きまぐれな日々

 2013年に安倍晋三が憲法96条改正を目指した頃、そして今年成立を許してしまった安保法制をめぐる議論において、キーワードを挙げよと言われたら、「立憲主義」と答える。

 高校の政治経済の授業では習った記憶のない「立憲主義」は、ブログで政治に関する記事を書くようになってから知った。最近は高校のほか、中学の公民の授業でも教えるらしい。今年7月4日のアメリカ独立記念日に江川紹子がリリースした記事「『立憲主義』ってなあに?」から引用する。

 学校の教室でも、最近は「立憲主義」が教えられるようになった。高校や中学の社会科公民で使われる教科書の多くが、2012年3月検定に合格し、昨年に使われ始めた最新版から、「立憲主義」を取り上げている。

 たとえば、高校の「現代社会」でもっともシェアが高い東京書籍の教科書。最新版では、「個人の尊重と法の支配」というタイトルの章を新たに設け、そこで「立憲主義」について、次のように説明している。

 〈「法の支配」と密接に関連するものとして立憲主義という考え方がある。立憲主義とは、政治はあらかじめ定められた憲法の枠のなかで行わなければならないというものである。さまざまな法のなかでも憲法は、ほかの法がつくられる際の原則や手続きなどを定める点で、法のなかの法という性格をもつ(最高法規性)。国家権力は憲法によって権限をさずけられ、国家権力の行使は憲法により制限される。憲法は、個人の尊重が目的とされ、人間らしい生活を保障するものであり、政治権力がそうした目的に違反することは、憲法によって禁止される。そして、国民の権利が国家によって侵害された場合には、司法などによって法的な救済がなされることになる〉


(江川紹子「『立憲主義』ってなあに?」より〜2015年7月4日「Yahoo!ニュース」掲載)


 悪名高い自民党の第2次改憲草案(2012年)では、現行日本国憲法憲法の第13条

 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

を、

 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

と書き換えている。

 ネット検索でみつけたサイトを参照すると、中学の公民の教科書(日本文教出版)には、

 「憲法は私たちの人権を守るために政治権力を制限するしくみを定めたものです。まず、憲法は、人がその人らしく生きていく(個人の尊重)ために必要な自由を人権として明記しています。」

 「日本国憲法は、アメリカ独立宣言などと同様に、人が生まれながらにもつ自由や平等の権利を基本的人権として保障しています。その根本には、「個人の尊重」の考え方があります。」

 「私たちが個人として尊重されるには、国家などから不当な干渉や妨害を受けずに生活できなければなりません。」
 「政治権力が1カ所に集中して人々の自由を踏みにじることがないように」

と書かれており、「個人の尊重」と「人の尊重」の違いについて、下記のように解説されている。

(3)「個人として尊重される」と「人として尊重される」の違い

 さて、教科書の記述にもどってみると、「人が人らしく」ではなく、「人がその人らしく」と表現されています。また、日本国憲法の根本には「個人の尊重」があるとされています。
 「個人として尊重される」と「人として尊重される」はどう違うのでしょうか。

 人はみんな平等。同じ人間。だから差別はだめ。はだの色が違っても生まれたところが違っても、白人も黒人も同じ人間、だから平等だ。
 これが一番目の意味で、とても大事なことです。
 しかし日本国憲法で述べられている「個人の尊重」というのは、さらに進んだもう一つの意味をもっています。それは同じ人間というだけでなく、「個人はみんな違う。ひとりひとり個性があって違う。だから差別はだめ。違いを認め合う。違いを認めた上で、互いを大切にして共生していく」という考えです。

 それは、一人一人をかけがえのない個人として大切にしようとする考え方であり、すべての人は、例外なく一人の人格をもった存在として国家から尊重されなければならないということです。
 「個人の尊重」は、自分が大切にされたいのと同じように、他者を大切にするという意味をはじめから含んでいます。

○憲法13条の英文をみてみましょう。
article 13.
 All of the people shall be respected as individuals. their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.

 personが「人一般」を指すのに対して、individualすなわち、「一個の独立した人格」という意味合いがあります。

 日本語では、「人」に「個」をつけただけで、「人」も「個人」もあまり語感に違いがないように思えますが、英語では全く違う単語で、尊重する対象がちがうのです。

(リブ・イン・ピース☆9+25 N 「『自民党憲法改正案』批判──日本国憲法の根本『個人の尊重』変更の意味」(2013年3月8日)より)


 引用が長くなったが、要するに自民党は、日本国民を「個人として」、つまり「一個の独立した人格として」尊重するつもりなんかありませんよ、と宣言しているに等しい。そして、「個人の尊重」の実現のために「憲法で権力を縛る」立憲主義が生まれたことを考えると、自民党の改憲草案は立憲主義を否定していると言える。

 余談ながら、「個人」を「人」に変えようとする自民党の第2次改憲草案に怒り狂った1人が、現東京都知事の舛添要一だった。舛添とて2005年の第1次自民党改憲草案作成に深く関わったとんでもない人間ではあるが、その舛添から見てもとんでもないのが自民党の第2次改憲草案といえる。もっとも、とんでもないことをするぞと見せかけて、いざ蓋を開けてみたらそこまでではなかったというだけで、政権や自民党を「評価」してしまうおめでたい人間も少なくなく、今年8月の「安倍談話」の時には、東京新聞や「リベラル」ブロガー氏あたりもそれに引っかかっていた。いざ自民党が最初に出してくる改憲案自体は、「公明党に配慮して環境権の規定を入れた」式の、礒崎陽輔が言うところの「一度味わってもらうお試し改憲案」になることは絶対に間違いないから、そんなものを絶対に認めてはならない。敵のクーデター構想は何段階にもわたっており、敵自身それを公言して憚らないのだから。

 礒崎陽輔といえば東大法学部卒ながら「立憲主義を憲法講義で習ったことがない」と言い放った人間だが、聞くところによると「マルクス主義法学」には立憲主義の概念がない、ないしは立憲主義に否定的であるとのことだから、礒崎はその系列の講義でも受けたのだろうか。まさか戦後の東大には上杉慎吉の流れを汲む講座などなかっただろうし。

 さて、以上は実は前振りのつもりで書き始めたのが長くなってしまった。この記事で本当に書きたかったのは、自民党のようなトンデモ改憲勢力の批判ではなく、「新9条」、「左折の改憲」などといわれる「左派(サハッ?)」ないし「リベラル」勢力が提案して、「マガジン9条」や東京新聞(「こちら特報部」)が後押ししたという改憲案もまた立憲主義によって否定されるという話だった。

 先週私は、まだ想田和弘や加藤典洋はおろか、矢部宏治が憲法9条2項の改憲を提言し、それを池澤夏樹が朝日新聞夕刊のコラムで推奨するよりも以前の2013年に憲法学者の水島朝穂が書いた本で、立憲主義による憲法9条改定批判の論理を学んだ。『kojitakenの日記』で紹介したが、水島朝穂は著書『はじめての憲法教室 —立憲主義の基本から考える』 (集英社新書,2013)に、

「いま現実に存在する自衛隊が憲法と矛盾するから、憲法を改正しよう」という趣旨の議論は、国家権力を制限するという立憲主義の観点からは考えられないものです。そんな憲法はもはや近代国家の憲法とは言えません。(87頁)

と書いていた。この批判が「新9条」に適用されることは当然だろう。

 また昨日(11/29)、朝日新聞3面に掲載された「平和主義を守るための改憲 ありえるか」という記事に、同じく憲法学者の長谷部恭男が立憲主義の立場から「新9条論」を批判していた。記事は朝日に不定期で掲載される、高橋純子論説委員が政治学者の杉田敦と憲法学者の長谷部恭男の対談形式の(実際に2人が対談しているかどうか私は疑っているが)記事だ。ここで長谷部恭男は、杉田敦の

