こんなに鬱陶しい年の瀬は第1次安倍晋三内閣時代の2006年以来だが、明日、5年3か月ぶりに第2次安倍晋三内閣が発足する。
6年前、「アヴェ・マリアが安倍マリアに聞こえるクリスマス」と書いたものだが、あの頃は気分は暗くとも、「安倍晋三よ、目にもの見せてやる」と闘志は満々だったし、根拠はなかったのだけれど安倍晋三なら倒せる、あるいは勝手に倒れるという漠とした希望的な予感があった。そしてそれは翌年7月(参院選)と9月(安倍退陣)に現実のものとなった。
しかし今回は、参院選で自民党が敗れるケースを想定するのが難しい。安倍は、参院選での敗北を回避するために、参院選までは持ち前の極右的な主張を抑え、憲法改定も原発再稼働も本格的に動き出すのは参院選のあとにしようと考えているだろう。保守系の週刊誌『週刊文春』は昨年の大飯原発の次の原発再稼働は来年7月の四電・伊方原発だろうと書いていた。電力会社(四国電力)の原発依存率が高く、自民党が強く、地元自治体も再稼働に前向きという条件が揃っているから、そうなる可能性が高いのではないかと私も思う。
安倍は牙をむき出すまでの間、経済政策をウリに自らの政権の人気を浮揚しようと計算していると思われる。私はインフレターゲットには反対ではないが、それだけで日本経済が浮揚したり、ましてや働く人々の賃金が上昇することはあり得ないと考えており、経済政策をてこにした安倍政権人気浮揚の試みは失敗するだろうと予想している。
しかし、それでも2007年の参院選のように、安倍自民党が来年の参院選で鮮やかな惨敗を喫する図は想定しにくい。当時政権交代を実現しうる政党として期待されていた民主党が無惨に瓦解してしまったためである。参院選で自民党が負けるにしても、あの小沢一郎に担がれた海江田万里が代表選で優勢と見られている(24日付の朝日、毎日など主要紙はそう予想し、今朝の朝日は「民主党代表、海江田氏選出へ」とまで書いている)民主党が安倍自民党を倒す図はほとんど考えられず、あるとしたら自民党以上にひどい極右・新自由主義政党である日本維新の怪の、今回の衆院選に続く躍進だろう。
自民党の政治家たちの構成も変わった。前回は安倍晋三が退陣したら、福田康夫が安倍よりははるかにマシな政権運営をするものと期待されたし、実際その通りになったが、その福田康夫も引退し加藤紘一も落選して自民党にはまともな人材がいなくなった。仮に安倍が前回同様ストレスに耐えかねて政権を投げ出したとしても、あとを継ぐ政治家も安倍と同程度か、石原慎太郎や橋下徹のように安倍よりもさらに悪質な人間が出てきかねないとあっては、前回と同じように「安倍さえ倒せば極右化は一段落する」とは計算できないのだ。そう考えると、あれほど大嫌いだった安倍に対してさえ前回と同じような敵意を抱けなくなっている。安倍晋三自身は前回と何も変わっていないにも拘らずである。安倍以外も安倍と同じような人間ばかりになってしまったせいだが、前回の怒りに代わって今回は諦めの念に支配されているのかもしれない。怒られそうな告白だが、これが偽りのない心境であって、個人ブログに嘘を書いてもしょうがないから正直に書く。
2006年から2007年にかけての年末年始には加藤紘一の著書を読んで、自民党にもこんな考えの人がいる、安倍晋三なんてきっと倒せるさと意を強くしたものだが、その加藤紘一も落選し、極右新自由主義の日本維新の怪が躍進した今回の年末年始は、希望を思い描くことはきわめて難しい。
辺見庸は近著の『明日なき今日 眩く視界のなかで』(毎日新聞社, 2012年)で、武田泰淳の言葉を引きながら、「泰淳流に言うなら『瞬間的な、突如たる滅亡』をどこかで待ち望んでいるかもしれない」と言っている(同書49頁)。どのような形をとるかは想像もつかないけれども、いずれ大きな破局が待ち受けているのではないかとは私も感じるし、同様の予感を持つ人は少なくないのではないか。
6年前の年末、教育基本法の改定をなしとげ、あれほどの「巨悪」と思われた安倍晋三が、巨悪群のワンオブゼムでしかなくなった2012年の幕切れには、「それでは皆さま、良いお年を」という決まり文句さえ使う気にはなれないのだ。
自民党は294議席を獲得する圧勝で、30議席の公明党と合わせて全議席の3分の2(320議席)を上回る議席を獲得した。
一方、前回(2009年)の衆議院選挙で勝利した民主党(57議席)、国民新党(1議席)、社民党(2議席)、それに事実上民主党から分かれた政党と言って良い日本未来の党(9議席)の4党が惨敗した。
年末には第2次安倍晋三内閣が発足する見通し。惨敗を喫した民主党の野田佳彦は代表辞任を表明した。
今回の選挙では、自民党の大勝もさることながら、失速するかと思われた日本維新の会への支持が意外にも強く、全体で第3党となる54議席を得た。維新の会は、自民党をも上回った近畿ブロックのみならず、全国的にも人気が凋落した民主党と互角以上に渡り合い、比例区に限っては第2党に躍り出た。恐るべき結果である。
一方、選挙前には民主、自民、維新と肩を並べる「第4極」として一部のマスメディア(東京新聞など)に取り上げられた日本未来の党は惨敗し、全体で第6党、比例区では共産党を下回る第7党に転落した。
極右の安倍晋三を総裁に戴く自民党の圧勝や、同じく極右の石原慎太郎と過激な新自由主義者の橋下徹が野合してできた維新の会の躍進がもたらす脅威については、くどくどとは述べない。そんなことはわかり切った話だからだ。
この記事では、マスメディアの選挙情勢報道を見て気づいたことを書いておきたい。それは、日本未来の党に関することだ。
私は、嘉田由紀子が日本未来の党を立ち上げて、小沢一郎の「国民の生活が第一」が解党してこれに合流したニュースを知って、「小沢一郎久々の剛腕発揮だな、これはこの政党はある程度波に乗って、30議席程度を獲得するんじゃないか」と思った。
何も私が小沢一郎を中心とする政治勢力に期待してそう思ったのではない。読者の方々もよくご存じの通り、私は大の「アンチ小沢」だ。いや、そのつもりだった。
しかし、メディアの情勢調査は、この新党結成によって旧「国民の生活が第一」が票を増やすどころか、逆に減らしてしまったことを示していた。たとえば朝日新聞の衆院選序盤の情勢調査では、日本未来の党の予想獲得議席数の中心値は14議席だった。しかし、選挙戦の間にも同党は勢いを失い、中盤の情勢調査では「10議席前後」に後退し、その通りの選挙結果になった。惨敗の度合いとしては、民主党と日本未来の党はほぼ同程度だったといえるだろう。
私はそのうち初回の情勢調査を接してようやく悟ったのは、有権者の多くにとっては民主党も日本未来の党も同じだということだ。考えてみれば当たり前の話で、両党は元は一緒で、国民新党・社民党とともに連立政権を作りながら有権者の期待にこたえられなかった政治勢力に過ぎないのだ。
私は普段「小沢信者」たちの手前勝手な主張をさんざん批判しているつもりだったのだが、それでも知らず知らずのうちに彼らに影響されて、民主党と日本未来の党は対立する存在だと思い込んでいた。しかし、それは誤りだった。
毎日新聞の「えらぼーと」を検討すればよくわかるが、民主党と日本未来の党の政策には大きな差はない。原発、消費税、TPPで見かけ上の対立軸は作って見せたものの、それらは決して政治的な信念に基づくものではなく、有権者の気を引くための「大道具、小道具」でしかなかった。それが証拠に、日本未来の党を事実上仕切っていたと見られる「一兵卒」は、かつて消費税率を引き上げようとして細川護煕政権を瓦解させたし、大の自由貿易論者として鳴らしていたし、大の原発推進派であり、東電原発事故以降に限っても、自公の菅政権不信任案提出を煽り、原発推進派の海江田万里を民主党代表選で担いだ。しかし、これらの行いが誤りだったという反省の言葉は、ついに一兵卒の口から発せられることはなかった。
