きまぐれな日々

昨年末から大きな話題になっているのが、「タイガーマスク」である。

約40年前、1969年から71年にかけて放送された同名のアニメの主人公・伊達直人を名乗る者から、各地の児童相談所や児童養護施設にランドセルなどの寄付が相次いだ件だ。

アニメは古いものの、アニメにあやかった同名のプロレスラーの存在によって、「タイガーマスク」は広く知られている。しかし、アニメのオープニングやエンディングの主題歌は、もう何十年も耳にしたことがなかった。今回の寄付ブームによって、数十年ぶりにアニメのエンディングテーマ「みなし児のバラード」を聞いて、変則的な拍子を持つ哀愁に満ちた歌を、驚きを持って再発見した。最初に耳にしたのは、一昨日(12日)のテレビ朝日「報道ステーション」でニュースのBGMとして流れた時で、数十年前にテレビで流れていたタイガーマスクのエンディングテーマであることはすぐに思い出せたが、懐かしさのあまりネット検索でYouTubeの動画を確認した次第だ。

たまたま、昨日読んだ『日本がアブナイ!』のエントリ「地方競馬のタイガーマスク+菅の「共助の精神」を党内融和にも活かして欲しい」にも、この歌の歌詞が紹介されているのだが、歌詞の中で特に引きつけられたのは、下記のくだりだった。

強ければ それでいいんだ 力さえ あればいいんだ
ひねくれて 星をにらんだ ぼくなのさ


この歌詞について、YouTubeにはこんなコメントが寄せられていた。

強ければそれでいいんだ。力さえあればいいんだ。
という考え方が”ひねくれた”ことだった時代が、あったんだ!
私も、ランドセルの件でたどり着きました。今の日本について、思­わず考えさせられました。


この歌詞の件は、『kojitakenの日記』にも書いたのだけれど、あまりにも印象的だったので、ここにもう一度書く。私は一瞬、竹中平蔵に対する皮肉ではないかと思ったのだが、よく考えてみると竹中だけではない。討論会で高校生と真剣勝負をして泣かせた橋下徹や、「金儲けして何が悪いんですか」と開き直った村上世彰、マッチョとレイシズムがウリの石原慎太郎などが拍手喝采を浴びる時代がずっと続いた。だが、タイガーマスクの時代にはそうではなかった。

私は、かつて住民税を逃れるために毎年住民票を日本とアメリカの間で移していたとされる人物が、辛坊治郎が司会するテレビの極右番組でヘラヘラ愛想笑いを浮かべながら「頑張った者が報われる社会を実現せよ」とのたまう時代に、ほとほと嫌気が差していたのだが、日本人はそんな下種(げす)野郎ばかりではないことが今回の「タイガーマスク」の一件でわかったことは良かった。酷薄な新自由主義の世界は、日本の社会には似合わない。

ところで、前記リンク先の『日本がアブナイ!』は次のように書いている。

 そして、もちろん個人の善意も大切なのだけど。mew的には、本当は、利益を得ている企業が、社会的な役割を果たすために、率先して、様々な施設などへの支援、寄付を行なうようになって欲しいと思うし。<将来のために、進学や資格取得のための奨学金を出すことなども含めて。>


それはその通りだと思う。しかし、グローバル時代には企業も激しい競争にさらされて余裕がなくなっている。もちろん、莫大な利益を上げながら労働分配率を上げずに内部留保を溜め込んだりする新自由主義時代の「優良企業」の問題もあるが、時代の変化によって、業種自体が競争力を失った企業も多く、それらの企業に慈善事業や寄付を求めるのは難しくなってきたことは否めないだろう。

かつての高度成長時代のようなわけにはいかないのである。かつては、大企業が従業員への福利厚生を手厚くして、再分配を行ってきた時代があったが、高度成長時代だったからそれは可能だった。

しかし、高度成長時代を始動した池田勇人自身が、いずれ高度成長時代が終わって低成長時代になると、私企業に代わって政府が再分配を手厚くしなければならない時代がくると考えていた。田中角栄内閣時代に、1973年(昭和48年)を「福祉元年」と位置づけたのも、そうした考え方に沿ったものだ。だが、折悪しく石油ショックとスタグフレーションに見舞われて、日本が福祉国家に転換するチャンスを逃したことはこれまで何度か書いた。その後、福田政権と大平政権の時代(1976?80年)に、財政出動の効果が実って景気が回復したが、今度こそ福祉国家に向けて舵を切らなければならなかった1982年に出現した中曽根康弘政権が新自由主義政策を開始し、バブルの勃興と破裂を招き、当時直間比率の見直しと称して直接税の減税をやり過ぎた結果、日本政府は慢性的な税収不足に悩むことになってしまった。

今、傾いた日本の財政を立て直そうと意欲満々なのが、その日本経済低落の元凶・中曽根康弘の直系である与謝野馨である。中曽根は、「政界風見鶏」として有名で(というより悪名高く)、三木政権(1974?76年)時代には三木武夫と手を組んでいたためにロッキード事件での摘発を免れ、その後田中角栄と組んでついに念願の総理大臣の座に上り詰めた。つい一昨年の麻生太郎内閣で経済関係の閣僚をいくつも兼任して権勢を誇っていた与謝野馨が、自民党が下野すると自民党を離党して平沼赳夫と組み、今また平沼と袂を分かって民主党政権入りしようとしているのを見ると、師の中曽根に勝るとも劣らない「政界風見鶏」だなあと思ってしまう。選挙区で敗れ、自民党の比例代表で復活当選した与謝野は、民主党入りはできないはずだが、無所属議員としてなら入閣できるというのは、たいへんなモラルハザードではないだろうか。与謝野馨の辞書には「恥」という文字はないようである。

そして、その与謝野馨の政策といえば、財務官僚から教わった「財政再建至上主義」を墨守するだけのものだ。菅直人のブレーンとされる経済学者の神野直彦は、財政均衡主義を「新自由主義のドグマ」として厳しく批判しているのだが、神野氏から何も吸収していないらしい菅直人は、財政再建至上主義者である与謝野馨を経済閣僚として迎え入れようとしている。

私は、何も政府の財政赤字に問題がないなどというつもりはない。財政赤字は、政府支出を再分配のために有効に使われなくしてしまう。だが、財政再建というのは好況で税収が増えている時に行うべきものである。過去の日本でいえば、バブル期に税収が増えた時、こんなに税収があるんだからバラマキに使え、減税を行えなどと、間違った政策を次々と繰り出して景気を過熱させた竹下政権の罪が重かった。消費税は、その竹下政権時に導入された。現在のような不況期に消費税率引き上げを含む財政再建策などやってはならない。そんなことは、1996?97年の橋本龍太郎政権の失敗でわかり切っているはずなのだが、歴史から学ぶことを知らない人間は、同じ誤りを何度でも繰り返す。

自民党政権で経済閣僚の要職を長く務めた与謝野馨は、「経済通」として重用されるどころか、経済失政の責任を追及されてしかるべき人間なのだが、財務省や財界、それに中央マスコミの人間を含む富裕層にとってあまりに都合の良い政治家であるため、自民党政権であろうが民主党政権であろうが経済閣僚としてのさばっていられる。それは、与謝野馨にとっては「男子の本懐」かもしれないが、日本国民にとっては良い迷惑である。

与謝野の経済失政の中でも最たるものは、第3次小泉内閣の経済財政政策担当大臣として、「骨太の方針2006」の責任者としてこれをまとめ上げたことだ。この方針の目玉は、年間2200億円の社会保障費の削減だった。与謝野は『文藝春秋』2010年4月号で、自らの業績を下記のように誇っている。

私(注:与謝野馨)が経済財政担当大臣を務めていた小泉内閣時代に作成した「骨太の方針二〇〇六」では、国と地方を合わせたプライマリーバランス(基礎的財政収支)を黒字化するという目標を盛り込んだ。


重ねて書くが、この「骨太の方針2006」が、年間2200億円の社会保障費の削減を決めたのだ。骨太どころか、「骨粗鬆症」の方針ではないか。

その与謝野馨が、第1次菅再改造内閣の経済財政担当相に就任するという。首相の器とは思えない政治家・菅直人は、たちあがれ日本との連立話が破談になっても、与謝野馨の引き抜きは諦めていなかった。そもそもたちあがれ日本の成り立ち自体に、与謝野馨を蝶番にして民主党と自民党を大連立させようという中曽根康弘とナベツネ(渡邉恒雄)が、やはり権力欲の強い平沼赳夫を利用しようとした思惑が見え隠れする。

中曽根やナベツネの思惑にまんまと乗った菅直人は、しょせんその程度の政治家ということだが、与謝野馨の方は、忘れている人も多いかもしれないが、麻生太郎内閣でも最初から経済財政担当相に起用され、故中川昭一が「ローマの窮日」で「もうろう会見」の失態を犯して財務大臣と金融担当大臣を解任されると、これらのポストも兼任して、主要経済閣僚のポストを一人で独占した男だ。一部に、菅政権を批判して、麻生太郎内閣は良かったと持ち上げる「反新自由主義」の人たちがいるが、そういうことを言う人は、麻生内閣の閣僚人事を忘れているのだろう。

民主党大会では、小沢一郎に近い武闘派の森ゆうこ参院議員が、「自民党時代の大増税路線に行くんじゃないですか」と声を張り上げた。単に執行部に反対しているだけといえばそれまでだが、結果的にとはいえ与謝野の閣僚起用人事を批判しているのは間違ってはいない。だが、小沢一郎自身は与謝野馨批判の声をあげない。例によってソンタクズに動いてもらうスタイルをとっているのだろうか。そのせいか、小沢信者の代表格のブログも、与謝野批判の声をあげない。だから与謝野批判は広まらない。

ブログでは、今春の統一地方選で、無所属で広島県議選(安佐南区)への立候補を検討されているさとうしゅういち氏が「供給重視+財政再建至上主義では国滅ぶ」と書いているのが目立つが、普段あれほど菅・仙谷批判や検察批判の声を張り上げる人たちは、与謝野の名前も出さないか、名前を出しているところでも、菅が与謝野を起用することは批判しても与謝野本人は批判しない。これはいったいどういうことなのだ。与謝野は、小泉内閣の経済財政担当相として「骨太の方針2006」を策定した責任者ではないか。小泉・竹中の新自由主義を批判するのであれば、小泉内閣の経済財政担当相を務めた与謝野馨も批判するのが首尾一貫した姿勢というものではないのか。

掲示板を見ていると、タイガーマスク運動を称賛して菅直人を批判する小沢信者が、前者を福祉国家、後者を市場主義国家になぞらえる書き込みをしていた(下記2件のURLを参照)。

http://www3.rocketbbs.com/731/bbs.cgi?id=liberal7&mode=res&no=15347

http://www3.rocketbbs.com/731/bbs.cgi?id=liberal7&mode=res&no=15350

これを読んでいたら頭痛がしてきた。スレ主の桐野昭二氏は、こんなことを書いている。

地域政策の貧困を打開するには、多湿な褶曲列島の風土から、流域圏を圏域に有志の研究会を発足させ、地域再生の設計図を描くのが最初の課題だ。それは、地域政策と地域政党、住民主導の連携行動につながる。大阪・名古屋・鹿児島の阿久根市、沖縄の歩みは、それを教えている。次の地方選は、その検証過程と捉えたい。


それを受けて、「なおもて」氏は書く。

今後、日本が二つの選択のどの道を目的合理的に採用するのか、
すなわち
 1.弱肉強食の小泉路線による経済拡大路線、
 2.経済成長の期待できないスェーデンタイプの福祉国家路線

この分水嶺において、阿久根市竹原市長、名古屋市河村市長問題は大きな問いかけを我々国民に投げかけているように思えます。
果たして、政治は又国民は二つの選択うち決定を行うことが出来るでしょうか?


