンセプトに基づくもので、浅野さんは2004年に「解体宣言」を発表した。先進的な福祉政策といえると思う。

浅野さんは、1987年9月からの1年9か月間、厚生省児童家庭局障害福祉課長を務めたが、その経験が浅野さんの人生を変え、『障害福祉の仕事が、私にとってのライフワークになった』と書いている。この章はこの本の中でも特に印象に残る箇所なので、少し引用する。

「障害者の存在が社会のありように関わる」ということも漠然と感じることになった。そんなことから、障害福祉の仕事は人間存在そのものに関わること、人道的だとか、あわれみの心とかで表現されるものではなく、むしろ自分たちの住む社会を住みやすくするためのプロジェクトではないかと思い、自分にとって一生ものの仕事になるのではないかという予感がしたのである。

(浅野史郎 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』 (岩波書店、2006年) 170頁)


この浅野さんの言葉と、府中療育センターを視察したあとの記者会見で、知的障害者に対して 「ああいう人ってのは人格があるのかね?」とほざいた石原の暴言とを比較して、それでも石原に投票するというのなら、どうぞご自由に、というしかない。私に言えるのは、そんな人は信用することができない、ということだけだ。

本の最後の第8章は、「知事の責任――県警犯罪捜査報償費」 と題された、宮城県警との確執を記述した章だ。この件についても石原は、「浅野さんが警察の機密まで公開しようとするから、宮城県警の検挙率が下がった」と、浅野氏批判の材料に使っているが、これはとんでもない言いがかりだ。浅野さんの本を読んでもらえばわかることだが、県警の捜査への協力者に対して支払われるはずの報償費の用途が不明で、県警幹部の懐に入れられてしまったのではないかという疑惑を解明しようとした浅野さんの県警に対する闘争であり、浅野さんに言わせれば『知事という権力と県警本部長という権力のぶつかり合い』だった。浅野さんは県警と激しくやり合ったあげく、県警犯罪捜査報償費の予算執行を停止するという強硬手段に出たのだが、理がどちらにあるかはあまりに明らかだろう。この章での浅野さんの文章には、特に力が入っていて、県警との激しいバトルの様子が生々しく伝わってくるので、読んでいてとても面白い。

こういういきさつの件だから、これを 「情報公開の負の部分」 ととらえるのは問題のすり替えである。石原の主張は、彼がうしろ暗い部分をずいぶん持っているために、警察に恩を売って自らを守ってもらおうと思っているのではないか、などとついつい勘繰りたくなってしまう(笑)。

まあ、石原のことはともかく、この章は結局浅野さんがやり遂げることができず、浅野さん辞職のあと、自民党推薦で当選した村井嘉浩知事は、あっさり予算執行停止を解除してしまった。2005年の知事選は、郵政選挙で自民党が圧勝した直後に行われ、宮城県にもコイズミチルドレンの杉村太蔵が応援にくるなど、馬鹿騒ぎの延長戦をやった結果、村井氏が、浅野さんが推した前葉泰幸候補と共産党推薦の出浦秀隆候補を破って当選してしまったのだ。

この問題に関して、章の終わりに浅野さんは以下のように書いている。

犯罪捜査報償費問題に決着をつけるということなしに、宮城県知事を退任することになったのは、確かに心残りである。しかし、負け惜しみで言うのではなく、真実は何年かかったとしても、必ずや明らかになると信じている。その時には、快哉(かいさい)を叫ぶという気持ちにはならないだろうが、自分として最善を尽くしたという自負を持つことだけはできるだろうと思っている。

(浅野史郎 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』 (岩波書店、2006年) 233頁)


この本は、浅野史郎さん支持派はもちろん、「敵を知る」意味からも、吉田万三さん支持派や黒川紀章さん支持派、それに石原慎太郎都知事支持派にも是非一読をおすすめしたい。



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このところ、当ブログでは連日、東京都知事選の話題を扱っている。四国の田舎者が何を言うか、と思われるむきもあるかもしれないが、私は過去にはのべ7年間ほど東京都民だった時代もある。7日と8日の記事で触れた下北沢にも友人の家があって、何度か訪ねたことがあるし、東京の西部には割と土地勘があるほうだ。

さて、62年前の今日は、その東京が大空襲に見舞われた日だ。今日は、この東京大空襲をはじめとする戦争体験を語り継ぐ目的で出版された本を紹介したい。

東京新聞社会部編 『あの戦争を伝えたい』 (岩波書店、2006年)である。

この本は、2005年の終戦60周年を機に「東京新聞」に連載された記事をまとめたものだ。3月10日の東京大空襲に関しても、『「敵国の母」祈りは海を越え』、『絵で語る「地獄の橋」』、『母への思い、悔悟の心』の3本の記事が収録されている。

ネット検索したら、著者である当時の東京新聞社会部長(現論説委員)の菅沼堅吾さんが専修大学育友会の会報「育友」に寄せた文章が見つかったので、紹介する。
http://www.ikuyuu.com/newsletter/107/p43.html

以下引用する。

『あの戦争を伝えたい』発刊に際して

『あの戦争を伝えたい』(東京新聞社会部編、岩波書店)は戦後60年の昨年、東京新聞に通年で連載された「記憶?新聞記者が受け継ぐ戦争」の企画を本にまとめたものです。世代を超えて読まれることを目指していますが、やはり戦争を知らない世代、特に若者に読んでもらいたいと願っています。『育友』で紹介できる機会をいただき、感謝しています。

実はこの本自体、20代の記者が3年前の夏から取り組んでいる企画の延長線上にあります。当時、戦争体験者への取材経験が若い記者にあまりないことを知りました。これでは報道する側が、戦争の風化を後押ししているようなものです。

8月の終戦記念日の前後だけでも毎年、20代の記者が交代で戦争体験者の記憶を受け継ぐ企画を連載しよう。社会部内で話し合い、こんな結論になりました。読者からの反響は予想以上に大きく、若い記者には励みになったようです。

戦後60年の節目の年には記者の「年齢制限」をやめて、部員全員で取り組むことにしました。1955年生まれの私が最年長という社会部の年齢構成です。 20代の記者にあれこれ言うほど、みんな戦争を知らないと反省したからです。今取材しないと直接話を聞ける機会を永遠に失ってしまう。こんな焦燥感もありました。

17人の部員が自分が知りたい戦争について取材しました。当然ながらテーマは東京大空襲、戦艦大和、沖縄戦、原爆投下、回天特攻、中国や韓国での加害、シベリア抑留、BC級戦犯、満州棄民、キリスト教徒弾圧、米兵になった日系二世などと多岐にわたりました。取材上の原則は無名の庶民にとっての戦争を伝えることです。無名の庶民の戦争は、戦死者数などの数字に置き換えられかねません。それでは「戦争とは何か」が人々の心に届くことはないでしょう。

取材には戦争体験者の記憶を自分の心に刻み込む決意で臨むことも確認しました。加害など戦争の生々しい体験を聞き出すことは簡単ではありません。「受け継ぐ」という強い気持ちがあって初めて、「話したくない」という心の壁を突破できるのです。

加害、被害の両面を含め、戦争の全体像を浮かび上がらせることができたのでは、と思っています。過去と向き合うことで今を、そして未来をどうすべきかしっかり考えてほしい。これが編者の願いです。今の日本は再び戦争に向かって歩んでいないか。戦争体験者の憂いの声が私たちの元に届いています。

在学生の感想文を読ませてもらいました。いずれも編者の想定を超える深い考察です。「願いはかなう」という希望を持つことができました。森敦さんは今も戦争中とは異なる「貧困さ」と「不自由さ」が社会にあることを指摘。「豊かな」「自由な」社会を築く決意を述べています。そのことが平和な社会を、世界を築くことにつながると分かっているのでしょう。

金城芽里さんは沖縄出身ですが、沖縄でも戦争は風化しているようです。伝えていくことより人の記憶の薄れがいかに早いかを実感しているのです。それでも「自分には関係ない」と考えず、戦争体験者の「想い」を次の世代に伝えていこうと呼びかけています。

専大に今春入学した二男に本を渡しました。読み終わった時、何を考えたか聞きたいと思っています。未来を切り開くのは若者です。その若者に自分たちの体験を伝えるのは年長者の役割です。過去の教訓を生かせず、同じ過ちを繰り返すことほど愚かなことはありません。

(専修大学育友会会報「育友」より 菅沼堅吾氏の寄稿)


この本は、できるだけ多くの方、特に若い方々に読んでほしい本だ。

当ブログでも、微力ながら戦争体験を語り継ぐ記事を時折掲載している。読者からのコメントを集めたエントリもあるので、未読の方には是非ご覧いただきたいと思う。

「きまぐれな日々」より 『コメント特集?戦争反対の小さな声』
(2006年12月23日付記事)
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-208.html

リンク先の記事の中から、「あんち・アンチエイジング・メロディ」の管理人・メロディさんのコメントを再掲する。

私の父は、戦争で直接間接に妻とこどもを亡くしていますし、自分もシベリアに抑留されています。外地で暮らしていて、たまたま東京大空襲の直後に東京に戻り、焼け野原を見て敗戦を確信したと言っていました。戦争で犠牲になるのはいつも庶民です.安倍政権を支持する若者はそのことをどう思っているのかいつも疑問です。