こんなふざけた姿を見せつけられた有権者が、見え透いた人気取りの公約に騙されるはずもなく、だから日本未来の党は民主党と一緒に惨敗したのだろう。
もちろん民主党と日本未来の党が互いに刺客を送り合って潰し合いをしたことも選挙では−に働いたといえるかもしれない。
しかし、そんな枝葉末節な話ではなく、私が今回の選挙で非常に大きな不満を感じたことが2点ある。
1点は、あれだけ政党が乱立しても、日本未来の党を含めて社会民主主義的な政策を掲げる政党が1つも現れなかったことだ。それどころか、既存の「社会民主党」を名乗る政党の幹部が「減税日本と政策が一致した」と発言し、私を激怒させた。
社民党の幹部がこんなことを言い、党首は党首で「社民党はまず無駄を削りますぅ」を決めゼリフにして、あまつさえ実質的に小沢一郎率いる、決してリベラルではない政治勢力と野合するようでは、こんな政党に投票するわけにはいかない。だから私は今回の選挙で共産党に投票した。今の社民党はもはや社民主義政党とはいえない。今回の衆院選でわずか2議席にまで議席を落として惨敗したのも当然だ。
今の日本に必要なのは、「なんちゃって」ではない本当のリベラル政党、社民主義的な政策をとり、間違っても「まず無駄を削る」などと言わない、反緊縮財政の政党だとずっと思っているのだが、ついにそれが現れないまま衆議院選挙に至った。それが昨日投開票された選挙だった。
この選挙では、私の全く好まない右翼的あるいは新自由主義的政治勢力が躍進したほか、個別の政治家をとってもリベラルな政治家たちがずいぶん落選した。党が圧勝する中で落選した自民党の加藤紘一などはその象徴的な存在だ。この人は、自民党の政治家の中で自ら「リベラル」を名乗る最後の人だった。
民主党の政治家については、落選した候補者を云々するよりは、数少ない当選者として長島昭久、松原仁、原口一博らの右翼や海江田万里のような原発推進派が生き残っていることが気分を暗くするし、日本未来の党でもこれといったリベラルの当選者は社民党から移った阿部知子くらいしか思い当たらない。特に後者については「リベラル政党」の仮面を被っているにもかかわらず、その主体となった旧「国民の生活が第一」が実際に国会でやったことといえば、今回落選した外山斎や参議院の森裕子らによる、河野談話を不満としての河野洋平氏の参考人招致要求だったりするなどのひどい言行不一致を考え合わせると、民主党ともども何が党の特徴なのかわからない「鵺」(ぬえ)のような政党だった。これでは有権者の信頼が得られなかったのも当然だ。
日本未来の党については、支持者や党員の過剰なまでの小沢一郎への依存が党をスポイルしたと思う。リベラル政党を構築したいのなら、まず小沢一郎の呪縛を完全に断ち切る必要があるのではないか。今回の惨敗で「小沢神話」が完膚なきまでに砕け散った今がそのチャンスと思われる。
敗因を虚心に分析することなく、「『マスゴミ』(笑)が日本未来の党を意識的に取り上げずに無視したことが衆院選の敗因だ」とか「『悪徳ペンタゴン』(笑)の陰謀だ」などと言っているうちは、いつまで経っても再起はままなるまい。次の国政選挙では1議席も獲得できずに消えてしまうに違いない。
リベラルな政治勢力を構築する場合、特に「サービスの大きな政府」を明確に主張することが必要不可欠だろう。民主党にしても日本未来の党にしても、間違ってもそんな政党ではなかった。昔から「減税」があたかも「庶民の味方」の政策であるかのような誤った考え方がこの国には蔓延しており、日本未来の党にも減税日本からの合流組が加わっていたが、このような間違った認識は一刻も早く捨て去るべきだ。もちろん、減税日本のような政治勢力を仲間に引き入れてはならない。
もう1つは、ちょっとした民意の変化を大きく拡大する選挙結果を生み出す小選挙区制の弊害だ。小選挙区制が新たな政治勢力の台頭を阻むことは、今回多くの新党が乱立したが、議席を伸ばしたのがその中でももっともたちの悪い日本維新の会のただ一党だったことから明白だ。前回の極端な民主党圧勝、自民党惨敗から今回の極端な自民党圧勝、民主党惨敗へと振れた振幅の激しさなど、この制度が百害あって一利なしであることは、特に「リベラル・左派」の方々にははっきり理解されたのではないか。
この制度を生み出した原動力となったのは、政治家では小沢一郎、菅直人、鳩山由紀夫といったかつての民主党の「トロイカ」たちであり、彼らが90年代の「政治改革」を主導した。自民党の政治家はむしろ概ねこれに批判的だったが、今回は7年前に続いて、新旧民主党の政治家たちが自らが推進した「政治改革」にしっぺ返しを食った。
もういい加減、小選挙区制を廃止して比例代表制を軸とした政治制度に作り替える国民運動を起こしても良い時ではないか。今後、新たにリベラル政党を立ち上げる運動を起こすのであれば、「政治改革」と小選挙区制を否定し、選挙制度を作り変える政策を掲げるべきだろう。
これから政治はますますひどくなる一方だろうけれども、最後の最後まで諦めるまい。そう思い直して開票速報を伝えるテレビのスイッチを切ったのだった。
自公が過半数割れするならともかく、自民党が単独過半数であれば、民主党をはじめ日本維新の会などが連立してもキャスティングボートは握れず、来年の参院選で連立与党として批判されて票を減らすだけだからである。公明党の場合は固定票に支えられた政党なので、その種のデメリットはなく、自民党と組んだからといって参院選で不利になることはない。だから、第2次安倍内閣は以前と同じ自公連立政権となる以外にはまず考えられない。
ここまで結果が見えていれば、反自民・反維新の私としてももう覚悟はできており、次期政権に対する反体制側からの反攻はいかにあるべきかを考えることが多くなっている。
だが、そのことについては、選挙結果が出る来週またはそれ以降のエントリで触れたいと思う。現在は選挙戦の真っ最中だから、今行われている論戦について思っていることをこの記事に書きたい。
私は、一昨年秋にmixiに『鍋党〜再分配を重視する市民の会』というコミュを立ち上げ、コミュのメンバーと共に同名のブログも運営している。
再分配というからには税制や社会保障を主なテーマにしているのだが、私自身は初期の数件を除いて記事を書いておらず、できるだけ多くの著者に記事の執筆をお願いしたいと思っている。
しかし、残念ながらブログには閑古鳥が鳴いており、たとえば昨日(12月9日)のアクセス数はわずか27件(ユニークアクセス数)だった。昨日の当ブログは2139件(トータルアクセス数)、『kojitakenの日記』は7604件(ユニークアクセス数)だったから、それらより2桁少ないアクセス数しか得られていない。それというのも新しい記事が月1,2件しか公開されないためだろうと思っている。
さらにいえば、税制や社会保障に関する議論が不活発である世情を反映しているともいえるのではないか。今回の衆院選でもこれらの問題についての議論があまりなされていないことは、毎日新聞が国政選挙の度に実施している「毎日ボートマッチ『えらぼーと』」でも、設問は消費税について聞く問4と、基礎年金の財源について聞く問5の2問しか用意されていない。また、関連するジャンルである労働問題に関する問も、2009年の政権交代総選挙の時は製造業の派遣労働に関する設問と最低賃金に関する設問があったのに、それは今回はなく、女性宮家の賛否とか、選挙公約は守るべきか柔軟に対応すべきかなどという、言ってみればどうでも良い設問が増えていて、正直言って今回の「えらぼーと」には失望感を禁じ得なかった。毎回楽しみにして評価もしている企画であるだけに残念だ。
今回の「えらぼーと」の設問には、政権の枠組に関する設問があり、これもどうでも良い設問だと私は思ったが、毎日だけではなく公示日(12月4日)の朝日新聞夕刊を見ても、「政権枠組み 焦点」とか「第三極の伸張カギ」などという見出しが躍っていて、なんでマスコミはそんなことしか言わないのだろうと苛立ちを感じる。