(前略)安保法制の成立によって(中略)9条は空文化し、死んでしまった。だから、新条項として蘇生させなければならないと『新9条論』者たちは主張しています。

との指摘に、長谷部恭男は、

 死んでいるのならなぜ、安倍さんたちは改憲を目指しているのでしょう。死んでませんよ。集団的自衛権の行使は認められないという「法律家共同体」のコンセンサスは死んでいませんから。元の政府解釈に戻せばいい。

と言い、さらに、

 法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。素っ気ない言い方になりますが、国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。

と言う。杉田敦も、 

 たしかに、みんなで決めたことでもだめなものはだめ。これが立憲主義でしたね。民主主義と立憲主義の間の緊張関係を常に意識しておかないと、「新9条論」を主張する人たちの純粋で真摯な思いが、民主主義の名の下に、改憲そのものを自己目的化する現政権の動きを、裏側から支えてしまう可能性がありそうです。

と応じている。

 立憲主義とはかくも難解にして強力だ。そんなことを偉そうに記事に書く私も、その実体は今頃になって立憲主義を学び始めたうつけ者に過ぎないことは、本記事自体がはっきり示している。

 それにしても、想田和弘や伊勢崎賢治や矢部宏治や池澤夏樹や加藤典洋らが言い募り、憲法学者でも改憲派の小林節がそれに加担し、「マガジン9条」や東京新聞がその浪に乗ろうとした「新9条論」に対する批判にも立憲主義が威力を発揮するとは、立憲主義おそるべし、というのが初学者である私の正直な感想だ。われながら間抜けな感想だと思うが、そうとしか書きようがない。
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 昨年はゴールデンウィーク中のブログの更新を休んだが、今年は記事を書く。憲法記念日の5月3日付朝日新聞の社説に気になった箇所があったからである。

 4月7日付夕刊に池澤夏樹の「左折の改憲」論を掲載したほか、このところの紙面に見られる露骨な日和見ぶりからして、一部には憲法記念日の紙面で朝日が社論を改憲寄りに転換するのではないかとの見方もあった。しかし私は、世論調査でで9条改憲反対派が賛成派を圧倒している現状から見て、今年の社論転換はあり得ないと思ったし、その通りになった。しかし、その一方で、朝日は将来の社論転換への布石を打つのではないかとも予想したが、これも残念ながら当たったと思う。

 今年の朝日の憲法記念日の紙面は、1面トップの見出しが「首相、改憲へ迂回戦略」であり、礒崎陽輔や船田元らが公言している「憲法改正を国民に1回味わってもらう」という、自民党の狙いを指摘する記事だった。社説でもこれを捉えて自民党を批判している。

 そもそも礒崎や船田が公然と口にする、国民を馬鹿にした企みに騙される国民などどれくらいいるのかと思うのだが、政界とは不思議な人たちの集まりで、最初から安倍晋三の援軍である次世代の党や維新の党ばかりではなく、現在はもっともらしいことを言って自民党批判に回っている民主党や生活の党にしたところで、いつ寝返るかわかったものではないから、自民党の動きを批判的に報じておくのは悪いことではないだろう。

 しかし、朝日の社説で一番引っかかるのは、タイトルが「上からの社説をはね返す」となっていることだ。このタイトルから私が真っ先に連想したのは、この記事の最初の方にも書いた池澤夏樹の「左折の改憲」論である。朝日の社説には、安倍自民党の「上からの改憲」には反対だが、(矢部宏治や)池澤夏樹流の「下から(左折?)の改憲」なら良いとでも言うのか、と勘繰ってしまった。

 朝日の社説は、いわゆる「押しつけ憲法論」に触れ、これを批判しているが、矢部宏治がそのトンデモ本『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』で主張し、池澤夏樹が共感しているのも「押しつけ憲法論」にほかならない。矢部に感化された池澤の「左折の改憲」など、安倍晋三の「右折の改憲」に回収されてしまう以外の何物でもないと思うのだが、朝日はいつそちら側に転んでしまうかわからないという危惧を持った次第である。

 それに、朝日の社説は「憲法を一字一句直してはならないというのではない」と書くのだが、一般論としてはそれが正しいのかもしれないが、それはまともな相手と対する時の話である。礒崎陽輔や船田元の「お試し改憲論」などというふざけた議論を敵が仕掛けている現状において、同じ社説で批判しておきながら、わざわざ「憲法を一字一句直してはならないというのではない」と書くのはあまりにも戦術的にお粗末である。つまり、敵を助ける可能性が高い。

 私は、右派の声が異様なまでに大きい現時点において、「憲法を一字一句直してはならないというのではない」と主張するのは賢明ではないと思う。せめて「安倍政権下においては憲法改正に手をつけるべきではない」程度のことは書いてほしかった。さもなければ、今後予想される憲法改正をめぐる攻防戦に勝ち目などないのではないかと思った次第である。
 3月13日付の時事通信配信の記事より(http://www.jiji.com/jc/zc?k=201503/2015031300648&g=pol)。

改憲、6割が「平和主義堅持を」=村山談話「踏襲」は34%-時事世論調査

 時事通信の3月の世論調査で、安倍晋三首相が意欲を示す憲法改正について聞いたところ、「平和主義や国民主権など現行憲法の柱は堅持した上で、必要な改正を行うべきだ」と回答した人が58.7%と最も多かった。改憲自体は否定しないが、国論が分かれる9条などの見直しには慎重論が強いことが反映された形だ。
 「憲法改正は行うべきでない」と答えた人は18.6%。「全面的に改め、新しい憲法とすべきだ」との回答は14.4%だった。
 自民党は来年夏の参院選後の段階的な改憲を目指し、優先事項の絞り込みを進めている。同党支持層でも、平和主義など現行憲法の柱を堅持するよう求めた回答が62.7%に上った。
 一方、首相が今年夏に発表する戦後70年談話について、「植民地支配と侵略」「おわび」など1995年の村山富市首相談話で明記された表現を「踏襲したほうがよい」と答えた人は34.2%で、「踏襲しないほうがよい」の26.5%よりも多かった。「談話そのものが不要」との回答も18.8%あった。
(時事通信 2015/03/13-15:39)


 安倍晋三と自民党の策略が残念ながら着々と功を奏しつつあるといったところ。

 改憲に関しては、既に2月22日に自民党党憲法改正推進本部事務局長にして安倍晋三の首相補佐官である礒崎陽輔が、国民を舐めきった発言をしている。
http://www.asahi.com/articles/ASH2P5JQ2H2PULFA002.html

自民、改憲へ「世論対策」本腰 国民投票に向け集会再開
石松恒 2015年2月22日00時13分

 自民党は21日、昨年末の衆院選で中断していた憲法改正に向けた「対話集会」を盛岡市で再開した。仮に、改憲の国会発議に必要な衆参両院の3分の2の賛成が得られても、国民投票で過半数を得るためのハードルはなお高いとみるからだ。安倍晋三首相や自民は「世論対策」に本腰を入れ始めた。

 党憲法改正推進本部事務局長の礒崎陽輔・首相補佐官はこの日の集会で、党員や支持者ら約200人を前に「来年中に1回目の国民投票まで持っていきたい。遅くとも再来年の春にはやりたい」と述べ、来夏の参院選後に改憲の国会発議を行い、国民投票に道筋をつけたいとの考えを示した。

 礒崎氏はさらに「憲法改正を国民に1回味わってもらう。『憲法改正はそんなに怖いものではない』となったら、2回目以降は難しいことを少しやっていこうと思う」と述べた。1回目は一部の野党も含めて合意が得やすい環境権や緊急事態条項などを対象とし、9条などの難題は2回目以降に提起する考えとみられる。
(朝日新聞デジタルより)


