きまぐれな日々

12月7日付の記事「御用学者にだまされるな」は、「きまぐれな日々」としても珍しく、私が思っていることをストレートに表現した会心の記事で、多くのトラックバックとコメントをいただいた。また、美爾依さんの「カナダde日本語」からリンクを張っていただいた(美爾依さんからは、うれしいおほめのコメントもいただいている)。ここに皆さまにお礼を申し上げる。

今回は、この記事に寄せられたコメントからいくつか紹介したいと思う。

まず、ブログ「とむ丸の夢」の管理人・とむ丸さんのコメントから。

権力エリートの仲間意識は、地方は地方でそれなりにあるんです。私たちがそれをうかがい知るのは、これ見よがしに仲間内でしか分からない話題と言葉で目配せしながら話をしているとき。ただし、御用学者はいないか、いても大したことありません。
で、上には上がいて、彼等は中央の権力エリートの末端として機能するのを自ら望んで、そのように動きます。
この地方の権力指向者に対して中央のエリートは、またそれなりに見返りを与えています。
なんだか封建制の「後恩と奉公」で成り立つヒエラルキーが存在しているんですよね。
(とむ丸さんのコメント)

中央と地方のエリートが形作る階層構造についての興味深いコメントだと思う。
とむ丸さんのコメントを受けて、朝空さんがさらに詳しく論じておられるので、以下に紹介する。

歴史的にこの国の「社会・人文科学」の系統は、師匠を戴き引き上げてもらう構造にあったように思う。戦後、その種の意識構造に反逆した無頼派という小説家の一団があったが、彼ら自身そう名乗ったかはともかく、確かに「頼らず」という意味の無頼の要素を持ち合わせていたと感じている。「戦後の一時期に、大衆に支持されて表舞台に現れた最も民主的な文学」。そう彼らを呼んだ評者がいたが、無頼の意味と合わせて適切な批評だったように思う。
 敗戦2年後、彼らは対談の中で「日本の文学は村長を必要としてきた」という意味のことを言っている。また「誰かがなりたがるというより、周りが祀り上げてそうなる」とも言っている。構造的にもそうなのだが、一人ひとりの心性に、その種の意識が染み付いていると言っているのだ。
 「とむ丸」さんが「中央」「地方」の意識構造に触れているように、「中央」にも「地方」にも、この種の意識が互いを相似形として、変わらず存在している。そしてそれぞれの間や各々の内側には、指摘された通りの頑ななヒエラルキーが存在する。それは言わば、一人ひとりの思い込み(後天的な刷り込み)が生み出すヒエラルキーと言っていいように思う。私も一地方の人間だが、私が関わってきた多くの者達は、「持ち上げとけ。こっちは元が取れればいいさ」―。その種の“庶民のプラグマティズム”ではなく、どこか本気で思い込み持ち上げる、そしてひれ伏す自分自身を不当に持ち下げると感じてしまうことが多い。「あんたもやりゃあできるぜ」。そう言われてもキョトンとするのみならず、なぜか憎悪をこちらに向けることすらあるのだ。
 私の地方では数ヶ月前、役人も議会も地元マスコミも敵に回したあげく、とうとう落選した「自律派」知事がいた。「お前ら自分の足で立て」。それは中央―地方の関係だけでなく、地方内部の「秩序」をも破壊するものだった。持ち上げられなければ居たたまれない田舎名士の議員達。「上」の指示がなければ「個人」としても混乱する役人。そして悪質なのはマスコミだ。口では民主を唱導する。だが記者クラブなんか要らない、君達を持ち上げる必要はない―。このような実践者が現れれば、感情(体質)のレベルで反感を抱き、追い落としに加担する。
 そして悲しいのは、支持した者達の多くも、自分の自力を信じられず、「中央からの落下傘」にしかすがれなかったという点だ。この知事の周りからは「地方のインテリ」が次々と離れていったことがあるが、「自律」への意識のずれが大きく働いていたのだろうと思っている。知事なる人物のやり方も、拙劣だったのだろうが。
 意識を、心性を変えるというのは、世代単位の事業のように思う。それは絶望としての意味ではなく、その位腹を据えてかからないと、という意味においてなのだ。
(朝空さんのコメント)