2006.12.21 10:24 (メロディさんのコメント)

私が当ブログでしばしば書くことだが、この世には、絶対に忘れてはならない事柄というのが存在すると思う。戦争体験というのは、その最たるものだろう。
東京大空襲の日である今日、3月10日に、あらためて戦争の悲惨さに思いを致すとともに、都政を二期八年にわたって戦争大好きの極右・石原慎太郎に委ねてきた恥辱に思いを致し、きたる都知事選では、この好戦家を何が何でも権力の座から引きずり下ろさなければならないという思いを新たにしたいものだ。


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「年末年始に読んだ本」のシリーズは、今回が最終回。結局、1月17日までかかってしまった。12年前の今日、阪神大震災が起きた。忘れてはならない日だ。亡くなられた方のご冥福をお祈りし、今も苦しまれている被災者の方に心からお見舞い申し上げるとともに、天災が起きた時に人災で被害を拡大させないための予防が必要だと思う。そのためにも、耐震偽装問題は、絶対にゆるがせにはできない。3日前にも書いたが、今日は、ヒューザー小嶋進社長の証人喚問からまる1年が経過した日、つまり、民主党の馬淵澄夫議員が「安晋会」の存在を暴いてからまる1年が経過した日でもある。

さて、「安晋会」といえば、安倍晋三の非公式後援会である。宮崎学&近代の深層研究会編『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』(同時代社、2006年)は、最後の第8章「虎を画いてならずんば - 安倍晋三は何を継ぐのか」で、安倍晋三を、その母方の祖父・岸信介に絡めて論じている。

この章は、まるまる引き写してブログに掲載したいほど面白いが、そうもいかないので、概略をかいつまんで紹介する。

まず、安倍晋三の略歴だが、1954年9月21日、安倍晋太郎、洋子の次男として生まれた。現在52歳。
小学校から大学まで成蹊学園で過ごした。安倍晋三本人によると、祖父の岸信介が成蹊への入学を推奨したとのことだ。高校時代の安倍の同級生は、存在感の薄いことで逆に安倍を記憶しているという。
そういえば、栗本慎一郎さんはコイズミのことを「影の薄い男」と評していた。漫画のお好きな方なら、浦沢直樹の『20世紀少年』に出てくる、カルト宗教の指導者にして独裁政治家・「ともだち」を連想されるかもしれない。

安倍は大学卒業後、南カリフォルニア大学に遊学するなどブラブラしたあと、神戸製鋼所に入社したが、ニューヨーク支社勤務のあと、帰国して加古川工場に転勤した時は、精神的にきつかったらしい。宮崎さんによると、安倍は労働のきつさに耐えられず、数ヶ月間「静養」のため現場から消えたこともあったという。周囲には「蒸発」に見えたとのことだ。当時の同僚で、安倍が政治家になるなどと想像した人は、誰もいなかったことだろう。

よく知られているように、衆議院議員の平沢勝栄は、東大生時代安倍晋三の家庭教師をしていた。その平沢の思い出を、宮崎さんの本から引用、紹介する。朝日新聞記事からの孫引きである。

「安倍氏を自分が通う東大の駒場祭に連れて行ったときのことだ。騒然としたキャンパス内には、当時の佐藤栄作内閣を批判する立て看板があふれ、学生たちは『反佐藤』を叫んでいた。安倍氏は成蹊学園とは対極のような駒場の雰囲気に驚き、『どうして反佐藤なの?』と何度も尋ねてきた」
(「朝日新聞」 2006年8月25日付紙面より)

いかにもボンボンの安倍らしいエピソードだ。しかしその安倍は、父・安倍晋太郎の死去のあと、後継者として政界にデビューすると、北朝鮮の拉致被害者問題に取り組み、対北朝鮮強硬派として名をあげていく。

安倍が世間を驚かせたのは、小泉内閣の官房副長官を務めていた頃の2002年5月13日に、早稲田大学で行った講演会での発言である。これは、「サンデー毎日」の2002年6月2日号で、「政界激震 安倍晋三官房副長官が語ったものすごい中身 - 核兵器の使用は違憲ではない」というタイトルの記事でスクープされ、世に知られるところとなった。当ブログでもこの件については何度も取り上げているが、宮崎さんの本から改めて引用する。

 特集記事は、安倍がこの年の5月、早稲田大学で行った講演内容を報道したものである。そこで安倍は「ものすごい」ことを語っていた。田原総一朗が「有事法制ができても北朝鮮のミサイル基地は攻撃できないでしょう? 先制攻撃だから」というのに対して、こう答えた。
 「いやいや、違うんです。先制攻撃はしませんよ。しかし、先制攻撃を完全に否定はしていないのですけれども、要するに『攻撃に着手したのは攻撃』とみなすんです。……この基地をたたくことはできるんです」
 つづけてこんなことも言っている。
 「大陸間弾道弾、戦略ミサイルで都市を狙うというのはダメですよ。(しかし)日本に撃ってくるミサイルを撃つということは、これはできます。その時に、例えばこれは非核三原則があるからやりませんけれども、戦術核を使うということは昭和35年の岸総理答弁で『違憲ではない』という答弁がなされています」
 要するにここで安倍晋三は、ミサイル燃料注入段階で攻撃しても専守防衛であり、攻撃は兵士が行くと派兵になるが、ミサイルを撃ち込むのは問題ない、日本はそのためにICBMを持てるし、憲法上問題はない、小型核兵器なら核保有はもちろん核使用も憲法上認められている、とぶち上げたのだった。「ICBMは攻撃兵器だから持てない」という政府見解にも反する意見だった。

(宮崎学&近代の真相研究会編 『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』=同時代社、2006年=より)

この講演会で、安倍は岸が「戦術核の使用は違憲ではない」と答弁したと言っているが、月刊「現代」2006年9月号で、作家の吉田司さんが指摘しているようにこれは誤りで、岸は「戦術核の保有は違憲ではない」と答弁したのであって、使用まで違憲ではないとは言っていない。なお、吉田司さんの記事については、当ブログの昨年8月4日付エントリ「DNA政治主義者・安倍晋三の怪しい知性」で紹介したことがある(吉田さんの記事は、宮崎さんの本でも参考文献として挙げられている)。

この件に限らず、安倍が掲げているタカ派政策の数々は、ここで列挙するまでもあるまい。

宮崎さんは、何がそこまで安倍晋三を駆り立てるのかを分析し、実は安倍には自信がない、「闘う」ポーズは自信のなさの現れだ(よく、弱い犬ほどよく吼えるというな、と私などは思ってしまう)、彼には長い間の鬱憤があるという。

まず、東大卒ばかりがずらりと揃っている名家にあって、成蹊大学卒であることのコンプレックス(宮崎さんはここまではっきりとは書いていないが、言いたいのは明らかにそういうことだ)。宮崎さんは下記のように書いている。

 おそらくは安倍晋三は尊敬する岸信介が「当たり前」と思ったようにはいかなかった。安倍家にとっても同様だっただろう(安倍晋三の父・安倍晋太郎は東大卒である)。「目立たない若者」であった安倍にとって、そのこと自体が人生の蹉跌だったのではないか、そう推測されるのだ。
(前掲書より)

もう一つの鬱憤として、祖父の岸信介が世間から厳しい批判を浴びていたことからくる被害者意識を挙げている。

安倍の政治手法については、宮崎さんは下記のように指摘している。

 彼(安倍晋三)は〈敵〉を求めている。「闘い」の相手を求めている。安倍晋三にとってのキーワードは自分への「批判」「攻撃」である。自分を被害者に仕立て上げ、その上で〈加害者〉に反撃を加える。「批判を恐れずに行動する」、安倍が本書(注:「美しい国へ」)の中で何度も繰り返しているこのフレーズはそのような構造を持っている。
(前掲書より)

これは、いうまでもなく「コイズミ劇場」と同じ手法である。コイズミは、この手法で政権の支持率を浮揚させた。もちろん、宮崎さんも同様の指摘をしたあと、こう書いている。

 こうしていくつもの小劇場を積み重ねていってどうにもならない流れをつくればいい。そのころには、辺見庸もいうように「劇を喜ばない者たちにはシニシズムが蔓延」していることだろう。
 だが、こうした劇場型政治の蔓延は、他方において政治家たちをもしばるのだ。劇場政治の面白さを知りこれに慣れた民衆は、もっと「分かりやすい」、もっと「魂を揺さぶる」、もっと「刺激的な」劇場を要求するようになる。メディアは劇場の興行がうま味のある商売だと知った。興行を打ってくれ、ネタを教えてくれと声を上げる。持ちつ持たれつの関係。これは政治家もまた劇場から逃れられないことを意味するのだ。観客が芝居をつくる。それは政治家たちがサポーターの熱狂を無視できなくなるということでもある。「アンコール!」の声に満面の笑みで再登場する役者たちのように。
(前掲書より)

