しかし、マスコミはことさらにこれを過小評価し、麻生の所信表明演説を「盛り上がらなかった」などと評している。なぜだろうかと考えた時、マスコミにとってコイズミの「構造改革」路線の転換は好ましくないことだからではあるまいか、と思い当たった。新自由主義は、「勝ち組」のマスコミ業界人にとって都合の良いイデオロギーなのである。
しかし、このところ急速に広がる「反新自由主義」の機運に、乗り遅れてはならじとする人たちが多い。昨年末以来話題を呼んだのが経済学者の中谷巌の転向であり、ついには一国の総理大臣までが転向を表明したのである。
中谷巌については、多くのブログで論じられているが、転向については評価する意見と批判的な意見が相半ばし、著書については金を払って買うほどの内容ではないとの酷評が多い。私は、週刊誌のインタビュー記事をいくつか飛ばし読みしただけだが、それらから著書の内容はほぼ想像がつくし、実際その程度の書物らしいから、書店に置いてあっても手に取る気もしない。そんなものに割く時間がもったいない。それでなくとも、もっともっと時間が欲しいと思う日々を送っている。
私は、人文・社会科学を大学で専攻しなかった人間だが、政治・経済問題に対するスタンスは、高校2年生の時以来基本的に変わっていない。もちろん若干の揺れは常にあるのだが、微修正に過ぎない。それだけに、中谷巌のように極端な方向転換を行う人間が小渕内閣の経済戦略会議の議長代理を務め、経済政策の方向性を決めていたかと思うと、やりきれなさを感じるのである。少なくとも、まともな経済学者であるとは思われない。経済学の世界というのは、学問的な能力よりも世渡りの能力の方がものをいうのだろうか。世渡り上手というと竹中平蔵のにやけ顔がすぐ思い浮かぶが、新自由主義の代名詞である竹中平蔵は、間違っても転向宣言はしないだろう。
1945年の終戦を機に、多くの指導者たちが一斉に転向したことは誰もが知っている。朝日新聞の縮刷版を見ると、日本政府も朝日新聞も転向したことがよくわかる。戦争責任を問われて処刑された指導者たちもいるが、日本人自らが裁いたものではない。それどころか、A級戦犯容疑者だった岸信介は、アメリカにとって役に立つ人間だとみなされ無罪放免されたあと、戦後12年目にして総理大臣に就任した。小学生の頃、当時まだ生きていた元首相の岸が、かつて東条内閣に入閣していたことを知って驚いたものである。その岸の孫・安倍晋三が、「岸信介の孫」を売り物にして総理大臣に就任した時には世も末かと思ったが、政治思想も経済思想も「右」に属するネオコンの安倍が全くの無能だったことは、日本国民にとっては不幸中の幸いだった。安倍首相在任時の2007年の参院選は、日本政治の流れを変えた歴史的な選挙として後世に記憶されるだろう。あの選挙での自民党の歴史的惨敗が、世界金融危機を受けた新自由主義からの「転向」ブームにつながった。
ところで、『カトラー:katolerのマーケティング言論』が「経済学者、中谷巌の転向?新自由主義は死んだのか??」と題するエントリ(1月16日付)を上げている。著者はリバタリアン的な人らしく、中谷の転向を酷評する一方で、現在主流になりつつある反新自由主義の論調も厳しく批判している。カトラー氏の立場に私は与しないが、このエントリで「ポリティカル・コンパス」の原型であるノーラン・チャートを用いて、今後の日本の動向を予想していることが注目される。
カトラー氏は、新自由主義には、個人的自由と経済的自由の両方を追求するリバタリアニズムの思想が流れているとしているが、私はデヴィッド・ハーヴェイがいうように、新自由主義とは富裕層が階級支配を復活・強化し、格差の固定を狙ったプロジェクトであり、リバタリアニズムを装った新自由主義の主張は、その真の狙いを覆い隠す仮面であると考えている。個人的自由と経済的自由の両方を追求した結果、格差が固定されるというのはどう考えても矛盾した話だ。
だから、新自由主義に親和的なカトラー氏の主張には賛同できない部分が多いのだが、現在の新自由主義批判のあと、個人的自由も経済的自由も小さくする方向性を持った「ポピュリズム」に走るという予想には賛成する。
これは、カトラー氏のような(?)リバタリアンだけではなく、リベラルや左翼からも指摘されている。当ブログも、昨年10月27日付エントリ「新自由主義のあとにくるもの ? 国家社会主義を阻止せよ」で、辺見庸が講演会で「国家社会主義の変種ともいうべき者が、「革新づらをして」現れるだろう」と警告したことを紹介した。2月1日(日)の午後10時から、NHK教育テレビで「NHK・ETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」」が放送されるそうだから、これは見逃せない。当初1時間の放送枠の予定だったが、延長されて1時間半の番組になるそうだ。
カトラー氏の下記の指摘には、当ブログも同感である。
自由から遁走することは、「ポピュリズム」に走ることであり、それは最終的にはファシズムに至る道である。ポピュリズムとファシズムが近いというと違和感を持つ人もいるかも知れないが、ファシズムとは、一般に思われているように、ヒトラーのような独裁者が、一方的に大衆を抑圧、支配することで成立するのではない。むしろその逆だ。大衆のほうから、むしろ進んで歓呼をもって独裁者を受け容れるものだということを歴史は教えている。残念ながら、今の日本は、そちらの方向に舵を切りつつあると実感している。
日々あちこちの「政治ブログ」の記事を瞥見していると、ポピュリズムとファシズムが近いというのは実感として実によくわかる。政治家でいえば平沼赳夫や城内実、文化人でいえば佐藤優がこのカテゴリに属する。ブログでいえば(以下自粛)。