 この「『憲法改正』の試食」の発言は、何も礒崎陽輔が先月言い出した話ではなく、ずいぶん前から自民党の政治家たちが言っていることだ。この話はどうやら自民党の政治家の口癖になっているらしく、前記朝日の記事が出た直後にもこんな報道があった。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201502/2015022800038

憲法改正、9条は後回し=環境・緊急事態で実績狙う-自民

 安倍晋三首相が宿願とする憲法改正に向けた自民党の構想が固まってきた。まずは各党の賛同が見込まれる「環境権」創設などで実績を作った上で、9条をはじめ「本丸」と位置付ける条文を順次改正していく段取り。来年夏の参院選後に第1弾の国会発議を目指すが、野党の警戒感も強く、思惑通り進むかは不透明だ。

 自民党は26日、昨年末の衆院選後初めての憲法改正推進本部の会合を開いた。船田元・本部長は、今月上旬に首相と会い、最初の発議は2016年参院選後とする方針で一致したことを説明。「今国会から、いよいよ憲法改正の中身の議論を鋭意進めていく」と宣言した。

 船田氏は各党との協議で優先するテーマとして、環境権と、大規模災害などに備える緊急事態条項、財政規律に関する規定の三つを列挙。出席者からは「改憲を一度経験することで、国民に慣れてもらう必要がある」との意見が出た。

 また、船田氏は前文や9条、衆参両院でそれぞれ「3分の2以上の賛成」とされる発議要件を定めた96条などを第2弾以降に改正すべき重点項目に挙げ、「改憲勢力」の確保を前提に、一定期間内に実現を目指す方針も示した。

 自民党が最初の発議を次期参院選後とするのは、参院では同党の勢力が半数に満たず、公明党や、改憲で協力が期待できる維新の党などを加えても3分の2に届かないためだ。まずは参院選で安定的な改憲勢力を確保しようという思惑がある。

 自民党は当初、選挙権年齢の「18歳以上」への引き下げで連携した、共産、社民両党を除く各党と共通の改憲試案策定を目指し、3月にも協議をスタートさせたい考えだった。しかし、1月に就任した民主党の岡田克也代表は「首相と改憲を議論するのは非常に危ない」と協力に否定的。公明党の賛同も得られていない。このため、衆参両院の憲法審査会での議論を通じて世論の理解を得ていく「正攻法」への転換を余儀なくされた。
(時事通信 2015/02/28-05:22)


 こうした自民党の動きに対する各方面の反応をメモしておく。

 まず、「リベラル」諸氏の信頼篤いとみられる内田樹は、「日本はアジアの次の独裁国家になるのか?」(2015年2月25日)と危機感を煽るが、この論法では「最初は下手に出る」と公言している自民党の狙いに対抗するどころか、自民党を助ける恐れが大きい。しかも内田はそれにしても、

天皇とホワイトハウスしか自民党の「革命」を止める実効的な勢力が存在しないというような時代を生きているうちに迎えることになるとは思ってもみなかった。

などと抜かした。こんな輩を「リベラル」たちが信頼していること自体、改憲の脅威は増すばかりではないかと思う。なお、この内田樹に対する批判は、以前『kojitakenの日記』の下記URLの記事に書いたので、詳細はそちらを参照されたい。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20150227/1424994886

 次に、「ピケティの『21世紀の資本』は『××ノミクス』に反しない」と、仏社会党支持のトマ・ピケティの言説が安倍政権批判に結びつくことを回避することに腐心した高橋洋一は、「財政規律条項」に反発するかと思いきや、その条項に対してさえ腰が引けている。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150228/dms1502281000002-n1.htm

憲法改正と財政規律条項、経済苦境時の緊縮は論外

2015.02.28
連載:「日本」の解き方

 自民党の船田元(はじめ)憲法改正推進本部長は、憲法改正について、「来年秋から再来年春の実現を目指す」としたうえで、最初に取り組む改正項目について、環境権と緊急事態条項のほか、財政規律条項の創設を挙げた。改正項目の選定について安倍晋三首相(自民党総裁)から『お前に任せる』と一任されたという。

 改正項目の選定は船田氏に任されたものの、これからボチボチと党内外で議論していくわけだ。手順として、今の通常国会の衆院憲法審査会で、第1章から第9章まで議論が始められ、国民の意見を募るため地方公聴会も何カ所かで行う予定である。そうした議論の中で、さまざまな論点が出されるはずなので、今の段階での船田氏の論点は特段の意味はない。

 早ければ来年秋、遅くても再来年の春には憲法改正の発議を行うことを目指しているが、それでも来年夏の参議院選挙の後である。憲法の話は、こうしたロードマップを頭に入れながら、聞かないと、全体の流れが見えにくくなる。

 その中で、船田氏が選んだ環境権、緊急事態条項と財政規律条項はいずれも議論しやすいものである。特に、与党の公明党にとって、これらの条項は公明党の主張にも合致しており、議論を拒むことはできない。

 憲法改正は9条問題になると、護憲勢力にとっては議論さえ拒むという雰囲気がある。そこで、環境権、そして国会や内閣等の統治機構関係で代表的な論点である緊急事態条項と財政規律条項を先行させることで、憲法を議論する場を設定することが重要になってくる。

 日本では、憲法改正のアレルギーがある。西修氏監修の『世界地図でわかる日本国憲法』などによれば、主要国の改正回数は米国18回、カナダ18回、ドイツ52回、ベルギー50回、アイルランド22回、イタリア17回、オーストラリア8回、スイス6回、フランス20回となっている。

 しかし、日本はまだ1回も憲法改正がなく、世界の憲法から見てきわめて異例だ。世界の多くの国の標準からみると、憲法9条以外の国会や内閣等の統治機構に関するところで改正を行えないというのでは、時代の動きについてゆけない。統治機構条項としては、緊急事態条項と財政規律条項のほかにも、1院制や道州制などの大きなタマもある。

 この中で財政規律条項についてみると、財政規律が不要とすると、政府のムダ遣いが許されてしまうので、あり得ない。というわけで、憲法に財政規律条項があるのは、何も問題ない。

 ただし、憲法はプログラム法(政策実現の手順や日程を定める法律)なので、憲法に財政規律条項ができたとしても、憲法ではない法律が必要で、具体的な規定はその法律に基づく。

 そこで財政規律を保つために、何をやるべきかという点が重要だ。政府のムダ撲滅は当然として、経済苦境時の緊縮財政は経済を傷めて元も子もないので、そこまで規定したらまずい。

 こうした議論は、憲法改正後に制定される実定法での話であるので、憲法改正とは切り離して議論すべきである。 (元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)


 高橋洋一の「処世術」の要領が透けて見えるような、何とも嫌らしいコラムだ。

 最後に極右にして「国家社会主義者」の三橋貴明は、さすがに財政規律条項には強く反対しているが、それ以外では手のつけられない極右ぶりを全面展開している。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11997170973.html

 わたくしはもちろん、「憲法九条」の改憲については賛成です。第一項は修正、第二項はいっそ削除でいいのではないかと考えています。

 が、憲法96条の改憲については、つまりは「国会議員(衆参両院)過半数の賛意で改憲の手続き開始を可能とする」については、現時点では賛成できません。この点は、三輪氏とわたくしが同じ意見で、賛成する水島社長と激論が展開されたわけです。