私は、安倍は現実に総理大臣になってみて初めてコイズミの劇場型政治の限界を悟ったのだろうと推測している。安倍はたぶん、コイズミのような良心のかけらもない非人間とは違って、もともとは常識も持っていた人間なのだろうと思う。だから、コイズミのような劇場を演出できない。これが、安倍内閣の支持率が低下している一因だろうと思う。

宮崎さんは、安倍を凡庸な人間であるとして、その凡庸さが時代に合っているのかもしれないと書いている。そして、その反面の、凡庸であるがゆえの危うさを指摘している。彼には決定的に想像力が欠如しているのだという。

宮崎さんが挙げた例は、安倍が好んでいるというテレビドラマ「大草原の小さな家」だ。安倍は、このドラマに描かれた家族の助け合いの姿が大好きなのだという。それに対し宮崎さんは、白人の「開拓」によって生きるべき大地を奪われていった先住民族の悲哀や怒りを安倍は理解することができなかった、それを安倍に理解せよと望むのはどだい無理かもしれないが、と書いている。

最近では、「ホワイトカラー・エグゼンプション」(WCE)をめぐる安倍のノーテンキな発言が、安倍の想像力欠如を示す絶好の例だといえるだろう。世論の反発によって、さしもの安倍政権も、WCEの法制化を取り下げざるを得なくなった。安倍政権の大きな失点の一つといえるだろう。

安倍は、「美しい国へ」の中で、お国のために死んでいった特攻隊員を絶賛しているが、彼らの心情に思いを致す想像力も当然安倍にはない。
ネトウヨたちも、本気で戦死したいとは思っていないだろうから、お国のために死んでいった戦士たちを称揚し、戦争を美化する安倍の「美しい国へ」を読んでも、陶酔なんかしないんじゃなかろうか。私はそう想像する。

岸信介は、信念を持って国民を戦争に導いた、「A級戦犯」として断罪されるにふさわしい政治家だった。一方、安倍晋三は、名家にさえ生まれなければ、ごく平凡な男だ。

章をしめくくる宮崎さんの文章は、特に印象的だ。以下に引用する。

 中国の古典、十八史略の東漢光武帝の項に、
 「虎を画(えが)いて成らずんば、反(かえ)って狗(いぬ)に類するなり」
 という言葉がある。
 虎の画を描いてうまくいかないと、まるで狗の画みたいになってしまうことがある。そうなってしまったら物笑いの種になるだけだ。
 俺は虎だぞといきがっても、実質がともなわないと、まるで狗みたいになってしまうだけだ。そうなったら、物笑いの種になるだけではない。もっと恐ろしいことになる。
 その資質のない者が英雄豪傑気質を気取ると大変なことになる -- そういって、馬援が兄の子を戒めた言葉である。
 安倍晋三総理、みずからを虎に描くのはおやめになったらどうか。
 あなたのお祖父さんは、たしかに虎だった。後藤田さん(注:故後藤田正晴氏)がいっていたように、かなり恐ろしい虎だった。でも、あなたは虎ではない。虎にはなれない。虎になる必要もない。それなのに、ブレーンたちがあなたの耳に吹き込むささやきにしたがって、自らを虎に描いたなら、どうなるか、あなたは狗になってしまうのだ。
 そうして、自分が虎だと思い込んでいる狗が、まわりに住んでいる動物たちに吼えかかっているうちに、本当の虎が出てきたらどうするのだろうか。そのときは、われわれが自分の命をかけて、その虎と闘わなければならないのだ。
 それは、みずからが一匹の虎であったあなたのお祖父さんが、われわれの父母、祖父母に強いたことであった。それによって何百万人がいのちを失い、何千万人がくらしを失ったことか。一度目は悲劇として、二度目は喜劇としてなのか。われらの祖父母は悲劇のうちに死に、われらは喜劇のうちに死ぬのか。
 安倍さん、あなたは、それを継ぐのか。

(宮崎学&近代の真相研究会編 『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』=同時代社、2006年=より)

安倍晋三に読ませてやりたい文章だ。
2007.01.17 07:40 | 読んだ本 | トラックバック(-) | コメント(2) | このエントリーを含むはてなブックマーク
昨日のエントリに引き続いて、宮崎学&近代の真相研究会編 『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』(同時代社、2006年)を紹介する。

この本は、最初の部分はかなり読みにくいが、あとの方ほど面白い。昨日紹介した、A級戦犯容疑者だった岸が、起訴を免れ、アメリカの後押しを得て不死鳥のように甦り、ついに総理大臣に上り詰めた経緯は、8章からなるこの本の第5章に書かれている。

今回は、第6章以降に書かれている内容を紹介する。

岸の政治プログラムの目標は、「自主憲法」「自主防衛」「アジアへの経済進出」であった。安倍晋三がシャカリキになって改憲を目指しているのは、母方の「祖父」の果たせなかった夢を実現しようとしているからだ、とはよく指摘されることである。

日米安保条約の改定は、自主防衛を目指すためのステップだった。宮崎さんは、岸は最終的には核武装まで視野に入れていたという。2002年に安倍晋三が早稲田大学で「戦術核の保有や使用も違憲ではない」と発言して「サンデー毎日」にスッパ抜かれたことがあるが、これも安倍が岸の思想を継承しているからだろう。

だが、岸信介は、日米安保の改定を強行した直後の1960年6月23日に退陣に追い込まれた。皮肉にもそれを招いたのは、岸の「ご主人さま」アメリカだったと宮崎さんは指摘している。

1960年2月頃、新聞や野党からは「岸は安保条約改定について、衆議院を解散して国民に信を問え」という声が上がっていた。しかし、この頃にはまだ安保反対の世論は盛り上がっておらず、もしこの時点で議会を解散していたら、自民党は勝利し、安保条約はスムーズに改定されただろうと言われているそうだ。

しかし、アメリカの政治日程の都合により、岸は解散できなかった。なんと、議会の解散さえアメリカの許可を得なければできない、岸内閣とはそんな政権だったのだ。

日米安保条約の改定を、警官隊を導入して強行採決をした1960年5月19日を境に、安保反対の世論は大いに盛り上がった。6月15日には、東大生だった樺美智子さんが事実上警官隊に殺される事件が起き、世論はさらに沸騰した。岸は、自衛隊まで出動させてデモを抑え込もうとしたが、赤城宗徳防衛庁長官は、岸の要請をはねつけた。最後は、柏村信雄警察庁長官が、岸に政治姿勢を改めるよう迫り、岸は柏村を罷免しようとしたが、それに対して各地の警察幹部が反発、長官罷免なら自分たちが一斉辞任すると抗議した。こうして、自衛隊からも警察からも見放された岸は、退陣に追い込まれたのだ。岸を辞任に追いつめたのは、最終的には味方の造反であったが、彼らをそうさせたのは、いうまでもなく民衆の力である。

宮崎さんによると、岸は大衆を愛せなかった政治家だという。岸にとって、大衆とはみずからの国家構想に翼賛させる「数」に過ぎなかった。確かに岸は最低賃金法や国民年金法を制定したが、それは安倍晋三が言うような「貧しい人々を助けようと」したものではなく、大衆を懐柔するための「演技」に過ぎなかったと、宮崎さんは喝破している。

だから、岸にはそもそも戦争責任を感じる感性がない。岸信介論を著した、評論家の村上兵衛は、アウシュヴィッツを訪ねたアイゼンハワーの表情から、戦争に対する悲しみと怒りを強く感じていることを読み取り、そういう『真摯さ』を一切持たない岸に思いを致したという。だが、そんな独裁志向の男だった岸を倒したのは、「大衆の力」だったのだ。本来、大衆には政権を倒すパワーがある。日本国憲法は国民主権を定めている。日本を統治するのはわれわれになったのだ。

宮崎さんは下記のように指摘している。

 しかし、いつのまにか、われわれは、この「民主の力」の遺産の上に眠るものになっていったのではないか。民主主義が自己統治だということが忘れられようとしている。そして、それにともなって、われわれはなめられはじめたのだ。
 特にこの五年、われわれは「小泉劇場」なるものに誘い入れられ、パフォーマンス劇の演技を見て喜ぶ観客にされてきた。そういうふうにして、「演技される数」に甘んじているうちに、次なる劇場の座付き脚本家が書いたシナリオが岸復権なのだ。

(宮崎学&近代の真相研究会編 『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』=同時代社、2006年=より)

さて、安倍晋三に論を移す前に、岸信介の「金権政治家」としての側面にも触れておかなければならない。

安倍晋三は、恥書ならぬ著書の「美しい国へ」において、金権政治の創始者が田中角栄であるかのように書いているが、これは真っ赤なウソで、岸信介こそ金権政治の本家本元である。
岸が満州を離れるときに語ったという「政治資金の濾過」論をここで紹介する。

「政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん」
(前掲書より)

要は、岸は汚れ役は周囲の人間にやらせて、いざとなったらトカゲの尻尾切りをするぞ、と公言したわけだ。

田中角栄は、ロッキード事件に関係して、総理大臣辞任の2年後、受託収賄容疑で逮捕されたが、宮崎さんはこう指摘する。

 それ(岸信介の政治資金調達法)と田中角栄的な「現金取引」とどっちが「構造的」だろうか。岸のほうが構造的である。岸のような黙っていてもカネが集まってくる真正権力者と違う成り上がりの田中角栄は、受託収賄のようなヤクザな手法を使うしかなかったのだ。
(前掲書より)