続いては、ブログ「平和のために小さな声を集めよう」の管理人・眠り猫さんのコメントを紹介する。

 経済学と国際政治学には、基本的な拠り所となる「定理」や「真理」と言う物が元々存在しません。また、同じ社会科学とされる法学のように、人間が定めたものとはいえ、よって立つ原則も存在しません。
 結果的に、この2つの学問では、「どうとでもいえる」と言うのが実情です。経済学も国策による経済刺激、企業優遇による経済指標の上昇、それとは逆に消費者の立場に立った経済政策など、どのようにでも立場が取れるのです。
 ですから、御用学者には、経済学者が多いです。次いで死んだ高坂正堯(民主党前原の師匠)や、舛添のような国際政治学者です。
 今安倍政権では、「有識者会議」と言う名の、御用学者、評論家を集めての政策提言をするという会議が乱造されています。
 これは中曽根政権当時にも「首相の私的諮問機関」といわれて、悪用されたのと同じで、国会の委員会などでの議論を経ずに、「◎◎会議の答申だから」と言って権威付けに利用した上で、国会を通してしまうという、議会性民主主義を無視した、ファッショ的手法です。
 皆さんご指摘の通り、これらには重複した名前がいくつも並び、御用学者たちのクラブになっています。
 残念ながら私の大学時代の恩師の一人もその仲間入りしています。名誉欲というのには勝てない人もいるようです。
 あと、慶應は御用学者多いですね。と言うか、御用学者を教授に迎えるといったほうが近いかもです。
 「曲学阿世」とはこのことです。
(眠り猫さんのコメント)

コメントの文末にある「曲学阿世」(きょくがくあせい、「学を曲げ世に阿る(おもねる)」の意)という四文字熟語は、私が記事に書いた時に頭にあった言葉だ。慶応大学に御用学者が多いという指摘は、どーもさんからもいただいた。

次は、ブログ「Dendrodium」の管理人・Dendrodiumさんからのコメントを紹介する。

ご意見いちいち同感でした
又アメリカ人の代わりに死ぬ日本人募集中の表示に特に同感しました。
それとも知らず憲法9条を変えて独立国にと言っている青年たちが哀れでなりません。
古来悪事は常に正義の仮面をかぶってやってきています。そして気がついた時にはもう手遅れになっていると言う寸法なのです。
(Dendrodiumさんのコメント)

たいへんありがたいコメントだが、「アメリカ人の代わりに死ぬ日本人募集中の表示」とは、「雑談日記」の管理人・SOBAさんと「とりあえずガスパーチョ」の管理人・ガスパーチョさんの合作によるバナーのことなので、お二人にも感謝の意を表明したい。

続いては、ブログ「billabong」の管理人・あずーるさんのコメントを紹介する。

はじめまして♪AbEndフォーラムに参加し、安倍晋三TBに参加しています。
御用学者の件、日本経済新聞でも以前かかれていました。小泉政権で有識者会議がひらかれるようになったけれど、政府よりばかりの人で官僚は改革をやる気がないから、有識者会議をしましたというお墨付きがほしいだけだと。最近のタウンミーティングといっしょですね。
また「日本マスコミ『臆病』の構造」で (単行本) ベンジャミン フルフォードが知りながら報道しないという政府と大手マスメディアの仲良しクラブの罪が書かれています。
だから正当なことでも、政府に批判的なことを言う学者は影響力の強いメディアによばれないんでしょうね。植草さんがはめられたような気がしてなりません。紺屋さんも出てこないし・・・

参考:植草氏の応援ブログ
http://yuutama.exblog.jp/
(あずーるさんのコメント)

確かに、植草一秀さんははめられた疑いが濃厚だと私も思う。植草さんに限らず、政府に批判的な学者たちがマスメディアから干されていることは、私も常々感じていることだ。

最後に、この記事を書いている最中にいただいた、ブログ「津久井進の弁護士ノート」の管理人・つくいさん(弁護士・津久井進さん)のコメントを紹介する。

一方で,良心的な学者もたくさんいるので,勇気付けられます。
こういう良心的学者へのエールも大切にしたいですね。
(つくいさんのコメント)

これはまことにありがたいアドバイスだ。
確かに、マスメディアに登場して害毒を垂れ流している御用学者たちがはびこっている一方で、良心的な仕事をされている学者たちが大勢おられることも忘れてはならないだろう。こういう真面目な学者たちは、マスメディアには等閑視されるという言論状況なので、気がついたら当ブログでも積極的に取り上げていきたいと思う。

