その間、体調もさることながら、野田政権(「野ダメ」政権)のあまりの極悪さに気持ちが冷え切る思いだった。消費税増税とTPPと辺野古移設と原発再稼働、これらを同時に遮二無二進めようとする野田政権の政治は、自民党政権時代の中でも最悪だったと考えている安倍晋三政権の時代よりもっとひどいのではないか。だが、小泉政権時代に政権批判を控えていたマスコミが、総理大臣が安倍に代わると同時に政権批判を始めたのとは対照的に、菅政権時代に菅直人首相(当時)の人格攻撃まで平然と行なっていたマスコミは、自らを「どじょう」にたとえる野田佳彦に対しては非常に甘く、小泉のあと数台続いた内閣とは違って、政権発足後2度目の世論調査でも内閣支持率はたいして下がっていない。やはりマスコミが世論に与える影響力は絶大だ。
最近は、数年前に「新自由主義者」として非難を浴びた人々が、新自由主義を復権させようと巻き返しに出てきている。八代尚宏が『新自由主義の復権』と題した新書本を出したのでしばらく前に買ったが、読む気が起きなくてまだ読んでいない。伊賀篤さんから『kojitakenの日記』にいただいたコメントによると、
新自由主義者はろくなことをやらない。竹中平蔵が「同一労働同一賃金」などを唱えている?…というのを聞いて、嘘でしょう…と思いつつネットで検索したら、どうやら正社員の待遇をパート並に引き下げ、正規労働者を「既得権益者」として敵対的に描き出す事で、格差社会への不満を逸らそうと、意図的に議論を摩り替えている模様。
今朝の新聞の1面左上には、アテネで緊縮財政政策に反対する48時間ゼネストが始まり、12万人がデモに参加したという記事が大きな写真つきで出ている。東京で行なわれた "Occupy Tokyo" デモの参加者は数百人だったが、「脱原発」デモには6万人が参加した。格差問題も原発問題も根は同じだと私は考えていて、そのことは福島県浜通りの過疎の地に原発を押しつけてきた構図を思い出せば明らかだと思う。沖縄の米軍基地問題も同じ構図だ。だから、今はまだ全然盛り上がっていないけれども、「グローバルスタンダード」(笑)の影響を受けて、日本でも遠からず反格差運動が大きく盛り上がることになるだろう。
格差の解消を「革命」ではなく、再分配の強化を行なうことによって漸進的に進めていきたいというのが「再分配を求める市民の会」と銘打った「鍋パーティー」を設立した意図だったのだが、政権側がここまで邪悪だと、格差解消を求める動きは「革命」的なものにならざるを得ないのではないかと思っている。たとえば復興増税の一つである所得税の一定期間定率増税の話を、民主党政権は定率増税の期間を延長することで自民・公明と妥協したいらしいが、何を考えているのかさっぱりわからない。
私はもともと5年間の一定期間所得税を定率増税すること自体には賛成なのだが、それはあくまで一定期間の話であって、5年が経過したらそれを元に戻すとともに、何十年にもわたって緩和され過ぎた所得税の累進性を再強化すべきだと考えている。ところが、民主・自民・公明3党にとっては「累進制の強化」はタブーらしい。おおかた「共産主義」か何かだと思っているのだろう。「累進制の強化なき増税」には私は絶対反対だ。
マスコミ人の「カマトト」ぶりも呆れたものだ。『kodebuyaの日記』経由で知った池上彰の記事「『金持ち優遇税制』というけれど」にはぶっ飛んでしまった。「年間所得が100万ドルを超える国民が納めている連邦所得税率は平均29%強」だと知った池上は、「これを読むと、アメリカの税制に対する印象が変わります。アメリカも累進課税をしているではないか」などと書く。私は、えっ、たったの29%なの、としか思わないのだが。
次のくだりには開いた口が塞がらなかった。
日本に比べれば、まだまだ低いではないか、と突っ込みを入れたくなりますが、それでも、アメリカでも高額所得者は税負担の割合が低所得者より大きいというのは意外でした。なんで日本の新聞は、こういうことをきちんと書かないのか、と思ってしまいます。
