東京都知事選は、大阪府知事選や大阪市長選、名古屋市長選などともに、毎回ろくでもない結果に終わる「鬼門」ともいうべき選挙だが、今回は特に反自公の野党陣営に大きな課題を残した。
その課題は、第一に野党共闘」の候補である鳥越俊太郎が政策と「絶対に勝つ」という執念の両面で物足りない候補だったこと。第二に鳥越氏を連合が推さず、民進党右派も応援に消極的だったこと。第三に、当初立候補を予定していた宇都宮健児を下りてもらって鳥越俊太郎を「野党共闘」の統一候補として一本化する際に大きなしこりを残したこと。
第一の点に関して、鳥越氏は安保法案反対のアピールなどは別として、毎日新聞やサンデー毎日の記者・サンデー毎日編集長時代を通じて、あまり印象に残る仕事が思い浮かばないことが当初からずっと気になっていた。「文春砲」とやらがブチ上げたスキャンダルよりも、それをもっとも懸念した。印象の乏しい鳥越氏の仕事の中でまず思い浮かぶのが、サンデー毎日編集長時代の1989年に同誌が取り上げた宇野宗佑首相(当時)の女性問題のスキャンダルだったことは何とも皮肉だ。
1989年当時、消費税導入をもくろんだ自民党は参院選を控えてたいへんな逆風を受けていたが、宇野首相のスキャンダルは自民の劣勢に追い討ちをかけたものだった。逆に、安倍晋三という極右政治家を総理総裁に戴く今の自民党は強い順風を背に受けていて、「野党共闘」がやっと統一候補を出してきても、今回のように文春砲で簡単に蹴散らせることができる。
正直言って、私は鳥越氏が宇野宗佑のスキャンダルを大々的に書き立てた1989年当時から、ああいうことを問題にし過ぎるのはどうかと思っていた。今だったら、最近再評価が進んでいる(私はその再評価はやや過剰だと思う)田中角栄なんか総理大臣になれはしないだろう。金脈人脈の問題以前に女性スキャンダルで潰されるに決まっている。
今回、私が鳥越氏のスキャンダルに関心が至って薄かったことは上記の理由による。週刊文春は立ち読みもしなかったものだから、前回の記事では鳥越氏のスキャンダルが「半世紀前」のものだという一部ネットの風評を鵜呑みにしてしまい、誤りを書いてしまった。これについては、鍵コメを含めてお二方から指摘があったが、感謝したい。お礼を申し上げる。
「野党共闘」の側からすれば、参院選で1人区11勝21敗という、大手マスメディアの世論調査に即していえば「上限」の議席数を獲得し、得票も民進と共産がそれぞれ単独候補を立てた直近の選挙における両党の得票合計を上回る票を統一候補が得たから、そのことによってやっとこさ都知事選でも統一候補を立てる目処が立ったが、そこから都知事選の告示まではほとんど日がなかった。そんな状況で、民進党と共産党がともに推せる候補としてなんとか選んだのが鳥越俊太郎だったというのが実情だろう。
鳥越俊太郎の側からすると、「火中の栗を拾う」意識でもあったのかもしれない。いずれにせよ、今回は統一候補を立てるだけで精いっぱいだったという印象だ。もちろん、今回の候補者の選定には問題があるし、今回のようなやり方では勝ち目がないことは選挙結果に示された通りだ。次からは入念な準備が必要であることは間違いない。だが、「入念な準備」も何も、民進党右派にして民進党東京都連会長の松原仁が、参院選の選挙戦中に都知事選で増田寛也を推す可能性を言及するなどのありさまだった。参院選の一人区が11勝21敗ではなく例えば7勝25敗だったなら、民進党代表の岡田克也や幹事長の枝野幸男は、自公と相乗りして増田寛也を推したい松原仁ら右派の声を抑えることができなかった可能性が高い。
事実、松原は都知事選の結果を受けて直ちに岡田克也を批判するコメントを出している。産経が報じる松原のコメントを見ると、「4党の結集が実現されれば、当初から勝利することができるだろうと思っていた。十分結集できなかったことが大変残念だ」などと、自らは自公に相乗りしようとしたことを棚に上げて白々しいことを言うその舌の根も乾かぬうちに
などという恥ずべきコメントを発した。敗北の責任は(略)「岡田氏にあるとは明快には申し上げないが、少なくとも都連とは違う流れで(野党統一候補が)決まった」と述べ、岡田氏に責任の一端があることを示唆した。
この松原のコメントを見ると、ああ、だから岡田克也は都知事選投開票日の前日に、9月の代表選に出馬しないと言明したのだな、と納得できる。民進党中間派の岡田克也は、松原仁・長島昭久・細野豪志・馬淵澄夫ら右派の推す候補を代表にしたくないのだ。だからフライングして都知事選の投開票日前日に先手を打った。鳥越俊太郎はそれ以前に決定的なダメージを受けていたので、岡田克也の辞意表明が選挙結果に与えた影響は無視できるほど小さいだろう。それよりも、連合が自主投票するなど、「野党共闘」の「右側」が機能しなかった影響が大きかった。
以上、いつの間にか「第二の問題点」に話が移っていたが、以上を「野党共闘」の「右側」の問題とすると、宇都宮健児支持層の投票行動の問題は「野党共闘」の「左側」の問題ということになる。より深刻だと私が思うのはこちらだ。
今秋大統領選挙を迎えるアメリカで、民主党のバーニー・サンダースの支持者の中に「ヒラリー・クリントンなんかには投票しない。ヒラリーとトランプとの二者択一ならトランプを選ぶ」と公言する人たちが少なくないことが話題になっている。おかげで少し前まではクリントンの楽勝とみられていた大統領選挙の行方は全くわからなくなっており、トランプが大統領に選ばれる可能性は無視できないほど大きくなってきた。日本でもこの件に関して、クリントンよりもトランプを待望する声が一部「リベラル」の間からも上がっている。
「鳥越に投票するくらいなら小池に投票する」とネットで公言していた者については、私も鳥越俊太郎の野党統一候補擁立決定及び宇都宮健児の立候補取り下げの直後から、実例をいくつも目にしてきた。
一口で「宇都宮支持層」といっても内訳は実に多様で、2012年と14年の都知事選で熱心に宇都宮市を支援してきた人たちもいるけれども、14年の都知事選では細川護煕を応援していた「小沢信者」もおり(その代表格が天木直人)、かと思えばTwitterで反小沢一郎に血道を上げる人たちの存在も確認している。
小沢一郎が実権を握る「生活の党と山本太郎となかまたち」が鳥越俊太郎を推しているのに宇都宮氏の支持層に小池百合子への投票を焚きつけた天木直人らの行動は、「大嫌いな共産党と小沢氏を追い落とした岡田・枝野の民進党が『野合』した野党統一候補の鳥越なんか我慢ならない」というルサンチマンにもとづく醜悪この上ないものだったし、一部の「反小沢」が宇都宮氏に肩入れしたのは、単純に小沢一郎や山本太郎らが鳥越陣営にいたからだろう。
そして、「鳥越ではなく小池」に投票した宇都宮支持層の多くは、テレビのワイドショーの煽動に乗る人たちだったと思う。それでなくても日本には、都市部・地方を問わず「バスに取り残されるな」式の思考様式、昔本多勝一が「メダカ民族」と評した行動様式をとる人たちが実に多い。田舎では地縁が強いからそれは有力者の意見に付き従う行動様式として表れる。参院選の1人区で、特に東北で自民党が苦戦した理由は、安倍政権の政策、特に農業関係の政策が、地域の有力者たちの心を離反させたことに原因があると見るべきだろう。
一方、地縁の弱い都市部では、マスメディア、とりわけテレビの影響力が圧倒的に大きい。舛添要一が都知事の座を追われたのも、ワイドショーにこれでもかこれでもかと叩かれたせいだし、鳥越俊太郎が惨敗したのも同じ理由による。今回の小池百合子の得票が、得票数だけを見れば2003年の東京都知事選で石原慎太郎が得た300万強の票に迫るものだった(但し、投票率が全然違うので得票率では2003年の石原の方がずっと多かった)ことは、テレビのワイドショーがもたらすバンドワゴン効果がいかに強烈かを示すものだろう。
しかしそんなのはわかり切ったことだ。私が本当に問題だと思うのは、自陣の支持者にそのような行動に走らせてしまった宇都宮選対の責任だ。この宇都宮選対は、2014年の都知事選で澤藤統一郎弁護士の告発と強い批判を受けた。それに理があると考えた私は、前回の都知事選では白票を投じたのだった。政策面等からいえば前回は候補者の名前を書くなら宇都宮健児しかなかったが、その選対の体質(及びそれに易々と乗っかってしまう宇都宮氏自身の問題)を忌避して白票を投じた。
今回、宇都宮氏支持層の一部を小池支持に走らせた原因に、宇都宮陣営内に民主主義が欠落していたからではないかと思われる。だから陣営や支持者たちの間でろくろく議論が行われることもなく、支持層の一部が天木直人のような悪質な煽動者の煽動に易々と乗ってしまった。そして、陣営の指導者たちもそのような動きの危険性を察知するのが著しく遅れた。その動きは、告示前からすでに見られたというのに。つまり、宇都宮選対の指導者たちの資質こそ、今回の都知事選においてもっとも厳しく批判される必要がある、というのが私の結論だ。
こうして問題ずくめの東京都知事選は、最悪の結果を迎えてしまったのだった。
週末に行われた朝日新聞と共同通信(ともし独自調査であれば毎日新聞)の世論結果は、先刻公開した『kojitakenの日記』の記事「東京都知事選、小池優勢、増田追う。鳥越は苦戦(朝日、毎日、共同)」に記録しておいた。
今回、鳥越俊太郎の
http://news.livedoor.com/article/detail/11730452/
都知事候補、小池百合子氏に新たな政治資金疑惑
2016年7月6日 16時3分 週刊文春WEB
7月31日投開票の東京都知事選への出馬を表明している小池百合子元防衛相(63)に「政治とカネ」をめぐる疑惑が浮上した。自民党関係者が声を潜める。
「舛添要一前都知事の辞任が囁かれ出した頃、自民党では出馬の予想される小池さんの“身体検査”を行った。結果は『真っ黒』。舛添さんどころじゃない」
そこで小誌が取材したところ、小池氏の政治資金パーティの一部が政治資金収支報告書に記載されていないことがわかった。問題となったのは、2012年3月12日と6月25日に小池氏の選挙区内にある都内のホテルで開かれた「Y'sフォーラム」と称される政治資金パーティだ。
「政治資金パーティを開催した場合は、収入額と会場代などの支出額を、それぞれ政治資金収支報告書に記載しなければなりません」(総務省政治資金課)