麻生太郎も、もともと新自由主義政策を推進したコイズミ内閣の中枢にいた人物である。麻生の転向も、下手をすればファシズムの呼び水になりかねない。
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コイズミ内閣の頃は中国の対日感情は最悪だった。しかし、本来強烈な「反中」論者である安倍晋三は、サプライズ効果を狙ったか就任早々中国を訪問した。さらに、福田康夫政権になって、対中関係に配慮した外交をするようになった。これは、右翼からは「媚中」として強く批判されているが、中国の対日感情はコイズミの頃と比較するとずいぶん改善された。私が話したことのある在日の中国人も、福田首相に好感を持っている一方、コイズミを蛇蝎のごとく嫌っていた。
すでに競技の始まっている北京五輪の女子サッカーでも、「なでしこジャパン」に中国の観客から声援が送られたそうだ。歓迎すべきことだ。
http://www.excite.co.jp/News/china/20080806/Searchina_20080806094.html
しかし、日本では未だに「反中」コイズミの人気は非常に高く、「親中」福田康夫の人気は低い。そして、毒入り餃子事件やチベット騒乱の影響もあって、日本人の対中感情は相変わらず悪いままだ。
「リベラル・左派」の人たちの間でも、中国の印象はあまり良くなく、中には「中国で五輪を開催すること自体間違っている」という人もいるし、そういう意見を表明するブログもある。
しかし、そんなことを言い出したら、イラクやアフガンで悪逆非道の限りを尽くしたアメリカや、そのアメリカの「犬」として積極的に協力した日本での五輪開催も認められるべきではないことになる。
さて、昨日のエントリで、『広島瀬戸内新聞ニュース』の平和記念式の記事にリンクを張って紹介し、エントリの後半でポピュリズムについて論じたら、同ブログから「ポピュリズムの系譜と今後への教訓」と題した記事をTBしていただいた。
同記事は、ポピュリズムの開祖は中曽根康弘ではないかという。なるほどと思った。厳密には、政権側でのポピュリズムの開祖というべきではないかと思う。
中曽根の親友である渡邉恒雄(ナベツネ)に『ポピュリズム批判』(博文館新社、1999年)という著書があることからもわかるように、コイズミ政権発足以前は、「ポピュリズム」批判は主に右派の論者が政権批判側を逆批判するのに用いられた。ナベツネは、旧社会党や現在の民主党、それに朝日新聞などを批判する時に、よく「ポピュリズム」の言葉を持ち出したが、一度石原慎太郎に対しても「ポピュリズム」批判をしたこともあった(2000年の外形標準課税の際)。
ともあれ、従来政権擁護側から用いられてきた「ポピュリズム」という言葉が、政権を批判するために用いられるようになったのは、コイズミ政権からだ。しかし、政権側のポピュリズムの始祖は中曽根康弘だ、というさとうさんの指摘は実に面白いし、的を射ていると思う。
という実例を挙げた指摘は鋭い。彼(中曽根康弘)は国鉄を民営化さえすればすべてが解決するような雰囲気をかもし出しました。国鉄職員をバッシングの対象にした。
中曽根康弘は、日本における新自由主義の開祖でもある。ここから、新自由主義はポピュリズムと分かちがたく結びついているという仮説を思いつく。本当は、階級を固定化し、格差を広げるためのプロジェクトである新自由主義が、国民を騙してそのような方向に社会を持っていくための人気取りをすると考えるのだ。
とさとうさんは書くが、そういえば今日8月8日はあの忌まわしい「郵政解散」の日でもある。あの「郵政総選挙」ほどポピュリズムの本質をむき出しにした選挙はなかった。「郵政民営化さえすればよくなる」「抵抗勢力さえやっつければ良くなる」とコイズミは絶叫し、それを国民は熱狂的に支持した。今思い出しても悪夢のようだ。そして、そのあげくに現実のものとなったのが、戦後最悪の格差社会と貧困なのである。個々の政策を捨象して、一律にレッテル張りし、「**さえすればよくなる」「**さえやっつければよくなる」というのは乱暴な話です。
もっとも、「自公政権さえ倒せば日本は良くなる」、「たんぽぽさえいなくなれば平和になる」、「諸悪の根源はユダヤだ」などというのも、コイズミと同質のポピュリズムなので注意が必要だ。昨年の参院選前までのように、敵が巨大で、安倍晋三というネオリベとネオコンの象徴のような男がその頂点にいた頃は、コイズミや安倍の問題点を指摘して批判する、あるいは単に「安倍打倒」「野党共闘」などのスローガンを連呼することにも意味があったが、現在はもはや、民主党を中心とした野党連合が政権を握ることを前提とした議論をしなければならない段階だ。民主党にも経団連はかなり深く食い込んでいるので、市民の側からも民主党に対して、経団連とは逆方向の圧力をかける必要があると思う。
五輪の話からずいぶん脱線してしまった。当ブログ管理人も、かつてほどではないが、4年に一度の五輪中継を見るのを楽しみにしている。来週後半からは当ブログも夏休みをとる予定だ。皆さまも、「北京五輪なんて」などと言わず、たまには五輪中継を観て気分転換をされてはいかがだろうか。
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月刊『現代』9月号に掲載された春名幹男・名古屋大学大学院教授の「「偽りの平和主義者」 佐藤栄作」によると、キッシンジャーは佐藤の提案に、下記の理由で反対した。