まるで、竹原信一や橋下徹や河村たかしが福祉国家を実現するかのような書き込みだ。

私はたまりかねて乱入したのだが、そこでも書いたように話があべこべだ。タイガーマスク運動が起きた背景には、国や地方自治体の再分配の不全がある。アメリカは「サービスの小さな政府」の国だが、金持ちの寄付の文化があり、タイガーマスク運動にたとえられるべきは、むしろアメリカの金持ちの善行だ。そして、竹原信一や橋下徹、とりわけ「減税日本」を掲げる河村たかしが志向するのは、「(サービスの)小さな(地方)政府」だ。政府による強力な再分配を行っているスウェーデンとは真逆ではないか。それに、「経済成長の期待できないスウェーデンタイプの福祉国家路線」という言い方もおかしい。3年前の『週刊東洋経済』の北欧特集号は今も手元にあるが、北欧諸国が注目された大きな理由に、これらの国々の高成長がある。3年も経てば、みな昔のことは忘れてしまうのだろうか。「減税日本」にせよ、与謝野馨の消費税増税・財政再建路線にせよ、「サービスの小さな政府」を目指す点で共通しており、ともに(神野直彦の言葉を借りれば)「新自由主義のドグマ」にとらわれているのだ。そして、慈善事業は「タイガーマスク」のような、個人の篤志家の善意に任せればよい。そういう思想だ。私も「タイガーマスク」には心を動かされるが、それでも心のどこかに引っかかりがあるのは、こうした善意の行為を隠れ蓑にして、国や地方公共団体によるが再分配の強化など必要ない、という風潮が強まるのを恐れるからだ。

「鍋党?再分配を重視する市民の会」を立ち上げて、120人の会員が集まって喜んでいたのだが、世間一般ではごく少数派であることを思い知る今日この頃である。上記mixiのコミュには、携帯電話を使用していないので参加できないなどのご意見も戴いているが、近日中に「鍋党ブログ」(仮称)を立ち上げる予定であり、次回のエントリではご報告できると思う。

財政再建至上論者か、さもなくば「減税真理教」信者という風潮に抗して、再分配の重視を求める声を拡大していきたい。
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臨時国会が今日閉幕するが、なんともぶざまな国会だった。終盤の民主党・中井洽と自民党・逢沢一郎への懲罰動議の応酬に至っては、小学校か国会は、と私は思ったが、同感の人は多かっただろう。

この国会期間中に、菅政権の支持率が大きく低下し、発足後半年も経たないのに早くも「末期的」と評されている。一昨年の麻生内閣は発足後わずか5か月の昨年2月に支持率が一桁に落ち込んだ。菅政権はそこまでひどくはないが、支持率の落ち方は安倍内閣や福田内閣よりひどい。

前の鳩山政権もそうだったが、菅政権も何もしない、というより何もできない政権のように思われる。私は、政権が目指す国家像を明確に示さず、菅直人にしても前首相の鳩山由紀夫にせよ、八方美人で誰にも良い顔をしようとするから何もできないのだと思う。

民主党が政権交代を実現したのは、小沢一郎が掲げたスローガン「国民の生活が第一」が国民に受けたからだろう。子ども手当や、朝鮮学校除外という大問題はあるものの高校無償化、農業者戸別所得補償制度などは、「国民の生活が第一」のスローガンに沿ったものであるとともに、「(サービスの)大きな政府」を目指す政策だ。

ところが、党内に松下政経塾出身議員や、御用労組を通じて実質的に経団連と同様の主張をする旧民社党系議員を抱える民主党は、「大きな政府」の国家像を打ち出すことができない。それどころか、「国民の生活が第一」を掲げた小沢一郎自身が、地域政党「減税日本」を立ち上げた新自由主義者・河村たかしを支援するという支離滅裂ぶりであり、新自由主義に反対しているはずの小沢信者が、リバタリアンを自称する副島隆彦の主張に付き従うという漫画のような光景が現出している。これではどうしようもない。

では自民党はどうかというと、かつて加藤紘一邸への放火を笑いものにしたり、映画『靖国 YASUKUNI』を検閲しようとした稲田朋美を代表質問に立てたり、仙谷由人が自衛隊を「暴力装置」と表現したことに噛みついて、社会学や政治学では普通の用語を「言葉狩り」しようとしたりと、従来から持っていた極右色をさらに強めた。

経済問題でも、自民党の税制調査会は法人減税について、政府税調が法人税減税と引き替えに企業向けの優遇税制見直しを検討しているのに反対して、無駄の削減による財源確保を主張し、環境税にも慎重な対応を求めた。つまり、自民党は民主党よりさらに過激な新自由主義をとる。政治思想、経済政策の両方で、自民党は極右政党となり果てた。

野党第一党がこのざまだから、民主党から武器輸出三原則を見直そうなどという妄動が出てくる。社民党や共産党は零細政党になってしまっている。逆に、自民党よりさらにひどい政党が続々と現れている。

その一つが平沼赳夫と与謝野馨の「たちあがれ日本」であることはいうまでもないが、その「たちあがれ日本」や自民党を含む、大多数の政党が司法修習生の給費制復活法に賛成する中、唯一反対したのが「みんなの党」だった。この政党が民主党よりも自民党よりも「たちあがれ日本」よりも過激な新自由主義政党であることをよく示しているといえるだろう。

だが、今後の政局で、この「みんなの党」は、地域政党というより橋下徹の私党である「大阪維新の会」や河村たかしの私党である「減税日本」とともにますます台頭していく可能性が高い。小沢信者もこれに呼応する。ある掲示板では、小沢信者が「みんなの党と小沢派で河村市長を盛り立てていこう」などと気勢を上げていた。彼らがかつて口にしていたコイズミ・竹中の構造改革ハンタイとはいったい何だったのかと思わざるを得ないが、単に流行に乗って、つるんで騒ぎたいだけの人たちなのだろう。だが、彼らが河村たかし、橋下徹、渡辺喜美らに惹かれるのは、それがトレンドになっているからであり、これは由々しき問題だ。

橋下徹の最近の話題では、沖縄県知事選で再選された仲井真弘多知事が、関西空港への米軍基地受け入れの可能性を示唆した橋下の呼び掛けに応じたいとして、関空を視察する意向を示したところ、橋下が前言をあっさり撤回し、受け入れ先候補として神戸空港を勝手に名指した件が挙げられる。大阪の地元放送局が、この橋下発言に対する沖縄出身大阪府民や神戸市民の怒りの声を報じていたが、それでも大阪の報道の多くは橋下をマンセーし続け、大阪府民の多数は橋下を支持し続けるのだろう。

名古屋・愛知では、前回のエントリでも取り上げたが、愛知県知事選で立候補を予定している大村秀章の選挙戦を有利にするためだけに、名古屋市長の河村たかしが辞意を表明し、県知事選と市長選のダブル選挙を行おうとしている件が挙げられる。これを「究極の税金の無駄遣い」と批判した岡田克也は正しい。日頃、岡田克也の政策には賛成できないものが多いが、これは文句なしの正論だ。「減税」をスローガンにする人間が、名古屋市政を私物化し、税金を無駄遣いする矛盾。だが、それでも名古屋市民の多数は河村たかしを支持し続けるのだろう。

そして、国政では、自民党や「たちあがれ日本」までもが賛成した司法修習生の給費制復活法に唯一反対したみんなの党。以前から渡辺喜美は、自民党は「大きな政府」だ、本当に「小さな政府」を目指すのが「みんなの党」だ、と主張している。同党は、日本でもっとも過激な新自由主義政党だといえるだろう。

そこで、今回のエントリのタイトルを、「橋下は大阪の恥、河村は名古屋の恥、渡辺喜美は日本の恥」とした次第だ。

石原慎太郎はって? あんなのは過去の人間ですよ、現在でも強烈な害毒を撒き散らしてはいるけど。石原が名付け親になって力を入れた「たちあがれ日本」が参院選で1議席しか獲得できなかった時点で、石原は終わってます。
私は、70年代末から80年代初頭にかけて、政治への関心が旺盛だったものの、思い描く方向に政治が進むどころか、その逆方向に進んでいくのに失望して、1984年頃から次第に不活性化していった人間である。

途中、90年代末から2000年にかけて、当時全盛を極めていた「グローバル・スタンダード」に対する対抗言論が勃興し始めた頃、政治への関心を取り戻した時期があったが、私の全く好まない小泉純一郎政権が異様な人気を博したのを見て、再び「世捨て人」的なスタンスに戻ってしまった。その小泉がついに自滅するかと期待し興奮した2005年の「郵政総選挙」では、解散当時誰もが予想した自民党の下野が起きるどころか、逆に、小泉自民党の圧勝を許してしまった。これはとんでもないことになると、危機感を本格的に強めたが、それでもものぐさな性格ゆえ、翌2006年4月になってようやくブログを開設した次第である。

私の手元には、小野善康著『景気と経済対策』(岩波新書、1998年)がある。見ると、レシートがはさまっていて、2000年1月4日の日付が感熱紙に印刷されている。つまり、コイズミが異常人気を博して私が政治に失望する前の年の新年早々に買ったのだった。同じ日、私はナベツネ(渡邉恒雄)の論説をまとめた『ポピュリズム批判』(博文館新社、1999年)を購入したことを覚えているが、これは「敵」が書いた本として読んだ。一方、小野善康氏の本は、考え方の指針を得ようと思って買ったのだった。もっとも、ナベツネの著書と同じ日に小野氏の著書を買っていたことは、本にはさんでいたレシートに昨日気づくまですっかり忘れていた。

この本については、当ブログの一昨年(2008年)10月3日付エントリ「ようやく『脱コイズミカイカク』を打ち出した毎日新聞の社説」で取り上げたが、この本で小野氏は、不況期にこそ財政出動をせよ、不況期の財政赤字は余剰資源の有効活用ができるからかえって好ましい、不況期に必要なのは、政府が民間では吸収し得ない余剰労働力を積極的に使って、意味のある公共財を供給することである、国債発行は将来世代の負担になるというが、この議論自体にも多くの誤りがあり、特に不況期には負担にならないなどと主張している。