それでも、岸は、首相時代「歴代総理のうち、岸首相ほど"金の出所"に疑惑を持たれている人は少ない」(「週刊新潮」1959年3月30日号)と書かれた男である。宮崎さんは、岸が絡んでいるとささやかれた疑惑を列挙している。

1958年(昭和33年)
 千葉銀行事件
 グラマン・ロッキード事件
1959年(昭和34年)
 インドネシア賠償疑惑
 熱海別荘疑惑
1961年(昭和36年)
 武州鉄道疑惑
1966年(昭和41年)
 バノコン疑惑
(前掲書より)


これらは、いずれも岸が直接絡んだと噂された疑惑であって、間接的な関与が噂された件を含むと、数え切れないほどの疑惑がささやかれたが、いうまでもなく岸は一度も逮捕されたことはない。

さらに、岸はアンダーグラウンドの世界ともつながりがあった。だが、それらにいずれも岸の戦犯仲間である児玉誉士夫や笹川良一を介在させ、岸には累が及ばないようにしていた。

宮崎さんの本から、岸とアングラ勢力のかかわりについて書かれた部分を以下に紹介する。

デイビッド・E・カプランとアレック・デュプロは『ヤクザ ニッポン的地下犯罪帝国と右翼』で、「岸は、戦前の右翼とヤクザの同盟のそうそうたる一群全員が中央舞台へ復帰するのに力を貸し、何とか彼らの復帰をやりとげてしまった」と書いている。そして、それを受け継いだのが、「岸と児玉の支持を受けて自民党副総裁の座を占めた」大野伴睦だった、という。
(中略)
 岸が退陣した時、この大野伴睦に後継総裁を約束したと念書を渡していたことが問題になった。この念書は、1959年(昭和34年)1月、岸が自民党総裁選で再選を勝ち取るために書いたものだが、このとき仲介者として児玉誉士夫が同席していた。そして、岸はそれを反故にしたのだ。後継総裁には池田勇人が選ばれた。
 池田総裁の就任パーティで岸は荒牧退助という男に太股を刺された。この荒牧は、児玉誉士夫系の右翼団体・大化会に所属していた右翼だった。大野とも面識があり、世話になったこともあった。海原清兵衛という大野系自民党院外団体の顔役で働いていた。この事件は、大野の報復という見方が強いが、むしろ大野の無念さを汲みながら、裏社会のドン児玉が仲介して成立した念書を無視したことに対する裏社会からの警告だったと見た方が良いのではないか。
 もちろん、岸は、このあと大野にではなく、裏社会に対して、しかるべき手を打ったにちがいない。右翼、ヤクザが岸に手を出すことは二度となかった。
(前掲書より)


安倍晋三にも暴力団にかかわる噂は多いが、暴力団によって、地元事務所に火炎瓶を投げ込まれてしまう安倍は、「脇が甘い」というべきなのかもしれない。

その安倍晋三を、母方の祖父・岸信介と絡めて論じた部分は、宮崎さんの本では最後の第8章に置かれている。今回は、またしてもそこまで書き切れなかった。そこで、このシリーズの連載をさらに1回追加して、次回のエントリでそれを紹介することにしたい。

(続きはこちらへ)
2007.01.16 12:20 | 読んだ本 | トラックバック(-) | コメント(2) | このエントリーを含むはてなブックマーク
今回と次回で、「年末年始に読んだ本」シリーズの最後に取り上げる本として、宮崎学&近代の真相研究会編 『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』(同時代社、2006年)を紹介する。

安倍晋三首相が「岸信介の孫」であることを売りものにしていることはよく知られている。しかし、私などは岸信介というと「A級戦犯」「日米安保条約を改定したあと、内閣を倒された男」「数々の疑獄事件で名前が取り沙汰されながら、一度も捕まらなかった男」といった、ネガティブなイメージしか持っていなかった。

だから、「岸信介の孫」を売りものにする男が総理大臣になったこと自体に、強烈な違和感を持っている。安倍晋三には、「安倍寛の孫」「安倍晋太郎の息子」という意識は希薄で、彼が「祖父」と言う時、大政翼賛会から推薦を受けずに選挙に当選した反骨の政治家である父方の祖父・安倍寛を指すことは決してなく、東条英機内閣の閣僚だった母方の祖父・岸信介「だけ」を指すのである。

だが、岸信介内閣の成立は1957年、岸が打倒されたのは1960年6月23日のことだ。その時私はまだ生まれてもいない。だから、当然リアルタイムで60年安保のニュースを追いかけていたはずもなく、一度岸信介について書かれた本を読みたいと思っていたところだった。
「安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介」は、そんな私のニーズにぴったりの一冊だった。

著者の宮崎学さんは、グリコ・森永事件の被疑者「キツネ目の男」ではないかとして重要参考人に目されていたことでよく知られている。詳しくは、前記リンク先のWikipediaの記述を参照していただきたいが、波瀾万丈の人生を送ってきた人である。
前々回および前回のエントリで紹介した『ナショナリズムの迷宮』の著者である佐藤優さんや魚住昭さんと親交があり、この3人で講演会を開催したこともある。
なお、一部には宮崎さんが「公安の協力者」ではないかと疑問を持つ向きもあるようだが、その真偽については私には判断できない。

『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』は、正統的なアプローチで岸信介を研究した書だ。正統的、というのは、さまざまな立場から書かれた文献に当たり、評価すべきところは評価した上で岸信介を批判していることを指している。

岸信介は、よく知られているように抜群に頭の良い男であると同時に、若い頃から権力欲が人並み外れて強く、しかもそれを隠そうともしなかった。

岸は、北一輝の影響を受けながら、自らの思想を形成していったという。それを、宮崎さんは「昭和ファッショの思想」と呼んでいる。これは、ひとことで言うと国家が個人を超越して主体となり、個人は国家という有機体の器官としてはじめて存在意義を得るという考え方である。

さらに岸は、大川周明の影響を受けて「大アジア主義」の思想も身につけた。これは、戦時中には「大東亜共栄圏」の思想として日本の侵略戦争を正当化し、戦後は日本の東南アジアへの経済侵略を正当化した。
田中角栄は、首相当時の1974年、東南アジアを歴訪した時、激しい反日デモに見舞われたが、それは岸の政策の尻ぬぐいであったと宮崎さんは指摘している。

岸は、1920年に東京帝大を主席の成績で卒業したあと、農商務省に入省した。エリートは普通内務官僚を目指すのに、あえて農商務省を選んだのが岸の非凡なところであった。岸は、国家の経営にとってもっとも大事なのは、政治制度ではなく経済制度であることを見抜いていたのである。

その岸の能力が遺憾なく発揮されたのは、満州国の経営であった。岸は、満州で統制経済機構を完成させ、それによって資本主義的経済機構を修正しようとしたのである。さらに岸は帰国後、本国にもこのやり方を適用した。野口悠紀夫・東大教授が指摘した「1940年体制」は、岸が中心になって作ったものなのである(コイズミが「ぶっ壊す」と叫んでいた対象は、岸の作り上げた経済体制であり、安倍晋三はその「カイカク」を引き継ぐと言っているのだ)。

当然ながら、その間岸はずいぶん怪しげなこともやっている。宮崎さんの本には、岸が満州で麻薬(アヘン)の密売にもかかわっていたのはないかという疑惑も書かれている。但し、岸は一生の間に数え切れないほどの疑惑に絡んで名前を取り沙汰されながら、一度も逮捕されることはなかった。巧妙な「濾過装置」を作り上げていたのである。

さて、岸の戦争責任の問題に移る。
よく知られているように、岸は対米開戦を決定した東条内閣の商工大臣だった。もちろん、積極的な対米開戦賛成派であった。この点、対米開戦に反対し、グルー米国大使に国家機密を漏らしてまでも戦争を防ごうとした吉田茂とは対照的である。
よく、岸信介の孫である安倍晋三のことを「保守本流」だと思っている人がいるが、いうまでもなくこれは誤りで、保守本流とは吉田茂の流れを指すのである。

岸は、のち1944年に東条英機と対立して、東条内閣を総辞職に追い込むが、それによって岸の戦争犯罪が帳消しになるはずもないのは当然のことである。それどころか、岸というのは戦後になっても戦争責任を全く反省せず、間違った戦争だったとさえ思っていなかったのだ。岸は堂々とそれを広言しているし、その例は、「安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介」に出典を明示して紹介されている。

では、このように明白な戦犯である岸は、なぜA級戦犯として起訴されなかったのだろうか。明らかに岸より罪の軽い広田弘毅まで絞首刑になっているのだから、岸が絞首刑になっていても全く不思議はなかったはずだ。

これについて、岸自身は、開戦を決定した「共同謀議」の証拠になる大本営政府連絡会議に出席していなかったからだと説明している。しかし、宮崎さんは、岸が無罪になるようにあらかじめ戦犯の枠が設定されており、連絡会議の出席の有無はあとづけの説明だろうと推測している。