だが、同年の小池氏の収支報告書の収入欄に、2つのパーティの記載はなく、なぜか支出欄に「会議費」として、パーティの会場代にほぼ合致する金額が記載されていた。
政治資金に詳しい上脇博之・神戸学院大学教授はこう指摘する。
「政治資金パーティであれば、政治資金規正法違反の不記載となります。支出だけ計上していれば、収支が合わないことに気付くはず。収入分は裏金と見られても仕方なく、小池氏は説明すべきです。一方、出席者から会費を取らずにパーティを開いたとしても問題です。選挙区内の人が出席していれば、選挙区民への寄付を禁じた公職選挙法違反となります」
小池氏の事務所は「当然のことながら選挙区民への供応をすることはありえません」と回答した。だが政治資金収支報告書に2つのパーティの記載がない理由については、期限までに回答しなかった。
(週刊文春WEBより)
舛添要一が「公私混同」(「政治と金」)の問題で東京都知事辞任に追い込まれたのであれば、本来なら政治と金の問題にクリーンな人物が後任であるべきだろう。たとえば1974年に田中角栄が「金脈問題」(これを追及したのはやはり文春だった。週刊文春ではなく月刊誌の方だったが)で辞任したあと、「椎名裁定」によって三木武夫が後任の総理大臣になったように。
ところが、舛添の後任は「舛添どころではなく真っ黒」な人間になりそうだというのだ。対抗馬の増田とて金銭疑惑が書き立てられている。これなら、東京都知事選挙などやる必要がなかった、舛添より金に汚い人間が都知事になるくらいなら舛添のままで良かったということになりかねない。
私は今年5月14日付の『kojitakenの日記』に、「もう東京都知事選なんてうんざりだよ。やってくれるなそんなもの。舛添は好きではないが、都知事選やってももっとひどいのが出てくるだけだ」という長ったらしいタイトルの記事を書いた。この記事で私は「踏ん張れ舛添」などと書いて批判を浴びたが、「舛添どころではなく真っ黒」で、しかも極右で新自由主義者でもある、明らかに舛添よりも「もっとひどいの」が出てくることが確実な情勢だというのだから、「ほれ見ろ、言わんこっちゃない」と言いたくもなる。
こう書くと、「鳥越にはたいした政策がなく、老齢で健康不安もある」というお決まりの反応が返ってくる。だが、ネットで観察していてつくづく思ったのだが、そんな人間に限って具体的な政策については何も書いていない。「たいした政策がなく、老齢で健康不安もある」というのは、さんざん舛添の「公私混同」を言い立てたと同じ、テレビのワイドショーが形成した紋切り型(ステロタイプ)に過ぎないのである。実際には、たいした政策がないことに関しては小池も増田も鳥越と大差ない。
かくいう私自身も都知事選に関して政策に触れた記事など一本も書いていない。2006年にブログを始めて以降、もっとも力を入れた東京都知事選は、私自身が東京都民でなかった頃の2007年の知事選だが、この時には各テレビ局が候補者を呼んでの討論会を欠かさず見た。政策論議はそれなりに活発で、特に選挙戦の後半に行われたフジテレビの討論会では、吉田万三氏と黒川紀章氏に加え、最初あまりエンジンのかからなかった対抗馬の浅野史郎氏も調子を上げてきて、この三氏が政策論議において石原慎太郎を圧倒した。石原は他の主要3候補の猛攻を受けて撃沈したというのが論戦を見た私の感想だった。しかし、選挙の結果は選政策論争とは裏腹に、石原の圧勝だった。
つまり、東京都知事選の結果を左右するのは政策などではない。それは大阪府や大阪市の首長選でも同じことだろう。
東京都(や大阪府市)の首長選は、事実上テレビのワイドショーが勝者を決めるようなものだ。そのワイドショーは、つい先日まで政治と金の問題で前知事を追及して辞任に追い込みながら、今回知事選の元対抗馬(現穴馬)にも一役買ったと思われる「なんとか砲」が「自民党の身体検査の結果は『真っ黒』。舛添さんどころじゃない」と認定した人物を、「しがらみのない何とやら」として天にも届かんばかりに持ち上げる。何たるダブルスタンダード。そしてワイドショーの言うことをを鵜呑みにしているだけの人間が、ネットで「□□さんは政策ガー」などとしたり顔が目に浮かぶような文章を書く。こんな不愉快なことはそうそうあるものではない。
安倍晋三としては万々歳の結果に終わりそうだ。ここで指摘すべきポイントは、仮に今後小池百合子が「政治と金」の問題で「文春砲」などの攻撃を受けることがあっても、自民党は小池百合子を推薦しなかったという言い訳が成り立つことだ。仮に小池が辞任に追い込まれれば、その時は改めて増田寛也でも擁立すれば良い。その時は、今回そうなるであろう惨敗によって民進党代表の座を追われそうな岡田克也に代わる民進党右派の代表が自民党に相乗りしてくれるだろう。小池が攻撃を受けないなら受けないで、極右にして新自由主義者という小池百合子の立ち位置は、もともと安倍晋三とは相性抜群なのである。どちらに転んでも安倍晋三にとって利益こそあれ不利益など全くない。今頃安倍晋三は笑いが止まらないのではないか。
東京都知事選は、今回もまたろくでもない経緯をたどったあげくに最悪の結果を迎えることになりそうだ。
前振りが長くなったが、NEWS23では、異様なほど東京都知事・舛添要一の問題に長く時間を割いていた。この番組は、先週末には市川海老蔵夫人の小林麻央氏の不運な進行性乳癌罹患にやはり異様に長い時間を割くなど、単にキャスターが岸井成格から星浩に代わっただけにとどまらない番組の劣化が目を覆うばかりであるように思われるが、TBSだけではなく朝日新聞も連日一面トップは舛添要一で、一昨日(14日)の朝刊一面トップの見出しが黒字白抜きで最上段横書きの「舛添知事 辞職不可避」とあっては、これがいわゆる「新聞辞令」というやつか、舛添はもう持たないなと思った。結局舛添は昨日辞意を表明した。
報じられた舛添の公私混同ぶりは確かにひどいといえばひどいもので、それが問題視されれば退陣不可避となったのは止むを得ないとは思う。ただ、いくつか気になることがある。
先月のことだが、例によって仕事の山がピークを越えた下旬の週末から月曜日にかけて、2泊3日で本物の山に歩き(登り)に行っていた。その山から下りて、麓で地元のおじちゃんおばちゃんたちが雑談していたのを小耳に挟んだ時、おばちゃんが出し抜けに「舛添さんみたいなもんだよねえ」と口にしたのだった。おお、舛添批判はそこまで浸透しているのかと思った。それが5月23日。この時期にはテレビのワイドショーで連日舛添が叩かれていたと推測される。
ワイドショーが連日舛添を叩き続けると、舛添やめろの声が高まり、最後には自民党も庇い切れずに舛添退陣と相成った。もしかしたら2013年末の猪瀬直樹の時も似たような経緯だったのかもしれないが、今回は自民党の極右の連中が「舛添おろし」をやろうとしたことが発端だったという指摘がある。以前にも「kojitakenの日記」に取り上げたが、政治ブログ「日本がアブナイ!」の5月14日付記事「舛添おろしがスタートか。舛添に問題あるも、石原との扱い方の差に怒」が、リテラの5月9日付記事「舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由」(著者・宮島みつや氏)を引用しながら、自民党極右勢力の動きを批判している。
ただ、そのリテラの記事中の下記のくだりには違和感がある。以下引用する。
ご存知のとおり、石原氏は芥川賞選考委員まで務めた大作家であり、国会議員引退後、都知事になるまでは、保守論客として活躍していたため、マスコミ各社との関係が非常に深い。読売、産経、日本テレビ、フジテレビは幹部が石原べったり、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊ポスト」「週刊現代」も作家タブーで批判はご法度。テレビ朝日も石原プロモーションとの関係が深いため手が出せない。
批判できるのは、せいぜい、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、TBSくらいなのだが、こうしたメディアも橋下徹前大阪市長をめぐって起きた構図と同じで、少しでも批判しようものなら、会見で吊るし上げられ、取材から排除されるため、どんどん沈黙するようになっていった。
その結果、石原都知事はどんな贅沢三昧、公私混同をしても、ほとんど追及を受けることなく、むしろそれが前例となって、豪華な外遊が舛添都知事に引き継がれてしまったのである。
(「リテラ」5月9日付記事「舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由」(著者・宮島みつや)より)
この指摘は、2007年の東京都知事選当時の状況には当てはまらない部分が多い。当時、右寄りの週刊誌として悪評の高い「週刊文春」や「週刊新潮」は確かに石原を批判する記事はほとんど載せなかった。文芸出版社の大手である文藝春秋や新潮社には、確かに「作家タブー」があったといえるかもしれない。
しかし、2007年当時には、「週刊現代」(講談社)や「週刊ポスト」(小学館)は「サンデー毎日」(毎日新聞社=当時。現在は毎日新聞出版)に負けず劣らず活発な石原批判を展開していた。ブログで政治について書くようになって日の浅かった当時の私は、それらの週刊誌を買ってはブログ記事で紹介することをかなりやったし、当時の週刊誌の石原批判記事は今でも持っている。一部はスキャナーで読み込んでpdf化したのち廃棄したが、現物かpdfかのいずれかは今も手元にあるのだ。そもそも石原など大家に数え入れられるような作家ではなく、私が文庫本を買うようになった1974年には既に多くの文庫本が絶版になっていたありさまだった。その後は弟・石原裕次郎について書いた本や盛田昭夫との共著『「NO」と言える日本』、最近では再評価の進む田中角栄ブームに当て込んだつまらない小説などの際物が時に話題になる程度の四流作家に過ぎない。だから「作家タブー」も文藝春秋や新潮社止まりで、講談社や小学館にまでは及ばないのである。