さらに小野氏は、「官から民へ」というスローガン(中曽根以来の新自由主義政権が使い続けた)を痛烈に批判する。以下引用する。

 不況期には、「官から民へ」といわれ、官が介入せずに、自由に民間活力に任せよといわれる。しかし、需要が不足し、民間に活力が生まれないからこそ不況になったのであり、ただ民間活力を使えといっても使いようがない。そのため、余っている貴重な生産資源を有効活用するには、官が介入せざるを得ないのである。そのとき、官から民へと騒げば、官は何もしないことになり、失業が放置されてかえって無駄が発生する。

(小野善康 『景気と経済政策』 (岩波新書、1998年) 195頁)


「政府の借金」と「国の借金」を混同するな、国債発行によって財政赤字が累積することは、政府部門の民間に対する負債がたまっていることを意味するのだ(前掲書84頁)と、菅直人首相のブレーンたる小野氏は言っているのだが、菅首相は惨敗した参院選に向けた演説で、「日本をギリシャにしていいんですか」と有権者を脅した。こりゃダメだ、参院選では負けるだけ負けろ、と私は匙を投げた。

本来の小野理論では、不況期に景気を刺激するためには、「需要側」の考え方に立って、働くインセンティブよりも使うインセンティブを促進する方が重要だ、不況期には供給が過剰なのだから、高給取りのやる気を削ぐ最高税率の引き上げなどをやって、高給取りにはむしろやる気をなくして余暇をとってもらい、お金を使ってもらった方が良い、逆に好況期には(供給が足りなくなるから)最高税率を下げて高給取りの働くインセンティブを促進すればよい、とされている(前掲書113?116頁)。先月、読売新聞が課税最低所得の引き下げによる課税対象の拡大を行えと社説で主張したが、これにも小野氏は「低所得者から高所得者に対して、所得の再分配が行われる」と批判している(同114頁)。小野氏は「需要側」に立つケインジアンであり、読売新聞、というよりナベツネは、「供給側」に立つ新自由主義者なのである。ただ、社会正義の観点から再分配を推進せよというのではなく、景気を制御するために、「不況期には」累進性強化を行うという処方箋を提示する点が、小野氏が高福祉高負担の社会を目指す神野直彦氏と異なるところだ。

小野氏で批判されるべきは、最近のテレビ番組出演などで、「政府が雇用を創出するための財源としては所得税と消費税のどちらがよいか」と聞かれた時に、「所得税が望ましいが、消費税でも良い」と答えて、菅首相の消費税増税政策を後押ししたことだろう。実際に「日本をギリシャにするな」と叫ぶ菅首相が消費税の増税分を何に使おうとしているかは明らかだが、少なくとも「需要側の経済学」の視点から「供給側の経済学」一辺倒の自民党政府(当時)の政策(やマスコミの論調)を批判した、もともとの小野理論には見るべきものがあると思う。

問題はやはり菅首相自身にあって、ケインジアンのブレーンの思想をつまみ食いしながら、菅首相の周囲を固めている新自由主義者(民主党議員、官僚、財界人など)の気に入るような政策に換骨奪胎してしまう。最初に余分な期待を抱かせるだけ、ゴリゴリの新自由主義者よりたちが悪いと思えるほどだ。

ここ最近でいちばん失望させられたのは、菅首相が伸子夫人に対して、「中曽根康弘元首相の政権運営を参考に『本気でやり遂げたいのは、財政再建の糸口をつかむことだ』と決意していると明らかにした」らしいことだ。

このことを私は、「枝野は金持ち増税論者。小沢の方が新自由主義?+小沢との面会+菅夫人が本出版」と題された、『日本がアブナイ!』の記事で知ったのだが、菅伸子氏の著書に書かれていることらしい。

これを読んだら小野善康氏はがっくりと肩を落とすのではないかと思った。『景気と経済対策』で小野氏が批判しているのは、中曽根康弘が実行に移した、「供給側の経済学」に立脚した経済政策だったはずだからだ。

中曽根康弘に関する包括的な批判としては、『広島瀬戸内新聞ニュース』の記事「開発独裁強化とアメリカ従属深化を確定させた中曽根康弘さんの大罪」(7月22日付)と、同記事からリンクされている、同じ著者(さとうしゅういち氏)による『JanJan』掲載の記事「『民主勝利なら大混乱』と中曽根康弘さんに言われたくない ─ 彼こそが現在の格差と貧困を生み出したネオコン政治の源流である」(2009年7月6日付)をご一読されることを、読者の皆さまにおすすめする。

中道左派を出発点とした総理大臣に、「中曽根康弘元首相の政権運営を参考にする」と言わせるほど中曽根康弘の権威は絶大だし、マスコミ界ではナベツネの主張には誰も逆らえない。それではいけないのだ。

幸い、中曽根康弘も渡邉恒雄も健在だ。つまり、彼らが生きているうちに、彼らにレッドカードを突きつけ、これまでの人生において彼らが犯した誤りを反省してもらうチャンスは残っている。

中曽根康弘の目が黒いうちに「大勲位」の権威を失墜させよ。そうすれば、中曽根康弘はこれまでの人生を虚心坦懐に振り返る機会を得て、大往生を遂げることができるのではなかろうか。ナベツネについても同様である。


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当ブログの最初の記事は2006年4月9日付だが、実際には同年4月16日に開設して、遡って9日付のタイムスタンプをつけたものだ。その直前、2006年4月7日に民主党代表に就任したのが小沢一郎だった。小沢一郎は、それまで新自由主義を志向していた党の方針を転換し、「国民の生活が第一」をスローガンに掲げた。

別に小沢民主党を応援するためにブログを開設したわけでもなんでもなかったが、小泉純一郎とともに、ポスト小泉の本命と見られていた安倍晋三を止めたいという気持ちは強かった。だから、ブログ開設2か月後に、安倍晋三が統一協会系の大会に祝電を送った件が、マスコミにはほとんど報じられなかったけれども、ネットで騒がれた時に、騒ぎに参加することによって、政治問題を扱う路線を確立した。もっとも、その前から政治について書いていたけれど。当時「AbEnd」と名づけた安倍晋三排斥運動の旗振り役を務めた。この時期の頂点が、2007年の参院選における自民党の歴史的大敗と、その1か月あまりあとの安倍晋三の退陣だった。

2007年11月の「大連立」政局以来、小沢一郎を批判する立場をとったことで独自路線をとり始め、2009年3月の西松事件以来、「自End」グループとはっきり距離を置くようになり、連立政権にも是々非々で臨む態度をとってきた。新首相の鳩山由紀夫は支持していなかったが、民社国連立政権の枠組は支持してきた。しかし、社民党の連立離脱に伴い、その枠組が壊れたから、もはや連立政権は支持しない。

前のエントリに書いた通り、無能な鳩山由紀夫や無能な平野博文は、辻元清美・国土交通副大臣を現職に残すことで、福島氏を更迭しても連立の枠組み自体は維持できると甘い考えで臨んで、福島瑞穂・消費者担当大臣を罷免したが、まさか鳩山がここまで人間心理を理解できない人間だとは思わなかった。それまで、「思い」がどうとか「腹案」がどうとか言っていたこととの落差はあまりにも大きく、ああ、これが鳩山由紀夫という人間の本性なんだなと思った。私が感じたのは鳩山由紀夫の酷薄さ、と言って悪ければ無神経さであり、この期に及んでなお鳩山由紀夫を弁護する人たちの心理が、私には理解できない。

もちろん、コケにされた社民党が黙っているはずもなく、本心では連立に残りたくてたまらなかった阿部知子でさえ、「罷免では連立に残れない」と言うしかなかった。阿部知子以上に残りたくて残りたくてたまらなかったのが辻元清美で、岩下俊三さんは、辻元清美が福島瑞穂を軽挙妄動だと非難していたのを漏れ聞いた、と書いている。

だが、鳩山由紀夫と福島瑞穂の対決は、福島瑞穂の圧勝だった。結局福島を「罷免」せざるを得なくなった時点で、鳩山の敗北だ。公約を破って前言を翻した者が、筋を通した者を「首切り」したのだから、いくら阿部知子や辻元清美が悔しがろうが、社民党は連立を離脱するしかなくなった。今回の福島党首の罷免劇は、嘘つきが正直者を切り捨てた上で、正直者の仲間たちに「これからも仲良くやろう」と言っている図式であって、およそ想像を絶した不条理の世界である。この一件で私が受けたショックは大きく、もう鳩山由紀夫の顔を見るだけで気分が悪くなるほど鳩山由紀夫に対する嫌悪感が募ってしまった。

社民党には、普天間基地問題もそうだが、労働問題や税制の問題で、社会民主主義の方向から政権に歯止めをかけてほしかったのだが、鳩山首相があんな行動をとったからには仕方がない。福島瑞穂に「あなたは筋が通っている」と言ったらしい小沢一郎が総理大臣になれば、ミズホタンは閣僚として戻ってくるんじゃないかとか、悪いのは無能な平野博文だとか、鳩山首相は北澤・岡田・前原らを罷免すべきだとか、その他いろいろ断末魔の叫びを上げている人たちがいるが、それらは全部、事実を事実として受け止めることができない人たちのたわごとだ。ここでなすべき選択はただ一つ、鳩山由紀夫の総理大臣辞任しかない。

もちろん、鳩山由紀夫ではなく、岡田克也が総理大臣になってたって普天間基地問題は解決しなかっただろうが、そもそも昨年5月の民主党代表選を、電光石火で国会議員だけで行うことを押しつけたのは小沢一郎と鳩山由紀夫である。あの時には、菅直人も打つ手なしだった。この時にも、当ブログは小沢一郎と鳩山由紀夫を批判したし、その前年の代表選で小沢一郎が無投票で当選した時にもこれを批判したが、今回の社民党の連立離脱は、これらの動きすべてがもたらした帰結である。そういう分析なくして、感情的に鳩山由紀夫や小沢一郎を弁護したって、それは未来に何の果実ももたらさない。結果を得ようとする者は、自分の感情に安易に流されてはならない。

小沢一郎は、功罪相半ばする政治家で、特に1989年に自民党幹事長に就任してから、90年代の「政治改革」、93年の7党連立政権を経て、自自連立から自自公連立に至るまでは、「罪」が「功」を大きく上回った。政治改革で当時の社会党が小選挙区制に乗ってしまったことが、今日の社民党の衰勢につながったが、選挙制度改革を強く推進したのも小沢一郎だった。そのせいで、もともとは「環境派」だった鳩山由紀夫は、民主党を結成する際に数合わせをせざるを得ない羽目に追い込まれ、それで旧民社系とくっついたのである。鳩山由紀夫が「環境派国会議員」として活躍していた頃に、脱ダム問題などで協調していた天野礼子さんなどは、鳩山由紀夫に対する評価が高いが、「旧民社の害毒」が鳩山由紀夫及び民主党を反動化させてしまった。元凶はもちろん小選挙区制を導入した「政治改革」である。小沢一郎ら根っからの保守政治家のもくろみは、みごと当たった。