大富豪の投資家ウォーレン・バフェットは、自分が自分の秘書(当然ながらバフェットより所得が低い)より低い税率しか国税を払っていないことをおかしいと言っています。この主張だけを読むと、「アメリカの税制はおかしい」と思いますが、この記事によれば、バフェットの収入の多くが投資の収益であり、これに関しては、税率が15%のキャピタルゲイン(資産売却所得)税が適用されているからだというのです。
株式投資など投資活動を活発にするために、投資の収益に関して低い税率を課すというのは、理論的にありうることです。投資できるのは富裕層ですから、結果的に金持ち優遇税制になっていますが、アメリカの株式投資は多くの中間層が関わっています。キャピタルゲイン税を引き上げると、中間層に打撃を与える可能性があるというのです。
オバマの増税路線を伝える日本の新聞も、アメリカの税制の仕組みをきちんと解説する必要がある。この記事は、そのことを教えてくれました。
(池上彰「『金持ち優遇税制』というけれど」より)
これを読むと池上は、人頭税とまではいわないけれども定率税を「公平な税制」と考えているらしい。そう解釈しなければ読解できない文章だ。あるいは、あたかも定率税を「公平」であるかのように読者をミスリードしようとする意図があるかもしれないと思った。
思い出したのは、政権交代の直前くらいの頃、当ブログに「消費税はものを多く買う金持ちの方が多くの税金を払うから不公平な税制だ」と主張する人間が一時コメント欄の常連になって、その人間と私自身がコメント欄で議論したことだ。その人間の論法だと、人頭税がもっとも公平な税制ということになる。池上彰はさすがにそこまで極端ではないが、定率税こそ公平だという間違った前提を読者に植えつけようとする池上の意図は極めて悪質だと批判せざるを得ない。
キャピタルゲインへの課税が中間層を痛めつけるなどという妄論に至っては論外であり、昨年『kojitakenの日記』に公開した記事「日本の所得税制が超高所得者に有利な逆進課税になっている動かぬ証拠」をご参照いただければ、池上が書いていることが真っ赤な嘘であることがよくわかるだろう。
私は、いずれ日本でも「反格差」運動は盛り上がるとは思うけれども、池上彰のごとき電波芸者が信頼を得ているうちはダメだと思う。早いとここんな人間のメッキを剥がさなければならない。
今回は「鍋パーティー」の宣伝から入る。「再分配を重視する市民の会」と銘打ったこのパーティーのブログに、ブログ編集長のTakky@UCさんが書いた記事「今必要なのは中流層の復活だ!」が掲載された。記事の後半にニューヨーク・タイムズに掲載されたロバート・ライシュの論文が引用されており、ライシュは1947~77年をアメリカの繁栄期、1981年以降を没落期と規定し、それぞれ中産階級の成長期と没落期に対応するとしているが、Takkyさんも指摘しているように、これは日本でも時期をほぼ同じくして起きたことだ。1977年というと参議院選挙があって自民党の低落に歯止めがかかった年であり、1981年は中曽根政権が発足して新自由主義政治を始める前の年である。日本は戦後何につけてもアメリカに追随し続けてきた。
富の金持ちへの偏在は日本よりアメリカ(や中国)の方がさらに激しいから、その限界も見えてきている。富裕層が率先して政府に金持ち増税を要求するようになったのは、そうしなければ市場経済がうまく機能しないからだ。ところが、日本では大部分を占める貧乏人がおとなしいから馬鹿で傲慢で強欲な金持ちがつけあがる。なぜ彼らが馬鹿で傲慢で強欲かというと、富の再分配を強化して人々の懐を温めることが経済発展に寄与するという当たり前のことを認めず、平然と「我なきあとに洪水よ来れ」という革命前のフランス王朝の貴族のような態度をとっているからだ。