むしろ、リテラが「批判できるのは、せいぜい」と書いた朝日新聞や毎日新聞や共同通信やTBSが石原批判をほとんどしなかった。たとえば毎日新聞などは石原批判は「サンデー毎日」に任せていると言わんばかりだったし、朝日新聞に至っては新聞本体でも「週刊朝日」でも石原批判の記事を読んだ記憶はほとんどない。
それよりも何よりも、東京都民が石原批判に反応しなかった。当時私は四国(香川県)に住んでいたが、東京都民の知り合いが「浅野さん(浅野史郎元宮城県知事)は東京向きじゃないよねえ」と言っていたのを聞いたことがある。おそらく石原に投票したのだろう。都民の感覚とはそんなものかと呆れたものだ。それどころか都民は「佐々淳之が編み出した「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」などというふざけたキャッチフレーズになびいた。「だけどやっぱり慎太郎」キャンペーンの協力者には、その少し前に「9条護憲派」として「リベラル・左派」の熱い応援を受けていた藤原紀香も一役買った。
私は、あれだけ週刊誌で悪行三昧が書き立てられている石原は負けるのではないか」と期待していたのだが、それは無惨にも裏切られた。これ以降、東京都民のほか、橋下徹を支持し続けた大阪府民及び大阪市民の選択には毎回裏切られ、そのたびに彼らに悪態をつく繰り返しが(既に東京都民になって久しい)今に至るまで続いている。
石原に限らず橋下徹もそうだが、彼らマッチョ的な指導者を日本人の多数が排除したことは一度もなく、それどころか民主党政権時代に、朝日・毎日・TBSなどを含めて「決められる政治」を求める声が起きた始末だ(朝日新聞社内でその論陣を張った中心的な人物が、現在TBSでNEWS23のアンカーをやっている星浩である。この4月以降のNEWS23の激しい劣化もむべなるかな)。石原に関しては、わずかに1975年の東京都知事選で美濃部亮吉に敗れたことがあるだけだった。石原は、その敗北をトラウマとして長年抱えていたが、1999年に東京都知事選に当選して宿願を成し遂げると、公私混同をやりたい放題だった。この記事で批判した「リテラ」の記事だが、
という指摘だけは文句なく正しい。なにしろ、人間社会に働く最大の力は惰性力(イナーシア)である。東京都知事の公私混同をイナーシアにする力を最初に与えたのはほかならぬ石原慎太郎だった。単に都民のみならず、マスメディア、特に石原の公私混同を、猪瀬直樹や舛添要一に対して行ったような「ワイドショー攻撃」を行わなかったテレビという媒体に、私は深い病根を見る。石原都知事はどんな贅沢三昧、公私混同をしても、ほとんど追及を受けることなく、むしろそれが前例となって、豪華な外遊が舛添都知事に引き継がれてしまったのである。
なにしろテレビが「ワイドショー攻撃」で力を与えると、それはイナーシアどころか2005年の郵政総選挙や2009年の政権交代総選挙で見られた「バンドワゴン効果」を思わせる加速がついて、最大会派の自民党をもってしても歯止めがきかなくなる。前回の猪瀬直樹辞任劇に続く今回の舛添要一辞任劇はそのことを示しているように思われる。
マスメディア報道で異色を放っていたのは、昨夕職場で読んだ日経夕刊の一面記事だった。日経の記事はネットではかなり厳しい[登録制のために冒頭部分しか読めないので引用できないが、都の非正規職員の正規化、障害者雇用の促進、介護保育人材の確保などの実績が指摘されていたかと思う。ネット検索をかけると、民進党の鈴木けんぽうという渋谷区議会議員のサイトの「活動日記」に6月15日付で「今更ながら、舛添都政の2年間は都政関係者からどう評価されているのか、ご紹介」という記事が公開されている。この記事に、日本経済新聞社編集委員兼論説委員・谷隆徳氏が「都政研究」誌2016年3月号に書いた「『安定軌道』に乗り始めた舛添都政」と題する記事の要約が、箇条書きの形で掲載されている。この記事の多くは、舛添要一の主張の受け売りなのかもしれないが、「障害者を正規社員として雇い入れる事業者を支援する制度などは石原・猪瀬都政では考えられない」などと書かれている。但し、民進党渋谷区議の鈴木けんぽう氏自身は、「舛添さんの弁護をする気はさらさらない」とは書いている。私も、多少都政が石原慎太郎や猪瀬直樹よりましだったとしても、今回の舛添の辞任自体は致し方なかったとは思う。
しかし、これだけは自信を持って言える。今、マスコミで次期都知事候補として名前が取り沙汰されている具体的な人名に即していえば、橋下徹はむろん論外だが、小池百合子が都知事になったとしても、都政は舛添時代より確実に悪くなる。丸川珠代でも同様だ。
それどころか、民進党右派で、かつて「事業仕分け」に辣腕をふるった蓮舫でも、舛添都政よりましになるかどうかは大いに疑わしい。報棄てで(腹立たしいことに)後藤謙次が好意を持って名前を挙げているように聞こえた長島昭久では舛添より悪くなる可能性が極めて高い。宇都宮健児が都知事になるのであれば、(2014年の都知事選で指摘された問題は棚に上げるとして)舛添都政と比較しても確実に良くなるだろうが、そもそも当選を期待しづらい。
東京都知事選はどうやら7月31日の投開票になりそうだが、石原慎太郎の4選を易々と許した2011年の都知事選から6年目で早くも4度目になる都知事選に、もういい加減にしてくれないか、うんざりだと思うばかりの今日この頃なのである。
当 舛添 要一 無新 2,112,979
宇都宮健児 無新 982,594
細川 護熙 無新 956,063
田母神俊雄 無新 610,865
今回の都知事選の投票率は46.14%だった。過去3番目の低さだったとのこと。前日の大雪による積雪の影響も言われているが、投票日の天気は晴だった。都民の関心が必ずしも高くなかったと言えると思う。
私も都知事選の有権者だったので投票したが、以前から当ブログに書いた通り、上記の主要候補4人には投票しなかった。公約や思想信条からいえば宇都宮健児なのだが、昨年末に澤藤統一郎弁護士が発した前回(2012年)都知事選における公選法違反の告発に対し、「人にやさしい東京をつくる会」が今年1月5日に「法的見解」を出したものの、それに対しても澤藤統一郎氏の他、醍醐聰氏からも疑義が呈された。しかし宇都宮陣営はこれを事実上黙殺した。この一件に見られる「ムラ体質」を忌避して、前回宇都宮氏に投票した私は今回は彼に投票しなかった。しかし宇都宮氏は前回より得票数を僅かながら伸ばしている。これは選挙の投票率低下を考慮すると、まずまずの健闘だったと認めざるを得ない。
理由として考えられるのは、前回は衆院選とのダブル選挙であったために、宇都宮氏を推薦する政党の選挙運動が衆院選に重きを置かれたこと、有権者の関心も主に衆院選に集まったこと、それに対して今回は都知事選が注目され、選挙運動に力が入ったことに加え、数少ないテレビ討論などで宇都宮氏の主張に説得力を感じた有権者がかなりいたためだと考えている。
そりゃそうで、もともと宇都宮氏が主張していること自体は立派なものなのだ。ただ、言っていることと選対の組織の体質の乖離がはなはだしいことが問題なのだ。これはしばしば「共産党の体質」に帰される傾向があるが、私はもっと根の深い問題だと思う。というのは、前回都知事選における公選法違反の告発を行った澤藤統一郎氏は共産党支持の弁護士の大物である一方、告発された主要な人間は、元国立市長の上原公子氏であり、上原氏は生活者ネット、つまりほぼ絶滅した民主党左派(菅直人など)に近い人だったのである。さらに岩波書店の熊谷伸一郎なる人物の深い関わりが指摘されている。
また宇都宮氏は、昨年の参院選前にも澤藤弁護士から批判されている。宇都宮氏は前述の上原公子氏らとともに、「脱原発」候補を推薦すると称した「緑茶会」なるもののメンバーとなっていたが、この会が推薦したのは緑の党の全候補者をはじめ、民主党、生活の党、みんなの党などの候補を推薦する一方、共産党の吉良佳子氏には推薦を出していなかった。このことからもわかるように、宇都宮氏はもともと共産党系の人士ではなく、社民党、民主党左派、生活の党などに近い人だったと推測されるのである。
要するに、政党以前に、ごく一部の人物が2012年都知事選における宇都宮選対を壟断していたのであって、その問題への十分な検証が行われないまま選挙に突っ走り、自浄作用が働かなかった。今回は共産党が組織内候補と同格に扱ったように外部からは見える。共産党員や支持者も澤藤統一郎氏が提示した疑義に取り合おうとしなかった。
そんなことで良いのだろうかと私は思うのである。前回の都知事選と比較すると「善戦」したとはいえ、宇都宮氏は舛添にダブルスコアで負けているのである。宇都宮氏陣営は、このことの意味をよく考えるべきだろう。
それから細川護煕であるが、予想通りテレビ討論会は悲惨なものだった。私は細川というとどうしても忘れられないのが20年前にこの男が発した「腰だめの数字」という妄言である。
1994年2月3日 細川内閣で消費税を廃止し、税率を7%とする“国民福祉税”構想を、突如、未明に公表して世論の批判を浴び、8日に撤回した。この時、国民福祉税の税率を7%とする根拠を聞かれた細川は、「正確にはじいていないが、腰だめの数字としてこの程度は必要である」と答えた。
「腰だめ」とは、「goo辞書」を参照すると、
とある。これに頭を抱えたのは、当時細川を操っていた小沢一郎だった。小沢はこう語っている。1. 銃床を腰に当て、大まかなねらいで発砲すること。
2. 大ざっぱな見込みで事を行うこと。「―で予算を立てる」
小沢 そりゃあ「腰だめ」がまずかった。あのとき、「税率を7%に引き上げる根拠はこうだ。その場合、財政はこうなる」などときちんと説明しておけば、なんのことはなかったんです。要するに「腰だめ」という発言で、「首相の対応はいい加減だ」「腰だめの数字とは何ごとだ」という話になっちゃった。しかも、国民は夜、眠いのに起こされたわけだから、余計に批判を浴びた(笑)。
−− 細川さんは内容をよく把握してなかったんですか。
小沢 たぶんそうでしょうね。もちろん、首相が細かな数字をいちいち説明する必要はない。しかし、理屈はきちんと言わなければならない。そうすれば騒ぎにならないですんだんです。心の中ではみんな消費税を上げなきゃいけないなと思っているわけですから。とにかく日本人というのはインチ・バイ・インチだから、スカッといかないんです。