- ソ連の兵力は欧州諸国より大幅に優位で、中国も近隣諸国より優位に立つ。核兵器がなければ、ソ連は通常兵力で欧州を圧倒し、中国も同様の結果を得る。
- われわれが核兵器の第一使用を放棄すれば、日本に多くの危険をもたらす。
- 均衡のとれた戦略軍事力の削減を交渉しながら、安定を維持するのが米国の政策だ。
典型的な「核抑止論」である。
ところが、そのキッシンジャーが近年、主張を大きく転換した。以下朝日新聞の8月6日付社説から引用する。
http://www.asahi.com/paper/editorial20080806.html
■核抑止論者の転向
今年6月末。英国のハード元外相、ロバートソン前北大西洋条約機構(NATO)事務総長ら4人が「思い切った核軍縮は可能であり、最終目標は核のない世界であるべきだ」との主張を英タイムズ紙に寄せた。「冷戦時代は核が世界の安定に資したが、もはやそうではない」とも指摘した。
ハード氏らが動いたきっかけは、元米国務長官のキッシンジャー、シュルツ氏ら4人が昨年1月に発表した、「核兵器のない世界を」との提言だ。
核が拡散していけば、核の存在が米国や世界の安全を脅かす恐れがある。むしろ核を廃絶した方が国益にかなう。そうした計算から米ロの大幅な核軍縮、世界的な核実験禁止、兵器用核物質の生産禁止などを提案した。
いずれの提案も、かつての核抑止論者が発したものだ。ここ60年余りの国際政治を支配してきた「核による安全」という発想を逆転したのである。
(朝日新聞 2008年8月6日付社説より)
朝日新聞社説はさらに、アメリカの政策転換を求め、次期大統領に期待している。そして「日本発の軍縮競争を」、と求めている。
「広島瀬戸内新聞ニュース」は、広島で行われた原爆死没者慰霊式・平和祈念式を伝えているが、記事中で秋葉忠利広島市長による平和宣言の一部を紹介している。
市長は平和宣言の中で、原爆体験の精神的影響などについて科学的調査を行う。
「核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶」ときっぱり。
そしてに核兵器廃絶をもとめる多数派に「耳を傾ける米国新大統領」が誕生することを期待する、と表明しました。
また、世界の都市に広がる平和への流れを紹介。
日本国憲法を「パラダイム転換の出発点」と指摘し、政府に憲法遵守をもとめました。
(「広島瀬戸内新聞ニュース」 ? 「8月6日ヒロシマ報告(2)」より)
最低最悪の戦争大統領であるジョージ・ブッシュが退任すれば、アメリカの政策は大きく転換されると思うが、特にバラク・オバマが当選すれば、その政策転換は劇的なものとなるだろう。
リベラル・左派も、ひたすらアメリカに反対していればよかったお気楽な時代は過去のものとなる。私が懸念するのは、そんな時に日本に「排外主義」が蔓延することだ。
例の「郵政民営化」の時にコイズミに切り捨てられた平沼赳夫一派や、総理大臣の任期中にアメリカから疎んじられた安倍晋三らは、もともと「反中」「反韓」「反北朝鮮」の性格を持っていたが、これに「反米」が加わって、完全な「排外主義」に転じつつある。当ブログにいただいたコメントによると、安倍晋三は今月初めに発売された右派論壇誌において、反米的主張を展開しているそうだ。
私は、彼らと民主党の野合を警戒している。反自民を標榜するブログの中にも、平沼一派と親和性の強いところが少なからず存在し、厄介なことに、それらのブログの多くは陰謀論や擬似科学に対する親和性も強い。それらは、アインシュタインの相対性理論は間違っていると主張するコンノケンイチを持ち上げるのと同質の議論である。そこに通底するのは、ポピュリズム(大衆迎合主義)だ。
ポピュリズムというと、ただちにコイズミを連想する。そういえばあの「郵政解散」もこの季節だった。そして、この季節にコイズミとともに思い出さなければならないのはナチス・ドイツである。ドイツの降伏自体は1945年5月だが、われわれ日本人にとっては8月こそ戦争を考える月だ。
ネット検索をしていたら、ポピュリズムに関する良いまとめ記事が見つかったので紹介する。
「碧の谷風」というサイトにある、「国民投票とポピュリズムの危険性」という記事だ(下記URL)。
http://www3.coara.or.jp/~ynoge/essayPolitics/populism.htm
以下引用する。
ポピュリズムの危険性は、その破壊のエネルギーにある。
たとえば、既存の体制の中に、あるいは富裕層の中に、はたまた、国の外に、明確な「敵のイメージ」を作り出し、人々の憎悪をかき立て、それを自己の拠り所にするのがポピュリズム政治の手法である。
このような憎悪は、安定した経済、官僚システムの破壊し、激しい民族対立や戦争を生む。ポピュリストが言うように、「xxさえ無くなれば、社会が良くなる」という事は、長期的な目で見れば、ほとんどは真実でない事が多い。
例えば、今は「水に落ちた犬」として、どれだけ批判しても構わない事になっているヒットラー(ナチスドイツ)について見てみよう。ご存知のように「ユダヤ人さえ居なくなれば社会は良くなる」と、「ユダヤ人」いう明確な敵を設定し、同時に「アーリア民族の優越性」という、自己愛をくすぐる論理で武装。一つのスローガンを、メディアを通して繰り返し浸透させる手法で憎悪を増幅し、その力を背景に一党独裁を確立した。
その結果、ユダヤ民族、ドイツ自身が被った被害の大きさはご存知の通りである。
(余談ではあるが、「サダム・フセインさえ居なくなれば」と言ったアメリカの例も、ポピュリズムの一種であると言えるのではないだろうか?)