朝日新聞元編集局長の富森叡児氏は、司法取引説を唱えているという。「司法取引」とは、本人が犯罪を犯していても、捜査に協力したら罪を軽くするという制度のことだ。これをひらたくいうと、「岸は戦犯仲間をアメリカに売った」ということになるが、もちろん宮崎さんの本では、そこまで露骨な表現はされていない。

なお、同じく東京裁判で不起訴になった細菌戦の石井四郎「731部隊」で生体実験を行ったとされている)や、アヘン工作の里見甫についても、司法取引の噂が取り沙汰されているとのことだ。里見は、岸信介の満州時代について書かれた本には必ず名前が出てくる人物だそうで、前述の、岸がアヘン密売に関与していたという疑惑にも、この里見が絡んでいる。というより、里見を盾にして岸が疑惑を逃れたと解釈するのが自然だろう。里見については、佐野眞一が『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社、2005年)という本を出版しており、佐野の最高傑作という人もいるようだから、一度読んでみたいと思う。

脱線が長くなってしまった。話を元に戻す。岸が起訴されなかったのは、アメリカ側にも事情があった。

3日前のエントリ「安倍晋三内閣を分析すると」でも紹介したが、戦後日本の保守政党には、吉田茂と鳩山一郎の流れがあって、吉田は、経済政策を最重要視し、「現行憲法維持・軽武装」で「親米」(というより安保ただ乗り)であった。一方、鳩山は吉田の対米依存に反対して自主外交を唱える一方、憲法改定を主張していた。鳩山は日ソおよび日中の国交回復を模索し、首相在任時の1956年には日ソ国交回復を果たした。

しかし、アメリカにとってはそのどちらも気に入らなかったのである。アメリカは日本を軍事面での同盟国にしたかったので、憲法九条を盾にとって軍備増強に応じない吉田は気に入らなかったし、共産主義国との関係強化を図る鳩山も気に入らなかった。ところが、岸は憲法改定・軍備増強を唱える一方で、岸が反共思想を持っていたせいもあって外交面ではアメリカべったりであった。アメリカにとって、岸以上に都合の良いパートナーは存在しなかったのである。実際、近年アメリカで公開された情報により、CIAが幹事長時代の岸に資金を提供するなど、岸政権成立に大いに協力したことが明らかにされている。アメリカは岸に協力し、岸はアメリカに応えたのである。

宮崎さんは、岸信介が売国政治家だったからそういうことをやったのではなく、岸には岸なりの信念があってやったことだと書いている。岸には、軍事で失敗した「大アジア主義」を経済でやろうという野心があり、そのためにアメリカを利用しようとしたのだという。
だが、その意図はともかくとして、結局岸及び岸の流れを汲む派閥は、一貫して日本をアメリカに売るような真似ばかりしてきたことを指摘しておかなければならないだろう。近年で最悪の例は、いうまでもなく小泉純一郎であった。

さて、今回も長くなってしまったので、岸信介と安倍晋三との絡みについての宮崎さんの記述については、次回の記事で紹介することにしたい。

(続きはこちらへ)
2007.01.15 11:33 | 読んだ本 | トラックバック(-) | コメント(4) | このエントリーを含むはてなブックマーク
もうすぐライブドアの強制捜査から丸1年になる。あれは昨年の1月16日のことだった。なぜ、耐震偽装問題に絡んだヒューザー・小嶋進社長の証人喚問の前日にライブドアの強制捜査なんかがあるのか、あの当時強い疑問を抱いたものだ。

小嶋社長の証人喚問で、民主党の馬淵澄夫議員が、小嶋氏が「安晋会」の会員であり、マンション住民への説明会で、安倍晋三の後ろ盾があるようなことをしゃべっていたことを暴露した。しかし、そのニュースはライブドアの強制捜査の陰に隠れてしまったのである。

ところが、事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、馬淵議員が「安晋会」の存在を暴いた翌日の1月18日、ライブドア事件に絡んでエイチ・エス証券の野口英昭さんが謎の「自殺」を遂げた。野口さんの命日ももう間もなくだ。私は1月19日の早朝に、読売新聞の速報でこのニュースを知った瞬間に、「これは自殺じゃない」と即座に確信し、掲示板で騒ぎまくったのだが、同日にこの件をある有名ブログが取り上げたことによって、ブログ界でもこの話題は沸騰したものだ(私は当時ブログを未開設だったので、これには加われなかった)。

驚くべきことに、野口さんは「安晋会」の理事だった。これは、「週刊ポスト」のスクープだ。その数日前から、耐震偽装事件とライブドア事件の両方に絡んで安倍晋三の名前がささやかれているという情報は得ていた。しかし、「自殺」した野口さんまでもが「安晋会」の理事だったという情報には、背筋が凍る思いだった。いったい、「安晋会」にはどこまで深い闇があるというのだろうか。

これで安倍晋三の政治生命は終わるかもしれない。そういう予想もあった。しかし、安倍は生き延びた。6月上旬、安倍が統一協会系の大会に祝電を送っていたことが判明し、その頃にはブログを開設していた私も騒ぎに参加したのだが、安倍はこれも乗り切った。

ついに総理大臣になり、安倍晋三は得意絶頂だったはずだが、そこから安倍は高転びに転びつつある。それが現状だと思う。

さて、前置きが長くなってしまった。

昨日のエントリに引き続き、佐藤優・魚住昭著 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』(朝日新聞社、2006年)を紹介したい。

この本でも、ライブドアの強制捜査のことが取り上げられている(第9章)。この強制捜査劇を、ホリエモンが体現している新自由主義と国家の対決と見る佐藤さんの見方は、ごく一般的なものだろう。新自由主義とは究極の資本の論理だから、天皇制もどうでも良いし(事実、堀江貴文は天皇制を否定し、大統領制を唱えていた)、国家も邪魔なだけ、これに対して国家の論理は自己保存であって、そのイデオロギーは「新保守主義」である、これが新自由主義と激しくぶつかったのが、ライブドアの強制捜査であり、ホリエモンの逮捕だったと佐藤優は解釈しているが、これは、当時この事件を非常な関心を持って見守っていた私の感覚とよく合致するものだ。

以下、佐藤優のたとえ話を引用する。

ホリエモン事件は、国家と貨幣の間の激しい戦いだと私は見ています。いわば、怪獣大戦争ですよ。たとえば、ゴジラ対ヘドラ。ゴジラは水爆実験によって生み出されましたね。ヘドラは公害が生み出しました。どちらも人間が生み出したものであるにもかかわらず、人間のコントロールが利かない化け物という点では、国家と貨幣に似ていませんか。このまま、新自由主義=貨幣が強くなり過ぎると、おまんまの食い上げになると心配した国家が、貨幣に噛みついたと。東京タワーを引き抜いたり、転んでビルや住宅を押しつぶしたり、みんなひどい目にあっている。こんなイメージですね。

(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』=朝日新聞社、2006年=第9章より)

さて、この本の中でもっとも印象に残ったのは、蓑田胸喜(みのだ・むねき, 1894〜1946)という思想家の話題だ。

この蓑田胸喜という人物は、Wikipediaにも載っておらず、Googleで検索しても576件しか引っかからない、今となっては忘れられた思想家で、私自身も「ナショナリズムという迷宮」を読んで、初めて知った(佐藤優がGoogle検索をした時には459件しかヒットしなかったらしい)。

佐藤優によると、蓑田は国家主義思想家で、リベラルな学者を次々と糾弾し、アカデミズムの世界から追放したり、事実上、ものが言えないような状況に追い込むことに成功したばかりか、右翼や国家主義者まで攻撃した人とのことだ。

蓑田の思想に関する佐藤優と魚住昭の対話を以下に引用する。

佐藤 彼の思想の基本的な構えは、日本人には単一の歴史しかない。全体が部分に優先し、歴史は個人に優先するというものです。さらにそうした全体や歴史は天皇によって体現されていると。そのことは『明治天皇御集』の和歌の解釈で、"客観的"に確定できるというものです。この考えを受け入れない人間は国賊なんです。ですから、日本人でありながら仏教徒であったり、クリスチャンであったり、ましてやマルクス主義者などということは、あってはならないことなんです。
魚住 整合性のない思想のように思えますが、本当に当時の知識人を屈服させることができたんですか。
佐藤 いまお話ししたように、蓑田の内面では、社会の枠組みや制度、歴史といった論理的な事柄と、和歌という心情的、情緒的な事柄が何の矛盾もなく往来しています。蓑田は、論理の問題と心情の問題という、本来、分けて考えるべき問題をいっしょにこね回すことができる天才だったんです。そうして生み出された言説は、当時の日本人が抱いていたいらだちや集合的無意識を見事に掬うことができたんです。そんな天才的なアジテーション能力が彼の強みであり武器でした。01年の自民党総裁選で小泉さんが勝ったのは田中眞紀子さんによるところが大きいですよね。彼女の応援演説を思い出してください。聴衆は爆笑、拍手喝采でした。蓑田については、外国語や和歌に通暁した田中眞紀子さんが、戦前の10年間、論壇を席捲(せっけん)した。こんなふうにイメージしたらいいと思います。