(五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(朝日新聞社,2006)134頁)
そんなかつての小沢一郎の傀儡・細川護煕が、今度は小泉純一郎の傀儡になった。こんな候補を「脱原発派」が支持するなど正気の沙汰とは思えないのだが、驚くべきことに、鎌田慧、澤地久枝、瀬戸内寂聴、それに今年100歳になる老ジャーナリストのむのたけじ各氏までもが細川護煕を推薦した。その結果、昨日のNHKの出口調査によると、「脱原発」派の6割が細川に投票したそうである。しかし、細川や細川を応援した小泉が、他の政策は誰が都知事をやっても同じと言わんばかりの妄言を発したことも影響したのか、「脱原発派」以外には支持が広がらなかった。ネットの「小沢信者」も宇都宮支持派と細川支持派に分裂した。教祖様(小沢一郎)はもちろん細川を推したのだが、岩上安身や「きっこ」をはじめとして、小沢になびかなかった(元?)信者が続出したのであった。
私は宇都宮氏陣営の非民主主義的な体質にも失望したが、それ以上に、これまで信頼していた人たちが細川護煕支持へと雪崩を打ったことにはさらに深く失望した。細川を当選させなければ安倍晋三が戦争に突き進むのを止められないと言っていた人たちもいたが、細川を当選させたらどうやって安倍晋三を止めることができるのか、それを説明できた人間は誰もいなかった。
ただ、「脱原発派」の変質の前兆は昨年には見られていたようである。私は「脱原発」デモには、一昨年9月を最後にしてそれ以降は一度も参加していないが、昨年3月11日に行われた集会で、大江健三郎は反原発運動について「戦後ここまで日本人が統一したことはない」と、澤地久枝は会場で打ち振られる日の丸について、「日の丸を見たら身構える世代ですが、今日はそれを掲げる人もいることをうれしく思う」と、それぞれ発言したという。
大江健三郎について言わせてもらうと、現在話題になっている「偽ベートーヴェン」佐村河内守の「ビジネス」の前段には、20年ほど前に売り出された大江健三郎の障害を持つ長男・大江光の「ビジネス」があったと私は考えている。大江光のCDと「佐村河内守」のCDは、同じレコード会社から発売されているはずである。私は「佐村河内守」のCDを聴いたことはないが、大江光のCDなら聴いたことがある。こんなものをありがたがる人間はどうかしていると思った。大江健三郎の「脱原発」仲間である坂本龍一も、大江光の音楽を酷評した1人であった。
今回の舛添要一の対立候補が宇都宮健児や細川護煕なんかではなく、坂本龍一であれば、もう少しまともな戦いになったかも知れないと思う(私は坂本龍一の言動にも全面的に賛同できない部分はあるけれども)。ただ、その場合自公側が担いでくる候補は舛添要一ではなかったかも知れない。自公が舛添要一を担いだ理由として、宇都宮健児の出馬表明を受けて、それなら舛添要一でも勝てると判断したのではないかと私は考えている。事実、舛添の得票数は前回都知事選の猪瀬直樹の半分にも満たなかった。舛添は決して「強い候補」ではなかったのである。
田母神俊雄については、若年層の支持が多いという朝日新聞の出口調査結果が話題になっているけれども、田母神と舛添の得票の合計は、年齢層によらず同じくらいの比率である。かつて「若いときに左翼でないのは馬鹿だ。年をとっても左翼であるのはもっと馬鹿だ」と言った人間がいたらしいが、「ネトウヨ」はかつての「左翼」に代わって若者のトレンドになったかのようだ。ただ、上記の言葉は、「若い時にネトウヨであるのは馬鹿だが、年をとってもネトウヨであるのはもっと馬鹿だ」と書き換えられねばなるまい。
ネトウヨが総理大臣になってしまったと言うべき安倍晋三は、もちろん日本を危うくするリスクの最たるものであるが、それを都知事選で止めようというのは無理筋だった。2007年の第1次安倍内閣は、都知事選の石原慎太郎圧勝が内閣支持率上昇の追い風になったが、5か月後には安倍晋三は政権を自ら投げ出した。
舛添要一については多くを書く必要はあるまい。かつて第1次安倍内閣が法制化しようとした「ホワイトカラー・エグゼンプション」を、「家庭団らん法」と言い換えようとした男。それでいて2008年に新自由主義批判が強まると、「日本人には高福祉高負担が合っている」と言うなどの変わり身の早さも見せたが、舛添は現在では「日本の現状は、明らかに『低負担高福祉』国だ」などと言っているそうだ。『AERA』の1月13日号に出ているとのこと。
舛添の議論から抜け落ちている観点は、もちろん舛添は意識的に語っていないのだろうが、「再分配」であろう。私はまず富裕層減税をやり過ぎた過去の失政を認め、行き過ぎた浮遊増減税を元に戻した応能負担の税制をベースにして、それに「広く薄い」間接税を上乗せするというのが福祉国家の税制のあり方だと信じているのだが、日本では「行き過ぎた浮遊増減税を元に戻す」議論がどうしても前に進まない。それはリベラル・左派側が「増税反対」ばかりを言っているせいもあるのだが、そんな流れに乗って舛添は「サービスを受けたければ増税を甘受せよ」と脅し文句を言っているのである。
こんな舛添の都知事選当選がほぼ間違いないのは嘆かわしいことこの上ないが、対立候補が弱すぎるのだからどうしようもない。前回都知事選における選対に「政治と金」の問題や「村八分」体質が指摘されながら立候補を強行した宇都宮健児と、宇都宮陣営よりもさらに大きな「政治と金」の疑惑を抱える上、小泉純一郎に応援されるばかりか、自身も21年前の連立政権で新自由主義経済政策をとろうとした細川護煕では、舛添に勝てる見込みは万に一つもない。これでは、共同通信の世論調査で、自民と公明のそれぞれの支持層の約半分しか押さえることのできていない、必ずしも強くない候補・舛添といえども左うちわの選挙戦が戦えるというものだ。
今回の都知事選には、もう一人「有力」とされる舛添の対立候補がいる。田母神俊雄である。
この田母神俊雄の応援団の顔ぶれがすごい。石原慎太郎、平沼赳夫、渡部昇一、西部邁、西尾幹二といった「老極右」の巨頭連中に始まり、中西輝政、中山成彬、西村眞悟、三橋貴明、すぎやまこういち、アパグループ代表の元谷外志雄、大阪の百田尚樹、果てはデヴィ・スカルノ夫人に至るまで、まさしく「右翼オールスターズ」の豪華メンバーである。
しかし、それにもかかわらずマスコミの世論調査によると、田母神は舛添はおろか細川護煕にも宇都宮健児にも及ばない4位が予想されている。
ここで考えてみたいのは、現在総理大臣である安倍晋三に主義主張の上でもっとも近い候補者は誰かということである。いうまでもなく田母神俊雄である。しかし、その田母神は都知事選で数パーセントの支持しか受けない「泡沫候補」も同然である。つまり、安倍晋三は日本の有権者の平均的な考え方とは相当かけ離れた思想信条の持ち主であるとはっきり言える。
その安倍晋三が、国内外での暴走をさらに強めている。
安倍晋三は先日のダボス会議で「現在の日中関係は第1次世界大戦前のイギリスとドイツの関係に似ている」と発言し、世界各国の代表を呆然とさせた。今年は第1次大戦の開戦100年にあたるが、安倍晋三が日本を当時のイギリスに、中国を当時のドイツになぞらえていることは明らかだ。第1次大戦でイギリスは戦勝国、ドイツは敗戦国だったが、日本は途中でドイツに宣戦布告し、「戦捷」の戦果に至っている。この安倍晋三の妄言に対して中国が怒ったことは当然だが、第1次大戦でドイツに勝ったイギリスからも、安倍晋三に対する痛烈な批判が飛び出した。フィナンシャル・タイムズなどが安倍晋三を批判したのである。
単純に考えても、100年前のヨーロッパにおけるドイツと現在のアジアにおける中国では重みが違う。第1次大戦から第2次大戦の間の期間において、中国と戦争を起こすかたわらで、日本に沸き上がってきたのは「日米開戦論」だった。当時の日本において、「日米もし戦わば」という議論が盛んになされていたが、それは、現在夕刊紙や週刊誌などが特集を組んで多くの読者を得ているらしい「日中もし戦わば」と通底する。その頃も日本とアメリカとの経済的な結びつきは決して希薄ではなかったが、1924年に「排日移民法」が制定されたことに対して日本のアメリカに対する反発が高まり、1931年以降の日本と中国との戦争においてアメリカが中国寄りの姿勢をとったことによって日本人の反米感情は強まっていった。
「現在の日中関係と似ている」というなら、1920年代から1941年の太平洋戦争開戦に至る日米関係こそ、まず第一に挙げられるべきであろう。第1次大戦前のイギリスとドイツとの関係などよりもずっと似ている。それに何よりも、第三者が言うのではなく、世界から緊張関係を指摘されているその当事者、しかも昨年末に靖国神社を参拝してその緊張をさらに強めた張本人である安倍晋三が、あたかも他人事のように日中関係を100年前の英独関係にたとえたのである。「安倍晋三は何を馬鹿なことを言っているのか」と世界中から呆れられたのも当然だ。
しかし、そんな「日本の常識は世界の非常識」を隠蔽し、このところ安倍政権に翼賛する放送ばかりを行っているのがNHKである。その報道姿勢が北朝鮮にたとえられるのも当然であろう。
たとえば、NHK新会長の籾井勝人は、就任早々こんな暴言を吐いた。
http://mainichi.jp/select/news/20140126k0000m040043000c.html
NHK:籾井会長、従軍慰安婦「どこの国にもあった」
NHK新会長の籾井勝人(もみい・かつと)氏(70)は25日の就任記者会見で、従軍慰安婦問題について「戦争地域にはどこの国にもあった。ドイツにもフランスにもヨーロッパはどこでもあった」と述べた。過去にも経営委員長が国際放送の編集方針について「国益を主張すべきだ」と発言して問題になった。政治的中立を疑われかねない不用意な発言を繰り返し、トップとしての資質も問われそうだ。
さらに個人的意見として「今のモラルでは悪い」としつつも「韓国が『日本だけが強制連行した』と言っているからややこしい。補償問題は全部解決した。なぜ蒸し返すのか、おかしい」と韓国の姿勢を批判した。特定秘密保護法の報道が少なく、姿勢が政府寄りとの指摘があることについて、「(法案は国会で)通ったこと。あまりカッカする必要はない」と、問題点の追及に消極的な姿勢を示した。