(「碧の谷風」 ? 「国民投票とポピュリズムの危険性」より)
一部ブログの言説に見られる「ユダヤ陰謀論」や、「水伝騒動」においてさる有名ブロガーが書いた「たんぽぽさえいなくなれば平和になる」というのは、典型的なポピュリズムの言説だということを指摘しておきたい。
では、ポピュリズムにはどう対処すれば良いか。
(「碧の谷風」 ? 「国民投票とポピュリズムの危険性」より)
- 分かりやすすぎる説明には警戒を。
複雑なものを簡単に説明するためには、当然、情報を削っていく必要がある。その仮定で、情報を削る人の恣意が働く。つまり、自分に都合の良い情報は削らずに、都合が悪い情報から削られていくのだ。また、これはメディアについて特に言える事だが、「大衆ウケの良い情報」が残され(誇張され)、そうでない情報は削られていく。
与えられた情報から、削られたモノがなんなのか、逆に、誇張されたものが何なのかを推測する能力が、今後、より必要になってくると思う。- 穏健派は、発言が許されるうちに発言を。
ポピュリズム政治が進行し、その末期になると、暴力が社会を支配し中道的な意見を言うものは、それだけで「日和見主義者」「修正主義者」の扱いを受ける。そうならないうちに意志を表明すべきだと思う。- プロパガンダに対する免疫を。
理性ではなく、感情に訴えかける大衆動員法は、洋の東西を問わず、広くポピュリズム型の社会に認められるものだ。疑おう。
これを読んでいて、一昨年12月24日に「kojitakenの日記」に書いた、「「わかりやすさ」の落とし穴」という記事を思い出した(下記URL)。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20061224/1166950438
短い記事なので、以下に再掲する。
■ 「わかりやすさ」の落とし穴
昨年の総選挙で自民党が圧勝したあと、マスコミ、特にテレビの政治番組のキャスターは言ったものだ。
「小泉さんの主張はわかりやすかった。それに比べて、民主党の主張は何ですか」
コイズミの郵政民営化法案に関する主張がわかりやすかったとは私は全然思わないが、とにもかくにもキャスターたちはそう主張し続けた。
とにかく、何でもお手軽にわからせろという主張が横行している。そして、報道する側のメディアもそれに迎合する。「コイズミ劇場」を煽る。
「わかりやすさ」には落とし穴がある。要約が的を射ていないと、肝心な部分を切り落とすからだ。そして、よほど当該分野について熟知している人でもない限り、たいていの人は肝心な部分を切り落としてしまう。だから、真に主張をわかってもらおうとするなら、詳しく、熱を込めて語る必要があるのだ。
だが、そんなに顔を真っ赤にして主張してたら、読者が引いてしまうよ、などとしたり顔で言う人たちがいる。
はっきり言って、こういう物の言い方ほど、偽善的で冷笑的なものはない。私のもっとも嫌う態度である。
そんな主張をするのは、真実に迫ろうという努力を最初から放棄している人であって、そんな人の語る言葉から得られるところは何もない、と思う。ましてや、無知を自覚しながら人々を導こうなどとするのは、傲慢以外のなにものでもないだろう。
この偽りに満ちた時代において、一人一人の人間に必要なのは、愚直に真実に迫ろうとする真摯さなのだ。そこには、必ずしも「わかりやすさ」はない。
(「kojitakenの日記」 2006年12月24日)
これを読み返すと、ブログ開設からそんなに経たない頃からずっと同じ主張を繰り返してきたものだなあ、と自分でも呆れる。これを書いた1年後の昨年12月23日にも、当ブログに「ネットに横行する「トンデモ」や「陰謀論」を批判する」と題したエントリ(下記URL)を公開したが、これは現在でも持続的なアクセスをいただいているエントリの一つだ。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-532.html
ブログ言論には特にポピュリズムに流れやすい傾向が顕著なので、ポピュリズムとの闘いは延々と続く。この姿勢はずっと保ち続けなければならないと思う今日この頃である。
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たとえば、このところ目立つようになったのが、地球温暖化に関して、大気中の二酸化炭素濃度の増加が地球温暖化をもたらしているという説には科学的根拠がないという言説である。この当否については、当ブログは何も言わない。CO2による地球温暖化の仮説は、それによって自然現象がかなりよく説明されるから議論の対象になっているのだと思うが、仮説は仮説であり、それに対する懐疑論があっても全然不思議ではない。しかし、次のような記述を目にすると、何じゃそれ、と思ってしまう。
http://dokuritsut.exblog.jp/d2008-01-18
定説であるかのごとく流布される、CO2排出量と地球温暖化との因果関係は、実は科学的には何ひとつ立証されていない。世に言う地球温暖化問題は、原発産業をも独占する、ユダヤ権力によるただのプロパガンダである可能性が極めて高い。
こういう言説を知ったうえで、たとえば下記の記事なんかを読むと、これを書いたブログの管理人がいかに「陰謀論」に毒されているかが一目瞭然だ。
http://interceptor.blog13.fc2.com/blog-entry-1481.html
ユダヤとかって聞いただけで短絡的にレイシズムに直結しちゃう賢い風味の駄菓子みたいな脳みそは、「ユダヤ的思考」っていうものの見方もできない「人種」に囚われる記号主義の自縛思考。
該ブログが零落した理由がよーくわかった今日この頃だ(笑)。その厚かましい主張は、「噴飯もの」の一語に尽きる。