(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』=朝日新聞社、2006年=第14章より)


なんと、蓑田胸喜というのは、論理の問題と心情の問題をごっちゃにして言論封殺のアジテーションを行っていた男であるようだ。

蓑田はこの論法で、美濃部達吉の「天皇機関説」を激しく攻撃し、論争を巻き起こした。「ナショナリズムという迷宮」の中に、立花隆著『天皇と東大』(文藝春秋、2005年)の記述が引用されているが、これがとても興味深いので、孫引きになるが紹介したい。

天皇機関説論争は、国会でも取り上げられたのだが、国会で天皇機関説を批判した議員は、美濃部達吉の天皇機関説の論文を読まずに批判していたのだった。

当時有名だったジャーナリスト・徳富蘇峰も、天皇機関説の論争に参加したのだが、彼もまた美濃部の著作を読んでいない、と自ら明らかにした上で天皇機関説を批判していた。

立花隆は、以下のように書いている。

 何も読んでいないが、批判だけはするというのだ。これでも蘇峰か、と唖然とするほど堂々たる開き直りぶりである。
 それで何をいうのかと思ったら、要するに、「天皇機関説などという、其の言葉」がいけないというのだ。その言葉が何を意味するのかわからないが、とにかくその言葉がいけないというのだ。「機関」が何を意味するかわからなかったら、天皇機関説の真意がわかるはずもなく、批判などできるわけがない。しかし蘇峰はそれでも構わず論理ゼロの感情だけの議論を続けていく。実は、天皇機関説論争の相当部分が、これと同じレベルの議論なのである。(立花隆 『天皇と東大』 下巻135頁)

 議会のやりとりを見ても、首相、大臣などが、天皇機関説に対する見解を問われると、みな反対だといい、日本の国体をどう思うかと問えば、みな尊厳そのものとか、万国無比といったありふれたきまり文句をならべ、あげくにみんなが国体明徴を叫んで終わりという空虚な芝居が繰り返し演じられた。(前掲書、172頁)

 一つの国が滅びの道を突っ走りはじめるときというのは、恐らくこうなのだ。とめどなく空虚な空さわぎがつづき、社会が一大転換期にさしかかっているというのに、ほとんどの人が時代がどのように展開しつつあるのか見ようとしない。たとえようもなくひどい知力の衰弱が社会をおおっているため、ほとんどの人が、ちょっと考えればすぐにわかりそうなはずのものがわからず、ちょっと目をこらせばみえるはずのものが見えない(こう書きながら、今日ただいまの日本が、もう一度そういう滅びの道のとば口に立っているのかもしれないと思っている)。(前掲書、173頁)

(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』(朝日新聞社、2006年)206-207頁)

魚住昭も佐藤優も、この立花隆の見解に同意しているが、私も同感だ。これを読みながら私の脳裏から離れなかったのが、安倍晋三が好むフレーズである「美しい国」だった。

ほかならぬ立花隆が、「メディア ソシオ-ポリティクス」第93回「未熟な安倍内閣が許した危険な官僚暴走の時代」で、下記のように書いている。

センチメンタリズムが国を危うくする

実はそんなこと以上に、私がかねがね安倍首相の政治家としての資質で疑問に思っているのは、彼が好んで自分が目指す国の方向性を示すコンセプトとして使いつづけている「美しい国」なるスローガンである。情緒過多のコンセプトを政治目標として掲げるのは、誤りである。

だいたい政治をセンチメンタリズムで語る人間は、危ないと私は思っている。

政治で何より大切なのは、レアリズムである。政治家が政治目標を語るとき、あくまでも「これ」をする、「あれ」をすると、いつもはっきりした意味内容をもって語るべきである。同じ意味を聞いても、人によってその意味内容のとらえ方がちがう曖昧で情緒的な言葉をもって政治目標を語るべきではない。

人間Aにとって「美しい」ものは、人間Bにとっては、「醜い」ものかもしれない。政治は人間Aに対しても、人間Bに対しても平等に行われなければならないのだから、その目標はあくまでも明確に具体性をもって語ることができる内容をともなって語られなければならない。

歴史的にいっても、政治にロマンティシズムを導入した人間にろくな政治家がいない。一人よがりのイデオロギーに酔って、国全体を危うくした政治家たちは、みんなロマンティストだった。

政治をセンチメンタリズムで語りがちの安倍首相は、すでにイデオロギー過多の危ない世界に入りつつあると思う。

「メディア ソシオ-ポリティクス」第93回「未熟な安倍内閣が許した危険な官僚暴走の時代」より)

安倍晋三自身が意識していたかどうかはわからないが、「美しい国・日本」というキャッチフレーズには、日本人を思考停止させようという狙いがあったと思う。しかし、日本国民にとって幸いなことに、安倍自身が失政を重ねたことによって、このフレーズはすっかり色あせてきている。

「ナショナリズムの迷宮」には、この他にも、キリスト教・イスラム教論や、丸山眞男批判などなど、興味深い考察が満載されていて、読み応えたっぷりの本である。
しばらく中断していた「年末年始に読んだ本」のシリーズを再開する。

今回は、佐藤優・魚住昭著『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』(朝日新聞社、2006年)を紹介する。

この本こそ、正真正銘、私が年末年始に読んでいた本である。大みそかの夜、17章からなるこの本の16章まで読み終えたところで、新年を迎えた。午前0時となって新年を迎えたあと、最後の17章を読もうとしたら、猛烈な眠気に襲われて居眠りしてしまった。年越しそばを食べて満腹になると同時に、年末の疲れが吹き出したのである。
数時間後に目を覚まし、残りの数十ページを読み終えて、今年最初に読んだ本となった。

この本は、佐藤優と魚住昭の対談形式になっており、主に魚住が聞き手で、佐藤の縦横無尽の思想論を聞き出すという構成になっている。

魚住昭については、弊ブログでも何度も取り上げているが、私は現在もっとも信頼できるジャーナリストだと思っている。

一方、佐藤優は、起訴休職中の外務事務官で、鈴木宗男ともども、2002年に小泉純一郎の罠にかけられて、背任容疑、偽計業務妨害容疑で逮捕され、512日間にわたって独房生活を過ごした。「ラスプーチン」というのは、いうまでもなく帝政ロシア末期に政治を好き放題に動かしたと言われている怪僧であり、ムネオスキャンダルを書き立てた週刊誌によって、佐藤優のあだなとなった。

のち、佐藤は自らに対する捜査を「国策捜査」であるとして告発し、『国家の罠』(毎日新聞社、2005年)を出版し、第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞した大ベストセラーになった。この本は、魚住昭が絶賛していたこともあって、私も昨年買って読んだ。ブログを開設する直前の頃の読書だったので、感想文はブログには残していないが、たいへん刺激に満ちた本だった。

2人のスタンスは、実は対照的で、魚住昭は「リベラル」に分類され、私と立ち位置が近い。私は魚住の文章を読む時、いつも強い共感を覚える。魚住昭本人は「右でも左でもない」と自称しているが、世の中が急激に右傾化してしまった現在では、相対的に魚住さんはかなり「左」側に属するといわなければならないだろう。一方、佐藤優は明白な保守の論客で、昔なら「右翼」として攻撃の対象になったかもしれない。そんな2人が対談した。

魚住昭は、佐藤優について以下のように述べている。

 一言でいえば、佐藤さんはロジック(論理)の人だった。レトリック(修辞)を使う人なら掃いて捨てるほどいる。だが、佐藤さんのようにロジカルに物を考え、ロジカルに世界を分析できる人にお目にかかったことはなかった。
 佐藤さんとの出会いで、私はロジックのとてつもない力を知った。ある個人や集団や国家の一見訳の分からない行動も、その内在論理を見つけ出せば案外簡単に理解できるし、未来の行動もある程度予測できることを教えられた。当時の首相(注:小泉純一郎)の「人生いろいろ」だとか「自衛隊の行くところが非戦闘地域だ」とかいった支離滅裂な発言を聞いて余計にそう思ったのかもしれないが、今ほどロジックの力が必要な時代はないと思うようになった。

(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』=朝日新聞社、2006年=「あとがき」より)

魚住昭は1951年生まれ、一橋大学卒業後共同通信に入社し、1996年にフリーになった。一方、佐藤優は1960年生まれで、同志社大学で神学を学んだ後、同大学院に進学して、神学の研究を深めたのち、外務省に入省した。面白いことに、この本は魚住昭が9歳年下の佐藤優に思想や哲学について教えられ、それに対して魚住昭が質問をする形で進んでいく。佐藤優の博識ぶりにも舌を巻くが、一流のジャーナリストとして評価されながらも、向上心を保ち続け、一回り下の世代の佐藤優から知識を吸収しようとする魚住昭の謙虚にして真摯な姿勢にも感心する。