たまたま昨日、『志村建世のブログ』のエントリ「格差是正を言うなら税制の是正をなぜ言わぬ」を見つけた(下記URL)。論旨に共感したので以下に紹介したい。
http://pub.ne.jp/shimura/?entry_id=4660165
格差是正を言うなら税制の是正をなぜ言わぬ
政策として格差の是正を言う政党は多いのだが、なぜか消費税は別として税制の是正を主張する政党が少ない。所得の格差を是正するには、誰が考えても、金の余っているところ余裕のあるところから、金の足りないところへ回してやるのが王道で、それが政治の役目というものだ。ところが資本集積のための金持ち優遇策がすでに充分以上に効果を発揮しているのに、これを是正する税制の修正が全くと言っていいほど進んでいない。
過度に集積された資本は退蔵されて「死に金」になるばかりでなく、投機資本として世界の経済を混乱させる悪さもする。それがわかっても、ブレーキをかける政治の力が働かないのは、多国籍企業に課税の網をかける国際協調がないからだ。各国はむしろ税の安さを武器にして資本を呼び寄せ、強いられた国際競争に生き残ろうとする。この全体を、1%にも満たないごく少数のパワーエリートたちが、超大国の政治・経済を駆使して仕切っているのが現代なのだ。
先日放送されたBS世界のドキュメンタリー「アフリカ争奪戦」は、ザンビアの銅を取り上げていたが、民営化され多国籍企業に売却された鉱山が、豊かな銅の生産で利益をあげているにもかかわらず、巧妙な会計操作で地元ザンビアの貧困解消には役立っていない状況をレポートしていた。帳簿上の最大の輸出先がスイスで、現物とは無縁の村が税収で潤っていたりする。
誰が見ても狂っている現代を救うためには税制の正常化が不可欠なのだが、これを言い出すには勇気がいる。日本だけで実施したら国が滅びるといった議論が必ず出てくるに決まっている。それでも、どちらが正常かを冷静に考えてみてほしい。
高度成長期で国民総中流と言われた時期までの、日本の個人所得税最高税率は80%で、住民税を加えた実効では92%だった。法人所得税は一律で42%だった。当時は世界でもこの程度が常識だった。これを半分ほど元へ戻すだけでも消費税など不用になるのだが、これは危険思想だろうか。
世界の経済に組み込まれている現代ではあっても、政治と経済について、政治家は進むべき高い理念を持っていていい。そういう政治家は、今どこの党にいるのだろう。
この記事を読んで思い出したのは、政権交代から4か月目に鳩山由紀夫内閣の財務大臣が藤井裕久から菅直人に代わった2010年1月、政府税制調査会専門家委員会の座長に神野直彦氏を招聘し、神野氏はまず直接税の課税ベース(課税範囲)を拡大して直接税の税収を増やしたのち、日本がアメリカ型の「小さな政府」路線をとるならそのまま直接税中心の税制にして、ヨーロッパ型の「サービスの大きな政府」を目指すなら直接税の税収の足りない分を間接税で補うというロードマップを示した。
しかし、のちに総理大臣になる菅直人は、そういう道筋ではなく消費税の増税を先行させようとした。実際には菅はそれと並行して所得税の増税も考えていたのだが、その方向には進まなかった。それが菅が総理大臣に就任した直後の2010年の参院選における民主党の敗北につながった。
一方、連立のパートナーだった社民党の福島瑞穂党首は、「まず無駄を削減しますぅ」というお得意の科白を炸裂させ、社民党がいかなる税制を目指すのかという構想は示さなかった。さらに、民主党内の反主流派の頭領となった小沢一郎は、河村たかしの「減税日本」立ち上げを支援した。
結局、神野氏の描いたロードマップは連立与党の政治家たちに全く顧みられなかった。その後、神野氏はしびれを切らしたか、「所得税と消費税は税の両輪」と主張するようになった。つまり、所得増税先行から所得税と消費税を並行して進めよという立場に転換し、そのことによって「消費税増税論者」として批判されることになった。しかし、神野氏の当初の構想を菅直人、福島瑞穂、小沢一郎ら政治家が無視した責任の方がより重いと私は今でも考えている。
あの当時、「民のかまど」という神話を持ち出して、無税国家の理想だの減税だのを語った民主党(系)の政治家が3人いた。河村たかし、小沢一郎、それに野田佳彦である。当ブログでそれを批判したのは、2010年9月27日のことである(下記URL)。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1113.html
それから1か月あまりのち、私は前述の「鍋党(鍋パーティー)」のコミュを立ち上げ、翌2011年1月にはブログもスタートさせたのだった。
ブログの当初のターゲットは、日本版ティーパーティーを目指していたかの感のあった河村たかしの「減税日本」だった。立ち上げた当初は私も力を入れていたのだが、2か月後に起きた東日本大震災と東電原発事故のあとは、原発問題の記事を個人ブログに書くことに注力しすぎて、再分配のコミュやブログに割く労力が減ってしまった。
そして、いつしか社民党の副党首(又市征治)が「減税日本と政策が一致した」と社会民主主義を標榜する政党の幹部とは思えないことを口走るようになり、それとともに社民党の衆院選の議席予想は2議席プラスマイナス1議席にまで落ち込んでしまった。
今、自民党総裁の安倍晋三が主張しているのはインフレターゲットと金融緩和であり、それによって景気が良くなるなどという調子の良い喧伝がなされている。
私は何もインフレターゲットを否定するものではないが、すでに十分すぎるほど緩和している金融のさらなる緩和とインフレターゲットだけで景気が良くなったり、ましてや彼ら「上げ潮派」の言うようなトリクルダウン理論によって、富裕層の「おこぼれ」で下々の暮らしが良くなることなどあり得ないと考えている。財政政策による、強力な再分配が絶対に必要である。
しかるに、最初に触れた毎日新聞の「えらぼーと」の回答を見ると、たとえば日本未来の党の小沢一郎候補(岩手4区)は、消費税は撤廃し、基礎年金の財源は全額税方式にせよと言っている。その一方で、小沢候補は河村たかし名古屋市長の「減税日本」を支援し、日本未来の党には河村市長の減税日本と山田正彦・亀井静香両前衆院議員らが合流して作った新党、略称「脱原発」が合流した。このことから考えて、小沢候補は自民党時代に主著「日本改造計画」を書いた頃から一貫して主張してきた「所得税・住民税の大幅減税」という考え方を今も強く持っているものと思われる。
果たして財源はどうするのだろうか。安倍晋三と同じように、小沢候補もまたトリクルダウン理論を信奉しているのだろうか。私には皆目見当がつかない。
東京新聞は、日本未来の党を「リベラルのとりで」と形容して応援しているようだが、私は毎日新聞の「えらぼーと」から、当選が期待される日本未来の党の候補者20人をピックアップしてその回答を調べてみた。
私がピックアップしたのは、横山北斗(青森1)、達増陽子(岩手1)、佐藤奈保美(岩手3)、小沢一郎(岩手4)、小泉俊明(茨城3)、小宮山泰子(埼玉7)、阿部知子(神奈川12)、木内孝胤(東京9)、青木愛(東京12)、東祥三(東京15)、橋本勉(岐阜2)、佐藤夕子(愛知1)、牧義夫(愛知4)、鈴木克昌(愛知14)、村上史好(大阪6)、中村哲治(奈良2)、菅川洋(広島1)、亀井静香(広島6)、山田正彦(長崎3)、玉城デニー(沖縄3)の計20候補である。