こんなことを書くと、すぐに「沖縄返還の密約を追及した毎日新聞の西山太吉元記者は陰謀論者だとでも言うのか」とか、「kojitakenは高知のスクールバス冤罪疑惑事件で『陰謀論』を支持しているではないか」などと言い出す馬鹿があとを絶たないのだが、仮説を立てて現実がその仮説に適合するかどうかを検証し、適合しない部分があれば仮説を修正するというのは、自然科学、社会科学、ジャーナリズムを問わない普遍的な方法論だ。西山元記者や、高知スクールバス事件を報道して冤罪疑惑を告発した瀬戸内海放送(本社・高松市)のジャーナリストはその原理原則に忠実だった。そして、西山氏の仮説は正しかった(それどころか、沖縄返還をめぐる巨大な密約の、ほんの一部だった)ことが、アメリカで公開された公文書から、ここ数年で明らかになってきている。
一方、仮説がドグマ(教義)と化したり、仮説に蓋然性がなかったりするところから、「陰謀論」が生まれる。レイシズムを撒き散らすリチャード・コシミズや、同様の流れに沿ったブログ記事を垂れ流す「ぬぬぬ?」はその典型例だ。彼らのポピュリズムは、俗情に媚びて世に害毒を流すものでしかないと当ブログは考える。
当ブログは、このようなポピュリズムおよび陰謀論に強く反対するものだ。これらは、いずれファシズムにつながるものだからである。
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「雑談日記」およびその管理人・SOBAを批判し、「自民党TBP」からのパージを宣言した 「カナダde日本語」 は、一昨日(日本時間10日)、昨日(同11日)の2日間で、1万件を超えるアクセスを叩き出した。遅ればせながら SOBAを非難する記事 を公開した当ブログも、昨日は今年最多の3,498件のアクセスを記録した。読者の方々がいかにSOBAを忌み嫌っているかの証左だろう。
「美しい壺日記」 の管理人・やっしゃんさんからは、裏ブログ 「kojitakenの日記」 宛に、下記のようなお叱りをいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20080111/1199983298#c1200063677
dj19 2008/01/12 00:01
あのバーナーのせいで気分を害されていた一人です。
あんな人の作ったバーナーをよく貼れるなぁとずっと思っていました。
遅すぎじゃないですか決断するの(笑)
本音をいうと、私は「AbEnd」に加わる前からSOBAのバナーは大嫌いだったのだが、トラブルメーカーであるSOBAとの面倒ごとを恐れて、あの下品なバナーを貼っていたのだった。バナーを外すのが遅すぎたという批判に対しては、返す言葉もない(笑)。
いつまでもくだらない泡沫ブロガーの悪口ばかり書いていてもしょうがないのだが、現実の政治の状況は、新テロ特措法の衆院再議決による成立だとか、その際の小沢一郎らの棄権だとかの不愉快なニュースばかりなので(こういうニュースを聞くと、昨年民主党が小沢を代表の座から追い落とさなかったことは痛恨事だと思える)、ついつい現実逃避をしたくなってしまうというワケだ。
そんな不適切なブログから勝手に連帯を表明されたブログも良い迷惑だと想像するのだが、そういえば「リベラル・平和系」とカテゴライズされることが多いブログの中に、かの悪名高いストーカー系ネット右翼の「フテキセツなブログ」と相互リンクを張っているところがあった。これは、リベラル系のブログの管理人に対してストーカー行為を働いたりする悪質なブログなのだが、なぜそんなところと「人間力」が自慢のリベラル系ブログが相互リンクを張っているのだろうか?
とにかく、ひとことで「リベラル・平和系」のブログといっても、おかしなところだらけだ。日本の政治ブログが普遍性を持つようになるまでの道のりは長く遠い。
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さて、本題に移る。まずはみのもんたの話から入る。
みのもんたというと、安倍晋三や石原慎太郎をひたすら持ち上げたことで有名な電波芸者、いやテレビ司会者で、リベラルや左派系ブロガーの標的だった。当ブログでも、「くたばれ! みのもんた!!」 という記事を公開し、公開当時はかなりのアクセスを集めた記事だった。
そのみのが、最近、沖縄戦教科書記述問題で、沖縄県民の心情に理解を示し、検定を批判してネットウヨの標的になっているという。「Munchener Brucke」がこの件をとりあげている。
「みのもんたがネットウヨの攻撃に晒されている」
http://d.hatena.ne.jp/kechack/20071014
安倍晋三に心酔しているみのもんたが、一方で毎年8月15日を沖縄で過ごし、沖縄戦の集団自決に軍の関与はなかったとする「つくる会」の歴史修正主義に激怒するのは、確かに奇異な感じがするが、私も、みのがそのような主張をするのを見たことがある。この件だけ切り取ってみると、みのの主張は妥当だと思うが、これは、さんざんみのが持ち上げていた安倍晋三やその取り巻きの主張とは相容れないはずだ。
私は、安倍政権から福田政権に変わって、同時に世論の風向きも変わったので、風見鶏のみのがまた転向したのだろう、くらいに考えているが、保守が煽情的なものの言い方をするようになったという「Munchener Brucke」の指摘は当たっていると思う。
以前、当ブログは "反ポピュリズム宣言" (1月29日)という記事で、「小泉内閣の登場によって、従来はどちらかというと反政権側の属性であった「ポピュリズム」は、権力者が大衆の懐柔に用いる手段となった」と指摘した。自民党政権が顕著に大衆に迎合するようになったのは、コイズミ政権の時からだろう。
コイズミ政権のごく初期に、ハンセン病の国家賠償請求訴訟で国が敗訴した時、控訴を断念したことがあった。この時から私はコイズミの本質がポピュリストであると考えていたから、「コイズミならきっと控訴を断念する」と予想していたら、その通りになった。
この判断自体は妥当であり、批判されるべきものではないが、これは、いかにもコイズミが「国民の側に立つ政治家」であるかのような錯覚を与えるのに非常に効果的だった。そんなコイズミが実際に行ったのは、弱肉強食の冷酷な新自由主義経済政策だった。「痛みに耐えて」土俵に上がって優勝し、コイズミに「感動」してもらった代償に、貴乃花が土俵生命を失っても、コイズミ政権が何の補償もしないのは当然のことだ。国民が痛みに耐えた結果、でき上がったのはとんでもない「格差社会」だった。コイズミは、一つの善行と引きかえに、際限のないほど多くの悪行を行ったのだ。