全共闘世代より少しだけ下に当たる魚住昭は、ある時、佐藤優に次のように尋ねる。

「私の中にはとても浅薄だけど、拭いがたい疑念があります。それはいくら思想、思想と言っても、戦前の左翼のように苛烈な弾圧にあえばすぐ転向しちゃうのじゃないかということです。特に私のように臆病な人間がいくら思想をうんぬんしたところで仕方がないんじゃないかと」
(中略)
私の問いに佐藤さんはこう答えた。
「魚住さんがおっしゃる『思想』というのは、正確には『対抗思想』なんですよ」
「どういうこと?」と、私は聞き返した。
「いま、コーヒーを飲んでますよね。いくらでしたか? 200円払いましたよね。この、コイン2枚でコーヒーが買えることに疑念を持たないことが『思想』なんです。そんなもの思想だなんて考えてもいない。当たり前だと思っていることこそ『思想』で、ふだん私たちが思想、思想と口にしているのは『対抗思想』です。護憲思想にしても反戦運動にしても、それらは全部『対抗思想』なんです」
 この言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けた。それまで私は思想というのは特別なもので、粒々辛苦の末に獲得すべきものと考えていた。そうではなく、当たり前すぎて目に見えないものこそが思想なのだ。私たちを突き動かす、空気のような思想の正体を解き明かさなければならない。そうすることによって初めて「鵺(ぬえ)」の正体も突き止めることができるのだ。そう思い至ったとき、佐藤さんとの対話の道筋も見えたような気がした。

(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』=朝日新聞社、2006年=「あとがき」より)

ここで魚住昭が「鵺」と言っているのは、辺見庸がよく書く「今の日本は鵺のような全体主義に覆われている」というときの「鵺」のことである。
私もこのフレーズを2001年に魚住昭の「特捜検察の闇」(文藝春秋、2001年)で読んで以来、ずっと気になるキーワードになっている。

この本には、印象に残る指摘が、それこそ紹介しきれないほど載っている。いくつか取り上げてみよう。

本の第5章で、このところ当ブログでも取り上げている2005年の郵政総選挙に話が及ぶ。佐藤優は、この選挙によって、日本がファシズム前夜の状態になったと考えている。
佐藤優は、この選挙の特徴として、ひとつは「自分の首を絞めるような候補者や党に、首を絞められるであろう当の本人が投票してしまった」こと、ふたつめが「新自由主義」の純化だ、としている。

いうまでもなく、新自由主義は社会的弱者に極めて苛烈な経済政策だ。それを、前のエントリで指摘したようなネトウヨを代表とする社会的弱者が熱狂的に支持したのである。

佐藤優は、マルクスが著した『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』に基づいて、社会的弱者たちの投票行動を分析している。以下佐藤さんの発言を引用する。

『ブリュメール十八日』でマルクスはこう指摘しています。要約すると、ナポレオンはかつて自分たち農民に利益をもたらしてくれた。そこにルイ・ボナパルトというナポレオンの甥と称する男が現れた。彼も叔父と同じように、再び自分たち農民に何か"おいしいもの"をもたらしてくれるのではないかという「伝説」が生まれた。その結果、選挙でルイ・ボナパルトに投票し、権力を与えてしまったと。今回の選挙におけるニートやフリーターの投票行動にも、それと同じような回路が働いたのではないでしょうか。「改革を止めるな」というシングルメッセージを発し続けた小泉首相に何かを見てしまったんでしょうね。

(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』=朝日新聞社、2006年=第5章より)

選挙に勝ったルイ・ボナパルトは、帝政を復活させ、その結果、選挙で彼に投票した分割地農民たちは、手ひどい迫害に遭うことになったのである。

佐藤優は、新自由主義についても論じている。すでに、前述の『国家の罠』で、佐藤優は小泉政権の登場によって、日本政府の経済政策が、それまでのケインズ型の公平配分路線からハイエク型の傾斜配分型路線(言い換えれば格差拡大路線)に転換した、鈴木宗男や佐藤優自身の「国策捜査」による逮捕および起訴は、時代の転換点のけじめをつける意味合いがあったと指摘している。『ナショナリズムという迷宮』でも、新自由主義は、国民をごく少数の勝ち組と大多数の負け組に分け、その格差を、従来の自由主義の比ではないくらいのすさまじいスピードで拡大していくものだとしている。そして、佐藤さんによると、小泉純一郎は総理大臣就任時には「新保守主義」と「新自由主義」の両面を持っていたが、次第に前者を切り捨てて「新自由主義」に純化していったと指摘している。新保守主義とは、私の理解ではナショナリスティックな政治思想のことで、小泉はこちらには興味がなく、新自由主義的経済政策に熱心であったのに対し、安倍晋三には逆の傾向があるとは、これまで当ブログで何度か指摘してきたことだ。

だが佐藤優は、小泉がファシストになるのに欠けているものがひとつあるという。それは「やさしさ」だそうだ。ファシズムは、心地よく「優しい」言葉で人々を束ねていくのだという。

これを読んで、私は安倍晋三の「柔和」と評されることもある表情や、「再チャレンジ政策」「美しい国」などの文言、それに安倍が首相に就任した当時のソフト戦略を連想した。

しかし、幸いなことに安倍のイメージ戦略は不首尾に終わり、支持率は下がり続けている。

長くなったが、この本からはもう少し紹介したいことがあるので、明日のエントリで続編を公開することにしたい。
一昨日のエントリで取り上げた、森達也さんと森巣博さんの対談本『ご臨終メディア?質問しないマスコミと一人で考えない日本人』(集英社新書、2005年)の中で、もっとも印象に残った。森巣博さんの言葉を以下に再掲する。

 曖昧なものは曖昧なまま、その答えを自分で考え出そうとしない。曖昧なものに、無理してわかったフリをする必要はない。曖昧なものとして、そのまま放っておいていいんです。簡単な解答を与えてはいけない。
 そもそも世界とは、異質なものが混じり合って成立している。それゆえ世界は優しいし豊かなのですね。それに対して一元的な理解をしてはいけない。異質なものは、わからなければわからないでいい。
 だけど、それを怖がるな。
 みんなが一緒の世界のほうが、ずっと怖いのです。異質なものを混ぜて一緒にやる。これが本来の意味での多元主義の立場です。異物はわからないからといって、排除してしまったら終わり。そこで思考は止まります。わからないものはわからないまま、置いておいて、一緒に考えればいい。

(森達也・森巣博 『ご臨終メディア?質問しないマスコミと一人で考えない日本人』=集英社新書、2005年=より)

私は、以前からずっとコイズミの「ワンフレーズ・ポリティクス」とそれを支持する人たち、それを後押しするマスコミにずっと違和感を持っていたのだが、その理由を森巣さんは実に的確に説明してくれている。

つまりそれは、単純化によって、差異が切り捨てられることへの抵抗感だったのだ。異質なものの混合物に対して、「一元的な理解をしていてはいけない。わからなければわからないでいい」という森巣さんの言葉に、わが意を得たり、の思いだった。みんなが一緒の方がずっと怖い。然り。排除してしまったら終わり、そこで思考は止まる、然り。

あの選挙で「郵政民営化是か非か」という、コイズミによる争点のシングル・イシュー化に日本国民はまんまとはまった。選挙の前日、私にはとんでもない思い出がある。当時私は、疲労の蓄積がピークに達していたが、その日は飲み会だった。私は、翌日の総選挙に不吉な予感を抱きながら、痛飲していた。話が選挙のことに及んだ時、大学でその方面を教えている私より若い先生までもが「郵政民営化は絶対必要ですからねえ」と口にした時、私は絶望感に襲われた。

結局その日は泥酔してしまい、路上で数時間寝てしまった。帰宅した時には、空はもうずいぶん明るくなっていた。

翌日、二日酔いのだるい体調のまま投票所に行ったが、私の票は死に票となった。開票速報は、もう見る気もしなかった...

それ以来、ワンフレーズ・ポリティクスを私は一段と嫌うようになった。下手な単純化や「わかりやすさ」を一段と嫌うようになった。異質なものが混じり合って多様であるからこそ世界は優しいし美しい。森巣さんは実に良いことを言うではないか。

昔、よく「左右両翼の独裁に反対する」という言い方をした。「右」はナチスや大日本帝国のファシズム、「左」はプロレタリア独裁の共産主義がイメージされていた。

だが、いま私は思う。その時言っていた「右」も「左」も同じ独裁志向ではないか。今ではこう言うべきだろう。「独裁にもポピュリズムにも反対する」と。独裁が異端を排除する全体主義であることは言うに及ばないが、ポピュリズムによる問題の単純化、わかりやすさへの志向もまた、異質なものを切り捨てる全体主義の一種であると私は思う。

わかりやすく説明してくれ、などと求めてはいけない。それは、自分の頭で考えることを放棄する、怠惰で卑怯な態度だ。全体主義は、そこにつけ込んでくる。


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今回は、2005年に集英社新書から刊行された森達也と森巣博の対談本「ご臨終メディア」を紹介する。一昨年の、あの悪夢のような「9・11」の総選挙の直前に編集された本で、「質問しないマスコミと一人で考えない日本人」というサブタイトルがつけられている。

森達也氏は1956年生まれのドキュメンタリー作家で、98年、オウム真理教を描いた映画『A』を公開。続編『A2』とともに高い評価を受けた。
森巣博氏は1948年生まれ。オーストラリア在住で、「作家兼国際的博奕打ち」(「サイゾー」2006年10月号別冊による)とのことだ。