だが、新自由主義を掲げたために地元土建業者への利益誘導に支障を来した小沢一郎は、地元土建業者の破綻とともに支持母体を失い、民自合併に際して、教職員組合から支援を受ける「組合政治家」に変身したとされている。要するに、小沢一郎が推進した新自由主義政策が、小沢一郎自身の政治生命を脅かしたのである。民主党入りした小沢一郎は、横路孝弘らと政策協定を結んで、「『小さな政府』研究会」とかいう、いかにも新自由主義むき出しの党内グループには参加せず、突如民主党内最右派から左派に軸足を移した。それが、岡田克也や前原誠司の新自由主義路線が行き詰まった2006年4月に民主党代表に就任した時の、「国民の生活が第一」のスローガンにつながった。

小沢一郎最大の功績は、社民主義的な「国民の生活が第一」のスローガンを掲げれば選挙に圧勝できることを、2007年の参院選と2009年の衆院選で示したことだ。自民党と民主党がともに新自由主義路線をとっていた頃には、新自由主義政策の進展によって生じた格差の拡大に苦しむ有権者の受け皿は、小政党である共産党と社民党しかなかったが、「国民の生活が第一」のスローガンによって、票が民主党に集中したのである。

ただ、民主党を圧勝させた票は、それだけではなかった。小泉純一郎の「構造改革路線」を支持し、その後の安倍晋三や麻生太郎に飽き足りなかった新自由主義の信奉者も、民主党に期待して投票した。相反する方向性を持つ、社民主義・福祉国家志向と新自由主義志向の票が合わさって、昨年8月の総選挙における民主党の歴史的圧勝につながったことは、多くの識者が分析している。

また、民主党幹部の多くは新自由主義者である。今後、民主党が公明党やみんなの党と組むとか、中曽根康弘とナベツネが熱望している「たちあがれ日本」と組むとか、いろいろな政界再編があり得るだろうが、どのように再編したところで、前述の「格差の拡大に苦しむ有権者」のニーズに応えることはできない。新自由主義をとらない政党が、右の国民新党と、左の共産党・社民党の3つの小政党しか存在しないからだ。

当ブログのように新自由主義を批判する意見に対して、「金持ちに対する嫉妬心」を動機として意見を述べていると批判する向きが、自民党などの支持者だけではなく、民主党支持者にも結構見られる。そう思う人は勝手にそう思っていればよいと私は思う。サッチャー、レーガン、中曽根康弘らが相次いで政権の座に就く直前の70年代末に、社民主義的な考え方に影響を受けた人間である私が主張するのは、結局新自由主義は日本経済を没落させただけではないかということだ。日本では、1982年に発足した中曽根康弘政権以来、30年近くにわたって新自由主義政策がずっと推進されてきたと考えるべきだが、その間の日本経済というと、80年代末にバブル好況期を迎え、それが破裂したあと、ずっと悪化が続いている。つまり、新自由主義政策の失敗は既に証明されていると私は考えており、だからそんな時代遅れの経済政策にこだわる松下政経塾出身の連中など、私は全く評価しないのである。

「国民の生活が第一」のスローガンを掲げて、二度の国政選挙に圧勝しながら、いざ政権に就くと全然公約を果たそうとしなかった民主党だが、有権者の一部も、いつしか新自由主義の熱さを忘れてしまったかのようだ。それを痛感したのが、前回のエントリにいただいたコメントの中で、橋下徹を評価するようなことを書いていた人がいたからだ。

橋下は、かつて「ウイングを左に広げる」と称して、一部の騙されやすい左派も味方に引き入れて、1986年の衆参同日選挙で空前の自民党大勝をもたらした中曽根康弘に倣っているのか、ひところの右翼受けを狙った言動が最近は影を潜めているようだが、それより何より、橋下の最大の問題点は、彼が新自由主義者であることだ。

もしかしたら最近の当ブログの小沢一郎批判に眉をひそめておられるかもしれない、当ブログコメント欄常連のsonicさんは、「橋下徹」という文字列に反応し、下記のコメントをお寄せいただいた。

橋下が私学への補助金をカットした際、異論を述べようとして相手にされなかった高校生たちを思い出しました。
泣きながら「私らもっと勉強せなあかんねん。あんな奴らに負けんようにもっと勉強せなあかんねん。」と言っていた生徒もいましたね。
彼女たちは今どうしてるんでしょうか?
橋下の本質にいち早く接したのは彼女ら高校生でした。
すでに2年。彼女らは有権者です。
大阪の橋下ポピュリズムにはたして飲み込まれているでしょうか?

私は大阪を救うのは橋下ではなく、あのときの高校生たちになるだろうと思います。

2010.05.29 17:25 sonic


私もsonicさんと同様、橋下というと真っ先にこの件を思い出す。この件に関しては、『kom's log』に、「ボクタチの闘争」と題した印象的な論評が掲載され、私はこのエントリに「2008年のブログエントリ中のナンバーワン」と賛辞を呈した。下記にURLを再掲するので、読者の皆さまにも是非再度ご参照いただきたいと思う。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081027

今後は、普天間基地の問題もあるけれども、それと並行して、民主党政権が強めるであろう新自由主義的性格への批判を強めていかなければならないと考えている。

民社国連立政権は、とりあえずは民国連立政権に衣替えするわけだが、唯一の救いは、残った連立のパートナーである国民新党の亀井静香が、新自由主義に反対する方向性をとる政治家であることだ。私はこれも、亀井静香個人の資質によるところが大きいと考えており、同じ国民新党でも下地幹郎など全く評価できないし、亀井静香にしても経済政策以外ではほとんど意見が合わない。しかし、それにもかかわらず、現在の日本では経済政策が最も重要だと考えるために、亀井静香に期待を託している。

前々回のエントリのコメント欄で、ふだんほとんどコメント欄の議論に口出ししない私が、鳩山首相は辞めて亀井静香を首相にした方が良いのではないかと書いたところ、参院選で共産党に投票すると言っているお前がなぜ亀井静香を首相にしろなんて言うのか、支離滅裂だ、お前はただ単に民主党が嫌いなだけなんだろう、などと口汚く罵られたが、そういうことを言う人の方が、経済政策を軸として思考することのできない、イデオロギーにとらわれた人間である。

5月21日付エントリ「神野直彦『「分かち合い」の経済学』に見る消費税増税論批判」にTBいただいた『広島瀬戸内新聞ニュース』のエントリ「参院選の予想と経済政策の混乱」に、縦軸に行政のサービスの大きさ、横軸に消費税率をとった2次元ダイアグラムが載っているので、是非ご参照いただきたい。国民新党と共産党は極めて近い立ち位置にいる。

北欧諸国は、サービス大で消費税率も大きく、社会民主主義や福祉国家指向の政策を主張する人の中にも、消費税増税を主張する人もいるが、現在なされている消費税増税論議の目的は財政再建であって、消費税率を上げても行政のサービスを拡充するつもりなど毛頭ない人たちによって扇動されている。たとえば、与謝野馨のごときは、小泉構造改革に責任を持つ大臣として、社会保障費を切り詰めてきたことを、『文藝春秋』に寄稿した文章で誇っている始末である。だから、自民党や「たちあがれ日本」、「日本創新党」などは、行政のサービスが小さいだけで消費税率だけを上げるという、およそ世界にも他に類例のない苛酷な税制を目指しているといえる。一部の社民主義者の活動家などが消費税率引き上げに賛成したところで、自民党他の政治勢力に利用されるだけである。

そもそも、金持ちが応分の負担をしていないのが日本の所得税制であるが、こう書くと必ず、「所得税の累進性を強化すると中所得層がダメージを蒙る」と反論のコメントをされる方がいる。よくブログの文章を読んでいただくと、累進性を強化する前に、分離課税だらけの所得税制のために、富裕層が異常に優遇されている、それを改めて所得に総合課税をすべきだと主張しているはずだ。だが、どういうわけかそれを読み取っていただけない。もっとも、それは読み手の読解力よりも、私の書き方が悪いせいである可能性が高いから、理解していただくまでこうやって何度でも書く。税率の累進制強化は、その次の段階にくる。まず高所得層から分担してもらい、次いで中所得層、そして、消費税増税はそれでも足りない分が生じた場合に初めて実施する。サービスの小さな政府であるアメリカでは、間接税に頼らなくとも政府の小さなサービスには支障を生じないので、直接税中心の税制になっている。それを、自民党や与謝野一派は、小さな政府指向なのに消費税を上げようとする。日本の金持ちとはどこまで強欲な人間たちなのかとあきれてしまう。

こんな主張が罷り通るのは、70年代末以来30年にもわたって、新自由主義のプロパガンダがずっと繰り返されてきて、福祉国家や社民主義を主張する人間など、貧乏人が金持ちに対してひがんでいるだけだ、という刷り込みが行われてきたせいである。

この手の宣伝をしてきた、これまでの支配者層にとっては、社民党が連立政権に加わることなど、あってはならないことだったに違いない。だから、今回の福島瑞穂党首の罷免劇には、してやったりの思いだろう。そう思うと、腹が立って仕方がないのだが、それもこれも、連立政権に反対する側の人間よりも、むしろ鳩山由紀夫を筆頭とする民主党の政治家たちの多くが新自由主義のイデオロギーにとらわれていることの責任の方が重い。なんだかんだ言っても、自民党や与謝野馨・平沼赳夫一派は野党であり、民主党は政権政党なのだから。

今回決定的な誤りを犯した鳩山由紀夫を引きずり下ろすことさえできないようでは、民主党は崩壊あるのみだろう。というより、国民の多くのニーズを満たす政党が小政党しかない現状では、新自由主義から一歩も脱却できない民主党など、百害あって一利なし、自民党と同じだが、無用な期待を抱かせる分だけ自民党よりもっと悪いとさえいえる。

何ともやりきれない5月末である。


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田原総一朗が去った日曜朝のテレビ朝日だが、後番組の司会を務める小宮悦子はキャスターの役割を果たしているとは到底言えず、中田宏と山田宏は好き勝手にしゃべっていた。

先週、平沼赳夫と与謝野馨が「たちあがれ日本」という名前のトンデモ新党を結成した時は、テレビ朝日は二人を番組に呼ばなかったが、中田宏と山田宏は呼んだ。このあたりに、テレビ朝日のネオリベ好きが表れているように思えた。いや、「財政再建厨」の与謝野馨も、教育に市場原理を導入したサッチャー教育改革の信奉者である平沼赳夫も、私に言わせれば広義の新自由主義者(与謝野の場合は狭義でも新自由主義者)だと思っているのだが、この2人には同時に「古臭い自民党」のイメージもまとわりついている。一方、中田宏と山田宏らの「首長新党」は、私は軽視していたのだが、一部で「『たちあがれ日本』なんかよりずっと警戒すべきだ」という声もあがっていたから、番組を注視した。しかし、中田宏と山田宏の2人には全然魅力がなく、立て板に水のごとくぺらぺらとしゃべってはいたものの、国政で何がやりたいのか2人ともさっぱり言わないし、小宮悦子も全然質問しないので、なにやってんだこいつら、と見ていてイライラするほどだった。もちろん「首長新党」というだけあって、「地方分権」を掲げているのだが、彼らの言う地方分権など、中央で官僚が仕切っている利権を、地元の有力者によこせというだけのものなのではないかと思える。