 わたくしが憲法96条の改憲に反対する最大の理由は、今の日本では「新自由主義的」「構造改革的」「グローバリズム的」な形で憲法が変えられる可能性を否定できないためです。さかき漣:著「顔のない独裁者 」は、まさに新自由主義的な憲法改正が行われた日本が舞台になっていますが、「首相公選制」「参院廃止」「道州制」といった形で憲法が改正されてしまうと、日本国の「国の形」が大幅に変えられることになってしまいます。

 同じように「危険」なのが、ドイツ式に「財政均衡主義」を憲法で明示されてしまうケースです。憲法に財政均衡主義が謳われてしまうと、我が国はデフレ期に充分な財政出動が行えず(今もそうですが)、国民経済の安定的な成長は夢と消えます。

 結果、中国との国民経済の規模が開いていき、軍事支出で圧倒的な差を付けられた時点で、東アジアの軍事バランスは崩壊。我が国は冗談でも何でもなく「国家存亡の危機」を迎えることになりかねないのです。

「まさか、自民党とはいえ、そこまで愚かでは・・・」
 などと思わないで欲しいのです。

『憲法改正「遅くとも再来年春の実現へ全力」自民・船田氏 優先項目に環境権、緊急事態、財政規律
http://www.sankei.com/politics/news/150214/plt1502140017-n1.html
 自民党の船田元(はじめ)憲法改正推進本部長は14日、宇都宮市内で開かれた自身の会合であいさつし、憲法改正について「早ければ来年秋、遅くても再来年の春には実現すべく全力を尽くしていきたい」と述べた。また、最初に取り組む改正項目の候補に環境権、緊急事態条項、財政規律条項の創設を挙げ、改正項目の選定について安倍晋三首相(自民党総裁)から一任を受けたと紹介した。(後略)』


 環境権や緊急事態条項はともかく、「財政規律条項(=財政均衡主義)」を含む形で、自民党の憲法改正が推進されるとなると、わたくしは断固として反対することになるでしょう。

 無論、現時点では船田氏の「案」レベルです。環境権、緊急事態条項、財政規律条項の三つであれば、公明党も反対しにくく、憲法改正議論が進みやすいという「政治的な話」はあるのでしょう。いきなり、憲法九条を改正しようとした場合、ハードルが高いという話は分からないでもありません。

 とはいえ、デフレで長期金利が世界最低水準の日本において、しかも日本銀行が国債を買い取り、政府の負債が実質的に減り続けている我が国において、なぜ「財政規律」云々の話がされなければならないのでしょうか。意味が分かりません。

 無論、
「放漫財政でも構わない」
 と、極論を言いたいわけではありません。とはいえ、デフレ期の緊縮財政が問題を解決しないどころか、我が国のデフレを長期化させ、近い将来、「国家存亡の危機」を招くことになることは明らかなのです。

 日本国家を繁栄と共に永続させるためには、財政均衡主義とは真逆の思考で「経済成長」を追い求めなければなりません。日本経済が成長すれば、すなわちGDPが充分に伸びれば税収が増えるため、逆に財政は健全化することになります。

 同時に、我が国は防衛費を増額し、憲法九条を改正。東アジアの軍事バランスを維持するために、必要な法改正や支出をしていかなければならないのです。

 というわけで、憲法を改正するならば、まずは「九条」です。あるいは、法整備により、東アジアの「緊急事態」に備える制度を整える必要があります。しかも、早急に。

 同時に、防衛費を増やし、軍事力を高める努力を続けなければ、中国との軍事バランスが崩れ、やがては悲劇的な「戦争」に突入する可能性が厳然と存在するわけでございます。

 国際連合憲章51条には、次のように書かれています。
「第五十一条 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。(後略)」

 無論、51条は軍事力行使後に安全保障理事会への報告を義務付けるなど、いくつかの制限があります。ともあれ、個別的自衛権は「国連憲章」で認められているのです。

 つまりは、憲法九条と国連憲章が「矛盾」しているわけで、この手の議論を丁寧にしていくことで、「憲法九条を改正する」という王道を進むのであれば、わたくしは憲法改正に賛成します。

 それに対し、
「まずは、改憲しやすい項目から」
 などと安易な(相対的に)道を走り、「財政規律条項」を導入するなど、日本国を衰退させる可能性がある「憲法改正」が行われるくらいならば、憲法改正に反対、という立場を取らざるを得ません。憲法を改正せず、「九条」の縛り緩めるための「解釈」や「閣議決定」「首相判断」で対中の安全保障を強化した方が、まだしもマシです。(あくまで「相対的に」マシという話です)

 憲法改正議論において、「財政規律条項」を取り上げること自体、反対致します。
(三橋貴明『新世界のビッグブラザーへ』 2015年3月4日付記事「憲法改正と財政均衡主義」より)


 三橋に対しては、財政規律条項がダメなことについては同意するし、理由はどうあれ三橋が自民党のふざけた「『憲法改正』試食」に反対してくれるなら結構な話だが、それ以外の点に関しては全く受け入れられない。

 以上、三者三様、いずれも「どうしようもない。賛成できない」というのが私の立場だが、あえて三者のうち最悪を選ぶとすれば高橋洋一だろう。内田樹と三橋貴明はそれぞれ「同程度にダメ」だが高橋洋一よりは救いがあるといったところ。
東日本大震災やそれに付随して起きた東京電力原発事故で、日本国憲法第25条を国が遵守することが問われていることはいうまでもない。日本国憲法第25条は下記の通り。

  1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
  2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

今年の憲法記念日では、例年以上に憲法25条に焦点を当てた議論がなされると思っていた。朝日新聞は、前主筆船橋洋一の退任後、若宮啓文が主筆に就任して、昨日(5月2日)の1面トップから3面に続く「復興へ 生存権こそ」という見出しの記事を掲げたから、憲法記念日にはどんな紙面になるか注目していた。

しかし、朝日新聞もまた船橋洋一がつけた慣性力で動いているようだ。ここ数年の紙面と比較しても、さらに憲法記念日らしからぬ紙面だった。憲法の記事は前日に書いたからもういいだろ、といわんばかりであり、私は今日は本当に憲法記念日なのかと目を疑い、何度か1面から社会面まで頁を繰り直したが、残念ながら夢ではなく現実だった。

5月3日付の朝日新聞は、アメリカが行ったビンラディンの殺害ばかりが異様に大きく扱われ、憲法の記事は7面に追いやられて、そこには「9条改正 反対59% 『改憲必要』は54%」と題した世論調査の記事が出ているだけだった。9条改正賛成論は昨年より増えている。社説は2本立てで、ビンラディン殺害を論じた社説の方が上に掲載されていた。さらに、24年前の今日起きた朝日新聞阪神支局襲撃に触れた記事が、「天声人語」にしか出ていなかった。さすがにこの件については明日の紙面に追悼記事が載るだろうとは思うが、それにしても憲法記念日の朝日新聞の紙面は、年を追って劇的に劣化している。

もっとも、改憲派も今年は改憲論に力が入っていない。「護憲の朝日、論憲の毎日、改憲の読売」と言われるが、読売新聞は憲法問題を論じた社説を掲載していない。東日本大震災と東電原発事故で、今はそれどころではないと読売でさえとらえているのだろう。

そんな中、自民党や民主党の鳩山由紀夫がKY丸出しの妄動に出ている。自民党は、憲法に「非常事態条項」を盛り込むことを改憲の突破口にしようと躍起になっていて、あの原発推進の立役者にして東電原発事故の超A級戦犯ともいうべき中曽根康弘が会長を務める超党派の「新憲法制定議員同盟」も、「大規模自然災害にも即応できる憲法をつくろう」という言葉をスローガンに盛り込んだ。