20人のうち、憲法改正に反対している候補が5人しかいないとか、集団的自衛権政府解釈見直しに賛成している候補が小沢一郎候補を含めて7人もいるとか、民主党時代には「解釈改憲派」だったはずの小沢候補がいつの間にか明文改憲に賛成する意見に戻っているとか、小泉俊明、東祥三、村上史好の3候補が「国際情勢次第で」核武装の検討を容認しているなどなど、経済政策以外にも気になることは山ほどあるが、消費税撤廃を小沢候補を含む15人が主張し、うち小沢候補を含む8人は基礎年金の財源は「全額税方式」にすべきだと答えている。その一方で、この政党は減税日本出身者も抱えているし、上記20候補の中にも減税日本経由の人たちがいる。
しかし、彼らが所得税を含む税制全般についていかなる意見を持っているかは、「えらぼーと」の設問がないために、この企画だけからは候補者たちの主張がわからないのである。
ここで例に挙げたのは、東京新聞に限らず朝日なども「4大政党」の一角を占めるかのスペースで報じている日本未来の党だが、同党に限らず、民主党にしても他の多くの政党にしても、税制全体についてどういう構想を持っているのか、さっぱりわからない。
さらに言えば、安倍晋三ら「上げ潮派」のトリクルダウン理論に対抗すべき、「左」側からの税収拡充策が有権者に示されていない。これでは日本政治において経済政策が右へ右へと、言い換えれば新自由主義の方向にばかり向かうのもやむを得ないのではないか。
志村建世さんの記事に戻ると、そのコメント欄に私は注目した。
1%の少数派が、選挙では過半数の得票を獲得する。そのカラクリは何か。
『格差はつくられた』(ポール・クルーグマン・早川書房)は、4年前のオバマ登場前に書かれた本であるが、「白人の黒人への差別意識」を巧妙に取り込んだということ。露骨な黒人差別は無理だから、「生活保護の多くは黒人だから、生活保護攻撃=黒人攻撃」というカラクリを発明した。それが、レーガンで大成功。
その本では、格差の原因を「最高税率の低下=金持ち優遇税制」に置いている。アメリカでも、ニューディール以後、レーガン登場までは、最高税率は70%あった。それが引き下げられ、格差社会となった。そして、分厚い中間層の低落が、不況の原因となった。
最高税率アップこそが、格差是正の決め手であり、不況脱出の決め手である。国会で決めればOKとなる。
このコメントに、志村さんは下記のように返答された。
その気になれば単純なことなのに、まともに実行しそうなのは共産党だけになりました。多数決民主主義における最大の不思議です。反論は「金持ちが逃げ出す」ですが、多分に脅しでしょう。
ブログ主の志村さんは、確かかつての民社党を支持されていた方だと記憶している。その志村さんをして、「まともに実行しそうなのは共産党だけになりました」と言わせしめるほどに、経済政策においても日本の政治は極右化している、そう私は考える。
政治思想的に日本の政治家が激しく右傾化していることについては、「えらぼーと」を実施した毎日新聞の記事に詳しく書かれている(下記URL)。
http://senkyo.mainichi.jp/news/20121208ddm003010113000c.html
この記事によると、自民党候補の38%が核武装を「検討すべきだ」としており、「核兵器を保有すべきだ」との選択肢を選んだ候補も1人いた。その候補が誰かは、私はまだ調べていない。
自民党ほど多くはないが、民主党や前述の日本未来の党にも核武装を「検討すべきだ」と答えている候補が少なくない。「将来にわたって検討すべきではない」という当たり前の答えをしたのは、民主党では85%、日本未来の党では80%止まりだった。繰り返すが、(当選できるかどうか怪しいとはいえ)日本未来の党の幹部級である東祥三も核武装を「検討すべき」との意見である。この選択肢に限らず、憲法改正の是非をとってみても、日本未来の党は保守政党である民主党よりもさらに「右寄り」であり、それなのになぜ東京新聞が日本未来の党を「リベラルのとりで」などと持ち上げるのか、私には全く理解できない。
そして、右傾化は何も憲法問題や外交・安全保障問題に限らない。経済や社会保障、それに労働政策に関してもすさまじい右傾化が進んでいる。その象徴が、橋下徹の「日本維新の会」が大阪を中心として大人気を博しており、衆院選後には自民党、民主党に次ぐ第3党に躍進することが確実視されていることだ。
なお、この「日本維新の会」には核武装を「将来にわたって検討しない」と答えた候補はわずか17%しかおらず、経済政策と安全保障政策の両方で、自民党よりもさらに「右」に位置する、恐ろしいまでに過激な右翼政党(極右政党)であるといえるだろう。自民党も、総裁の安倍晋三は極右政治家だが、党全体で見ると維新の会の方がより極端で過激だ。
要するに、今回の選挙では、政治思想的にも経済政策的にも日本が大きく右に舵を取り、時代が悪い方に大きく変わる、そのターニングポイントとなり、後世からは批判を浴びる選択がなされることになる。
政治に対する関わりを、中道左派としてスタートさせた私は、今、「自民民主維新未来みんなはみんな同じ」と書いては、「こういう極端な意見を持つ人のブログに人気があるのは問題だ」などと、一部の「小沢信者」系零細ブロガーに叩かれる、つまり「極左」とみなされるまでになった。しかし現在は、かつて民社党を支持されていた志村建世さんが「まとも(に実行しそう)なのは共産党だけ」と書かれるようになっている。つまり、私が左傾したのではなく、日本人全体がかつてと比較して大きく右傾化した、そう私は考えている。傍証として、前にも書いたけれども、中道右派の政治家として自民党を割って新自由クラブを立ち上げた河野洋平が、今ではネトウヨや産経新聞記者に「紅の傭兵」と表記されてやはり「極左」呼ばわりされていることを挙げておこう。河野洋平も新自由クラブを立ち上げた1976年と2012年の現在で、政治的なスタンスは全く変えていないと私は認識している。そして、海外メディアが指摘したように、日本の激しい右傾化は日本の衰退を反映するものにほかならない。
とはいえ、こうやってブログの記事でどんなにあがいてみたところで、もうこの流れにストップをかけることはできそうにもない。投票日までにはあと6日あるけれども、もう大勢は決した。賽は既に投げられたのだ。
これからどうやって生き延びていこうか。そんなふうにを考えることが増えてしまった。本当に嫌な時代になった。
『kojitakenの日記』では、このところずっと「日本未来の党」を批判してきた。原発推進派の稲盛和夫や、決して「脱原発」ではない茂木健一郎が応援団に入り、昨日(2日)大阪府市の特別顧問を辞任したとはいえ紛れもない「橋下人脈」だった飯田哲也が代表代行を務め、代表の嘉田由紀子自身もまた「橋下人脈」という、あまりにも怪しい政党である。嘉田由紀子が原発再稼働を容認したり(すぐに前言を翻したようだが)、今なお橋下徹を持ち上げるかのような発言をするなど「ブレ」を見せると、候補予定者の方も青森1区(横山北斗)と同2区(中野渡詔子)が大間原発建設と核燃サイクルのそれぞれ継続を容認する発言をするなど、「なんちゃって脱原発」政党のメッキは早くも剥がれかかっている。
そんな「日本未来の党」を後押しし、社民党や共産党も共闘しろと叫ぶのが「マガジン9」だ。11月28日付の「今週の『マガジン9』・衆院選で示したい私たちの意志」というコラムの冒頭は下記の通り。
「こんなにも右傾化してしまって・・・選挙後、日本は暗黒の4年間を過ごすことになる」と元外交官の孫崎享さん。
「国民の多くは中道リベラルをのぞんでいるはず。それなのに受け皿がない」と元農相の山田正彦さん。
彼らの言葉に同意しつつため息をついていた先週でしたが、ここにきて希望が見えてきました。すでにマスコミでも大きく報道され、今週の「お散歩日記」でも取り上げていますが、「卒原発」を掲げる新党「日本未来の党」が27日に結成表明されました。(後略)
いきなり、トンデモ本『戦後史の正体』で「押しつけ憲法論」を開陳した孫崎享の発言が飛び出したのにはのけぞったが、これが「マガジン9」の現状だ。こんな文章のあとに「日本未来の党」礼賛が続くのは必然だといえる。