また、籾井氏は3年間の任期中に取り組む最重要課題の一つに国際放送の充実を挙げ、領土問題について「尖閣諸島(沖縄県)や竹島(島根県)について日本(政府)の立場を主張するのは当然」として早急に強化する姿勢を示した。「政治との距離」については「(政府と)相談しながら放送していく必要はないが、民主主義に対するわれわれのイメージで放送していけば、全く逆になることはない」との認識を示した。【土屋渓、有田浩子】
毎日新聞 2014年01月25日 21時26分(最終更新 01月26日 00時59分)
安倍晋三は、7年前の2007年に総理大臣の職を自ら投げ出した後も、自らの息のかかった人間をNHKに送り込むことに執念を燃やしていた。否、安倍晋三のNHKへの介入は、2001年の番組改変事件の頃には既に始まっていたのである。この不逞の極右政治家による公共放送私物化の野望は、残念ながらほぼ成就してしまった。
私は、一部の人間が言うように、今回の都知事選で舛添要一の当選を阻止できなければ安倍晋三が戦争へと突き進むのを阻止できないとは思わない。しかし、安倍晋三が現在行っているような妄動を止めなければ、日本が再び破滅的な戦争へと突き進んでしまうだろうとは確信している。安倍晋三は何が何でも止めなければならない。安倍を止めなければ、私たち日本に住む人間が破滅してしまう。ただ、安倍晋三は細川護煕を都知事選に当選させたくらいで止められるものではないし、仮に舛添要一を当選させてしまったからといって止められないわけでもないと思うだけである。細川だの舛添だのは所詮同類であって、どっちが勝とうが大勢に影響ない。急所はそこにはない、そう直感する。頭の中で想念がもやもやしていてうまく文章で表現できないが、何かもっと根源的な変革を引き起こさなければならないと思う。
何より、安倍晋三の思想上の「同志」である田母神俊雄の惨敗が確実であること、それにもかかわらず、少数の極右思想信奉者を代表しているに過ぎない安倍晋三がなぜ総理大臣の座に居座って、現在見られるような独裁政治を行うことが可能になっているのか。不条理もはなはだしいと私は思う。その権力構造のメカニズムを解明して安倍晋三を頂点とする敵の急所を突き、一日も早く安倍晋三を退陣に追い込む必要があるだろう。
(当)稲嶺 進 無現 19,839票
末松 文信 無新 15,684票
以下に毎日新聞の論評を紹介する(下記URL)。
http://mainichi.jp/select/news/20140120k0000m010115000c.html
名護市長選:沖縄振興策より基地受け入れを拒否した市民
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設の是非を最大争点とした同県名護市長選が19日投開票され、日米両政府が進める名護市辺野古への移設に反対する現職の稲嶺進氏(68)が、移設推進を訴えた前自民党県議の末松文信氏(65)を破り再選を果たした。
名護市民は、移設反対を訴える稲嶺氏に再び軍配を上げた。「アメとムチ」で民意を誘導しようとした手法が、沖縄では通用しなかったことを安倍晋三政権は自覚すべきだ。
名護市の人口は約6万人。沖縄本島北部の拠点都市とはいえ、経済の衰退にあえぎ、抜本的な振興策を見いだせないでいる。多くの地方自治体が抱える悩みと同様だ。そんな窮状を狙うかのように、安倍首相は昨年末、仲井真弘多知事に膨大な予算を投じる沖縄振興策を約束。基地負担軽減も示した。
今回の市長選で、政府の振興策に有権者が揺らいだのは確かだ。だが基地に経済を依存する本土の自治体がある中、沖縄戦の悲劇を経験し「銃剣とブルドーザー」で米軍に土地を奪われた沖縄では、カネと引き換えに軍事施設を受け入れることを特に嫌悪する。
本土復帰から40年以上たった今も、県土面積が全国の0.6%の沖縄には、在日米軍専用施設の74%が集中している。事故の危険におびえ、騒音に苦しみ、米兵による犯罪も絶えない。負担は限界で、これ以上は受け入れられないという民意を示したといえる。
一方、沖縄が強く発してきた普天間の「県外移設」を安倍政権は真剣に検討してきただろうか。代替施設が辺野古である理由も理解されていない。移設を拒否する名護に無理強いすれば溝は広がるばかりで、日米安保の土台もぐらつきかねない。「県外」が本当に無理なのか、一から議論すべき時に来ている。
普天間の返還合意から18年、国策によって地域は分断され、苦しんできた。そもそも、普天間の危険性除去を大義名分に地域を壊すのは本末転倒だ。民意を「アメ」で誘導することで安全保障を構築しようとする政治手法に問題がある。国策優先のあまり、国民を軽視していないか。政権の姿勢が問われる。【井本義親】
毎日新聞 2014年01月19日 23時03分(最終更新 01月19日 23時23分)
この名護市長選は、もうずいぶん前から結果は見えていた。ただ、最終的には思ったほど差は開かなかった。それだけ自民党の陰湿な締め上げが強かったのだろうが、自民党も最後には勝負を諦めていたフシがあった。
それでも、この選挙結果は、安倍晋三が昨年後半に沖縄県知事の仲井真弘多に強い圧力をかけて承認させた辺野古埋め立てへの明確な拒絶の意思表示であって、安倍晋三にダメージを与えるものであることは確かだ。
それでは、昨年末の前東京都知事・猪瀬直樹の辞意表明を受けて実施が決まった東京都知事選の告示直前の状況をどう見るべきか。
まず自公が推す舛添要一だが、これは石破茂や石原伸晃らの意に沿った形の候補と言えるであろう。安倍晋三は昨年末に「若い女性が良い」などと発言して主導権を握ろうとして失敗した。ここで思うのだが、「若い女性」とは安倍晋三はいったい誰をイメージしていたのだろうか。私は(若いかどうかはわからないが)橋本聖子あたりだろうと思っていた。あるいは、丸川珠代だろうとか、いや滝川クリステルだろうという声があった。だが彼女らのいずれも出馬することはなく、安倍晋三に思想信条の近い人たちは、頭に来て玉砕覚悟で田母神俊雄を築いてきた。
しばしば言われる「ファシズム」とのからみでいえば、安倍晋三が(単なる思いつきの発言であったかどうかは別にして)本当に「若い女性」を担ぎ出していたなら、その時こそファシズムの危機だっただろう。先週の日曜日(12日)だったかと思うが、TBSの『サンデーモーニング』で、ハリス鈴木絵美という人だったか、「若い女性」に該当するといえるコメンテーターが、安倍晋三が「若い女性」発言をした時それに期待したが、蓋を開けてみればおじさまばっかりでがっかりしたと言っていた。このことから、安倍晋三が「若い女性」か、それに限らずソフトな雰囲気を持った掌中の人間を担ぎ出すことに成功していれば、その候補が圧勝する流れができていたに違いないと私は思うのだ。そしてその時こそ、日本がファシズムの未知を一直線に突き進む開始の合図になったといえるだろう。ファシズムとは、田母神俊雄のようなマッチョな人間が勇ましく叫ぶところから生まれるものではない。
幸運にも、と言って良いと思うが、安倍晋三の思惑通りにはならなかった。現在有力といわれている舛添要一と細川護煕は、ともに新自由主義系の候補だが、舛添は石破・石原(伸)、細川は既に政界を引退した小泉純一郎や中川秀直らをそれぞれ代弁する候補者であるといえ、どちらが勝っても似たり寄ったりであろうと私は考える。
いや、舛添が勝てば原発が再稼働され、推進されるが、細川ならそれに歯止めがかけられる、だから「よりまし」な細川に投票すべきだという人もいる。確かに原発政策に全くの影響はないとはいえないかもしれない。しかし、細川・小泉・中川(秀)らに対応する国政の勢力はどうなるだろうかと考えると、それは結いの党をブリッジとして民主党の多くと日本維新の会の橋下派を糾合して今秋にも発足が予定されているあの「新党」ではないかと私には思えるのである。橋下徹は現時点でこそ細川とは距離を置いているが、時が来れば「新党」の中心人物になるであろう。そんなろくでもない結果につながりかねない候補に投票するのが賢明であるとは、私にはどうしても思えない。
安倍晋三が戦争に突き進むのを止めるために細川護煕を支持するのだという人がいる。しかし私が思い出すのは、一昨年、橋下徹が人気絶頂だった頃、ある人と交わした会話である。彼は、「橋下が総理大臣になったら本気で中国と戦争を始めかねない」と言っていた。安倍晋三を止めたつもりが橋下徹というさらなるモンスターを呼び起こしてしまっては何にもならない。それどころか、安倍晋三と橋下徹のそれぞれの勢力が合体する可能性すらあると私は思っている。現に橋下徹は安倍晋三を担ごうとした過去を持っているのである。
近年の私の主義主張からいえば、本来私が投票すべきは宇都宮健児しかいない。しかし、昨年末からずっと書いている理由によって、今回は宇都宮氏には投票しない。昨年、前回都知事選における宇都宮選対のなした悪行が告発されるや、おそらくその旧宇都宮選対の中心となった人たちが既成事実を作って先手を打とうとした。それが宇都宮候補予定者が早々と出馬を表明した理由だと私は確信している。なお、旧宇都宮選対の中心にいた人たちは「非共産党系」の人たちだったことに注意が必要である。つまりこの問題を「共産党の体質」に求める一部の指摘は正しくなく、共産・非共産を問わない「リベラル・左派」全体の問題としてとらえられるべきである。これは、「同調圧力」や「全体主義」という言葉で論じられるべき問題であろう。
そのような体質を容認するのであれば、広く国民の支持を得られる勢力に拡大できる可能性は皆無であると信じる。これは何より、民主主義の価値観を重視すると自認する人自身が、昔からの「ムラ社会」の行動様式から全く脱却できていないことを示すものだ。そんなものを容認してはならない。私はそう考えるに至った。
これに対し、旧宇都宮選対を告発した人も元来同じ体質を持っていて、たまたま身内がその体質に巻き込まれたからそれを批判したものの、自らの過去のあり方には目をつぶっている。だからその人の言説には信を置くに値しないといって、私に宇都宮氏への投票を勧めた方もいた。しかし、仮にそうであってもその告発自体は正しく、むしろそうであればなおさらのこと、今回の出来事をきっかけに、そのような体質の一掃を図らない限り「リベラル・左派」の未来はないと私は考えるのである。