中田宏は、土曜日に辛坊治郎がやっている読売テレビの右翼番組に時々出てくるが、話しぶりに知性が全く感じられないので、私は以前からこの男を馬鹿にしていた。中田の経歴を見ると、日本新党で小池百合子の秘書を務めたのが政界入りのきっかけだったらしく、なるほど低知性ぶりもうなずけると思ったが、なぜか横浜市民は少し前までこの男を好んでいたらしく、2006年の二期目の市長選では、自民・民主・公明の支持を受けて、共産党候補の5倍以上もの票を獲得して圧勝した。この頃の民主党代表は前原誠司で、中田とは体質的に近かった。中田はかつて無所属ながら、2000年に民主党の実質的な支持を受けて衆院選に初当選しながら、2001年の首班指名で小泉純一郎に投票して菅直人の怒りを買い、会派「民主党・無所属クラブ」から除名されたことがあるのだが、そんな男を支持することを認めた前原誠司も、やはり中田と同じ松下政経塾出身の新自由主義政治家だなと思う。

その中田が一転して強い批判を浴びたのは、横浜市長の二期目の任期を、半年残して投げ出したことによる。横浜の開国博が失敗に終わった責任を問われる前に逃げ出して、再び国政に復帰しようとでもしたのだろうが、この男を持ち上げてきた横浜市民も、ようやくこの男の正体を思い知ったに違いない。

杉並区長の山田宏については、正直よく知らなかった。杉並区で「つくる会」の教科書を採択したことは聞き覚えがあったから、右翼的な人物だろうくらいの認識だった。調べてみると、城内実が大活躍していることで知られる「チャンネル桜」で『山田区長の一言申しあげます―杉並区アワー』を担当しているとか、石原慎太郎を支持しているなど、新自由主義者である以上に極右色の濃い政治家のようだ。

どちらかというとイデオロギー的なイメージをさほど持たれておらず、新自由主義に特化しているように見える中田宏と、ゴリゴリの極右である山田宏の組み合わせは、ちょうど財政再建厨の与謝野馨と極右・平沼赳夫の組み合わせを連想させる。極右の山田宏が党首になったところも、「たちあがれ日本」と同じだ。

テレビ朝日の番組ではなかなか政策を口にしなかったのだが、終わり頃にようやくフリップを出して政策の骨子が示された。実につまらない新自由主義の政策が並んでいるだけのものだった。「構造改革の推進」とかなんとか書いてあり、小泉構造改革と同様の路線を意味していることを彼ら自身が認めていたし、フリップでは法人税減税を掲げて、他の税については何も書かれていなかったが、小宮悦子に消費税について聞かれた山田は、政府の財政を家計になぞらえる陳腐なたとえを持ち出して、消費税の大増税が当然であるかのように答えていた。政策にしてもテレビでの受け答えにしても、中田や山田からは清新さが全く感じられないし、同じ新自由主義政党としても、「みんなの党」や自民党内の「上げ潮派」とは異なり、消費税大増税にも意欲を見せるなど、「みんなの党」よりもはるかに「たちあがれ日本」に近い、というより「たちあがれ日本」の亜流に過ぎないのではないかと思えるほど印象が悪かった。

「みんなの党」や自民党の「上げ潮派」は「小さな政府」の政策を徹底していて、私とは相容れないけれどもそれはそれで筋は通っている。しかし、中田や山田の新党は、「たちあがれ日本」と同様、小さな政府を目指すと言いながら消費税は大増税するという。こんな馬鹿げた政策が支持されるはずがない。まさか「たちあがれ日本」とほとんど差がないことしか言えないほど中田や山田が無能だとは思わなかった。これでは橋下徹や東国原英夫に逃げられるのも無理もない。番組では明かされなかった新党の名前が「日本創新党」だと知った時にはさらにずっこけた。なんて魅力のない名前だろうか。ATOKで変換すると「日本送信塔」と出てきた。きっと怪電波を発信するのだろう。

噴飯ものだったのは、そんな彼らが「小さくて賢い政府」を掲げていたことだ。「賢い政府」とは、「グリーンニューディール政策」に力を入れようとしたオバマがよく口にしていた。オバマは、大きな政府か小さな政府かの議論は無意味で、「賢い政府」であるべきだと言っていたと思うが、山田と中田は、臆面もなく「小さな政府」を掲げて、小泉構造改革の後継者に名乗りを上げた形だ。そのくせ、消費税大増税と極右イデオロギーがついてくるのだからたちが悪い。なお、山田や中田の言う「小さくて賢い政府」は、植草一秀が理想とするという「良い小さな政府」をも連想させる。2004年4月8日に植草が最初に逮捕された時は、当時横浜市長だった中田宏の後援会で講演を行った直後のことだったが、もともと植草という男は中田宏に共鳴するような思想信条の持ち主なのだろう。「小さな政府」を理想としている以上、植草一秀もまた新自由主義者であると私は見なしている。しかし、植草は新自由主義者らしくあらゆる増税に反対しており、「日本創新党」や「たちあがれ日本」に比べればまだ筋が通っている。中田や山田の政策のどこが「賢い」のか、私にはさっぱり理解できない。

そんなわけで、いざ蓋を開けてみたら「たちあがれ日本」と全く変わらなかった首長新党「日本創新党」だが、さっそく前原誠司や平沼赳夫からありがたいエールが送られた。平沼の発言は、NHKのニュースでも伝えられたが、選挙区の津山市(岡山県)で、「民主党や自民党の志ある人たち」に加えて、日本創新党との連携をも視野に入れる発言をしていた。平沼の節操のなさにも呆れたが、新自由主義と国家主義の醜悪なキメラである点では、「たちあがれ日本」と「日本創新党」は瓜二つといって良い政党だから、いっそ合流してはどうかと私などは思ってしまった。トンデモ政党が合併して大きくなったら、「たちあがれ日本」入りに尻込みした城内実あたりも喜んで合併新党に馳せ参じるのではなかろうか。


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4月に入って、学校や企業、役所など、新年度が始まったところも多いと思うが、当ブログは新年度初日の昨日(1日)は更新しなかった。これは、ブログを開設した4年前以来だ(この年の4月1日にはブログ未開設だった)。昨年秋以降、週2回更新を基本にしているせいもあるが、今年は例年になく気分の浮き立たない年度初めである。

昨年の4月1日には、朝日新聞は立花隆が小沢一郎を厳しく批判する文章を載せ、小沢一郎の時代の終わりを予感させが、そうはならなかった。小沢一郎は、昨年5月に民主党代表を退き、電光石火の代表選で鳩山由紀夫を後継の代表にして、自らは民主党幹事長に収まったが、その体制下で昨年の衆院選に圧勝した。しかし、鳩山政権は実績不足もさることながら、意欲をあまり感じさせず、人々にフラストレーションだけならまだしも、政治に対する失望と無関心を引き起こしているように見える。

政権交代後、それまで自民党を応援していた保守派のメディアだけではなく、自公政権時代に政権に批判的だったメディアも、徐々に新政権を批判するようになった。ジャーナリズムの使命は権力の監視にあるから、それはそれで当然ではあるが、なぜかその批判が人々(市民というべきか、人民というべきか?)の側からではなく、大マスコミ自身がその一員であるところの既得権益だとか新自由主義者の側からなされていて、「産経も朝日も同じ」とまでは言わないが、少なくとも「読売も朝日も同じ」という様相を呈している。蛇足だが、自民党と一緒に下野した産経新聞は、やはり異彩を放っており、最近は自民党の方が産経色に染まってカルト化してきたように思う。

朝日新聞のダメっぷりを痛感させられたのが、新年度に入っての昨日(4月1日)付と今日(4月2日)付の紙面である。たとえば1日付では、党首討論で普天間基地問題を現行案支持の立場に立って論じた谷垣禎一自民党総裁に好意的な記事(社説や4面など)を掲載した。この問題で迷走する鳩山政権を厳しく批判すべきことは当然だが、それがアメリカの言うがままに沖縄に負担を強いてきた前政権と同じ側の立場からの批判であっては何の意味もない。

また、新自由主義側の論者ばかりを集めた、刀根館正明編集委員編集のオピニオン欄「こうする!日本再生」も全くいただけなかった。中でもうさんくさいと感じたのが、「成長政策」に特化するのではなく、「安定化政策」と「再分配政策」も大事だと、一見物分かりの良さそうなことを言っている駒沢大学准教授の飯田泰之なる人物だ。この男は、現在の日本では都会から地方へと一律に富が移転される設計になっているなどと書いている。だが、私が肌で感じるところでは、地方は都会よりずっと貧困がひどい。ハコモノや道路の建設は、都会から地方への富の移転なんかではない。潤うのは東京に本社を持つゼネコンであり、政官業癒着にあずかる役人や政治家たちである。その政治家のセンセイたちも、特に自民党の世襲議員などはその大半が生まれも育ちも東京であって、選挙区には週末に「帰る」というより「訪れる」だけだ。

飯田泰之のインタビュー(聞き手は杉井昭仁記者)は、読み進むにつれてどんどん馬脚を現していくのに唖然とした。税制を改革して(消費税は毎年1%ずつ引き上げて10%にするらしい)税収を70兆円超にしたら、労働市場の規制緩和や流動化に着手するのだそうだ。ここまできて、飯田泰之は新自由主義者の正体をむき出しにする。この飯田泰之という人物は、雨宮処凛との共著『脱貧困の経済学』や、勝間和代及び宮崎哲弥との共著『日本経済復活 一番かんたんな方法』を出していて、後者は嫉妬心の強さで有名な池田信夫(ノビー)に批判されているが(注:これらの書籍やノビーの文章にはいちいちリンクは張らないので、興味のある方はネット検索などで調べてほしい)、なんのことはない、飯田泰之とノビーは同じ穴の狢なのである。今では竹中平蔵のようなストレートな新自由主義者は敬遠されるようになったから、羊の皮を被った飯田泰之のような人物がもてはやされるようになったというべきか。雨宮処凛との共著を出すとは、編集者も出版社もあくどいことを考えるものだと感心してしまった。そして、そんな人物を朝日新聞が新年度最初の日の紙面に取り上げる。これでは救いがない。

朝日新聞は、2日付の科学面では、「転機の原子力」という連載をスタートさせ、「原発導入、高まる機運」という見出しで、原発推進の姿勢を維持してきたフランスの政策を紹介している。この連載は、毎週金曜日に掲載されるようだが、少なくとも原発を否定的に見直す記事にはならないことは予想される。こういう記事を見ていると、以前、「朝日新聞の民主党化」を指摘した魚住昭を思い出すが、その魚住も今では佐藤優や田原総一朗のお仲間だ。