だが、そんな怪しげな「日本未来の党」でも、石原慎太郎と橋下徹が野合した「日本維新の会」を食ってくれるのであれば、それだけはこの政党の存在意義を認めざるを得ないかもしれない。
それほど、「日本維新の会」は飛び抜けて悪質な政党だ。圧勝して政権奪回が確実視される自民党の安倍晋三もトンでもない人間で、前回総理大臣をやった時と比較しても、ネトウヨとじゃれ合って保守系週刊誌の『週刊文春』にまで叩かれるなど、総理大臣辞任後の5年間で成長するどころか逆に一層劣化しているが、「なんちゃって脱原発政党」の日本未来の会、野田佳彦(野ダメ)以下の松下政経塾が牛耳る民主党、ネトウヨマインドの安倍晋三が率いる自民党のいずれと比べても悪質なのは、やはり「日本維新の会」なのだ。
朝日新聞の最新の世論調査を見ると、「いま投票するなら」という問いへの回答は、自民20%、民主15%、維新9%、未来3%となっている。朝日は「維新はこれまで伸び続けたが、今回は勢いが弱まった」などと書いているが、あれほど石原慎太郎と橋下徹以下「大阪維新の会」の面々が違うことをしゃべり、党内不一致を露呈している日本維新の会が全然支持率を落とさないことに、私は驚きはしないどころか予想通りではあったが、寒心を禁じ得ない。
これは何を意味するかというと、橋下徹や石原慎太郎は何をやっても支持者が許してしまうということだ。今回の総選挙でも、大阪の小選挙区では維新の圧勝が目に見えている。一方、東京はわからない。石原慎太郎の個人人気は、維新の得票にはさほどつながらないのではないかと私は予想している。石原は、かつて所属していた自民党でも党内人気のいたって低い政治家だった。1989年の自民党総裁選では、わずか48票しか獲得できずに惨敗した。この時に剛腕を発揮して海部俊樹を圧勝させた原動力の1人が小沢一郎で、それ以来石原は小沢を毛嫌いしているとの話もある。
どういうわけか都知事選では石原は強く、東京都を壟断してきたが、国政選挙ではそうは行くまいとは思う。しかしそれでも、近畿地方を中心に維新はそれなりに選挙を引っかき回すだろう。
仮に朝日新聞の世論調査から想定される程度の、数十議席(それも「数」は5未満の数字)の獲得に終わるとしても、あれほど石原と橋下の主張が食い違って政党の体をなさないままの議席獲得は、日本の政治の未来にとてつもない悪影響を及ぼすと思うのだ。
つまり、維新への投票は、政策などどうでも良い、力強くて頼れそうなリーダーに引っ張ってもらえるなら、リーダーのどんな悪逆非道な振る舞いでも受け入れますよという意思表示なのだ。それを『週刊ポスト』や『週刊現代』といった週刊誌が煽る。両誌は、石原慎太郎批判記事の掲載を競った伝統がある一方、最近では橋下擁護の過激さを競っていた。今度の衆院選では、維新の会の党内でも橋下と石原は明暗を分けるのではないか。つまり、西で躍進する橋下に対し、東で伸び悩む石原という図式だ。飯田哲也や古賀茂明といった「橋下ブレーン」も、石原は批判するが橋下への批判は腰が引けている。「悪いのは石原だ、橋下さんじゃない」といわんばかりだ。だが、石原を引き入れたのは他ならぬ橋下なのである。
今回の、原発問題や労働問題に関する橋下と石原の不一致にしても、原発問題の石原の暴走はひどいけれども、「最低賃金廃止」を打ち出した橋下もひどいものだ。石原は、橋下が竹中平蔵に心酔し、竹中の言うがままに「最低賃金廃止」を打ち出したと言ったが、橋下は「竹中の傀儡」どころか、竹中平蔵さえさらに突き抜けたトンでもない「しばき主義」の経済政策を勝手に打ち出しているのである。
実際、竹中平蔵はこんなことをつぶやいている。
https://twitter.com/HeizoTakenaka/status/274888686229917696
石原慎太朗(ママ)殿 自由報道協会で石原さんが、「維新の最低賃金廃止は竹中の案」という趣旨の発言をされたと報道されています。事実と異なります。私はこれまで最低賃金廃止を主張したことも、考えこともありません。事実関係は橋下さんに聞いてください。事実に基づく発言をお願いします。
私もちょっと調べたが、この件に関しては竹中の言う通りなのだ。また、税制に関しても、竹中は実は所得税重視論者だが、アメリカなど「小さな政府」をとる国は、税制は直接税中心であって、竹中は新自由主義者らしい主張をしているといえる。一方、橋下はというと「フラットタックス」を提唱している。よく、橋下は「ベーシックインカム」を主張する再分配論者だから「経済左派」だ、などと見当外れのことを言う人間がいるが、それは大間違いであって、橋下の言うベーシックインカムは累進課税を否定するフラットタックスとセットになっている。つまり、橋下は竹中平蔵よりもさらに過激な、「トンデモ」というほかない究極の「経済極右」なのである。
そんな橋下の言い出したトンデモ政策を竹中平蔵のせいにする石原も石原なら、同一価値労働同一賃金が全く実現されていない日本で最低賃金を廃止することは、ブラック企業を繁栄させるだけであるのは自明であるにもかかわらず、こんな妄論を公約にする橋下も橋下だ。維新の公約には、「骨太」という見覚えのある文字があり、橋下が竹中平蔵から強い影響を受けているのは事実だろうが、その竹中よりさらにずっとトンでもない極悪政策を実施しようとしているのが橋下だということを理解しなければならない。例えばスウェーデンでは法定最低賃金はないが、産業別労働組合の力が強いので、実質的な最低賃金は高く、かつ同一価値労働同一賃金を目指そうとしているので、ブラック企業は淘汰され、存続できない仕組みになっているのだ。余談だが、以前私が当ブログで「最低賃金も払えないような企業は市場から退出すべし」と書いたところ、「新自由主義者の主張だ」として批判されたことがある(苦笑)。
以上から、「石原は悪いが橋下さんは悪くない」などという理屈が成り立つはずはない。「石原も悪いが橋下も悪い」というのが本当のところであり、日本維新の会は安倍自民党よりもたちが悪い。安倍晋三は、かつて有権者が下した審判によって政権を失ったことがあるが(最後には安倍は自分から政権を投げ出したが、それは2007年の参院選で自民党が惨敗したことの必然的帰結だった)、有権者が石原や橋下に土をつけたのは、石原の場合は1975年の東京都知事選に遡らなければならず、橋下の場合は全くの土つかずである。「力のありそうなリーダー」に引っ張られたいと思う有権者が多いことが、このような理不尽な結果を招いている。
今回のようなでたらめぶりさえ有権者が許してしまうと、政治にはモラルは全く必要ないと有権者がみなしたことになってしまい、それが日本の政治の未来に与える悪影響の大きさは計り知れない。倫理の崩壊は既に、地下原発推進議連の亀井静香と、核武装論者の石原慎太郎にすり寄って一度は合流を決定した減税日本代表の河村たかしが「脱原発」を僭称する政党を作った(日本未来の党に合流して消滅する予定ではあるが)ことにもはっきり認められるが、悪辣さの程度は石原・橋下と亀井・河村では比較にならない。
最初に批判した嘉田由紀子、飯田哲也、古賀茂明らの問題点も橋下を批判しきれないところにあり、「日本未来の党」を操っているとみられる小沢一郎にしても、これまでずっと橋下にすり寄り続けていた。今でも、小沢が橋下を批判したという話は聞かない。それどころか、選挙後に石原と橋下が分裂でもしようものなら、嘉田、飯田、古賀らをブリッジにして、日本維新の会と日本未来の党が「大連立」(笑)を組む可能性さえあるのではないかと私は疑っている。
小沢一郎も、橋下や石原の人気には及ばないけれども「剛腕」のイメージに惹かれてか「小沢教」に入信する人々が未だに後を絶たない。最初の方でネトウヨとじゃれ合う安倍晋三の話をしたが、確か週刊文春だったか、安倍晋三にお追従たらたらのネトウヨを描写した記事を読んで、「小沢信者」が小沢一郎を持ち上げるさまと瓜二つだなあと呆れ返ったものだ。橋下徹と合わせて「ネットで異様な人気を誇る3人」の観もある。