だから私は宇都宮健児氏には投票しない。もちろん細川護煕や舛添要一やましてや田母神俊雄にも投票しない。その他の候補者の中から選ぶか白票を投票するかのどちらかである。
細川氏は政党からの推薦を受けず、無所属で出馬する意向とのことだが、民主、生活や維新の会の一部議員(旧日本新党など)が細川氏を応援するのではないかと言われる。実際、民主党主流派の松原仁、先頃まで民主党員資格停止処分を受けていた菅直人、民主党を離れて生活の党の代表を務める小沢一郎という、三つ巴の対立関係にある三者がいずれも細川氏支持を明言している。
もちろん細川護煕の最大の後ろ盾は小泉純一郎である。これだけ揃えばもう「お腹いっぱい」としか言いようがない。誰が何と言おうが、私は細川護煕には投票しないし、舛添要一にも投票しない。もちろん田母神俊雄なんかには間違っても投票しない。投票する可能性があるとすれば宇都宮健児であるが、昨年末と先週の記事に書いた理由によって、積極的に宇都宮氏に投票したいという気持ちには全くなっていない。宇都宮氏に投票するか白票を投じるかはまだ決めていない。
皮肉だなと思うのは、細川氏を推す人たちから、宇都宮氏は出馬は辞退せよという声が上がっていることだ。そういうことを主張する人たちの論拠は「脱原発派は団結せねばならず、当選が全く期待できない宇都宮氏は辞退すべきだ」とか「宇都宮氏を推す共産党は自公の『補完勢力』だ」などと言うものである。むろん後者を公言しているのは「小沢信者」であり、一昨年の衆院選と昨年の参院選の結果は、「日本未来の党」やら「生活の党」やらこそ「自公の補完勢力」以外も何物でもないことを示していることを思えば噴飯ものである。
こうした意見は強力な「同調圧力」をかける「全体主義」的思想そのものであり、宇都宮氏を応援する人たちが反発するのは当然である。しかし、細川護煕応援団に反発する人たちが支持する宇都宮氏の前回都知事選における選対は、澤藤統一郎弁護士親子その他の人たちに対して、細川応援団が宇都宮陣営に対して現在行っているのと全く同質の「同調圧力」をかける「全体主義」的暴挙を行っていた。そのことが実に皮肉だと私は思うのである。
候補者との距離感の差異はあるとはいえ、今回の都知事選にどの候補者も応援しない私から見ると、一番当選に近いのは舛添要一、次いで細川護煕であり、宇都宮健児と田母神俊雄は舛添・細川両候補予定者から大きく水を開けられる結果になると思われる。既に前回宇都宮氏を応援していた人たちのうち、少なくない人たちが細川護煕に寝返っているので、宇都宮氏は前回都知事選と比べて大きく得票を減らすだろう。また、ネットでは最強の田母神俊雄は選挙では最弱と思われ、細川護煕に票を奪われる宇都宮健児との3位争いはどちらに分があるか、私には想像がつかない。
細川護煕が小泉純一郎の応援を得て都知事選に出馬したら、「脱原発」か「原発維持・推進」かが都知事選の大きな争点になり、それは都政とはなじまないのではないかという声もある。しかしその意見は間違いだ。東電原発事故は福島で起きたが、東電福島原発で起こされた電力をもっとも多く使用しているのは東京である。正力松太郎や中曽根康弘の時代に始められ、惰性で続いてきた原発推進は、東電原発事故があってもなお止まっていないが、その一方で、東電原発事故によって新たに「脱原発」の慣性力が生じた。現在はその両者がせめぎ合っている状態であり、「脱原発」か「原発維持・推進」かが都知事選の争点になるのは歴史的必然であると私は考える。ただ、原発に関していえば、細川護煕を応援すると言われている小泉純一郎は、今世紀初頭の日本のエネルギー政策を「原発偏重」へと大きく舵を切った人間である。そして小泉はその責任を取ろうともしていない。小沢一郎も民主党で同じような政策転換をやっているが、小泉は内閣総理大臣だったのであるから小沢とは比較にならないほど責任が重いのである。その小泉が推す候補に投票するつもりなど、私には全くない。
もちろん、原発問題だけが都知事選の争点ではない。その他の政策において、舛添要一は全く支持できないが、細川護煕にも期待できないし、もちろん田母神俊雄なんかは論外だ。この点でも宇都宮健児が一番マシだが、同氏の前回都知事選選対の非民主的性質はどうにも我慢ならないし、どうせ同じような人たちが今回も選挙を切り回すのだろうから、それには強い拒絶反応を持つ。
かくして、記事を書いている時点では気持ちは「白票」へと大きく傾いている。もっとも気持ちには波があり、数日前には宇都宮氏へとかなり傾いていた。だがまた気が変わり、氏の取り巻きの非民主性だけは許せないという気が改めて強まってきた今日この頃なのである。
昨年最後の記事のあと、安倍晋三が靖国神社を参拝した。年末と年始の時事問題を扱うテレビ番組では、この件がもっぱらの話題になった。
かつての第1次安倍内閣時代における安倍晋三へのすり寄りが嘘のように安倍晋三に厳しい論評の言葉を発する毎日新聞元主筆・岸井成格は、昨日(5日)もTBSの番組(『サンデーモーニング』)で、総理大臣の靖国参拝は中国や韓国が怒るから問題なのではない、憲法違反なのだと正論を吐いていた。その通りであるが、国際関係もやはり気になるところだ。
中国や韓国はもちろん、アメリカが安倍晋三の靖国参拝を厳しく批判しているのが目立つ。EUやロシアも同様である。
面白いのは、安倍政権が特定秘密保護法を成立させたことを高く評価する池田信夫(ノビー)が安倍晋三の靖国参拝というか、靖国そのものに徹底的に批判的なことで、ノビーは昨年12月26日のブログ記事に
と書き、翌12月27日にはこんなことを書いている。安倍首相が靖国神社を参拝したことで騒ぎが起きているが、これはもともと招魂社という天皇家の私的な神社であり、国家の戦死者をまつる神社ではなかった。国家神道という国定宗教をでっち上げ、靖国神社をその中心にしたのは明治政府である。
靖国神社は、このような西洋の政教分離の伝統とは無関係な、天皇制のイデオロギー装置である。それが戦争に大きな役割を果たしたのは、もともと政治の一部だったのだから当たり前だ。したがって靖国に政教分離なんてありえない。そこには「政」と分離して存在する「教」がないからだ。
「どこの国でも戦争のために命を落とした英霊を慰霊するのは当然だ」という話もよくあるが、ちっとも当然ではない。戦争では非戦闘員も大量に殺されるのに、なぜ兵士だけが慰霊施設にまつられ、遺族は年金をもらうのか。それは戦争という個人的には不合理な(しかし国家的には必要な)行動を奨励する装置なのだ。
靖国神社から「A級戦犯を分祀する」なんてナンセンスだ。それは国家神道の中で名簿を書き換えるだけで、靖国そのものが政治的装置なのだから意味がない。A級戦犯だけが戦争を起こしたわけではない。戦争をあおったマスコミも、それに熱狂して旗を振って兵士を戦場に送った国民も含めた無責任体制が、あの戦争の原因である。
その伝統は今も残っている。責任の所在を明確にしないで、みんなで相談して何となく「空気」で決める意思決定が、日本の政治や経済の行き詰まる原因だ。リーダーにはそれを突破する合理的な指導力が必要だが、安倍氏は支持層に忠誠を誓う非合理主義を世界に表明してしまった。これでいちばん喜ぶのは、外交的に行き詰まっていた中国や韓国だろう。
(池田信夫blog 2013年12月27日付記事「靖国神社に『政教分離』はありえない」より)
なぜ、新春早々、私の天敵ともいえるノビーの記事を延々と引用したかというと、何も「ノビーでさえ安倍晋三の靖国参拝を批判している」などという月並みなことが言いたいからではない。そんな論法でたとえば小林よしのりなどを肯定的に引用するのは有害である。
ただ、ナベツネ(渡邉恒雄)などと同様、若い頃マルキストだった池田信夫の指摘する日本的意思決定のプロセスに対する批判が、現在の「リベラル・左派」にも見事に当てはまっていると感じたから、酔狂にもノビーの文章を長々と引用したのである。
ノビーの言う「責任の所在を明確にしないで、みんなで相談して何となく『空気』で決める意思決定」の問題とは、「同調圧力」の問題でもあろう。それが端的に見られる例の一つが、東京都知事選への出馬を表明した宇都宮健児氏の、2012年の東京都知事選における選挙対策本部の問題だと思う。
昨年最後の記事のタイトルは、「東京都知事選、宇都宮健児氏は支持できない」である。その意見は今も変わらない。
昨年暮の記事にも書いたが、私がこの立場に立った最大の理由は、2012年の東京都知事選における宇都宮氏陣営の選対が澤藤統一郎氏父子に対して取ったとされる「排除」のやり方に、私自身がかつて「政権交代ブログ村」で経験したことと同じ匂いを感じたからである。その他に宇都宮氏が昨年「緑茶会」とやらの発起人に名を連ねた一件もあるが、そんなものは宇都宮氏選対の体質の問題と比較すれば、取るに足らない軽微な問題に過ぎない。
また、私が宇都宮健児氏を支持できないと思うのは、政治的な思想信条とも関係ない。澤藤弁護士は共産党支持だそうだが、共産党は既に宇都宮氏の推薦を決めたと報じられている。澤藤氏は19日、「活憲左派の共同行動をめざす会」の発足記念集会で「特別発言」を行うそうだが、この集会で「日本経済はどうなるか?」と題した記念講演を行うという伊藤誠氏を私は買わない。昨年、伊藤氏の著書『日本経済はなぜ衰退したのか 再生への道を探る』(平凡社新書, 2013年)を読んだが、正直言って感心しなかった。伊藤氏は宇野弘蔵系のマルクス経済学者だそうだが、小泉純一郎の「構造改革」を引っ提げて登場した時、少々小泉に期待した点もあったようだ。それに限らず、全般的に小泉構造改革への批判が弱く、全く食い足りなかった。
私は、上記のような思想信条にかかわる点とは関係なく、澤藤氏父子の告発を黙殺し続ける宇都宮氏選対の体質には強い不信感を持つものである。これは、何も私だけではないようだ。ネットを見渡してみると、旧社会党を支持していた方や、生活の党に近い人など、思想信条がさまざまな「リベラル・左派」の人たちが宇都宮氏選対の体質や宇都宮健児氏本人の資質を疑う声を上げている。それに対し、宇都宮氏陣営はただ沈黙を守り続けるだけだ。