さらに救いがないのは、日本では「金持ち増税」を求める主張を「貧乏人のひがみ」だとか「共産主義」などと決めつける馬鹿が後を絶たないことだ。しかも、これらの馬鹿の大半は自らも貧乏人である。日本人の大半が貧乏人なのだから当然だ。『kojitakenの日記』にも、前記ライシュの記事にリンクを張った記事「『増税反対』ではなく『消費税増税反対』。金持ちへの課税を強化せよ」を9月下旬に書いたのだが、この3連休の間に、その記事に下記のコメントがついていた。
kakumeiressi 2011/10/08 15:53
働いたら負け。貧乏人の嫉妬で頑張った人を引き摺り下ろす共産主義の考えですね。
このコメントなどが私の言う「馬鹿」の典型例である。もし私が共産主義者だったら、もっと格差を拡大して革命を起こさせる陰謀をたくらむかもしれない。再分配の強化とは、むしろ市場経済の温存を図るものであって、共産主義者からは批判されてもおかしくないと私は考えている。
エントリの後半は「野ダメ政権」の原発政策批判。今朝(10月12日)の朝日新聞4面に「民主の脱原発派に不満 PT廃止に『議論の場ない』」と題された記事が出ている。asahi.comには掲載されていないが、ブログ『薔薇、または陽だまりの猫』に引用されているので、同ブログ経由で以下に孫引きする。
民主の脱原発派、募る不満 菅政権時代のPTは廃止/朝日新聞
民主党の脱原発派の議員が不満を募らせている。菅政権時代に設置された脱原発色の強いプロジェクトチーム(PT)が、野田政権で廃止されたためだ。
5日、荒井聰元国家戦略相や谷岡郁子参院議員ら4人の勉強会で「意見の持って行き場がない。党として原発事故に向き合う意思があるのか」との不満が相次いだ。4人は党が4月に設置した「原発事故影響対策PT」の元役員だ。13日にも勉強会を開く。
原発事故PTは約30人の役員で組織。計34回開いた総会では、原発再稼働へ厳しい条件を求める声が相次いだ。8月には東京電力福島第一原発周辺の土地の国有化や原発事故調査委員会の国会設置などを提言。荒井氏は「菅政権の背中を押して原発対策を進めた。最も成功したPTだ」と胸を張る。
一方、夏の電力不足対策は「電力需給問題検討PT」で協議。座長に原発推進派の直嶋正行元経済産業相が就き、脱原発派とのバランスを取った形だった。
ところが、野田政権で二つのPTは廃止され、原発推進の色合いが濃い「エネルギーPT」が新設された。原発再稼働やエネルギー政策全般を検討する組織で、座長には日立製作所で原発プラントの設計に携わった大畠章宏元経済産業相が起用された。
背景には前原誠司政調会長の意向がある。前原氏は9月に国会で原発再稼働の「年内」への前倒しを主張。脱原発派は「原発推進に路線転換するため、前原氏が政策決定過程から脱原発派を外した」とみる。
荒井氏らは野田佳彦首相や輿石東幹事長らにPT復活を要望。他のPTや党内の会合で「脱原発」を訴える戦術も検討するが、党内でどれほど共感が広がるかは不透明だ。
*2011.10.12朝刊
要するに菅政権時代には推進派の直嶋正行と脱原発派の荒井聰をそれぞれ座長にした2つのPTを作って原発推進派と脱原発派のバランスをとっていたのを、野田佳彦がこともあろうに大畠章宏を座長にして一本化してしまったということだ。しかもその背後には前原誠司がいる。
これには「野田・前原の正体見たり」の思いだ。大畠章宏こそ2006年に民主党の原発政策の転換を当時代表だった小沢一郎に働きかけた人物であり、原発問題というよりエネルギー政策全般に関心の低い小沢一郎は翌2007年、大畠の希望通り民主党の原発政策を「慎重に推進」から「積極的に推進」へと転換したのだが(小沢自身の原発利権とのかかわりも指摘されている)、この政策転換にかかわった人物として、小沢一郎の直前に民主党代表を務めていた前原誠司の名が取り沙汰されていた。