しかし、テレビが持ち上げたがるのは、安倍晋三や小沢一郎よりもなんといっても橋下徹であり、やることなすことがめちゃくちゃである点でも橋下がもっともひどい。その橋下と石原の組み合わせは、まさに最低最悪。次期総理大臣就任が確実な安倍晋三も、絶対に叩きまくらなければならない政治家だが、橋下と石原は、ともに何が何でも政界から退出させなければならない人間だ。
だから、今回の選挙における私の最大の関心事は、どれくらい維新の会の議席の伸びを抑えられるかである。もちろん、安倍が維新と連立を組む選択をする可能性も少なからずあるから、自民の伸びも極力抑えたいが、民主党や日本未来の党も維新や自民と比べれば悪質度が少し低い程度の政党でしかない以上、今回の総選挙における選択のあまりの不毛さに絶望感を抱かずにはいられないのである。
私が呆れているのは何も小政党の乱立ではない。それなら90年代にもあった。呆れるのは理念なき者たち、あるいは理念を放棄してしまった者たちの見苦しい振る舞いである。
現在は衆議院が解散されてどの政党も議席を持っていないが、解散前に圧倒的な議席を持っていた民主党や、野党第一党の自民党にも呆れ果てることばかりだった。しかし、今回は両党以上に信じられない妄動を行った政党とその関係者を俎上にあげたい。日本維新の会、減税日本・反TPP・脱原発を実現する党(略称「脱原発」)、それに社民党の3党である。
日本維新の会については、今更書くまでもないだろう。石原慎太郎(4日しか続かなかった「太陽の党」)との野合やみんなの党との合流工作や、「減税日本」の排除工作をめぐるゴタゴタを起こしまくったあげく、選挙資金が足りず、候補者たちに自腹を切れと要求する始末。金を工面することができずに、香川1区と京都1区で公認予定候補者が逃げ出す醜態を晒した。
このうち香川1区は、前回の総選挙が行われた時に私が有権者だった選挙区である。維新の怪の松井一郎や橋下徹は、一昨日(24日)に高松市内で街頭演説を行いながら、「残念ながらまだ香川県で小選挙区候補は決まっていない」と突然宣言する赤恥を晒したが、その醜態を生で見てみたかったものだ。
ところが、その橋下の、というより石原慎太郎を党首に戴く「日本維新の怪」が、共同通信の調査でも朝日新聞の調査でも支持率を解散直後より上げている。おそらく、テレビのワイドショーやスポーツ新聞、週刊誌その他がここぞとばかり維新の会を持ち上げまくっている影響だろう。少し前の自民党総裁選の時にも経験したばかりだが、マスコミが多く取り上げるほど政党支持率が上がるというどうしようもない傾向が今の日本にはある。まあ維新の怪については、来週の週末には現在のゴタゴタを反映して支持率が急落することを期待しておこう。
その維新の怪も派手にやらかした野合の問題に話を移す。ここで当ブログが槍玉に挙げるのは略称、否、僭称「反原発」である。なぜ「僭称」と決めつけるかといえば、この政党は亀井静香、山田正彦と河村たかしが野合した政党だが、このうち亀井静香は地下原発推進議連の顧問であり(記事を書くためにネット検索をかけたが、亀井が地下原発推進議連を脱退したとの情報は全く得られなかった。亀井は現在も顧問にとどまっているものと推測される)、河村たかしは東電原発事故以降「脱原発」を掲げていながら、ついこの間、脱原発など間違っても言わないどころか核武装論者である石原慎太郎の「太陽の党」と野合しようとして、あとから入ってきた、これも「脱原発」を標榜していたはずの「日本維新の怪」に野合のパートナーを奪われて追放されたばかりだからだ。つまり、亀井静香も河村たかしも間違っても「脱原発派」などではない。その彼らが党の略称を「脱原発」として恥じない面の皮の厚さには恐れ入るばかりだ。ところが、彼らの支持者は誰も有権者を馬鹿にした彼らの妄動を批判しない。支持者が政治家を甘やかすようでは日本の政治はいつまで経っても良くならない。
その僭称「脱原発」よりもさらにひどく、目も当てられないのは、この「脱原発」の前身の一つである「減税日本」と野合した社民党である。23日付の読売新聞が報じるところによると、同党の又市征治副党首は22日の記者会見で、「『生活』や減税日本などとは政策がおおむね一致してきているので、選挙で一定の協力が行われるのは当然だ」と述べた。
この又市発言に対する批判は『kojitakenの日記』にも書いたが、要するに、社会民主主義と護憲を掲げる社民党が、その二枚看板と真っ向から対立する河村たかしと野合することは、政党の理念を捨てることに等しい自殺行為である。少なくとも私はもう社民党を護憲の党とも社会民主主義の党ともみなすことはできない。この党の消滅は時間の問題だろう。
ただ、このような非常識な野合が行われる背景に、第1党に極端に有利で、第2党にもそのおこぼれがあるものの、第3党以下には著しく不利益な小選挙区制という選挙制度の問題があることは指摘しておかなければならない。つまり、問題は1990年代に遡る。最近ではもう政治改革に対する批判が、それを推進してきたマスメディアの間でもタブーではなくなりつつあるが、政治家でもっとも強くこの政治改革に関与したのは小沢一郎である。小沢は、第3極はおろか第4極になり果てた今でも比例区の定数削減を唱え続けているが、これでもっとも大きな不利益を被るのは小沢自身の「国民の生活が第一」のような、第3極にもなれない政党群だろう。
現在のような制度においては、政党の新規参入障壁は極めて高い。だから橋下徹はマスメディアで名前を売ってのし上がり、地方自治体の首長を足がかりにして、最初に挑む総選挙で大勢の候補者を立てるようなやり方をした。前回の総選挙で政権交代を果たした民主党の場合は、「政権交代」の一点で寄り集まった「反自民」だけがウリの政党だった。だからその次の総選挙を前に空中分解するのは必定だったし、中には長尾敬のように思想信条が自民党の極右派そのもののような人間も民主党(小沢グループ)に加わっていた。蛇足だが、長尾敬の民主党から自民党への移籍を後押ししたのは、あの自民党前職の城内実と総裁の安倍晋三であると聞く。
しかし、空中分解してバラバラの政党になっても当選は望めないからどうしても野合する。ただ、前々回の自民党や前回の民主党のように第1党になって大量の小選挙区の当選者が出ない限り、候補者たちはおこぼれに預かることは難しい。だから、いわゆる「第3極」を目指す政党を率いる者たちが理念なき離合集散の駆け引きを繰り広げる。その中で、もっともマスメディアに強く後押しされた者がのし上がっていき、冒頭に書いたようにメディアが実施する政党支持率が上昇する。マスメディアが作る幻想と現実の落差は、香川1区や京都1区で公認予定候補が逃げ出した件からも明らかだ。
この選挙制度は絶対に見直さなければならず、比例代表制を軸にした制度に改変する必要があると思うが、思えば90年代に政治改革の議論がなされていた頃、小選挙区比例代表併用制という、事実上比例代表制の選挙制度を提唱しながら、それとは真逆の方向性を持つ小選挙区比例代表並立制に同意するというあり得ない決断をしたのが時の野党第一党・社会党だった。その時以降、間違った選択をし続けてきた同党最後の失態が、「国民の生活が第一」を介した極右・新自由主義政党「減税日本」との野合であったと後世の人は語るのかもしれないと思う今日この頃である。
だが、16日解散に至るまでは確かに急展開だったため、マスメディアが「第三極」と呼ぶところの極右政党群が、解散が早まらなければ彼らが数か月かけてメディアの注目を引きつけながら展開したであろう離合集散が急ピッチのドタバタ劇で繰り広げられた。行き着いた先は、しばらく前から最後にはこうなるのではないかと思っていたところの、石原慎太郎と橋下徹の野合だった。その醜悪さには目をそむけるばかりだった。