なお、ここに取り上げ切れなかったコメントも、いずれ劣らぬ内容のあるものばかりで、本当は全部紹介したかったのだが、内容の重複や当記事における流れ等を考慮して、上記の6件を選ばせていただいたことをお断りしておきたい。
スポンサーサイト
唐突な物言いだが、私はもともと理系の人間であって、人文科学や社会科学の分野に対して、抜きがたい偏見を持っている。
つまり、これらの分野が「科学」と名乗るのは僭称ではないかということだ。客観的に検証することなどできっこないこれらの分野が果たして「科学」であり得るのか、はなはだ疑問だと、私は考えている。

特に経済学に対して、この偏見を強く持っている。昔、「進歩的文化人」とやらが、「科学的社会主義」などと称していたものが、実は「カルト」と同義語だったというのは、もはや定説といっても差し支えないだろう。その反動か、現在、いわゆる「新自由主義」なるものが猖獗(しょうけつ)をきわめているが、これも「科学的社会主義」同様、カルト以外のなにものでもないと、私は考えている。

「コイズミ改革」なるものが拠って立つところのものが、この「新自由主義」なるカルトである。
たとえば、山本一太や佐藤ゆかりなどに代表される馬鹿者どもが「改革」を連呼している映像がテレビに映ると同時に、私はチャンネルを切り替えることにしている。あのような低劣な人間どもの映像を見ることは、人生の貴重な時間の無駄づかい以外のなにものでもない。

さて、だいぶ前のことになるが、弊ブログのコメント欄で、田島正樹さんのブログ「ララビアータ 田島正樹の哲学的断想」を紹介していただいたことがある。その中に、実に印象的な記事があったので、ここに紹介する。

 権力エリートたちが、一般にアクセスできない情報に、合法・非合法ぎりぎりの所で、たやすくアクセスでき(たとえば、ヒルズの私的パーティとか、軽井沢のお隣づきあいとか、東大の同窓会とか…)、それによって巨額の利益を得る事が出来るという事実が、それを小難しい議論で擁護しようとする論客の議論と密かに持つリンクを、暴きださねばならない。つまり、これらの論客が「日本型エリート秘密クラブ」へ喜んで招き入れられる見返りとして、この秘密クラブのメンバーを擁護するために、いざとなればその専門的知識を駆使するという黙契を結んでいることこそが、彼らの小ざかしい議論の背景にあることを、暴露せねばならないのである。
 我が国のエリートたちは、政界も財界も学会もプレスも、八ヶ岳のように並び立ち互いに競争する仕組みにはなっておらず、中心的エリートになればなるほど仲間意識で強く結ばれ、互いにかばいあう、多重の入子型の秘密クラブ的構造になっているのである。つまり、そこではメンバー全員がインサイダーなのであり、彼ら同志の日常生活そのものに、合法性を装ったインサイダー取引が組み込まれているのである。したがって、その中でより中心部にいる人間同士は、特に取引したりすることなく互いに情報をやり取りしたり、便宜供与し合う事が出来るのに、外部の人間からは、彼らが交し合う目配せがわからないように出来ている。
 そんなところで、あたかも理論的に厳密さを装った「論客」の屁理屈に付き合って反論しているだけでは、常に後れを取ることになるだろう。彼らは、法律家とか経済学者といった麗々しい肩書きで、レイマンを威圧するだけが取り得の小難しい議論を展開するが、結論はそんな議論によって与えられるのではなく、それ以前に彼らの「エリート秘密クラブ」からの暗黙の要請で、初めから決まっているからである。
 そんな時、ぐるになったこうした連中の実存形式から、彼らの言説の卑しい動機を暴露する事が出来れば、衒学的な議論の細部に幻惑されることなく、人々は己れ自身の不正感覚に基づいて「敵」を討つ事が出来るだろう。インサイダーに対しては、その靴でも舐めかねないほど卑屈なのに、外部のレイマンに対してはジャーゴンを居丈高に振りかざすこれらの立身出世主義者たちが、秘密クラブの「名誉」会員権を求めて、ヒルのように擦り寄る様を描き出すことによって、我々は、彼らに恥をかかせてやらねばならないのだ。