前原誠司は、菅政権時代末期には「考えを一変させた」として「脱原発」へと政策を転換したかのようなことをテレビでしゃべっていたが、早くも政策を再転換して「原発推進」へと立場を戻したらしい。野田佳彦も内閣発足当初には「脱原発依存」を匂わせながらアメリカ(国連)で原発の安全性を世界最高水準に高めるとか原発の輸出を継続するなどと言い出した。それが日本で批判を受けるとまたおとなしくなったが、野田の本音が「原発推進」にあることはあまりにも明らかだ。そして、民主党代表選で争った野田佳彦と前原誠司は気が合うんだなあと再認識した。
野田佳彦も前原誠司も、ともに新自由主義者であって「富の再分配」にも不熱心だ。その上二人とも原発推進派であって二枚舌の使い手というところまで一致するとは呆れるばかりだ。
こんな政権が続くと思うとますます気が滅入る。
「茶会」と聞けば反応しないわけにはいかない。アメリカで「茶会」の躍進が伝えられたのは昨年。日本でも、河村たかしが名古屋で地域政党「減税日本」を立ち上げ、副島隆彦や中田安彦(「アルルの男・ヒロシ」と自称する、ネットでは有名な反米系陰謀論者)が河村を「日本版ティーパーティー」の旗手として持ち上げ、民主党の小沢一郎一派が河村の名古屋市議会リコール運動を援助したのだった。
そんな風潮に危機感を抱いて立ち上げたのが「鍋パーティー」。リンクを張ったブログを立ち上げたのは今年1月だが、その少し前の昨年11月4日にmixiのコミュを開設した。この日が「鍋パーティー」の創立記念日だ。
東日本大震災の直前、名古屋市議会のリコールを受けた市議会選挙を控えて、なんとか「鍋パーティー」の運動を離陸させようと躍起になっていたものだが、3月11日の東日本大震災と、同日発生した東電原発事故の影響で、「鍋パーティー」が当面のターゲットにしていた河村たかし一派も大ダメージを受けて、4月の統一地方選では大阪の橋下徹一派(「大阪維新の会」)は大躍進したのに河村一派は伸び悩んだ。
ターゲットとしていた河村たかし一派の凋落に加えて、私は東電原発事故発生と同時に「脱原発」の主張や「原発推進勢力」への批判の記事を大量に書くようになって、「鍋パーティー」にかかわる度合いは大きく減少した。
しかし、私が「鍋パーティー」に飽きたとか、忘れたなどというわけでは全くない。ただ、人間の時間には限りがあって、自由時間の半分以上を、当ブログや『kojitakenの日記』に割いている私でも、「鍋パーティー」にまではなかなか手が回らなかったのだ。
そうこうしているうちに、アメリカがまた怪しくなって、ティーパーティーが突っ張るせいで米国債が債務不履行に陥りかねないとまで報じられるようになった。仮にそんなことになったら日本もただではすまないのは当然だ。
ところで、なぜ今日の記事でティーパーティーに言及するかというと、昨日さる有料の有名ブログ(公開直後のみ無料)を読んでいたら、
と指摘されていて、これは当を得た分析だと思ったからだ。このブログは有料部分の引用を禁じているのだが、この一節は無料部分であるコメント欄に投稿されたコメントに引用されており、そのコメントは承認され、表示されているものなので、ここで引用してもかまわないだろう。茶会に共感を寄せている中の少なくない部分が、実は3年前にオバマのChangeに熱く期待した者たちだ
なぜこれが当を得た指摘だと思ったかというと、日本でも河村たかしの「減税日本」に共感を寄せている中の少なくない部分が、実は一昨年の鳩山由紀夫と小沢一郎の「政権交代」に熱く期待した者たちだからだ。しかも、日本においてはオバマの "Change" とティーパーティーの「減税真理教」の担い手が同一の政治勢力(民主党小沢派)であることが特異的だ。私は、さる知人から「小沢一郎というのは何でもかんでも取り込む人だ」との小沢評を聞いたことがある。だから、90年代には「規制緩和」と「小さな政府」を、2000年代半ばには社民主義的な政策を、10年代になると再び「小さな政府」指向の「減税」を取り入れた。その小沢一郎が「脱原発」の取り込みにはあまり熱心でないことには、むしろ奇異の念を抱くくらいだ。
そして、そんなカメレオンのような小沢一郎に根強い支持があるのも、現在の日本の「閉塞状況」があればこそだと強く感じる。前回のエントリにいただいた杉山真大さんのコメントは、そんな状況を的確に表現している。