しかし、「ネットで真実」を言っている面々はそれ以下なのだからお話にならない。植草一秀が副島隆彦と共著を出版していたり、ベンジャミン・フルフォードと対談していることを批判できないようでは、「ネット言論」とやらもタブーだらけだとしかいえない。フルフォードとリチャード・コシミズとの距離は、もうそんなにない。「植草一秀はトンデモである」と当ブログは書くが、そう書くことのできないブログが大多数である現実はお寒い限りである。

そんなわけで、真実はネットにもない。いや、探せばあるのだろうが、読者が多いサイトに真実があるわけではない。そもそも、そんなにお手軽に真実にたどり着けるのなら、誰も苦労しないのである。かくして、羅針盤なき航海は続く。


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今年は、経済政策についての議論がますます混迷の度を深めた年だったと思う。

私は、基本的にその道の専門家の意見を尊重するものであるが、こと経済学に関しては、学者によって正反対の主張がなされるばかりか、同じ学者がころころ意見を変える例が目立つ。だから、裏ブログ『kojitakenの日記』では、その道の専門家である(ことになっている)池田信夫氏や植草一秀氏をしばしば批判するし、彼らに「トンデモ」だとか「陰謀論者」などというレッテルを張ることも厭わない。もっとも、池田、植草両氏はネットでは絶大な人気を誇るものの、アカデミーで地歩を築いているとは言い難いようだ。

しかし、小泉内閣の閣僚を務めた竹中平蔵となると話は別で、今でもしばしばメディアに出て、得意の饒舌をふるっている。今年の正月に、NHKの特番を初めとして精力的にテレビ出演していた頃の竹中は、金子勝や加藤紘一を相手にしても、その弁舌の巧みさにより、あたかもディベートに勝っているかのような印象を視聴者に与えることに成功していた。しかし、この頃が竹中の最後の栄光であり、政権交代が起きて「小泉構造改革」への批判がタブーでなくなると、竹中もテレビで議論するたびに「勝者」の印象を視聴者に与えることはできなくなった。最近、亀井静香との対論で、竹中は、積極財政を主張する亀井の意見に対して「それも一つの考え方です」と言ったが、かつては竹中はこのような言い方は決してしない男だった。この対論を見て、竹中も精彩を欠くようになったなあと思った。

政権交代選挙の直前の今年8月に、フリージャーナリストの東谷暁氏が書いた『エコノミストを格付けする』(文春新書、2009年)という本が出た。買い込んだまま読んでいなかったが、昨日一気読みした。この本の「あとがき」に、下記のようにある。

 数式やグラフが並び、緻密な論理によって組み立てられたエコノミストたちの議論を読めば、ここには客観的な真理を追求する「科学」があると思うかもしれない。しかし、お互いを激しく罵りあう論争や、自説についての傲慢なまでの確信を目の当たりにすると、むしろ、それは「宗教」に近いのではないかと感じることもあった。

 興味深いのは、2003年ころから一時的な景気回復が見られた際、構造改革派もインフレターゲット派も財政出動派も、この経済の立ち直りは自分たちの理論の正しさが証明されたと信じて疑わなかったことである。自分たちの世界観充足し、自説を疑うことがないというのだから、これはまさにカルト宗教に近いと言えるかもしれない。事実、経済学を宗教になぞらえる経済思想の研究家もいるほどだ。

 とはいえ、世界同時不況という事実を直視し、各国政府が実際に採用した経済政策を検討するならば、ある種のエコノミストたちが声高に論じていた絶対に正しい理論もなければ、何から何まで神秘的なオカルト的理論から成り立っていたわけでもない。ほどほどのところで仮説を立てて、そこそこの共通認識でアメリカの金融危機に端を発する経済的混乱に対応しているというのが、掛け値なしの現実というべきだろう。

(東谷暁 『エコノミストを格付けする』(文春新書、2009年) 251頁)


私はもちろん著者のように経済学の文献を読み込んだことなどないが、これは納得できる文章だ。この「あとがき」にあるように、この本は構造改革派、インフレターゲット派、財政出動派のいずれもを厳しく批判しているが、その中でも竹中平蔵、中谷巌、八代尚宏といった新自由主義者たちと、かつて日本にインフレターゲットを強く推奨しながら、リーマン・ショックに端を発するアメリカの経済危機に際しては財政出動派に変身してしまったポール・クルーグマンをこき下ろしている。

「転向」した中谷巌に対しても、

すっかり「時代の犠牲者」のような風貌を備えるに至ったが、中谷氏はいまも「改革論者」であることに変わりはない。(中略)中央政府の仕事を、外交と防衛だけに限定してしまうというのだから、夜警国家を推奨する「新自由主義者」であり、霞が関の官僚を激減させてしまうというのだから、小泉政権以上のハードな「構造改革論」を振り回しているわけである。(前掲書218-219頁)

と手厳しい。しかし、さらに辛辣を極めるのが竹中平蔵に対する論評であり、著者は竹中を、

これほどあけすけに、アメリカ金融界との間に立つ「フィクサー」として振る舞っていながら、多くの読者の支持を得ていることが不思議で仕方がない。(中略)これまで竹中氏が公言してきた経済についてのコメントは、ほとんどが矛盾を来し、しかも、そのすべてが政治的な行動のために経済学的な見解を犠牲にしてきた。私はこの人物が単にアメリカに「操られている」だけだなどとは思わないが、少なくともその発言を経済学者のものとして扱うのは間違っているだろう。(前掲書213-214頁)

と酷評している。実際、竹中が主張を豹変させてきたのはよく知られているところで、それでなければ閣僚はつとまらなかったのかもしれないが、竹中の特に悪質なところは、それを得意の詭弁でごまかしてしまうところだった。

ところで、著者が竹中とともにメインのターゲットにしているのが、昨年のノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンである。かつて1998年に日本が不況に陥った時、クルーグマンが日本に勧めた政策がインフレターゲットであり(つい最近も経済学者でもない元新自由主義者の勝間和代が菅直人に勧めて話題になったが)、日銀が量的緩和を続けながら日銀総裁が日本経済をインフレにすると宣言して国民のインフレ期待を引き起こせば、不況なんて簡単に脱出できるよと言っていたが、昨年来アメリカ経済が危機に陥った際にとられたのは普通の金融緩和策と財政政策の組み合わせであって、しかもクルーグマン自身がインフレターゲット論ではなく「ためらいなき財政出動」を推奨する旗振り役になり、かつてインフレターゲットを勧めた日本に対しては「謝罪」した。著者はクルーグマンをくるくる立場を変える人間と見ている。そして、かつて金融緩和はダメな企業を生き残らせるとして反対してきたサプライサイド経済学者の竹中平蔵が、突如として究極の金融緩和策であるインフレターゲット論を受け入れる立場に転向したことについて、

この人物(竹中平蔵)を、「自説」といったものを持つ経済学者であると認識している限り解けない謎だろう。(前掲書115頁)

と皮肉っている。竹中は論外としても、ついしばらく前までは、不況には財政出動なんか効かない、効くのは金融政策だけだと言われていたのが(どうもこの説が主流になったのは、1993年にクリントン時代のアメリカが緊縮財政をとりながら不況を脱出したことが原因らしい。著者はこれを、冷戦の終結(社会主義陣営の崩壊)と日本のバブル崩壊という、(アメリカにとっての)幸運に見舞われたためだと考えている)、今どこの政府でもやっているのは財政政策と金融政策の組み合わせであって、改革派経済学者である野口悠紀雄までもが財政出動を訴えている。ましてや、他の大勢の学者が小泉政権時代の2000年代前半には「小さな政府」論を唱えながら、現在では過去の自らの誤りに言及するのでもなく「大きな政府」を推奨している実例が、証拠を提示しながら、これでもか、これでもかというほど本に書き連ねられている。この本を読んで、経済学者たちに不信感を持たない人などいるだろうかと思えるくらいだ。

現在、ネットで一部民主党支持系ブロガーたちに神のごとく崇め奉られている植草一秀も、リーマン・ショックの直前には「良い小さな政府」を唱えていた。そもそもこの人物は、経済学者としての出発点がマネタリストであり、レーガン大統領の任期中、日本の経済学アカデミーの間でレーガノミクスに対して否定的な評価が主流になっていた1983年に、レーガノミクスを評価する論文を書いたことを今でも自著(『知られざる真実 ?勾留地にて?』)で誇っている。どうしてそういう人物が現在金融政策を軽視して財政出動だけを叫ぶ人間になっているのか、私にはさっぱりわからない。

また、やはり現在ネットで一部新自由主義系ネットワーカーたちの熱烈な信奉の対象になっている池田信夫は、竹中平蔵をさらに過激にしたような主張を展開している。この人物の場合、まだ主張が首尾一貫しているとはいえるが、竹中平蔵でさえ世の支持を急速に失っている時代に、ネットにおける池田信夫の人気が衰えないのも謎だ。そして、前記東谷暁氏の『エコノミストを格付けする』には池田のいの字も植草のうの字も出てこないことからもわかるように、ご両人とも経済学のアカデミーから認められた人物ではないが、ネットではともに一部の信者たちから絶大な支持を集めている。

池田信夫の高慢な文章はよく知られているが、読者、特に一部の有名ブロガーに取り入る文章を書く植草一秀にしても、

仙谷由人行政刷新相の発言がこれまでの発言と一変した。(植草一秀の書いている)『金利・為替・株価特報』を熟読していただいたのだと思われる。(11月29日付の植草氏のブログより)

と書くなど、その「知られざる」高慢さは池田信夫に一歩も引けをとらない。現実は、どこの国でも財政政策と金融政策を組み合わせて不況に対処していることなど、別に植草一秀のレポートなど読まずとも誰でも知っている。誇大宣伝をしている植草一秀にも呆れるし、世界中の政府の政策に反して、いまだに「改革が遅れているから景気が回復しないのだ」と叫ぶ竹中平蔵や、それに追随する池田信夫に至っては論外というほかない。

そして、「無駄の削減だけしていれば財源は確保できる」としてきた民主党政府や、その「事業仕分け」を熱狂的に支持してきた国民を見ていると、日本がいまや世界の主流から大きく乖離した小泉構造改革路線に立ち戻ろうとしているようにしか見えず、暗澹たる思いになる。一昨年の参院選および今年の衆院選は、「国民の生活が第一」というスローガンを掲げた民主党を第一党にすることによって、有権者が新自由主義に「ノー」という審判を下したものとしか私には思えないのだが、その結果小泉構造改革が復活するようでは、日本経済の再建が果たして本当に可能なのかという暗い気持ちになってしまう。日本人はいつになったら「改革詐欺」に騙されていたことに気づくのだろうか。