民主党では、鳩山由紀夫が改憲に意欲を燃やしている。『日本がアブナイ!』の4月29日付エントリ「『菅おろし』の背景に保守派の動き+震災と改憲、サヨク排除を結びつける発想」が、産経新聞や(安倍晋三とのつながりでおなじみの)統一協会系の『世界日報』の記事を紹介しており、ブログ主は上記の「非常事態条項」を突破口にする改憲の動きへの懸念を表明すると同時に、鳩山由紀夫が改憲への動きを強めていることを批判している。

詳しくは上記リンク先の同ブログエントリを参照されたいが、ここでは同エントリで引用されている産経新聞記事(下記URL)のみを以下に紹介する。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110428/stt11042823110009-n1.htm

超党派議連「現行憲法の欠陥明らかに」 震災関連の非常事態条項の規定なし 
2011.4.28 23:10

 超党派の国会議員でつくる「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根康弘元首相)は28日、東京・永田町の憲政記念館で「新しい憲法を制定する推進大会」を開いた。民主党の鳩山由紀夫前首相ら与野党の国会議員や経済団体の代表ら約1200人が出席し、東日本大震災への対応に際し、「(非常事態条項がないなど)現行憲法の欠陥が明らかになった」とする大会決議を採択した。

 決議では、現行憲法の不備を早急に正すとともに、国家的災害からの復興に向け「新しい憲法の理念に基づいて、新しい国づくりが進められる必要がある」として、衆参両院の憲法審査会で憲法改正議論を早急に開始することを求めた。

 中曽根氏は、来年がサンフランシスコ講和条約発効60周年となることを挙げ、「主権回復から60年たち世界も日本も変わったのに、変わっていないのは憲法だけだ。国民の責任ではなく政治の責任だ」と憲法改正の必要性を訴えた。

 鳩山氏は、憲法審査会が始動していない状況について「わが党の考え方が(まとまらず)さまざまあるためだ。政治の不作為、怠慢によるものだ」と民主党の責任を認めた上で「この状況を早く解決したい」と述べた。自民党の大島理森副総裁は「来年は節目の年なので、全力を挙げて憲法改正に取り組む」と決意を語った。

 大会には、国民新党の亀井静香代表、たちあがれ日本の平沼赳夫代表のほか、公明党とみんなの党からも代表者が出席した。


政権与党の民主党は、基本的には「改憲政党」だと私はとらえているが、上記鳩山由紀夫のように現時点での改憲に前のめりになっているのは党内右派に限られる。上記で産経が報じた右翼政治家(中曽根康弘と鳩山由紀夫)のコメントを紹介したので、カウンターとして昨日(5月2日)の朝日新聞から、彼らに反対する政治家たちの意見を紹介する。asahi.comには出ていないようなので、手打ちで引用する。

 民主党の岡田克也幹事長は4月28日の記者会見で「これだけの大災害が起き、全力投球しているので、憲法改正論議に大きなエネルギーを注ぐ状況ではない」としたうえで、非常事態条項についても「どこでどういう不都合があったのかをきちんと検証することが前提。人権制限を含む条項がいる、ということにはならない」と否定的見解を示した。

 公明党憲法調査会座長の赤松正雄衆院議員は「憲法を変えなくても法律で対応できる部分もある」と指摘。共産党の志位和夫委員長は「これを機会に、憲法改定に手を付けるというのは反対だ」。社民党の福島瑞穂党首は「憲法で基本的人権の制限をすることは極めて危険。憲法を変えずに個別の法律で対応が可能」としている。

(2011年5月2日付朝日新聞2面掲載 山田明宏記者の署名記事より)


要するに鳩山由紀夫という男は、単に原発推進派であるのみならず、震災を利用して憲法に基本的人権を制限する条項を盛り込む改悪をしようとたくらむ、どうしようもない政治家であることがわかる。こんな人間は、昨日6月に総理大臣を辞職した時に口にした公約に立ち返って、次回の衆院選には出馬せず引退してほしいものだ。いや、本音では即刻議員辞職してほしいと思っているのだが。

もっとも、自民党や鳩山のようなKY改憲論には、読売新聞でさえ少なくとも社説では乗ってきていない。全国紙で唯一乗ってきたのは、あの産経新聞である。

あほらしいから産経の社説なんかにはこれ以上触れないが、最近この産経新聞と蜜月関係にある政治家がいることだけ最後に紹介しておこう。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110428/stt11042818240005-n1.htm

小沢氏、「首相にふさわしい」トップの世論調査にご満悦
2011.4.28 18:23

 民主党の小沢一郎元代表は28日、東京都内の個人事務所で側近議員に対し、産経新聞社・FNN(フジニュースネットワーク)の世論調査で小沢氏が「首相にふさわしい政治家」のトップになったとの本紙記事に触れ、「どう思う? 俺の評価がずいぶん高くなっている。産経新聞も見方が変わったな」と語った。

 世論調査は23、24両日に実施。「今の首相にふさわしいのは誰か」との質問で、小沢氏が9・2%で首位に立つ一方、菅直人首相は4・4%だった。側近議員が「良いことですね」と応じると、小沢氏は満面の笑みを浮かべたという。

連休中は、裏ブログには毎日記事を書いたが、こちらは6日間お休みした。中6日のインターバルは、プロ野球の先発投手並みだが、当ブログとしては開設直後以来のことになる。

ゴールデンウィークというと憲法記念日の5月3日を含むが、憲法というと9条改憲の是非をめぐって、9条改憲賛成・反対両派の意見がメディアに取り上げられるのが常だった。しかし、今年は政権交代で改憲が遠のいたと見られたためか、改憲派の集会が盛り上がらず、各種世論調査でも改憲支持派の漸減傾向が続いていることが報じられた。

私事だが、最近香川県を離れ、東京に出てきたこともあって、5月3日に「自由と生存のメーデー」の「サウンドデモ」に参加してみた。今年で5回目だそうだが、数年前、私と年齢の近いのさるブロガーがこのデモに参加した体験記を書いていて、それによると、いわゆるプレカリアートのデモは「若者の運動」と紹介されることが多いけれども、実際には中高年の方も結構いたとのことだったが、私が見たところでは多くは若者だった。私はといえば中年だし、多くの参加者ほどの苦しい立場には立たされていないが(もし本当に苦しければブログをコンスタントに更新することなどできない)、「棄民の逆襲」と銘打たれたこのデモで、参加者たちが誇りを持って主張をしていることが感じられた。

憲法記念日に行われたデモだったが、「憲法9条改悪反対」のプラカードは、少なくとも私が見渡した限りでは見つからなかった。もちろん憲法と無関係であろうはずはなく、憲法第25条で保障された生存権を取り戻し、確保することを求めたデモだった。そして、その中に普天間基地の沖縄県内移設に反対するプラカードがあり、これは憲法9条に関わる訴えだといえるだろう。プレカリアートと沖縄県民には、「棄てられた民」という共通点がある。沖縄には、戦後一度も憲法9条が適用されたことはないとはよく言われることだし、憲法記念日の夜には日本テレビの報道番組のキャスターまでもがこのことを言っていた。なるほど、湯浅誠が「憲法9条と25条は関連づけて論じられるべきだ」と著書で書き、講演会でも語ったことが、リアルでも実践されているのだなあと思った。わざわざ「9条改悪反対」などと掲げなくとも、精神は紛れもなく憲法9条に立脚している。なお、デモでは、雨宮処凛さんら女性たちが、「残業反対!」、「会社反対!」、「労働反対!」、果ては「社会人反対!」、もちろん「生きさせろ!」と声を張り上げていた。これらの標語に眉をひそめる方もおられるかもしれないが、私はウケた。働きたくても職がなく、ひとたび非正規の職を得たら、今度は休む暇もなく安くこき使われるという窮状を訴えながら、それを笑いに昇華しており、そのセンスはたいしたものである。雨宮さんがいかにも楽しそうに声を張り上げていたのが印象に残った。