特にひどかったのは、15日に、それまで小沢一郎の「国民の生活が第一」を中心としたいくつかの小政党が形成する「民意の実現を図る国民連合」に加わると見られていた「減税日本」(代表・河村たかし)が突如「たちあがれ日本」を改称した「太陽の党」(代表・石原慎太郎)との合流を発表したと思ったら、翌16日、つまり衆議院解散の日には、「日本維新の会」代表(当時)の橋下徹が東京に出向いて石原と会談し、その結果今度は日本維新の会が太陽の党を事実上吸収合併する一方で、太陽の党と減税日本の合流は反古にされたことである。
ある時期から橋下徹と河村たかしの間で確執があったことはもう誰でも知っていることだが、橋下と石原が互いに組みたがっていることが最近ミエミエになっていた。そこで河村は石原にコバンザメにように食いつくことで、つまり石原の配下にしてもらうことで、維新と石原一派が合流する政党に入れてもらおうとしたものだろう。しかし、橋下は冷徹に河村たかしを引き剥がした。
橋下はその理由を政策の違いとかなんとか言っているが、大の原発推進派である石原と組むに当たって「脱原発」の看板を下ろした橋下がそんなことをいうのは噴飯ものだ。そもそも「減税」で入りを減らす河村の政策も、「バサーッと切る」が口癖の歳出減志向の橋下の政策も、ともに過激な新自由主義であって政策に違いなど全くない。橋下は、ただ単に河村たかしという人間が気に食わないだけなのである。
政策の違いで最も大きいのは、石原と橋下、または石原と河村の原発政策である。橋下も河村もともに「脱原発」を表明していた。一方、石原は昨年の東電原発事故の直後に福島を訪れて原発推進論をぶったほどの過激な原発推進派である。その石原と河村がいったん手を組んだことや、石原と橋下が手を組んだことは、河村や橋下の「脱原発」の主張が「人気とり」の目的以外の何物でもないことを意味する。
脱線するが、ついでに書いておくと、民主党と「国民の生活が第一」も「脱原発(依存)」政党であるとは私は認めていない。両党とも核燃サイクル存続を主張する議員が多く、それは両党に属する政治家が「脱原発とは何か」を理解していないからである。彼らは「なんちゃって脱原発」派に過ぎないし、民主党には原発推進派も大勢いる。親分の小沢一郎の言いつけを聞いて「脱原発派」と称している「生活」も内実はどうだかわからないし、そもそも代表の小沢一郎は、1991年の青森県知事で核燃サイクル推進派の現職を当選させるために剛腕を発揮したこと、2007年に日立製作所のエンジニア上がりの大畠章宏の進言を容れて民主党のエネルギー政策を原発の積極的推進に転換したこと、それに昨年の民主党代表選で原発推進派の海江田万里を推したことなどについて、何の総括もしていない。これは、たとえてみれば戦争犯罪人が敗戦後何も言わずに平和主義者に転向したようなものである。そのような態度は無責任そのものだろう。小沢は、まず自らの原発推進の責任を総括しなければならない。
そんな「国民の生活が第一」あるいな民主党にしても、原発をゼロにする年限を掲げているだけ、それがたとえ民主党のように「2030年代」という悠長なものであっても、「脱原発」自体を引っ込めてしまった「日本維新の会」よりはよほどマシだといえるだろう。
そもそも、今年5月に橋下は「脱原発を争点に総選挙をやれ」と言っていたことを私は忘れていない。今後の選挙戦において、本当の「脱原発」政党である社共はもちろん、民主党や生活党も維新のこのふざけた姿勢を厳しく追及すべきだろう。小沢一郎はこれまで橋下と組む気満々で、配下の者に「橋下の悪口は言うな」と厳命していたと聞くが、そういう己の誤った態度を自己批判するとともに、橋下に切り込んでいかなければならない。もっともそれが小沢にできるか、私は知らないけれど。
ついでに書いておくと、解散2日前の11月14日になってもまだ下記のようにつぶやいていた飯田哲也にも、脱原発派の知識人としての責任を問いたい。
NHKも報道。本当に解散か....?もしそうなら、小沢&維新封じと選挙後の連携で、野田官邸周りと自公が野合したか?(NHK11/14)衆院選 来月4日公示・16日投票へ http://nhk.jp/N44Y5evj
「維新封じ」などと被害妄想に浸っている暇があるなら、なぜ橋下と石原慎太郎の野合に飯田は口をつぐんでいるのか。知識人としての責任ある態度のかけらも見られない飯田には呆れるほかはない。
ところで解散前後の15, 16日と17, 18日の朝日新聞の世論調査で、比例区の投票先を問う設問に対して、17, 18日の数字で自民22%(15, 16日23%)、民主15%(同16%)、維新6%(同6%=維新と太陽の合計)という数字が出ている。
これは、今後テレビに各党の政治家、特に橋下徹がテレビに出演を重ねていくことで大きく変わると思うが、解散前と比較して自民と維新が支持率を大きく下げ、民主はやや上げたものの自民と維新の減少分に対応するほどではなく、小沢の「国民の生活が第一」に至っては、政党支持率、比例区の投票先とも、朝日の17, 18日の調査で「0%」という数字をたたき出す惨状だ。阿部知子が離党し、重野安正幹事長までもが病気で出馬を断念した社民党でさえ政党支持率は生活と同じ0%だが、比例区の投票先では1%の数字となっており、小沢新党の勢いはいまや社民党以下に落ちてしまった。
「小沢信者」は世論調査は「マスゴミ」の捏造だとか、「マスゴミ」の小沢隠しのせいだとか言っているが、事実がどうかは選挙結果が明らかにするだろう。ちなみに民主党にもいえることだが旧自由党も、事前の世論調査で支持が低い割には選挙でそれなりの議席数を獲得する傾向があるので、生活党も多ければ議席を2桁に載せることもあり得ると、私はその程度にはみつもっている。しかしそれ以上ではあり得ない。いつまでも橋下に秋波を送り続けて相手にされなかったことや、カルト的な信者に担がれ、最近では岸信介や佐藤栄作を信奉している孫崎享を講師に招いて「戦後史の正体」を勉強しているという彼らに、自民党や自由党時代からの熱心だった支持者の間にも愛想を尽かしている人たちが多いのではないかと私は想像している。
ここでまた脱線するが、たとえば小沢一郎が師と仰ぐ田中角栄について書かれた早野透(元朝日新聞記者)の『田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書)には田中角栄の憲法観が言及されていて、角栄は日本国憲法に懐疑的な考えを持ち、時には改憲志向と思われる発言を野党に批判されたりしながらも、憲法はこの先100年は変えなくて良いと角栄が言ったことなどが紹介されている。しかし、孫崎の『戦後史の正体』には、親米・反米による政治家の色分けはあっても、日本国憲法に対するスタンスの色分けは皆無だ。以前にも当ブログに書いたように、孫崎は核武装を視野に入れていた岸信介や、同じく核武装を検討させた佐藤栄作(その結果は核武装に否定的だったが)などを称揚している。そんな本を、少し前には「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」と言っていた某左翼人士が絶賛している。岸信介を信奉する保守人士である孫崎享を、吉田茂−田中角栄の系譜を継ぐ小沢一郎の陣営が「先生」格に祭り上げるばかりか、日本共産党の幹部級党員だったはずの編集者まで絶賛する。ちょっと私には信じられない光景だ。
これほど時代が大きく狂ってしまうと、気力も萎えそうになってしまうが、その気力を振り絞ってなんとか週1回のブログの更新を続けている。しかしその気力も、総選挙後というか来年以降はいつまで続くか自信がなくなってきた。私自身は次の選挙では自民党、民主党、維新の怪、国民の生活が第一のいずれにも投票しない。