おっと、また話がそれそうになった。今日のテーマは「新自由主義批判」ではなく「ポピュリズム批判」だ。自民党の政治家たちがポピュリズムに走るようになってから、彼らの言動がずいぶん下品になった。その最たるものが、「郵政選挙」における「刺客作戦」であり、あれは大衆の劣情を刺激するもの以外のなにものでもなかったと思う。
最近、テレビの政治番組で自民党の中谷元・元防衛庁長官が「給油に反対するのはテロリストくらいのもの」と発言したが、これは「郵政民営化法案に反対する者は抵抗勢力」というのと同じ、決めつけの論法だ。前首相・安倍晋三は、週刊誌に「媚朝外交」を批判されると、「くれぐれも 北の走狗などと揶揄されぬように」などと反論した(2006年11月7日付エントリ "安倍晋三が講談社に「取材拒否」")。塩崎前内閣官房長官は、参院選の選挙戦終盤に、「自民党が敗北すると改革が止まり、それで一番喜ぶのは民主党、二番目は北朝鮮だ」と発言した。
すべてがこの調子である。国民を馬鹿にし切っている。彼らの論法の特徴は、下記の三つだ。
まず、ありもしない幻想を振りまく。「郵政民営化さえ実現すれば、カイカクがどんどん進んで、いい世の中になる」といわんばかりのコイズミのスローガン「カイカクを止めるな」がその例だ。
次に、仮想敵を作る。それは、北朝鮮だったり朝日新聞だったり民主党・社民党だったり「抵抗勢力」だったりする。そして、被害者を装う。安倍晋三は、NHKや朝日新聞の捏造報道の被害者であるかのように訴えたが、実際には安倍の方が嘘をついていたことを魚住昭さんが示した(昨年11月12日付エントリ "安倍晋三は「平気で嘘をつくウルウルタイプ" 参照)。
最後にやるのが反対勢力に対する「排除の論理」だ。ただ、これはコイズミが「抵抗勢力」を攻撃した頃には効果があったが、民主党を北朝鮮やテロリストの味方呼ばわりしても、自民党の下品さだけがクローズアップされて逆効果なのではないかと思う。国民はそこまで馬鹿ではないはずだ。
ただ、給油継続の問題については、右派メディアを味方につけての自民党の世論操作が功を奏したかに見え、いまや世論も給油賛成派の方が反対派を上回っている。
こういう時こそ、自民党のよこしまな意図や、その論理のイカサマ性を突くブログの主張が求められるのだ。この状況にあって、どうして、「小沢主義」支持をかつて明言したブログが、スローガンの連呼や過去のブログ間トラブルを今ごろ公表する記事ばかりを書いていられるのだろうか。「広島瀬戸内新聞ニュース」などには、ともに憲法違反の疑いがあるとして一緒くたにされがちな、自民党の主張する「給油継続」と小沢一郎の主張する「自衛隊のISAF参加」の質的な違いを指摘した当ブログの記事を何度も紹介していただいているが、残念ながらブログ界においてはそれは少数派だ。なぜ小沢の意見に必ずしも賛成でない当ブログが小沢の立場を説明しなければならないのかと思ってしまう。
実は、よく見られる教条的な左翼の言論とは違って、日本共産党はもっと現実的な戦略を持っているように思われるのだが、それについては明日か明後日以降の記事で述べたいと思う。現時点では、まだ当ブログは準備不足である。
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いったいなぜだろうと考えているうちに、あ、そうか、「郵政解散」がこの時期だったからだと思い当たった。
一昨年の今日、8月8日に、郵政民営化法案が参議院で否決されるや、小泉純一郎首相(当時)は衆議院を解散した。この時、私は「これは 『自爆テロ解散』 だな」と思った。その直前、もし衆議院で法案が否決されたらコイズミは即座に解散するつもりだった、可決されたのでコイズミは残念そうにしていた、という報道を週刊誌で読み、まさかそんな敗北必至のことをやるかなあ、などと思っていた。しかし、参議院での法案否決で衆議院を解散するという意味不明の行動をコイズミはとった。
この時、亀井静香、野田聖子ら自民党内の法案反対派(コイズミに言わせれば「抵抗勢力」)は沸き立ち、民主党の岡田代表はガッツポーズをとった。彼らも勝利を確信したのだろう。
しかし、コイズミはこの解散・総選挙に命を懸けていた。特に秘策中の秘策が「刺客作戦」だった。まさか自民党を追われるとまで思わなかった亀井、野田や平沼赳夫はあわてふためいた。今でも覚えているが、政治番組に出演した亀井や平沼は、自民党に未練たっぷりの態度で、コイズミとの全面対決に腰が引けていた。野田聖子の選挙区である岐阜一区への刺客候補の決定は、他の「抵抗勢力」たちの選挙区より遅れ、野田は愚かにも「私にだけは刺客を送り込まないのではないか」と期待していたようだ。だが結果は、佐藤ゆかりという、もっとも話題性の大きな刺客を送り込まれ、野田は狂態を演じた。一連の経緯は、野田の政治家としてのイメージを大きく落とし、これはいまだに回復できていない。
これらは逐一テレビで報じられ、視聴者に強烈な印象を与えた。それはまるで桃太郎の鬼退治を思わせるもので、「コイズミ=善玉、抵抗勢力=悪玉」という図式ができあがった。自民党内の争いに衆目が集まった結果、民主党などの野党は関心の埒外となった。こうして、解散後わずかの間に選挙の帰趨は決まってしまった。インターネットの掲示板でもコイズミ支持は圧倒的で、いかにこちらが「B層」の資料(雑誌記事 や 広告代理店作成の証拠文書)を示して、コイズミ?竹中一派が大衆を蔑視していると主張しても、「私たちコイズミ支持者は馬鹿だというのか」式の感情的な反発を食うだけに終わったことは、5日のエントリ 「ポピュリズムを打破するには」 でも触れた。コイズミの作戦は、みごと図に当たった。
この「郵政総選挙」でコイズミを支持したのは、「コイズミカイカク」によってもっとも不利益を蒙る層だったことは、当時から指摘されていた。これをわかりやすく解説した例として、佐藤優が魚住昭を相手に語った『ナショナリズムという迷宮』(朝日新聞社、2006年)が挙げられる。