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前回のエントリ「谷垣禎一・安倍晋三・城内実「民主党は社会主義」の大合唱」に関連するが、このところ、私がよく見に行くブログで、「小さな政府、大きな政府」、あるいはデフレスパイラルについて論じたブログのエントリが注目を集めているようだ。

ところが、それらについた「はてなブックマーク」を見ていると、驚くほど新自由主義的な考え方をする者が多い。これは、衆院選前にはさほど目立たなかった現象で、おそらく、「政権交代熱」の冷めた人たちがネットでの政治談議にあまりかかわらなくなり、根強く存在している小泉構造改革の支持者たちの意見が浮かび上がってきたのではないだろうか。下記URLのうちいくつかを眺めてみられるとわかると思う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20091023/1256302802
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20091030/1256911673
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kechack/20091028/p1

上記リンク先の最後のものは、『Munchener Brucke』のエントリ「低賃金を前提にした産業は日本から出て行け 産業の空洞化など恐れるに足りぬ」についた「はてなブックマーク」だが、私もこのエントリをブクマしていて、「賛否両論あるエントリだろうけど、「『好況が好まれない国になってしまっているのである』という指摘は鋭い」とコメントをつけたところ、18個の「はてなスター」をいただいた。

「好況が好まれない国」とは、新自由主義国と言い換えても良い。デフレは、富裕層や大企業にとってこそ好都合だ。デフレとは、物価が持続的に下落していく経済現象のことであり、物価の下落は同時に貨幣価値の上昇も意味するからである。金を持っている人たちにとってはインフレよりデフレの方が都合が良いに決まっている。

また、デヴィッド・ハーヴェイは、新自由主義の「実践」を「富裕階級の権力回復のプロセス」ととらえ、新自由主義は、経済成長ではなく格差の拡大を真の目的としたプロジェクトであるとしている(2007年12月7日付当ブログエントリ「「痛みに耐えたカイカク」の先に現出した「階級社会」」参照)。この理解が正しいとすると、新自由主義者はデフレを好み、デフレスパイラルによって、格差は際限なく拡大していくことになる。「はてブ」を見ると、ブログ主を新自由主義者と誤解する人が多いのに驚くが、新自由主義は人件費削減を目指すものなのである。「最低賃金が時給1000円になったくらいで潰れるような企業はもう潰すべき」と書いた、shigeto2006さんの態度が、新自由主義に反対する者のあるべき姿だと思う。

Wikipediaは、右翼や新自由主義者によって編集されていることが多いのだが、デフレスパイラルに関しては下記のように記述されている。

経済全体で、供給過多、需要不足が起こって、物価が低下する。商品価格が低下すると、生産者の利益が減り、利益が減った分だけ従業員の賃金が低下する。また企業の利益が減ると雇用を保持する余力が低下するので失業者が増える。従業員と家族は減った賃金で生活をやりくりしようとするため、あまり商品を買えなくなる(購買力の低下)。その結果商品は売れなくなり、生産者は商品価格を引き下げなければならなくなる。

物価が下がっても、名目金利は0%以下に下がらず、実質金利が高止まりし、実質的な債務負担が増す。債務負担を減らすために借金返済を優先する企業個人が増え、設備投資や住宅投資が縮小される。投資の縮小は総需要の減少へつながり物価の低下をもたらす。

上記のような循環がとどまることなく進むことを「デフレスパイラル」と呼ぶ。政府による買い入れや物価統制など直接的な手段が有効であるが、現代の経済においては消費者物価の継続的な低下に対して金融緩和や量的規制緩和、為替介入などの金融政策で対処することが多い。所得税の累進性や社会保障はビルト・イン・スタビライザーの機能をもつため物価の安定に機能するとされている。

一方で80年代のレーガノミックス、サッチャリズムによる小さな政府政策以降、ワシントン・コンセンサスに見られる新自由主義や市場原理主義が先進主要国の政策に導入されており、ビルト・イン・スタビライザーの中心でもあった累進課税と失業者救済制度が「自由競争を損ない、経済活動を萎縮させる」と批判の対象とされて機能しなくなつつあり、2007年金融危機発生後の現在では世界規模でのデフレスパイラル発生が懸念されている。


Wikipediaにしてはまともな記述であるように思える。そして、現在、明らかな不況にあるにもかかわらず財政再建路線をとろうとしている鳩山内閣(特に藤井財務相)は、デフレ政策をとろうとしているとして批判されるべきだと私は思うが、そんな与党・民主党を谷垣禎一や安倍晋三や城内実は「社会主義」だと言って批判するのである(城内の主張は、本意としては民主党政府がデフレ政策をとろうとしていることを批判していると読解することが可能で、それなら正しいと思うが、城内は政治的配慮からか、わざわざ誤読を誘う文章にしてしまっている)。

10月14日、鳩山首相はマニフェストを実行するための赤字国債の増発に含みを持たせていたが、これがマスコミの批判を受けると、翌15日には一転して、

「マニフェストの実現よりも、やはり国債をこれ以上発行してはいけないと、国民の意思としてそのようなことが伝えられたら、あるいはそういう方向もあると思う」


と語った(ロイターの記事参照)。

これは、マニフェストを実現できなくて国民生活が良くならなくても僕知らないよ、と言わんばかりの発言であり、全くいただけないのだが、高給取りの人たちが構成しているマスコミの報道に騙されて、緊縮財政を支持する国民も悪い。数年前、金子勝・慶応大教授が、緊縮財政を特徴の一つとする新自由主義政策は、デフレ時に行うものではなく、インフレ抑制策として実施されるのが普通であり、デフレ時にやることではないと言っていたそうだが、これが正論だと思う。ところが、小泉純一郎も竹中平蔵も鳩山由紀夫も藤井裕久も、そうは考えていないらしい。現実に、バブル期には税収が増えて財政赤字幅はずいぶん小さくなっていた。その頃にこそ財政再建の政策を行うべきではなかったかと思うが、自民党政府はそうはしなかった。

「勝ち組」なんかであろうはずのない大多数の国民が、みんなで「お国の借金」を心配してあげて、お金持ちや大企業に奉仕しようというのは、とんでもない倒錯である。それこそ、神野直彦・関西学院大学教授が言うように、「民主主義が機能していない」と思う。


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すっかり更新間隔がまばらになってしまった当ブログだが、旧「政権交代ブログ」の興味の的は、日本郵政の社長人事らしい。しかし、この件には私はたいした興味を抱くことはできない。だって、郵政民営化の見直しだの反対だのって、あの平沼赳夫や城内実でさえ言っている、というか彼らは他にはたいしたことを言っていないのだが、彼らにさえ正論が吐ける議題でしかないからだ。もちろん、顔ではニヤけながら腸を煮え返らせている竹中平蔵が吐く捨て台詞などは論外だけれども、この問題は連立与党が公約通り粛々と進めてくれれば良いだけの話だ。

それより問題なのは、わが国の貧困率が15.7%に達し、自殺者が年3万人を超え始めた1998年以降をとっても最悪に達した(2007年)ことであり、それにもかかわらず、財務官僚の意を受けた鳩山内閣が、母子加算を復活するから、高校等就学費や学習支援費を廃止しようなどとしていることだ。

小沢一郎や植草一秀とともに、鳩山由紀夫を「政権交代の三種の神器」として崇め奉っていた人たちの間では、鳩山由紀夫首相への批判はタブーらしく、明らかに小泉純一郎内閣発足当時を思わせるような緊縮財政政策を志向している鳩山内閣に対する批判は弱いし、数少ない批判者も、平野博文官房長官や藤井裕久財務相への批判はしても、鳩山由紀夫首相に対する批判は抑え気味だ。しかし、菅直人の就任が有力視されていた官房長官に平野博文を選んだのも、小沢一郎との緊迫したやりとりのあげく、小沢が極めて強く抵抗していた藤井裕久の財務相就任を強行したのも、いずれも鳩山首相だった。そして、なんといっても8年前の小泉純一郎内閣発足当時、小泉と「改革」の先鋭さを競う方針を打ち出したのは、当時も民主党代表を務めていた鳩山由紀夫なのだ。その時と今で、鳩山首相は何も変わっていないと私は思うし、このざまではマスコミの言うような「民主党発の不況」が本当に深刻化しかねないとも危惧する。

政治家としての力量だけで言うなら、総理大臣は鳩山由紀夫より菅直人の方がよっぽど良かった。だが、もし菅直人が総理大臣であれば、マスコミの政府への集中砲火は現鳩山首相へのそれとは比較にならないほど熾烈なものになっただろうと思われる。それを考えると、どちらが良かったかは一概には言えないのだが、少なくとも鳩山政権の経済政策に大した期待ができないことは間違いなさそうだ。

鳩山内閣以上にどうしようもないのがマスコミで、彼らの頭にあるのは財政再建と消費税増税だけと言っても過言ではない。マスコミの意向を気にするのは昔からの民主党の習性だが、ある意味藤井財務相が今のような方向性をとるのも、マスコミの後押しがあるからだといえる。特に、藤井氏を財務相に起用するかしないかで鳩山由紀夫と小沢一郎がもめていた時、テレビ朝日『サンデープロジェクト』司会者の田原総一朗が、藤井財務相を実現させるために渾身の力を振り絞っていたのを見て、なんだこいつ、と思ってしまった。

ところで、しばらく前に、民主党政権と自民党町村派の政策の類似性を指摘して、今年1月に『日経ビジネス』のコラムに載った神野直彦東大教授(当時。現関西学院大学教授)のインタビュー(下記URL)にリンクを張った非公開コメントを送ってきた読者がいた。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090105/181859/

当ブログの継続的な読者であれば、私がしばしば神野教授の論考をブログで紹介してきたことをご存じのはずで、今さら神野氏の論考をもって私を説得する必要などないことくらい了解していることと思う。なぜこのコメント主はコメントを公開にしなかったのかと訝る次第だが、実はこのコメント主はコメント中で消費税増税を否定しない、というよりブログ主の私に対して、暗に消費税増税肯定の立場に立てと促す立論をしていたのである。つまり、当該コメントが公開されれば、当ブログの読者から批判を浴びることは確実だった。それが嫌でコメントを非公開にしたのだろうと私は推測している。

具体的には、コメント主は

「雇用創出のための公共投資」なんて小さな話ではなく、しかるべき政府の役割を認めて、出すべきところには金を出し、その財源として応分の負担を求めるというのが正しい左派のありかたのはず。それが消費税であるかどうかは、本来小さな話にすぎない。

などと書いていたのだが、実はこれは、神野教授の主張とはかけ離れているのである。

神野教授は、著書『財政のしくみがわかる本』(岩波ジュニア新書、2007年)の中で、次のように書いている。

(前略)国民からとりたてた税金を、国債の借金返しに使えば、一般の国民から税金をとって豊かな人々にお金を配分してしまうという現象になるのです。

 現在日本でおこなわれようとしている、財政再建のために消費税を増税しようという政策は、この典型です。なぜなら、消費税は負担が逆進的で、貧しい人に負担が大きく、豊かな人に負担が小さいからです。税金で貧しい人々に負担を求め、国債を持っている豊かな人々にお金を配分することになるわけです。