そんな人間が最後っ屁を放っておくが、国民の生活が第一はリベラル勢力の軸には間違ってもなり得ない。かつて角栄に対してクーデターを起こした竹下登のように、小沢一郎を乗り越えようとする人間が現れなければあの集団は変わらないが、そんなポテンシャルのある人間はあの集団にはいない。小沢が切ってしまったからだ。あるいは、自分たちが田中角栄に対してクーデターを起こして権力を掌握していった小沢にとっては、同じことを起こす可能性のある人間は周囲に置いておけないのかもしれない。そんな人間がトップに立っている集団は、ボスと一緒に命脈が尽きるだけだろう。
当該エントリに、総選挙を原発問題のシングルイシューにしてはならないという趣旨のコメントもいただいたが、ピント外れもいいところである。たとえば昨年の民主党代表選においては、当然原発問題が争点「の一つ」になると思われたにもかかわらず、最有力候補の野田佳彦(「野ダメ」)も、小沢グループの支援を受けた海江田万里もともに「原発推進派」であったため、原発問題は「シングルイシュー」どころか、代表選の「争点の一つ」にさえならなかったのである。これに関しては、当時民主党内反主流派だった小沢一郎の責任がきわめて重い。小沢は、わざと原発問題を民主党代表選の争点から外すために海江田万里を担いだ、そう私は解釈している。
前首相の菅直人が「脱原発依存」を打ち出したのと同じ昨年7月13日に、「脱原発」を社論にすることを宣言した朝日新聞も、原発問題を総選挙の争点に設定したいのだろう。昨日(8月26日)の一面トップに、2030年の原発依存度に関して国会議員を対象に実施したアンケートの結果を報じている。選択肢は民主党政府が掲げたのと同じ、0%、15%、20〜25%の3つ。60%の議員が回答し、42%が「0%」を選んだ。与党・民主党の議員は40%が「0%」を選んだが、自民党議員で「0%」を選んだのはわずか4%。自公を除く小政党は大半が「0%」を選んだ。
異彩を放っているのが小沢新党「国民の生活が第一」である。同党は、回答した37人中34人が「0%」を選んだにもかかわらず、同時に行われた「核燃サイクル」に関する質問に対しては、なぜかおよそ3分の2に当たる25人が「なお検討が必要」と回答した。朝日新聞は、26日付3面掲載の記事で、「10年後をめどに原発全廃」を掲げた同党の「脱原発」の方針との矛盾を指摘し、「ほかの野党議員の多くが廃止を選んだのとは対照的で、党の脱原発方針との整合性が問われそうだ」と痛烈な皮肉を放った。「国民の生活が第一」は「似非『脱原発』政党」の馬脚を現したといえるだろう。
解散総選挙については、自民党議員は会期末の9月上旬の解散を、民主党の多くの議員は任期満了直前の、おそらく衆参同日選挙のタイミングの解散を希望しているらしい。自民党の場合はそのタイミングで解散があればほぼ間違いなく勝てるから理にかなっているが、大部分の民主党議員は頭が悪いとしか思えない。麻生政権時代の2008年にも当ブログで指摘したが、解散という「伝家の宝刀」の威力は、任期満了が近づくにつれて薄れていき、任期満了またはその直前に解散が行われた場合、与党は敗北を喫するのが普通だからだ。今でも民主党議員は逆風を感じていると思うが、その逆風は任期満了が近づくにつれますます強まる。
野田佳彦以下の執行部は、どうやら10月解散、11月投票を考えているようだが、そのタイミングが妥当だろう。いつ解散しても民主党は必ず負けると思うが、傷口を最小限に治めるためにはその選択肢しかない。
個人的にも、民主党代表選と自民党総裁選を行って日が経たないうちに解散総選挙を行ってもらいたい。どうせ徳でもない結果になるのは目に見えているが、この2つの政党の党首選でどういう主張を掲げる候補がどれくらい支持されるかで、両党の方向性が少しは明らかになると思うからだ。もっとも私自身は、この2つの政党や「国民の生活が第一」なんかには間違っても投票しないけれど。
民主党は、野田佳彦に不満を持つ議員は多けれど、対抗馬を立てられないという無様な状態らしい。推薦人の20人を集めるのにも窮するありさまだというのだ。一方の自民党で注目されるのは、というかこんな奴なんか注目したくもないのだが、安倍晋三である。
終戦の日の朝日新聞の報道を皮切りに、橋下徹の「大阪維新の会」が安倍晋三にアプローチしていることが報じられている。橋下やそのブレーンらが狙っているのは、自民党を党丸ごと「民自公」大連立に持って行かすのを阻止するために、同党を分裂させて安倍晋三一派を取り込むことだといわれている。
それに関して非常に不愉快だったのは、今朝の新聞に掲載されている『週刊ポスト』の広告である。東京新聞論説副主幹の長谷川幸洋が安倍晋三にインタビューしており、見出しは「橋下さんとともに民自公談合連立を粉砕する」となっている。このところの東京新聞は、読売・産経・日経はもちろん、朝日や毎日と比較しても突出した「反権力」的な紙面を作っているが、それにもかかわらず私がこの新聞に疑念を感じるのは、論説副主幹がこんなネオコン・ネオリベ雑誌で極右政治家の安倍晋三にインタビューして、安倍と橋下をくっつける動きの手助けをしようとしているからだ。「民自公談合連立」を阻止したところで、それよりさらに悪いモンスター政権ができてしまってはどうしようもない。
橋下が安倍にアプローチをかけた報道以来、ネットでもいわゆる「小沢信者」がめっきり元気を失っているし、リアルの世論調査でも「国民の生活が第一」の支持率は1%前後に低迷している。小沢一郎はやはり戦略を誤った。というより、「自分の選挙が第一」である配下の国会議員たちに足を引っ張られた。昨年末に民主党を離党して「新党きづな」を結成した連中をはじめとして、小沢は議員の多くは人気のある橋下徹と組みたがった。そしてついに小沢は集団離党して「国民の生活が第一」を結成したが、多くの議員は新聞のアンケートに答えて、「2030年の原発依存度0%」と「核燃サイクル廃止には慎重」と同時に選び、新聞に「党の脱原発方針との整合性が問われそうだ」などと皮肉られる赤恥を晒している。これは同党の議員の質の低さを象徴しているといえるだろう。
小沢一郎は、本当は今年の民主党代表選で勝つという戦略を思い描いていたのではなかったかと私は想像する。昨年の時点で小沢はそれを目指すだろうと私は予想していたが、そうはならなかった。「小泉チルドレン」の末路を見て、「民主党にとどまっていたのでは同じ目に遭う」と恐れた配下の議員たちに足を引っ張られた形だ。
だが、彼らはとんだ思い違いをしていた。民主党がダメなら維新に行けばいいさ、というほど世の中は甘くなかったのである。この先、「国民の生活が第一」が橋下・安倍連合の軍門に下るのかどうか私は知らないが、そうなろうとなるまいと、彼らが日本の政治を良くする可能性は皆無であることだけは間違いない。
このような惨状を招いた大きな原因に、(小沢一郎がその成立のために「剛腕」をふるった)小選挙区制があることを改めて指摘したいと思う。小選挙区制を廃止し、比例代表制を中心とした選挙制度に改めない限り、日本の政治は良くならないだろう。だが、もはや漸進的に変えて良くしていく余裕はなくなりつつある。安倍晋三が自民党を割るかどうかはともかく、橋下と安倍がキーマンになる政治では、希望など持ちようがない。
私が不思議に思うのは、橋下の(人気取りのための)「脱原発」と、安倍晋三のこれまでの「原発推進」はどう整合させるのだろうかということだ。なぜかこの点に触れる論者はほとんどいない。『週刊現代』の広告には、「安倍昭恵『脱原発で夫を説得します』」などという見出しが出ているが、山口県にできるはずだった中国電力上関原発の建設が絶望視される現在、まさかの安倍晋三「脱原発」転向もあり得るのでは、という思いが脳裏をかすめる。
「脱原発」が総選挙の争点の一つになったところで、政治は何も変わらないのかもしれない。