![]() | ナショナリズムという迷宮―ラスプーチンかく語りき 佐藤 優、魚住 昭 他 (2006/12) 朝日新聞社 この商品の詳細を見る |
この本については、当ブログの1月13日付エントリで紹介しているが、郵政総選挙に関連する部分を以下に再録する。
『ブリュメール十八日』でマルクスはこう指摘しています。要約すると、ナポレオンはかつて自分たち農民に利益をもたらしてくれた。そこにルイ・ボナパルトというナポレオンの甥と称する男が現れた。彼も叔父と同じように、再び自分たち農民に何か"おいしいもの"をもたらしてくれるのではないかという「伝説」が生まれた。その結果、選挙でルイ・ボナパルトに投票し、権力を与えてしまったと。今回の選挙におけるニートやフリーターの投票行動にも、それと同じような回路が働いたのではないでしょうか。「改革を止めるな」というシングルメッセージを発し続けた小泉首相に何かを見てしまったんでしょうね。
(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』=朝日新聞社、2006年=第5章より)
ここで指摘されている独裁権力による統治の手法を「ボナパルティズム」と呼ぶのだそうだ。
この件を考察する時どうしても避けられないと私が考えているのが、例の 「B層」 論である。私は、「B層」についての議論はもっと真面目になされなければならないと思っている。しかし、「B層」を検索語にしてGoogle検索をかけた時に出てくるのは、オナジミのブログばかりで(弊ブログも2ページ目=11?20番目=に出てきます)、「B層」に関する議論が一種忌避されたような様相を呈していることがうかがわれる。
その中でもっとも最近、「B層」をとりあげたのが、「たんぽぽのなみだ?運営日誌」の記事だが、ここのコメント欄でたんぽぽさんが以下のように書いている。
ついでながら、このエントリ、いつになくアクセス多かったですよ。
みなさん、とっても興味がおありなのねと、あらためて思ったけれど。
「B層」についての議論を、あまり見かけないのは、
良心的な人には、愚民思想的なので使いにくく、
批判の手が鈍るというのも、あるのかもしれないです。
(「2ちゃんねる」のような、遠慮のないところで
さかんに使われるのも、やはり差別的ニュアンスだからでしょう...)
コイズミ改革の信者でしたら、コイズミ批判になることですから、
やはり言わないでしょうし...
この「大衆操作」(と言えば、愚民思想的でない?)は、
本当なら、避けて通ってはならないことなんだと思いますが。
たとえば、ナチスがなにをしでかしたとか調べれば、
それなりの研究成果は、出てくるだろうとは思うけれど...
郵政選挙にからめて、議論する人がいないのは、
かなり困ったことで、異様なことでもあると思います。
(「たんぽぽのなみだ?運営日誌」?『「B層」とは?』 のコメント欄より)
私もたんぽぽさんの意見に賛成である。
さて、「郵政解散」から2年が経過し、両極端の結果になった二度の国政選挙を経て、自民党の両院総会では中谷元、小坂憲次、石破茂各議員が、安倍晋三首相の面前で、安倍の退陣を求めた。「桃太郎の鬼退治」は、攻守ところを変えて、「姫の虎退治」となって、桃太郎伝説の地・岡山で虎(片山虎之助)は姫(姫井由美子)に討ち取られた。
そして、国民新党、民主党、社民党の三党が「郵政民営化見直し法案」の共同提出を検討していると報じられている。
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070807AT3S0602206082007.html
民主・社民・国民新、郵政民営化見直し法案の共同提出検討
民主、社民、国民新の野党三党幹事長が6日、都内で会談し、秋の臨時国会で「郵政民営化見直し法案」と最低賃金引き上げに関する法案の3党での共同提出を検討することで一致した。近く3党の政策責任者による会議を開いて協議し、詳細を詰めることも確認した。
郵政民営化見直し法案は郵政三事業の一体経営を堅持する内容で、国民新党が提出を検討していた。3党は最低賃金について参院選の政権公約で引き上げを主張していた。
民主党の鳩山由紀夫幹事長は会談後、記者団に「3党で協力できる部分を法案として(提出し)、国民の期待に応える」と強調。社民党の又市征治幹事長も「互いによいものを出し合って、共同で法案を作ることがあってもよい」と述べた。
(NIKKEI NET 2007年8月7日 7時02分)
今朝(8月8日)のNHKニュースが報じるところによると、民主党内にはこの「見直し法案」への異論も強いという。民主党内にはコイズミ以上に過激な新自由主義者がいる、とはよく指摘されるところだから、驚くには当たるまい。参院選前に、民主党候補者の憲法問題に対するスタンスが問われたが、民主党議員の経済政策のスタンスも同様に問われるべきだろう。もちろん、自民党議員についても同じだ。
現在は、民主党も自民党も種々雑多な主張を持つ議員の寄せ集めになっている。これは、近い将来、政策の近い者同士が集まった政党に再編成されるべきだと思う。
これも佐藤優の指摘だが、政界は、新自由主義勢力、旧来保守勢力、社会民主主義勢力に三分されるべきだと佐藤は主張している。そして、佐藤は旧来保守と社民勢力の連立政権を期待いているのだが、私もそれに同感である。かつて新自由主義の旗手だった小沢一郎も、いまやそれを目指しているように見える。
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ナベツネは、1979年に読売新聞の論説委員長に就任するや、読売新聞の論調を大きく右に傾けた。彼はまず、裁判所の違憲立法審査権を否定し、統治行為論を認める方向に社論を転換した。それまでの読売の社論は、違憲立法審査権を重視する、朝日などに近いものだったが、急激に舵を右に切ったのである。この時ナベツネは、従来の社論に基づく左派的な社説を書こうとした論説委員を左遷したといわれている。