 つまり、本来の財政は、国民のお金を右のポケット(豊かな人々)から左のポケット(貧しい人々)に移すのが役割なのですが、財政再建のための消費税増税では、左のポケットからお金をとって、右のポケットに押しこむという逆再分配が行われる危険があるということです。

(神野直彦 『財政のしくみがわかる本』 (岩波ジュニア新書、2007年) 137頁)


つまり、神野教授は「応分の負担を求めるというのが正しい左派のありかたのはず。それが消費税であるかどうかは、本来小さな話にすぎない」というコメント主の主張とは真逆に、所得の再分配という財政のあるべき姿に反する消費税増税という手段によって財政再建を図ってはならないと主張しているのである。

コメント主は、偉そうに「神野直彦氏の以下の言葉をかみしめるべきであろう。」などと書きながら、前記『日経ビジネス』のコラムから、次のような神野教授の発言を引用している。

―― 国と国民の信頼関係が失われている日本は悪循環に陥っていますね。

 神野 正直なところ、今の国民が言っていることはよく分からない。メディアを含めて、「増税をするなら歳出を削減しろ」と言う。普通、公共サービスは国民の生活を支えるのに必要なものでしょう。そう考えると、多くの人は「必要な公共サービスを減らしてくれれば、負担増に応じる」と言っていることになる。

―― …まあ、そういうことになりますね。

 神野 それからさ、「財政再建のための増税に応じる」と言う人も多い。財政再建なんだから、サービスは増えませんよね。つまり、「サービスが減るか、同じだったら負担増に応じてもいいけど、サービスを増やすのは嫌だ」と言っていることになる。こういう考え方は普通あり得ない(笑)。どうなっているのか分からない。端的に言ってしまえば、民主主義が機能していない。

(『日経ビジネス』 2009年1月8日付 「この国のゆくえ 危機の今こそ考える」掲載 「手厚いセーフティーネットが強い国を作る」より)


この神野教授の言葉をかみしめるべきだ、というコメント主の主張に私は大賛成である。昨今の、歳出を削減しろとばかり民主党政権に迫るマスコミ報道ほど私を苛立たせるものはない。マスコミは、鳩山民主党政権に「小泉改革路線に再帰せよ」と迫っているのであり、それに便乗して「小さな政府」路線を走ろうとしているのが財務官僚、平野官房長官、藤井財務相、そしてほかならぬ鳩山首相その人なのである。これでは、失われた27年(俗に「失われた10年」とか「失われた20年」などといわれるが、私は日本における新自由主義の創始者・中曽根康弘内閣の発足時を起点とすべきだと考えている)をさらに継続せよ、と言っているようなものだ。政府支出を悪、財政再建を善と決めつける神話自体が間違っているのだが、いったいこのことを何度言えば良いのだろうか。財政再建は好況時にこそやるべきものであって、不況時には積極財政が欠かせないのである。応急的な諸施策とともに、長期的には「グリーンニューディール」への注力が絶対に欠かせないが、新自由主義に反対しているはずのネット左翼が、「真正保守(笑)」と共闘して「地球温暖化陰謀論」などを唱えて、グリーンニューディールに水を差す愚行を演じる。そして、「左派は人々に応分の負担を求めよ」などと言いながら、当ブログ管理人に「消費税増税を主張せよ」と迫って、あつかましくもそれとは正反対の主張をしている神野直彦氏の発言を引用して当ブログにコメントしてくる人間もいる。冗談ではない。神野教授も指摘しているように、所得の再分配は財政の大きな任務なのである(前記『財政のしくみがわかる本』の第4章を参照)。まるで、わが国で「政治に関心のある」人々の多くは、寄ってたかって日本を没落させようとしているかのようだ。「応分の負担を求める」べき相手は富裕層である。新政権は「大きな政府」の方針を鮮明にして、現状応分の負担をしているとはとてもいえない富裕層に「応分の負担」をしてもらい、本来得べかりし所得を手にすることができていない貧困層に所得を再分配しなければならない。そうしない限り、日本経済が再び浮上することはない。

まさにこのエントリを書き上げようとしている今、葉隠さんからタイムリーなコメントをいただいたので、これを紹介して今日のエントリの締めにしたいと思う。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1006.html#comment7769

公共事業そのものは悪ではないと思いますよ。
問題は優先順位。
一律に公共事業を削減する大愚策により 地方経済は疲弊しました。

老朽化したインフラが全国で沢山あります。もっと、生活に密着した分野に投資すれば内需拡大を図ることができます。

田中角栄氏を批判する方もいますが、私は『政治の本質は利益誘導』だと考えています。

70年代に求められたことと現代に求められることは違いますが、税金をいかに適正に再配分するかの本質は変わりません。

2009.10.22 23:46 葉隠


そう、再分配こそ財政の肝なのである。それを、「バラマキ」などという言葉を用いて非難するのは、日本を滅ぼしたい国賊の新自由主義者である。


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鳩山新内閣発足から1か月。その間、さまざまな対立軸が浮かび上がってきた。どのマスコミも指摘するのは、菅直人の国家戦略室の影が薄いことで、鳩山由紀夫首相?藤井裕久財務相のラインは、財務省好みの緊縮財政路線に走りたい意図がミエミエだ。だが、民主党のマニフェストのベクトルは、鳩山首相らの意向とは逆方向を向いているので、鳩山首相は内部矛盾によって引き裂かれようとしているかに見える。

抜群な人気に支えられて緊縮財政路線を進むとなると、これは2001年の小泉純一郎政権をそっくり再現することになるので、それは避けてほしい。そもそも藤井裕久財務相にこだわっていた鳩山首相に問題がある。この人は、もともと旧民社党系労組に支えられた政治家で、保守的、反動的な性格を持っているが、それを前面に出させないためには国民世論の盛り上がりが欠かせない。

八ッ場(やんば)ダムの建設は、もちろん中止の方向に持って行くべきだと思うが、政府はそれに代わって「グリーンニューディール」政策によって新たな雇用を創設しなければならない。繰り返し紹介するが、天野礼子さん

「ダム中止」では予算が減額するだけですが、「ダム撤去」なら、新たな公共事業が発生します。それがグリーン・ニューディールです。

と指摘している通りである。9月28日付エントリ「新自由主義かケインズ政策かの議論ではない。環境問題だ」にいただいたsonicさんのコメントによると、

村山政権下で、建設省は河川を蛇行させて氾濫原を回復しようと構想したことがあります。
しかし自社連立が崩壊したことでお流れになってしまいました。

河川の三面貼りが公共事業そのものって訳では有りません。
自然回復事業としての公共事業は技術的にも確立しており、他国での事業実績もはっきりしていて、予算次第で実行可能なのです。

とのことである。この事実を私は全く知らなかった。社会民主主義と環境問題の不親和を指摘するむきもあり、それは欧米の歴史からすると正しいのだろうが、日本では1960年代から70年代にかけて公害が深刻な問題になっていた経緯もあって、革新政党は環境問題に熱心だった。そして、社会党の村山富市首相を首班とする内閣の政権下では、グリーンニューディールのさきがけとなる河川再生の公共事業が行われようとしていたのだ。この点では、評判の悪かった自社さ政権が再評価されても良いかもしれない。

そういえば、自社さ政権発足当時、亀井静香が「私はハトを守るタカだ」と言っていたことを週刊誌で読んだ記憶がある。その頃は私はまだ亀井静香を嫌っていたから、「何言ってやがる」と思ったものだが、最近、モラトリアム政策をぶち上げて、すわ鳩山首相との意見の不一致か、とマスコミに騒ぎ立てられた亀井氏が、この懐かしいフレーズを再び用いていた。但し、15年前の「ハト」は「ハト派」を意味したが、今回の「ハト」は鳩山由紀夫首相を意味する。そして、鳩山首相は必ずしもハト派とはいえない。

旧「政権交代」論者には亀井静香の評判は悪い。私は、日本会議のメンバーである亀井氏の政治思想には当然ながら全く賛成しないが、経済政策は結構評価している。自民党政権の頃から、ムダな公共事業を中止させて、より乗数効果の大きな公共事業に集中することによって景気を浮揚させようとしていた。それは、決して間違っていない。最悪なのは、「お国の借金を孫子(まごこ)の代に残すな」という、一見わかりやすく人々の心をとらえるフレーズに乗って緊縮財政路線を走ろうとすることだ。財政再建は好況時に行わなければならないというのが鉄則であって(つまり、中曽根政権や竹下政権、特に後者が適切な政策をとらなかったことが大失敗だった。「ふるさと創成」などと言って竹下がバブル好況期にバラマキを行ったことを想起されたい)、現在のように働きたくても仕事がない人たちが大量にいる状況で緊縮財政路線をとるのは自殺行為である。

その意味で、「小さな政府」論は根本的に間違っている。私が一つ愕然としたのは、当ブログで「小さな政府」、「大きな政府」という用語を用いた時、前者が市場原理主義のレッセフェール(自由放任主義)、後者が福祉国家を指すのは自明だと思って記事を書いていたのだが、その意図が当ブログの継続的な読者の方にさえ十分に伝わっていなかったことだ。

それが、前のエントリ「「小さな政府」=新自由主義はやはり根絶しなければならない」のコメント欄のやりとりで明らかになった。「大きな政府」という言葉には「ムダな政府支出」だとか「全体主義」という負のイメージがどうしてもつきまとうものらしい。「小さな政府」、「大きな政府」という用語を用いること自体、新自由主義者の策略に自分からはまるものだという指摘が以前からなされているが、その指摘が正しいことを今回痛感した。今後は、必ず「レッセフェール対福祉国家」といったん言い換えた上で記事を書くように心がけたいと思う。

なお、同じエントリのコメント欄で、「衆議院議員の地位を世襲させた小泉は新自由主義者とはいえないのではないか」との意見が見られたが、これは正しくは「小泉は市場原理主義者とはいえない」と言うべきである。新自由主義というのは、デヴィッド・ハーヴェイ的な理解によると、新自由主義とは、「富裕階級の権力回復のプロセス」であり、「経済成長ではなく格差の拡大を真の目的としたプロジェクト」である。つまり、市場原理主義は格差を拡大するためのツールに過ぎず、その真の意図は階級の固定にあるのだから、小泉は平然と議席を息子に世襲させたのである。その意味で、「市場原理主義」と「新自由主義」という言葉は区別して用いられるべきである。それにしても、小泉が地位を世襲させたことは、ハーヴェイの仮説の確からしさを一段と高めるできごとだった。

2001年の小泉純一郎内閣発足以来、どうしようもない間違った政策が続けられてきたために「ぶっ壊された」日本を再建することは容易ではないが、「ローマは一日にして成らず」である。焦りは禁物だ。しかしそれと同時に、今まさに見殺しにされている人たちを悠長に放っていてはならない。長期的視野と応急処置の両方が求められるのだから大変だが、今が重要な時だ。


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