ところで、一昨年の読売新聞調査(下記URLの孫引き参照)によると、改憲派は年代別に見ると30歳代が最多(50.1%)で、20歳代はそれよりだいぶ少ない(44.9%)。
http://home.384.jp/kashi/9jowaka/shinbun1/yoron-yomi080408.htm

30歳代より年長の世代では、年長者ほど改憲派が少なくなり、70歳以上では31.8%にまで減る。2008年に70歳を迎えた人は1938年生まれで、戦争を体験している世代だし、当時の60歳代も高度成長期以前に物心のついた人たちだ。その世代の人には日本国憲法への愛着が強く、逆に、1980年代以降論壇で力を増した右翼的論調の影響が大きい世代ほど改憲派が多い形だ。一方、自民党支持者の比率は、上記読売新聞の調査には含まれていないが、一般に40?50歳代がもっとも少なく、60歳代、70歳代になると増える。30歳代も40?50歳代より自民党支持者が多い。これらのことから、60歳代以上では、「自民党支持者だが護憲派」という人たちが少なからず存在する一方、30歳代には「自民党支持で改憲派」という人たちが多いと思われる。20歳代で改憲派が減るのは、最低限の生活をするだけで精一杯で、イデオロギーなど知ったことではないと考えているからではないか。

昨夜、NHKテレビで、「日本の、これから ダイジョーブだよね?若者とニッポン」と題された番組を見たが、「草食系」と言われる若者たちと、高度成長期やバブル期に社会人になった人たちの議論はかみ合わなかった。番組でも冷静な論者に指摘されていたが、日本経済全体が高度成長していた時代に仕事をした人たちと、閉塞感に覆われて就職もままならない現在に生きる若者では、同じ努力をしてもリターンの期待値が全然違う。それを考慮せずに「若者は努力が足りない、覇気がない」と居丈高になっているのだから、威張っている人たちの方が馬鹿に見えて仕方がなかった。この威張り屋たちがつい先頃まで推進していたのは、「自己責任論」を振りかざす新自由主義である。最近の総理大臣たちは小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫と、揃いも揃って無能な世襲政治家ばかりだが、そういう人たちをのさばらせてきた責任も、80年代以降の有権者にある。つまり、日本をダメにした世代(私自身もそれに属する)が今の若者を叱っている構図であり、噴飯ものの一語に尽きた。1900年代や1910年代に生まれた政治家は、戦争を経験し、戦後自民党政治の最盛期を築いた三木武夫、田中角栄、福田赳夫、大平正芳の「三角大福」は皆個性が強く、能力にも秀でており、世襲政治家ではなかった。

それに比べれば、国家主義や新自由主義の刷り込みが弱い20歳代の若者たちは、むしろ将来の日本を背負って立つポテンシャルを持っていると言えるのではなかろうか。憲法9条と25条を関連づけて論じる流れは、今後ますます活発化していくだろうと私は予想しているが、そうなったあかつきには、「9条護憲」というと反射的に「サヨク」の専売特許と思ってしまうような今の30代の人たちの右翼的感覚は、より若い世代によって「教条主義的」として笑い飛ばされるのではなかろうかと思う今日この頃である。


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ようやく少し時間ができたので、今日は立花隆さんが月刊「現代」7月号に載せた 『「私の護憲論」 安倍改憲政権に異議あり』 から一部をご紹介したいと思う。

立花さんは、同じ月刊「現代」の昨年10月号で、「安倍晋三への宣戦布告」 という記事を発表し、安倍の改憲路線や教育基本法改定に反対する態度を明らかにした。

その立花さんが、「現代」の今月号と来月号の2回にわたって、安倍の改憲路線に改めて異議を申し立て、護憲論を展開するというのだから、これは必読の記事だ。

今回は、立花さんの記事の中から、特に印象に残った箇所を紹介したい。以下「現代」 7月号から引用する。

なお、立花さんのこの記事は、2007年5月6日に丸善本店で行われた講演会「現代日本の原点を見つめ直す 南原繁と戦後レジームの意味」の内容を元にしたものだそうだ。


 先だって、東大出版会が発行している雑誌『UP』 (Universiry Press) 3月号に私は「南原繁の言葉と戦後レジーム」という文章を寄稿しました。そこで私がいちばんいいたかったのは次の一文でした。
 「安倍首相は、戦後レジームをネガティブに捉え、これを根本的に変革してしまうことこそ、日本国のために最もよいことと考えているようだが、私の歴史の見方は安倍首相とは正反対である。戦後レジームこそ、数千年に及ぶ日本の歴史の中で、最もポジティブに捉えられてしかるべきレジームだと考えている。
 はっきり言って戦後レジームをポジティブに評価できない人は、歴史を知らない人だと思う。あそこで(1945?46年)戦前レジームから戦後レジームヘの一大転換が起きなかったとすれば、日本にはいまでも明治憲法レジーム、大日本帝国レジームが続いていたことになる。それが国家レジームとしてどれほど狂ったレジームであったか、ある年代以上の人にはいまさら言うまでもないことである」

(中略)

 私が、日本国憲法、とくに憲法第九条がつくりだしてきた戦後レジームをなぜそれほどまでに積極的に評価するかというと、それはこの憲法が、日本という国を、歴史上もっとも繁栄させてきたからです。戦後レジームこそ、日本の繁栄の基盤だったからです。
 どういうことか簡単にふれておくと、政治というのは、要するに一国の社会が全体としてもっているリソースをどう配分していくかを決定するプロセスです。ここでいうリソースには経済的リソース、物質的資源としてのリソースなど、さまざまなリソースがありますが、現代の国家にとっていちばん人事なリソースは人的資源、ヒューマン・リソースです。人的資源を、社会のどこの部分にどう配分するかの決定はいちばん下のレベルでは個人個人が自己決定でやっていますが、大きな枠組的配分は政治が動かしています。それによって、その時代の日本の栄枯盛衰が決まるといっても過言ではないほどそれは重要なリソース配分です。
 戦後の日本の社会システムが戦前と大きく異なるのは、この経済的リソースやヒューマン・リソースの配分において、戦前の日本で最も大きな比重を占めていたリソースの配分先、すなわち軍事関係に回っていた分が、戦後はすべて民生に回ったという点です。その結果、日本は経済資源と、人的資源のほとんどすべてを民生に投入することができた。これが戦後日本の、あれほどの未曾有の経済復興と経済成長による国家的繁栄をつくったわけです。
 戦前の日本では平時、全予算のおよそ半分が軍事部門に投入されていました。戦争になればそれこそほとんどすべての予算や人材が戦争に注ぎ込まれたわけです。もしも戦後の日本が早くから軍を復活させ、そこに多くの経済的リソース、ヒューマン・リソースを投入し続けていたら、日本にもアメリカのような軍産複合体制がとっくにできあがっていたでしょう。
 いまのアメリカを一言でいえば、「戦争マシーン」国家です。アメリカのサイエンスもテクノロジーも、実は半分以上が軍事関係の予算や人材によってまかなわれています。とくにロボット、核融合、スーパーコンピュータ、宇宙航空といった先端技術は半分どころかほとんどが軍事予算でまかなわれています。車からの資金援助まったくなしで、世界とがっぷり四つに組むだけの科学技術力をちゃんと発達させた国は世界中で日本だけです。
 軍産複合体を存在させずに経済発展をとげたという意味では日本の成長モデルは世界に誇れる仕組みなんです。そしてそれは何度もいっているように、いまの憲法、とくに第九条という戦後レジームがあったればこそ可能だったわけです。
 ところが、いまやそのレジームを捨てようという人たちが国の権力の中心に座る時代になってしまいました。あの人たちは、本当の意味で、国家の繁栄とか、繁栄と憲法の関係といったことがわかっているんでしょうか。