ナベツネは、反戦・平和を主張し、弱者の立場に立つ紙面作りをしていた読売新聞大阪本社の社会部、通称「黒田軍団」を壊滅させた。現在テレビなどで活躍している大谷昭宏氏は、黒田軍団のエース記者だった。
以前にも書いたことがあるが、かつての大阪読売の紙面は、東京本社発行の紙面とは全然違う個性的なものだった。朝日や毎日が東京と大阪で似たような紙面であるのと、鋭い対象をなしていた。しかし、今の大阪読売は、東京版と何ら変わらない味気ない紙面になっている。これは、ナベツネのしわざだった。
読売新聞は、1984年元旦の社説で、右派路線を声高らかに宣言し、その10年後の1994年11月3日には、「改憲試案」を公表した。改憲を是とする意見が国民の間に浸透したことに対する読売新聞の寄与、ナベツネの寄与は、極めて大きい。
そんなナベツネが、私は昔から大嫌いだった。私はかつては熱心なプロ野球ファンだったが、とにかく巨人が大嫌いで、巨人が勝つたびに怒り狂っていたものだ(笑)。巨人が嫌いだからナベツネが嫌いになったのか、ナベツネが嫌いだから巨人が嫌いになったのかはよくわからないが、かつて私は掲示板で巨人ファンと大喧嘩することもしばしばで、よく「こんな馬鹿は逝ってよし」などと書かれて憎まれたものだ。
しかし、その反面、ナベツネというのは実に魅力ある男だ。私は、しばしばナベツネを批判するために彼の書いた本を買って読む。敵の主張を知った上でそれを批判したい。ナベツネというのは、そういう気を起こさせる男である。
対照的なのが安倍晋三の書いた「美しい国へ」であって、私はこれを本屋でパラパラとめくってみて、こんな本は批判の対象としても読むに値しないと判断した。
また、石原慎太郎もナベツネよりはるかに安倍晋三に近い。私は、石原の小説など最初から読む気にもならないばかりか、かつて読んだ2冊の石原の評伝である、佐野眞一「てっぺん野郎」(講談社、2003年)と斎藤貴男「空虚な小皇帝」(岩波書店、2003年)を読んで、石原というのはひでぇ野郎だな、と思ったのだが、今これらの本の内容を思い出そうとしても、ろくすっぽ覚えていない。派手なパフォーマンスとは裏腹に、石原というのはびっくりするくらい印象の薄い、というかあとに何も残らない男なのだ。だからこそ斎藤貴男が「空虚な」と評したのかもしれない。
ナベツネはそうではない。全身全霊で批判したい気持ちになるのである。ある意味、「筋の通った敵」といえるかもしれない。「筋の通らない味方は、筋の通った敵よりずっとたちが悪い」と言ったのは、確か右派の論客である谷沢永一だ。私はこの言葉に深く共感するものである。
そのナベツネの著書に、「ポピュリズム批判」(博文館新社、1999年)という本がある。この本については、昨年7月19日の記事『ナベツネと靖国と安倍晋三と(その2)』で紹介したことがあるが、ほぼ全編がナベツネのクセの強い右派的な主張で埋め尽くされている中、新自由主義と靖国神社についてだけは、ナベツネは強烈な批判を行っている。
私の主張とも一致するその部分については、以前書いたので改めて書くことはしない。今回書きたいのは、ナベツネがタイトルに用いている「ポピュリズム批判」についてである。
ナベツネは、この本の中で、政権批判側の言論を、ポピュリズム(大衆迎合主義)であると厳しく批判している。
ナベツネは、自分の主張に反対する者には、あたり構わず「ポピュリスト」とのレッテルを貼る傾向があり、私はこれに対して強く反発していた。しかし、当時の野党や反政権ジャーナリズムにポピュリズムがなかったかというと、そうはいえないだろう。
だが、この本が出版された2年後、情勢は一変した。
小泉純一郎が政権を握り、そのパフォーマンスが大衆の心をつかんだのだ。大相撲で怪我を押して出場して優勝を遂げた横綱貴乃花に支配を手渡す時、「痛みに耐えて、よく頑張った! 感動した!」とコイズミが叫んだ時、大衆の陶酔は絶頂に達したが、まさにその瞬間、私はコイズミのパフォーマンスの嘘くささを直感し、反コイズミを強く意識したのだった。小泉内閣の登場によって、従来はどちらかというと反政権側の属性であった「ポピュリズム」は、権力者が大衆の懐柔に用いる手段となったのだった。
しかし、こんなことを感じた私のようなへそ曲がりはあくまで例外で、国民の多数はコイズミのパフォーマンスに酔い、高支持率を与え、しまいには郵政総選挙での圧勝まで与えてしまった。コイズミというポピュリストに全権を委ねてしまったのだ。
特に05年の総選挙における「刺客」の効果は絶大だった。選挙を残酷な見世物にし、大衆に血の味を覚えさせた。
権力者は、政治を単純化し、細部を切り落とし、見かけ上「分かりやすい」ものにしてしまった。テレビは、政治ショーが視聴者にとってとても面白く、興味を惹くものであることを知って、ますます政治をショー化していった。
それでも大衆の要求はとどまるところを知らず、もっと刺激が強く、もっとわかりやすいものを求めるようになっている。
安倍晋三は、コイズミほどポピュリストの才能はない。われわれ「AbEnd」を標榜するブロガーも、いずれはコイズミ流のポピュリズムに再び対峙しなければならないのではないかと、私は予想している。
だが、当ブログで繰り返し私が主張するように、世界は本来複雑なものなのだ。
1月9日のエントリで書いたのと同様のことを、もう一度繰り返したい。
ポピュリズムは単純化のプロセスだ。それは、差異を切り捨てようとすることだ。人の心は弱いので、強くて大きなものに自己を同一化させたいという強い欲求が働く。ポピュリズムは、そこにつけこんでくる。だが、異質なものの混合物に対して、一元的な理解をしていてはいけないのである。わからなければわからないで良い。人間一人一人は個性を持っており、みんな違っているからこそ良いのだ。みんなが一緒の方がずっと怖い。排除してしまったら終わりで、そこで思考は止まる。それは、全体主義への道にほかならない。
当ブログは、ここに「反ポピュリズム宣言」をしたいと思う。
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