二人は、現在のマスコミの機能不全について語り合った。
以下に、この本で興味深いと思われる指摘を紹介していく。

■ずれていく右翼左翼の座標軸

 日本を離れて長い森巣さんが、たまに日本に帰ってくると、かつて「まん中」に位置していた人が、「朝日新聞」の記事で左翼に位置付けられているという。森巣さんが挙げていた例が坂本義和(東京大学名誉教授、国際政治学)だった。かつての右は今のまん中に位置づけられ、かつては相手にされていなかった、神道学の高森明勅(「つくる会」副会長)が右として朝日の紙面に登場しているとの指摘だった。
 森巣さんによると、神道学なるものは、「神がかりのもので、右とか左の範疇に入るものではない」とのこと。痛快な指摘だ。

■大手メディア関係者の給料が高すぎる

 大手メディアの志が低いのは、社員の給料が高すぎるから。これは誰しもが思っていることだろう。森巣さんは、テレビ局の給料を今の10分の1、朝日・読売・日経を6分の1、比較的給与の安い毎日・産経は4分の1に下げよと主張している(笑)。

■「視聴率がとれないから」有事法制をニュースで取り上げなかった日本テレビ

 「有事法制」が騒がれていた頃、日本テレビがこの件をニュースで取り上げなかったことがあった。森さんが日本テレビ報道局の記者にその理由を聞いたら、ナント「数字(視聴率)が来ないから」という答えだったそうだ。

■NHKの番組改変問題(NHKが安倍と中川の圧力に屈したとされる件)

 毎度オナジミのNHK番組改変問題は、この本でも取り上げられている。
 番組が無惨に改変されたことに対して「戦争と女性への暴力」日本ネットワークから訴えられたNHKは、責任を末端の制作会社に押しつけて逃げた。その結果、制作会社が法廷で裁かれた。安倍晋三や中川昭一がNHKに圧力をかけたことを暴いた朝日新聞は、(魚住昭氏に真相を暴かれたのちも)録音テープの存在を認めようとせず、安倍らの軍門に下った。
 なお、森喜朗が首相当時、「神の国」発言をして問題になった時に、森に釈明のやり方を指南したNHK記者はその後順調に出世しているそうだ。

■なぜ石原慎太郎を「極右」と呼ばないのか?

 日本の大手メディアは、フランスのルペンやオーストリアのハイダーらを取り上げる時、必ず「極右」という形容をするのに、「中国人犯罪者民族的DNA論」なる、ルペンやハイダーでもしないようなトンデモ発言をする、紛れもない極右政治家である石原慎太郎を、決して「極右」と呼ばない。これはなぜなのか。
 なお、森巣さんによると、石原邸では「祭日」(右翼用語)に「日の丸」を掲揚していないそうだ(笑)。

 森さんが数年前、右翼の大物と飲んだ時、彼は決して今の日本のこの世相を大歓迎しているわけじゃないと言っていたそうだ。たとえば、「新しい歴史教科書をつくる会」に対して、「あれは民族主義じゃなくて全体主義だ」と言っていた。森さん曰く、『全体主義とは、構造的には無自覚な萎縮の集積です。だから、メディアや世相の右傾化という側面よりも、個が全体に溶け込んで帰属意識や排他性が強くなっていることのほうがよっぽど恐ろしい。(中略)彼(石原)を極右だとメディアが断言しない理由は、自分たちが右翼的体質に感染しているからではなく、むしろこの無自覚な萎縮や保身が継続的に集積している状況の表れなんじゃないかな』とのことだ。実に的を射た発言だと思う。

■サダムがやると拷問、アメリカ軍がやると虐待

 捕虜への取扱いも、同じことをやっても、メディアはサダム・フセインがやると「拷問」(torture)、アメリカ軍がやると「虐待」(ill-treatment)と表現する。アメリカのマスコミも当初そうだったが、誤りに気づいて表記を変えた。しかし、日本のマスコミはこの二重基準を変えなかった。

■コイズミを問い詰められない記者たち

 香田証生さんがバクダッドで武装勢力に拘束されたとの一報が入ったとき、コイズミが初期の段階で、自衛隊の撤退はしないと明言し、香田さんは処刑された。記者の一人は、コイズミに対して「最初に自衛隊撤退はないと言ってしまったために、香田さんの処刑が早まったのではないかという声があります」と言った(森さん曰く、「将棋に喩えれば王手飛車取り」)。それに対し、コイズミは「それでは皆さん、想像してください。もしあのとき、撤退だという言葉を口にしたり、仄めかしたりしたら、どうなっていたかを」。森さん曰く、「王手なのに飛車が逃げたような」突っ込みどころ満載のコイズミの答えだったのに、コイズミを取り囲んだ記者は誰一人コイズミの問いに答えない。コイズミの言葉のあとに一瞬の間を置いてから、記者たちの頷きの吐息が聞こえてきて、そこで映像は終わった。

■「自己責任」について聞かれて答えられない産経新聞の幹部記者

 森巣さんの発言。
 『SBS(オーストラリアの少数者のための公営放送局)で、日本人の三人が、イラクで人質にとられたときの自己責任論についての番組が放送されました。「産経新聞」の編集委員か論説委員が出てきて、インタビューされたんです。SBS側のインタビュアーが問い詰める、どうしてこれが自己責任になるのだと。あなたの考える自己責任とはいったいどんなものなのかと質問される。何てその編集委員か論説委員は答えたと思いますか。ノーコメントって言いやがんの(笑)。これが、ジャーナリストの端くれなんですかね(笑)』
 産経新聞なんてこんなもんだろう(笑)。

■「わかりやすさ」の落とし穴

 以下引用する。

 メディアにおいては、善意とわかりやすさは、とても相性が良いんです。事件が起きると、すぐに結論を出してわかりやすく提示する。よく吟味もしないうちに、解説を施して、決めつける。曖昧な部分を提示しても受け取る側は納得しない。数字も落ちる。だからわかりやすさが、メディアにおいては至上の価値になる。でもこの営みを、利潤最優先の帰結とは認めたくない。だから自分を正当化するんです。使命感と言い換えてもよい。こうして事象や現象をわかりやすく簡略化する悪循環の構造に飲み込まれてしまう。
(中略)
森巣 曖昧なものは曖昧なまま、その答えを自分で考え出そうとしない。曖昧なものに、無理してわかったフリをする必要はない。曖昧なものとして、そのまま放っておいていいんです。簡単な解答を与えてはいけない。
 そもそも世界とは、異質なものが混じり合って成立している。森さん流に言うのなら、それゆえ世界は優しいし豊かなのですね。それに対して一元的な理解をしてはいけない。異質なものは、わからなければわからないでいい。
 だけど、それを怖がるな。
 みんなが一緒の世界のほうが、ずっと怖いのです。異質なものを混ぜて一緒にやる。これが本来の意味での多元主義の立場です。異物はわからないからといって、排除してしまったら終わり。そこで思考は止まります。わからないものはわからないまま、置いておいて、一緒に考えればいい。
(中略)
 ペルーの日本大使公邸を占拠したゲリラたちは、みんな死ぬ気で行動していた。命を懸け、身を挺しても訴えたい、表現したいことがあった。その主張を、テレビを見ている人間が洗脳されるかもしれないからといって、報道しないというのは、何事かと思う。テロリズムが犯罪なら、そのメディアの姿勢も明らかに犯罪行為です。
 本当ですね。
森巣 そんな主張が通るのは、世界中で独裁国家と日本のメディアだけでしょう。北朝鮮や中国には言論の自由がない。報道が規制されているって、よく日本の右派の人たちは主張するのですが、日本では統制する必要がなくなっているだけじゃなかろうか? 安倍晋三なんて三代にわたって日本を喰い物にしてきた奴の言う通りにしている。実践して初めて言論の自由は守られるのです。

 この本の中で、もっとも印象に残る箇所だった。

■希望が絶望に変わるのは諦めた時

 森巣さんは、よく「あいつはオーストラリアという安全な場所に身を置いているから、あんなことが言えるんだ」という批判を受けるという。でも、森巣さんは、この批判はどこかおかしい。日本が「危険な場所」だと認めていることだ。ならばなぜ避難しないのか、と言う。
 森さんが、「オーストラリアには簡単に移住できない」と言うと、森巣さんは「だったら今いる場所を安全にすればいい」と応じる。最後に、巻末に置かれた森巣さんの言葉を紹介する。
 『もし日本が「危険な場所」であるなら、なぜそれを変えようとしないか。変革なんていうとバカにされるニヒリズムの共同体に、どっぷりと身を浸しながら、奈落に落ちるのを待っていても仕方ないのじゃなかろうか。
 長い博奕体験から、私には言えることが一つある。それは、希望が絶望に変わるのは諦めたときなんです。諦めちゃいけない。絶望に陥ってはいけないのです。やれるところから、変えていきましょう。その意味で、日本のマスメディアには、重大な義務と責任があることを、しっかり認識してほしいと思います』

 読みやすい新書本だが、なかなか示唆に富むメディア論が展開されている好著だと思う。


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