一方で、「リベラル(・左派)は団結すべきだ」「割れてはならない」と主張する人たちも多い。だが、こうした意見ほど私を反発させるものはない。この手の意見は有害な「同調圧力」を助長するだけのものだと私は声を大にして主張する。私は何も「東京都知事選には勝てる候補を出せ」などとは言わない。たとえ誰が出たって、東京都民はろくな選択はしない。私はただ嫌なものは嫌なだけである。宇都宮氏が嫌なら代案を出せと言う人もいるが、宇都宮健児氏で負けるのも白票を投じて負けるのも同じである。私は、「同調圧力」を行使する人間にさんざん悪態をつきながらも、いざ投票日になったら宇都宮健児氏に投票するという行動を取る可能性もあるが、それでも百害あって一利なしと信じる「同調圧力」に対する全的な "NO" を、ここにはっきり表明しておく。
ところで、本エントリのテーマである「同調圧力」といえば、昨年12月25日付朝日新聞オピニオン面に掲載された作家・星野智幸氏の論考「『宗教国家』日本」が記憶に新しい。私は新聞紙面で読んだが、下記Togetterで全文が読める。
http://togetter.com/li/607261
一読して強い印象を受けたので、『kojitakenの日記』に要旨と感想を書いた。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20131225/1387930380
上記記事中、2箇所で星野氏の論考を直接引用している。それを下記に再掲する。
今や同調圧力は、職場や学校の小さな集団で「同じであれ」と要求するだけではなく、もっと巨大な単位で、「日本人であれ」と要求してくる。「愛国心」という名の同調圧力である。「日本人」を信仰するためには、個人であることを捨てなければならない。我を張って個人であることにこだわり続けた結果、はみ出し孤立し攻撃のターゲットになり自我を破壊されるぐらいなら、自分であることをやめて「日本人」に加わり、その中に溶け込んで安心を得た方が、どれほど楽なことか。
(朝日新聞 2013年12月25日付オピニオン面掲載「『宗教国家』日本」(星野智幸)より)
「日本人」信仰は、そんな瀬戸際の人たちに、安らぎをもたらしてくれるのである。安倍政権を支えているのも、安定を切望するこのメンタリティーだろう。
もちろん、このように有権者が自ら主体を放棄した社会では、民主主義を維持するのは難しい。民主主義は、自分のことは自分で決定するという権利と責任を、原則とした制度だから。だが、進んで「日本人」信仰を求め、緩やかに洗脳されているこの社会は、その権利と責任の孤独に耐えられなくなりつつある。自由を失うという代償を払ってでも、信仰と洗脳がもたらす安心に浸っていたいのだ。それがたんなる依存症の中毒状態であることは、言うまでもない。みんなでいっせいに依存状態に陥っているために、自覚できないだけである。
この状態を変えようとするなら、強権的な政権を批判するだけでは不十分だ。それをどこかで求め受け入れてしまう、この社会一人ひとりのメンタリティーを転換する必要がある。難しくはない。まず、自分の中にある依存性を各々が見つめればよいだけだから。
(朝日新聞 2013年12月25日付オピニオン面掲載「『宗教国家』日本」(星野智幸)より)
引用文から明らかなように、「同調圧力」の問題とは「全体主義」の問題である。現在の日本においてもっとも広く蔓延している「同調圧力」は、星野智幸氏が書いた「『日本人』信仰」であり、安倍晋三政権を支えるものでもある。それに対抗する陣営が擁立する候補の選対が、同じような「全体主義」的体質を持っていてどうする。そう私は言いたいのである。澤藤統一郎氏父子の告発に沈黙を持って応じる。そんな体質だから、前回の都知事選で宇都宮健児氏は猪瀬直樹の4.48分の1しか得票できなかったのではないかと私は思うし、同様の意見を持つ人は少なくなかろう。
前回の宇都宮氏陣営は、その他にも選挙違反の疑いが澤藤弁護士に告発されているが、そうした具体的な疑惑以前に、宇都宮氏陣営のあり方自体が論外であると私は思う。そもそも民主的に運営されていないのである。それは「全体主義的」であるとさえいえるものだ。
宇都宮氏選対の体質に象徴される「個」なき群れたがりの度し難い集団が、安倍晋三や石原慎太郎ら国家主義者たちが立ててくる都知事候補に勝てるとは、私には全く思えない。現在いくら批判者の声を無視する全体主義的な態度を取ったところで、選挙にはあっけなく惨敗しておしまいになるだけである。
なお、2007年の都知事選における石原慎太郎圧勝のあと2か月間支持率が高止まりした安倍内閣が、その後支持率急落に見舞われて安倍の政権投げ出しに至った。都知事選に惨敗すれば安倍晋三は止められないという事態には必ずしもならない。それが唯一の救いだろうか。
1月1日付の新春のご挨拶を含めて今年44件目の記事。2006年のブログ開設以来最少の件数であり、年間アクセス数もその2006年に次ぐ少なさとなった。昨日(12月23日)、ユニークアクセス数の累計が700万件に達した『kojitakenの日記』は、3年連続150万アクセス、3年間累計で500万アクセスをいただいており、現在はもっぱらそちらへの投稿が多くなる一方、当ブログは年々さびれてきている。
しかし、『kojitakenの日記』は、あくまで思いついたことや新聞・テレビの報道の感想、それに読んだ本の感想文など、比較的気楽に記事を公開する場と位置づけている。こちらは、自分の文章を中心に組み立てた記事を公開する場のつもりなのだが、残念ながら年々パワーが落ちていることを認めざるを得ない。
今年最後の記事も、書く前から気勢の上がらないものになることは、題材の性質からも必然である。
今回は、来年1月告示、2月投開票が予想されている東京都知事選について書く。
さる19日の都知事・猪瀬直樹の辞意表明により、都知事選の実施が決定した。臨時都議会での申し出翌日から50日以内に知事選を行わなければならないとする規定及び都知事選が日曜日に行われてきた慣例から、都知事選の投開票日は遅くとも2月9日には行われる。1月26日や2月2日も候補に挙げられている。
現在、マスコミでは自公側の候補者が誰になるかでかまびすしいが、これに独自候補擁立を模索する党執行部と自公との相乗りをしたい右派が駆け引きをする民主党、自公の「補完勢力」ではないかと言われる日本維新の会、みんなの党、結いの党の保守系野党、それに昨年の都知事選で29年ぶりの「革新統一候補」宇都宮健児を擁立しながら猪瀬直樹の4.48分の1しか得票できなかった共産、社民両党、さらには泡沫政党である生活の党などの動向もからんで大いに注目されている。
しかし、正直言ってこれほど気勢の上がらない選挙はない。
東京と大阪の地方選は、それでなくても「リベラル・左派」にとっての「躓きの石」である。第1次安倍内閣時代の2007年、東京都知事選を前にして都知事の石原慎太郎に対する批判が強まっていた。『週刊ポスト』、『週刊現代』、『サンデー毎日』などの週刊誌も一斉に石原慎太郎批判の大キャンペーンを張り、石原の苦戦も予想されたが、蓋を開けてみれば石原の圧勝だった。東京の石原慎太郎は、大阪の橋下徹ともども、選挙には無類の強さを見せる。東京都民も、1975年の都知事選では石原を落として美濃部亮吉を当選させたこともあるが、当時と今では都民のものの考え方が全く変わってしまったのだろう。東京と同じく1979年まで黒田了一の革新府政を選んできた大阪府民も、東京都民以上に激しく右傾化しているようであるが。
ところで前回(2012年)の都知事選で、私は宇都宮健児氏を支持すると表明し、宇都宮氏を応援する記事を書いていたが、今回は全く気乗りがしない。それは、昨年宇都宮氏が上原公子氏らとともに「緑茶会」を立ち上げたことに端を発する。
アメリカの「ティーパーティー」をもじったかのようなネーミングの「緑茶会」は、「脱原発を求める市民グループ」なのだそうだが、なぜアメリカの過激な経済右派である「ティーパーティー(茶会)」をもじるという最悪のネーミングをしたのか、このことにまず不信感を持った。さらに、「緑茶会」の発起人の一人に、ユダヤ陰謀論者として悪名高い安部芳裕なる人間がいることも指摘されて知り、不信感を強めた。当時(昨年4月)に『kojitakenの日記』に書いた2件の記事を、下記にリンクしておく。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20130425/1366900958
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20130426/1366908087
一昨年の都知事選で宇都宮氏を支持した弁護士の澤藤統一郎氏が、選挙後の総括として書いた文章が宇都宮氏陣営の不興を買ったらしく、宇都宮氏陣営から締め出しを食うという事件が起きていた。その澤藤氏が「宇都宮健児君、立候補をお辞めなさい」と題したブログ記事を書いている。下記にURLを示すが、リンクした記事のあとにも続編が書かれている。
http://article9.jp/wordpress/?p=1742
私はこれを読んで、来年の都知事選で宇都宮健児氏を支持する気を完全に失った。
もめごとの詳細は澤藤氏のブログをご参照いただきたいが、何よりも私がうんざりしたのは、宇都宮陣営の「村八分」式のやり方だった。澤藤氏は
と書いているが、このことから私自身に関するある出来事を思い出したのである。さすがに、「お・も・て・な・し」を期待はしていませんでしたが、まさか「だ・ま・し・う・ち」に遭うとは思ってもいませんでした。
それは、2009年における「政権交代ブログ村」での出来事であり、私は当時民主党を中心とした連立政権による「政権交代」を待望する論調に立つ「村民」だったのだが、平沼赳夫や城内実といった無所属の極右政治家を支持するかどうかをめぐって、他の「村民」との間で論争をやっていた。