(月刊「現代」 2007年7月号掲載 立花隆 『「私の護憲論」 安倍改憲政権に異議あり』 (前編) より)


この立花さんの意見は、岸信介の改憲路線を否定し、岸のあとを受けた池田勇人ら保守本流の政治家たちが選んだ「経済重視・軽軍備」路線(もちろん吉田茂に源流を発する)を高く評価するものだとも解釈できる。実際に日本でビジネスに携わっている人間にとっては、とても説得力のある意見だ。

昨年立花さんが書かれた教育基本法改定反対論を読んだ時にも感じたことだが、このような、イデオロギーにとらわれない立場からの護憲論が世に広まり、現在猖獗(しょうけつ)をきわめている、安倍晋三に代表される馬鹿馬鹿しいネオコン的言説を駆逐せんことを強く願う次第である。



[追記] (2007.6.14 22:25)
「雑談日記(徒然なるままに、。)」のSOBAさんが、今回の月刊「現代」の記事の元になった立花隆さんの講演会に出席されていて、講演会当日の5月6日に、早速記事を書かれていました。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2007/05/post_3fa3.html

SOBAさん、トラックバックどうもありがとうございました。


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先日来の年金問題と松岡前農水相の「自殺」問題で、参院選の争点から「憲法」問題が遠ざかりつつあるが、私は、こういう情勢だからこそ憲法をしっかり論じておかなければならないと思う。

先日、明月さんのブログ 「反戦な家づくり」 が、民主党と自民党の参院選候補者を対象に、「9条改憲の賛否を問う質問」 を行った。このアンケートには、弊ブログも賛同人に名を連ねさせていただいたが、その結果が発表されたので、ここにお知らせする。

「反戦な家づくり」より
『9条改憲の賛否を問う質問 回答のまとめ(明月)』
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-379.html


結果については、上記リンク先をご参照いただきたい。念のために、当記事の末尾の「付録」(More ... 以降)にも、質問項目と回答結果を転載させていただいた。

さて、いま、1年前のブログ言論などを読み返してみて現状と比較すると、1年前と比較して世論が護憲に傾きつつあることがよくわかるだろう。この傾向は、特に憲法九条に関して顕著だ。

いまやリベラルというよりニュートラルな立場をとるようになった朝日新聞社の論壇誌「論座」 (編集長の薬師寺克行氏は、テレビ番組で「改憲論者」だと明言したことがある)が、6月号で憲法特集を組んだのに続き、7月号に小林よしのりの 「わしが格差拡大に反対するワケ」 を掲載している。この記事に対しては、「Munchener Brucke」 の興味深い論考 『日本に労働者や貧困層の支持を集める右翼政治家が出現する予感(悪夢か?)』 などもあるが、ここでは小林が憲法に触れた部分のみ紹介する。


 いまこの国は、とにかくどんどん儲ければいい、自分の利益が人事で国民がどうなろうと関係ないという話なんだから、ナショナリズムなんて最初からありません。だけど「砂粒化した個人」は社会にとって不安定要因になりかねないから、権力の側はそれを統制する手段としてナショナリズムを利用しているわけです。

 小泉の靖国神社参拝が、まさにそうでしょう。靖国を参拝してナショナリズムに片足かけながら、もう片方では、靖国に祀られている戦死者たちが守ろうとした故郷や共同体をどんどん破壊するような政策を進めているんだから。本当にインチキなやつだよ。安倍だって同じですよ。「憲法改正」って言いながら、日本の国柄そのものを破壊して、まったくのアメリカニズムに染め上げようとしている。

 これは、わしに言わせれば革命です。目本の国柄を破壊しようという勢力がいつのまにか無血クーデターを起こして政府の中枢に忍び込み革命を起こしている。だけど「靖国参拝」「憲法改正」を言っているから、保守の側も誰も批判しない。ばかばかしい話です。

(中略)そして自分たちが日本のエートスを崩壊させておきながら、給食費を払わない親がいるとか道徳心を失っているとか大騒ぎして、教育基本法を改正して「国を愛する態度」を盛り込んでみたり、「親学」とか言って、「子守歌を歌う」とか「早寝早起き朝ご飯」とか、教条主義的な提言をしようとしたりしている。それでみんなが言うことを聞くと思っているわけでしょ。頭おかしいよ。金正日が北朝鮮でやっていることと同じなわけよ。右を向きなさい、左を向きなさいと言ったら、それをそのまま間く人間を育てるつもりかって。全部が狂ってるよ。

 教育基本法改正も、憲法改正も、道徳教育も、トータルにわしは否定するよ。はっきりいって。左翼だって思われちゃうかもしれないけどね。わしは運動に直接かかわるのは懲りたから、描き続けることで、みんなにわかってほしいと思っています。

(中略)いまの政権を担っている自民党の政治家にしろ、親米保守にしろ、ネオリベを肯定するような人間は、靖国に祀られている戦死者たちがいったいなにを守ろうとしたのかというところに思いを致すことなんかないんですよ。彼らの関心は、「こいつは利用できるかどうか」にしかない。わしだって最初は、アメリカと一緒に戦争をやるために利用できると思われていた。それがアメリカを批判し始めたとたんに、「危険だ」と排除された。

 いま憲法改正が騒がれているけど、わしはもろ手をあげて賛成するわけにはいかなくなってしまってるわけよ。ただただアメリカ軍にくっついていって、イラクでもどこででも戦おうということでしょ。わしはそんな戦争には賛成しない。そんなものは、かつて英霊が戦った戦争とは違うということを、やっぱり言わなければならないと思っています。

(「論座」 2007年7月号掲載 小林よしのり 「『戦争論』、それからわしが格差拡大に反対するワケ」 より)


加藤紘一は先日、TBSテレビ「時事放談」で、右翼雑誌(「諸君!」や「正論」などを指すと思われる)の読者数が減っている、親米右派と反米右派に分かれてきていると指摘していたが、小林は典型的な「反米右翼」であり、安倍内閣の発足前には、安倍に期待していたフシもあるが、政権発足後の早い段階で安倍を見限り、現在では引用文中にもあるように、「安倍政権下での改憲」への反対を表明している。他に、慶応大学教授の小林節なども、「安倍政権下での改憲」に反対しているが(「週刊朝日」 2007年6月8日号など)、興味深いのは同じ「小林」でも、Wikipediaの記述でも指摘されているように、小林節はリバタリアンとされており、安倍の復古主義的な方向性を持ち、かつ対米隷属的な「改憲」に反対しているということだ。つまり安倍(自民党)の「改憲」案は、民族主義的右翼(小林よしのり)にも、本来的な意味でのリバタリアン(小林節)にも反対されるような代物なのである。支持しているのは産経文化人(とネット右翼)、それに自民党・公明党や一部民主党議員だけと言っても過言ではない。

自民党の改憲案は、ただ単に、アメリカやそれに従属する日本の政権に国民を隷属させるだけのどうしようもないものなのだから、それが護憲派はおろか、真面目な改憲派からも支持を得られないのは当然のことだ。

当ブログの昨日の記事にコメントいただいた眠り猫さんのブログ 「平和のために小さな声を集めよう」 も指摘しているように、自民党の改憲案では、基本的人権の特に自由の権利に対して、大幅な制約を加えている。最近出版された保阪正康監修・解説の 「50年前の憲法大論争」 (講談社現代新書、2007年)などを読めばわかるが、これは半世紀も前からの自民党のもくろみなのである。要は、自民党右派の人たちは、敗戦後間もないことから考えていることは何も変わっておらず、ただひたすら戦前の体制を復活させたくてたまらない議員を多く抱えているということだ。安倍晋三は、その中でも特に極端な思想を持つ人物である。