「左翼の言語戦略(1)」?「ララビアータ 田島正樹の哲学的断想」より

実に痛快な指摘だ。これを読んで、胸のつかえが取れた気がした。もっとも、恥ずかしながら「レイマン」と「ジャーゴン」という言葉を、私は知らなかった。調べてみたところ、「レイマン」(layman)は「素人、門外漢」の意で、「ジャーゴン」(jargon)は「普通の人にはわからない専門用語」の意らしい。技術系の人間が言う「テクニカル・ターム」(technical term)などとは違って、「ジャーゴン」という語には否定的なニュアンスが込められているようだ。

安倍晋三は、この文章に描かれている連中に担がれている御輿にすぎない。なぜ安倍晋三なのか。それは、かつて小沢一郎が海部俊樹を指していみじくも言った通り、「担ぐ御輿は軽くてパーが良い」からだ。御輿に乗る人間は、馬鹿である方が好ましいのだ。

ここで、安倍晋三と対極に位置する男の話題に切り替える。

森永卓郎という男がいる。経済アナリストを自称しているが、結構いい加減なことを言ったり書いたりしているので、テレビで「識者」たちの集中砲火を浴びることも少なくない。実際、森永の主張にはデタラメが多い。しかし、不思議と肝心かなめのところは押さえている男だ。

私は、2000年に出版された森永の著書「リストラと能力主義」(講談社現代新書)をきわめて高く買うものである。これは、現代の大企業ではびこる「成果主義」の問題点を、早い時期に鋭く突いた本だ。入口(職種種や勤務地についての従業員の希望)を制限しておきながら、出口(成果)を問うという、日本の多くの企業における人事システムの理不尽さを、鋭く告発した書である。

斎藤貴男によるこの本の書評が、上記アマゾンのサイトに張ったリンクから参照できるので、興味のおありの方はご参照いただきたいが、斎藤も指摘しているように、『まるでスターリン体制下の旧ソ連のように、思想統制も含めた恐怖政治が企業社会に罷り通る。「ただ目立たず、はしゃがず、決してボロを出さない、そしてひたすら会社にしがみついていくだけのサラリーマンが急増している」』(斎藤貴男による森永卓郎「リストラと能力主義」書評、「日経ビジネス」2000年4月17日号初出)と、私も思う。そして、それは何も企業に限らず、わが国における言論状況全体にも同じことが言えると思うのだ。
「物言えば唇寒しだねえ」と、自民党の島村宜伸がテレビで無責任に放言していたが、いとも簡単に信念を曲げて自民党にしがみついたこの男なども、典型的な悪例の一人だと私は思う。

話を森永卓郎に戻そう。「森永卓郎 - Wikipedia」には、次のような記述がある。

2004年から、2005年にかけて、テレビ朝日で放映されている朝まで生テレビや、サンデープロジェクトで、「日本の課税最低限は先進国中最悪レベル」と発言した。この発言に対して、司会の田原総一朗はじめ、ほぼ全員の出演者から「日本は課税最低限が高い」といった非難を浴びた。田原は番組の度に森永を批判していたが、2005年11月放送の朝まで生テレビにおいて、「(財務省のホームページや、各種資料を見たところ)森永さんの発言は正確です」と説明している。

この記述を読むと、田原は森永を馬鹿にし続けていたが、2005年11月に、自らの誤りを認めたことがわかる。つまり、小泉自民党が総選挙で大勝したあとに、間違ったことを言って森永さんを批判してゴメンナサイ、と言ったワケだ。なんとも見下げ果てたデマゴーグと評するほかはない。

もっともらしい理屈で人々を煙に巻く経済学者たちのやっていることも、本質的に田原総一朗と変わるところはないと、私は考えている。彼らが用いているのは、人々を騙すための詭弁に過ぎず、到底学問という名になど値しない。

もちろん、中にはまっとうなアプローチで経済学を研究している学者もいるだろう。だが、竹中平蔵に代表されるような、政治と深く結びついた「学者」たちがやっていることは、断じて「学問」や「科学」などの名を冠するにふさわしいものではないと、私は確信している。

彼らは、単なる詐欺師である。御用学者にだまされてはいけない。


↓ランキング参戦中です。クリックお願いします。
FC2ブログランキング