そんなある日、「村内政治」を得意とする、さる熱烈な城内実支持者の差し金がついに功を奏した。私は、彼らのリーダーの1人から、「もう『トラックバック・ピープル "自民党"』にTBしないでもらえないか」と言われたのである。いつかはそんな日がくるだろうと予期していた私は、渡りに舟とばかりにこちらから絶縁状を叩きつけて「村」を出た。2009年6月のことである。彼らは村内政治戦には勝ったが、彼らの平沼赳夫や城内実への支持が誤りであったことは、特定秘密保護法をめぐる平沼や城内の行いから明らかであろう。かつてあれほど熱心に城内実を応援したあの男も、ついに城内実を「亡国奴」呼ばわりせざるを得なくなった。ざまあみろ。
私自身にとっては、7年間のブログ生活で何が良かったかと言って、あの「政権交代ブログ村」から出て行ったことほど良かったことはない。自由に書きたいことが書けるようになったからである。「ブログ村」にいた頃には、「同調圧力」に屈した恥ずかしい記事をしばしば書いたものだ。一例を挙げると、さる「元痴漢」に謝罪したことがあった。当該記事は削除せず残してある。確か2008年のことだった。
バーチャルとリアルを一緒にするなと言われるかもしれないが、そんな個人的な出来事を思い出さされたこともあって、宇都宮健児氏に期待する気持ちなどこれっぽっちも残らず失ってしまった次第である。
それに、人脈的に見ても、宇都宮氏はむしろ絶滅危惧種となっている民主党左派や同じく絶滅危惧種の生活の党から支援されるならまだわかるとして(それさえも党内中道や右派が主導権を握る民主党は支援しそうにないが)、昔で言う「革新統一候補」にふさわしい人物かどうか非常に疑問である。あるいは「反自公」「反秘密保護法」の幅広い民意を結集する「リベラル・左派プラス中道右派」の候補としても適任であるとはおよそ思えない。昨年の都知事選で猪瀬直樹の4.48分の1しか得票できなかったという結果からも明らかである。もちろん、孫崎享など「小沢信者」が擁立を待望しているらしい、極右へのすり寄りを十八番にしている田中康夫などは論外であるが。
それなら対案を示せ、と言われそうだが、対案は持っていない。「対案主義」を強要するのは小泉純一郎ら新自由主義のドグマでしかない。
「良いお年を」とも「メリークリスマス」とも言い難い結びになったが、今年の記事はこれで締めくくる。
私は、全国すべてで統一地方選を繰り延べにすべきだと考えていたが、そうはならなかった。みんなの党、共産党、国民新党、たちあがれ日本などが全国的延期を求めたが、民主、自民、公明、社民の各党は被災自治体のみの延期として、統一地方選の予定期日での実施を強行した。自公には民主党政権が批判を浴びている今のうちに地方選を強行したいという党利党略があったと見られるが、民主党や社民党は何を考えているのかさっぱりわからない。
これに伴い、東京都知事選も予定通り行われることになった。告示日はもう明後日の24日(木)であって、看板も既に立てられている。
東日本大震災の影響で東京都知事選はさっぱり話題にならなくなったが、震災の日の朝に公開した11日付エントリ「どこまでも卑劣な石原慎太郎がまたも『後出しじゃんけん』」で、東国原英夫と松沢成文は都知事選への立候補を取りやめるだろうと予想した。その後松沢は立候補取りやめを発表したが、出馬を取りやめると見られていた東国原は、昨日(21日)になって出馬の意向を表明した。石原以上の「後出しじゃんけん」には呆れるばかりだが、東国原は石原に歯が立つまい。
都知事選には、石原と東国原のほか、渡辺美樹と小池晃が立候補する見込みだ。このうち、「都政を経営する」という渡辺美樹がいまさら有権者の心をつかむ可能性は全くない。一方、小池晃については、いやでも今回の都知事選の争点になる「防災」を争点して徹底的に石原を叩けば、大逆転の可能性があるのではないかと私は希望を託している。
共産党の元参議院議員である小池晃は、今回無所属で立候補するが、共産党が以前から福島第一原発の危険性を訴え続けてきたことはよく知られている。同党には、京大工学部原子核工学科卒の吉井英勝衆院議員がいて、小泉政権から安倍政権の時代にかけて、国会で政府を厳しく追及した。ブログ「天漢日乗」に掲載されている下記エントリをご参照いただきたい。
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2011/03/2005-073-4f4d.html
15日付記事でも少し触れたように、共産党(吉井議員)がもっとも強く警告していたのは、地震の際の津波の引き波によって海水の取水ができなくなるケースであり、今回、津波の侵入によって制御不能になった場合とは少し異なる。このため、病的な反共主義者の中には、「共産党は福島原発事故を予見していたとは言えない」など強弁する者もいるが、吉井議員は国会の質問で次のようにも言っている(上記リンク先の「天漢日乗」より引用)。
あわせて、大規模地震が起こった直後の話ですと、大規模地震によってバックアップ電源の送電系統が破壊されるということがありますから、今おっしゃっておられる、循環させるポンプ機能そのものが失われるということも考えなきゃいけない。その場合には、炉心溶融という心配も出てくるということをきちんと頭に置いた対策をどう組み立てるのかということを考えなきゃいけない
原発がとまっても機器冷却系が働かなきゃいけませんが、外部電源からとれればそれからも行けるんですが、それも大規模地震のときはとれない
外部電源が得られない中で内部電源も、海外で見られるように、事故に遭遇した場合、ディーゼル発電機もバッテリーも働かなくなったときに機器冷却系などが働かなくなるという問題が出てきます
これらはまさしく今回起きたことである。つまり、東京電力が言う「想定外」などとんでもない。吉井議員が国会で質問しているということは、これらの想定が公知だったことを意味する。つまり、東京電力は当然想定しなければならない事態を想定してこなかったということだ。私は、東電がコスト等を考慮して意図的に想定しなかったものと断定している。
東京都知事選に話を戻すと、今回、小池晃氏は無所属で出馬予定とはいえ、「共産党の小池議員」として認知されている人である。だから、かつて共産党が国会で福島原発の危険性を訴えてきたことは、選挙戦で大々的に前面に打ち出すべきだろう。
同時に何より必要なのは、巨大な敵である石原慎太郎に対するネガティブキャンペーンである。ネガキャンというと、日本ではアンフェアというイメージを持たれることが多いが、アメリカなど海外では遠慮なくネガキャンをやっている。石原に対するネガキャンなど、何ら躊躇することはない。情け容赦なく石原陣営に向かってネガキャンの雨あられを降らせるべきだ。
下記リンク先のTwitterをご覧いただきたい。
http://twitter.com/ishihara_said/status/49072075826143232
「東京湾に造ったっていいくらい日本の原発は安全だ」 2001年5月28日、プルサーマル計画反対が過半数の住民投票の結果を受け→「故障と事故は違う」2011年3月14日福島原発事故のあと会見で
上記はいずれも石原の発言だが、これらに加えて、石原が今回の震災を「天罰」と言った、きわめつきの失言もある。3月14日付の朝日新聞記事から引用する。
「大震災は天罰」「津波で我欲洗い落とせ」石原都知事
石原慎太郎・東京都知事は14日、東日本大震災に関して、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。都内で報道陣に、大震災への国民の対応について感想を問われて答えた。
発言の中で石原知事は「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と指摘した上で、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」と話した。一方で「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。
石原知事は最近、日本人の「我欲」が横行しているとの批判を繰り返している。
(asahi.com 2011年3月14日19時34分)
小池晃陣営は、これらの石原発言を積極的に広め、都民の間に反石原の気運を高めるべきだ。他にもいろいろ石原都政には問題点があるが、今回は防災と原発の問題に集中して石原を叩くしかない。
というのは、もう時間がないのである。4年前の都知事選の時には、浅野史郎、吉田万三、黒川紀章各氏と石原によるテレビ討論が何度も何度も行われたが、今回はそんな機会は全然期待できない。人々が選挙に関する報道にろくに接する機会がないうちに選挙戦に突入する。何もしなければ、石原の圧勝は避けられない。だから、小池晃陣営としては石原を倒すために手段を選ぶ余裕などないはずだ。何が何でも、どんな手段をとっても石原を倒しにかからなければならない。
なお、今回のエントリは、当ブログにgreenstoneさんからいただいたコメントに触発されて書いた。greenstoneさんのコメントを最後に紹介する。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1166.html#comment11736
吉井議員は福島原発の津波による冷却装置損傷のリスクまで警告していたそうですね。
今度の都知事選は、間違いなく防災が最大の争点になると思う。
共産党は、吉井質問を最大限利用して、たまには下品な選挙戦をやって欲しい。
選挙は勝つことも大事なのだから。
そして石原を退治してくれ!
2011.03.20 11:37 greenstone
「共産党は、たまには下品な選挙戦をやって欲しい」。これは、都知事選を前にして私も思っていたことであり、greenstoneさんのコメントに強く共感した。
保守分裂も、当選の見込みからはほど遠い渡辺美樹と石原以上の「後出しじゃんけん」の東国原だけになりそうな現状は、ふだんだったらどうあがいても石原には歯が立たない。しかし現在なら、ありとあらゆる手を尽くして、原発の危険性を訴えてきた共産党及び小池晃氏と、無責任な「原発安全神話」を撒き散らしてきた上に「震災は天罰」とまで放言した石原との対比を有権者に訴えていけば、都知事選での勝機が生じるのではないか。
重ねて書くが、小池晃陣営は死にものぐるいで都知事選に勝ちに行くべきだ。石原を倒すことは、決して不可能ではない。