元長崎市長の本島等さんは、憲法九条を守りながら、環境問題や人権問題の条項を加えていく「加憲」を主張しているが(「東京新聞」 2007年5月14日)、そのベクトルの向きは自民党の改憲論とは正反対である。

基本的人権を制限し、政権に都合の良い人間(=奴隷)づくりを目指すふざけた安倍政権を、一日も早く葬り去らなければならない。


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連休明け早々、いきなり忙しくなってしまって、一昨日、コメントやトラックバックの取扱いに関するお知らせの記事で済ませてしまったあと、昨日はついにブログをお休みしてしまった。

その間、「お前の最近の記事はネット右翼やタイコモチ記者への批判ばかりで面白くない」とか、「お前は安倍晋三と統一協会の関係ばかり書くが、民主党にだって統一協会べったりの人間がいるではないか」などの批判もいただいているが、そんなことをコメントに書いたって誰も読んでくれないのだから、自分のブログで(未開設なら開設して)思う存分書けば良いことだろう。民主党の議員が統一協会とつながっていれば安倍が免罪されるかのような後者の意見など、誰にも相手にされないだろうとは思うが、もっと世間に広く訴える手段があるだろうに、いちいち人のブログに文句をつけてくる神経が理解できない今日この頃だ(笑)。

ところで、先日60回目の憲法記念日を迎えた。どうやら、国民投票法は参議院でも強行採決されてしまいそうな勢いだが、安倍がどんなに力み返ったところで、安倍の真の狙いである「九条改変」に対する賛成意見の比率は、NHKの調査でも読売新聞の調査でも、確実に下がっている。だから、安倍に反対する側は、安倍の頭には「九条改変」しかないことを大いにアピールすべきだと思う。

しかし、「九条改変」賛成意見が減っている一方で、これまでずっと護憲を唱え続けてきた社民党や共産党の支持率も長期低迷がさらに進んでいることは、先日の統一地方選の結果からも読み取れる。

つまり、民意は「九条改変を伴う改憲」と「原理主義的な護憲」のいずれにも懐疑的だということだ。

私自身、今日本国憲法を変える必要は全くないと思うし、九条の改変には大反対なのだが、口を開いたら憲法のことしか言わない「護憲派」にも、率直に言って違和感を感じている。いわゆる「護憲派」に、明らかな犯罪国家である北朝鮮への批判を躊躇(ちゅうちょ)する人たちが少なからずいることも、うさんくささを感じる一因になっている。

こういう感覚を持っているのは私だけではないだろう。だから、内田樹・神戸女学院教授のブログの記事 『憲法の話』 が大きな反響を呼んだのだろう。この記事には、76件の「はてなブックマーク」がついている

この記事で特に鋭いと思うのは、
『改憲で日本が手に入れるのは「アメリカ以外の国と、アメリカの許可があれば、戦争をする権利」であり、それだけである』 という指摘だ。

しかし、その一方で内田氏は、次のようにも述べている。

『九条どうでしょう』以来、私が憲法について言っていることはずっと同じである。
それは交戦権を否定した九条二項と軍隊としての自衛隊は拮抗関係にあり、拮抗関係にあるがゆえに日本は「巨大な自衛力」と「例外的な平和と繁栄」を同時に所有している世界で唯一の国となった、ということである。
先日も書いたから、みなさんはもう聞き飽きたであろうが、二つの対立する能力や資質を葛藤を通じて同時的に向上させることを武道では「術」と言う。
「平和の継続」と「自衛力の向上」を同時に達成しようと思ったら、その二つを「葛藤させる」のがベストの選択なのである。

(内田樹 『憲法の話』 より)

なんとも刺激に満ちた現実主義者の言葉だ。

私は、内田樹の「下流志向」(講談社) は、しばらく前に買い込んだものの忙しさに紛れてまだ読んでいないし(今回の内田のブログ記事を知って読もうという気になり、ようやく読み始めた)、「9条どうでしょう」(毎日新聞社) は、今回初めて本の存在を知ったくらいだ。内田がブログで書いているように、加藤典洋による内田への言及のある記事が掲載された「論座」の6月号は、たまたま買ってあるが、加藤の長文の記事は、まだ全部読めていない。

こんな調子では、なかなか記事にもできないなともどかしく思っていたところ、メロディさんのブログ 「あんち・アンチエイジング・メロディ」 が、「論座」の加藤典洋の記事と「9条どうでしょう」を取り上げていた。

「あんち・アンチエイジング・メロディ」より
『9条、第三のオプション』
http://blog.goo.ne.jp/ibis083/e/a86103ee289b4efd79d9d3537108e4e2

これは、簡潔にまとめられたすぐれた論考だと思うので、是非上記リンク先をクリックしてお読みいただくことをおすすめする。当エントリは、メロディさんのこの記事を読んで、なんとかその尻馬に乗って公開にこぎつけたものだ。

別の記事でメロディさんが書かれるように、安倍政権は戦後最大の国難だと私も思う。なにしろ安倍は、「戦後レジームからの脱却」などと称しつつ、アンシャン・レジームたる「戦前レジームへの回帰」を図っている人間だからである。

しかし、それを批判するのに、「護憲勢力は議会の3%しかいない」などと言われても、それは「極少数派であるわれわれだけが正しくて、国民の大部分は間違っている」という自己満足の言説にしか聞こえない。

いま求められているのは、憲法九条が掲げる平和主義を守り、安倍の野望を挫くための現実的な道をさぐり、進んでいくことだと思う。


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1995年、ノルウェーの作家、ヨースタイン・ゴルデルの書いた哲学入門の本「ソフィーの世界」が日本でベストセラーになったことがあった。これは、もともと1991年に書かれた本だが、94年頃にドイツでベストセラーとなり、そのドイツ語版をもとに、ドイツ文学者の池田香代子さんが翻訳したものである。

私はこの本を2000年の夏休みに読んだのだが、大いにはまった。2つの点で、私の好きな作家・筒井康隆を思い起こさせるところがあったからである。

この作品は、物語仕立てで哲学史を語っていく。これは、1991年に日本でベストセラーになった筒井の「文学部唯野教授」と同じやり方である。そして、物語のちょうど真ん中に、あるトリックが仕掛けられている。これ以上書くとネタバレになるので表現をぼかすが、このトリックはいかにも筒井が好みそうなものだ。

この本の訳者の池田香代子さんは、2002年にヴィクトール・E・フランクルの名著 「夜と霧」の新訳 も手がけている(みすず書房から出版)。この本は、アウシュヴィッツに送られたユダヤ人精神医学者による体験記録書で、1961年刊の霜山徳爾の翻訳(同じくみすず書房から出版)で知られているが、その41年ぶりの新訳になった。

私は新版の出る前年の2001年に霜山氏の手になる旧訳でこの本を読んだので、池田さん訳の新版は持っていないのだが、こういう本の翻訳書を出すことからも想像がつくように、池田さんは反戦・平和の側に立つ方である。

その池田さんの「再話」によって構成されたのが、ベストセラー「世界がもし100人の村だったら」(2001年、マガジンハウス)である。これは、もともと「ネットロア」(インターネットによる民話)であり、発信者不詳の、インターネットを通して広まった物語を、池田さんが再構成したものである。当然、格差社会否定の側に立ったものである。

ところが、6月にフジテレビがこの「世界がもし100人の村だったら」に基づく番組を、あろうことか安倍晋三のプロパガンダとして悪用したのである。

私にはこれがどうしても許せなかった。それが、この記事を書く動機になった。