何と言うのか、批判精神も責任感も無しに参加民主主義に突っ走った挙句の果て、って気がしますよね。自分の「民意」が実現されるエクスタシーに酔って、目先の政局で「裸踊り」しているとしか思えません。
「私たち一人一人が『脱原発』をなしとげるんだ」とは言っても、結局その意思を反映させるシステムが機能不全に陥っている訳で、そうなると(デモなどで声を挙げるにしても)「批判的な観客」であることでしか政策実現できないてのも何か寂しい気もします。
2011.07.25 10:32 杉山真大
「民意を反映させるシステムが機能不全に陥っている」というのは本当にその通りで、底なし沼のような原発災害の深刻さに慄然とした国民が、その7割とも8割ともいわれる人々が「脱原発」、もしくは消極的にでも「減原発」を求めているのに、議会で大部分を占める二大政党には原発推進派や原発維持派ばかりが大量にいる。菅政権は「減原発」へ工程表を作る、などと今朝(7/29)の朝日新聞一面が報じているが、2050年頃までの工程表などと書いていて、そんな頃には現在稼働中の原発が一基残らず耐用年数を迎えるではないか、政権はまだ原発を新規に建設するつもりなのかとうんざりしてしまう。しかも、その案に基づいて年末までに閣議決定することを目指すというのだが、その時の総理大臣はむろん菅直人ではあるまい。民主党代表選に名乗りをあげた馬淵澄夫も、「脱原発」を標榜していながらも、菅首相が口にした「原発がなくてもやっていける」方向性はとらない、原発を選択肢として残すなどと言っているし、以前から代表選に出馬すると見られ、仙谷由人一派も支援しているらしい野田佳彦に至っては、もっと積極的な「原発維持派」だ。これでは、民主党政権のエネルギー政策が今後どうなるか、少なくとも明るい展望は全く持てない。さりとて、野党第一党の自民党に至っては、これはもうゴリゴリの原発推進勢力だ。河野太郎は、そんな自民党に所属し続ける自身をどう思っているのか、それに関しては全く何の意思表示もしない。
こんな状況だから、誰か力の強い者に頼る傾向が強くなる。「原発を否定するわけではないが、原発は過渡的エネルギー源に過ぎない」としか言っていない小沢一郎に異常なまでの期待をかけるのもその表れだろう。「力の強い者に頼る」というのは、自分の願望を実現するためのもっとも短絡的な道の選択だ。「知識のありそうな者に頼る」というのも同じことである。私が思い出すのは、「小沢信者村」と縁を切ろうとしていた頃に、さる小沢信者の有力ブロガーから言われたことだ。ブロガー氏いわく、あなたは自分でもわかってもいないことを難しく書こうとする。植草さんはそうじゃない。私たちにもわかりやすく記事を書いてくださる。
私は、そういう態度こそ私が一貫して批判してきたものなんだけどなあ、と思いながら反論せず、ただ「小沢信者村」と化した「自End村」と訣別しただけだった。私はずっと以前から「わかりやすさの落とし穴」を指摘して、これを批判してきた。その当時はターゲットは小泉純一郎やその支持者たちに向けていたのだが、当時小泉純一郎や安倍晋三を批判していた同じ人間が、小泉信者や安倍信者(そんな人間がいるのかどうかは知らないが)と同じ思考パターンで小沢一郎や植草一秀を崇め奉るのを見て、「ダメだこりゃ」と思った次第だ。
小沢一郎にはまだ「鵺」的性質がある。河村たかしは、所詮その「鵺」と運命をともにする小物政治家でしなかった。今後の政治においてもっとも警戒すべき「敵」は橋下徹だ。「鍋パーティー」以上にお留守にしてしまっている橋下徹批判だが、今後は「鍋パーティー」に戦線復帰するとともに、以前橋下を批判していた頃にもまして橋下を厳しく批判していなければならないと思う今日この頃だ。
1995年というと、日本という国にとってもターニング・ポイントになった年だ。社会的には、東京で地下鉄サリン事件が起きたが、労働問題では、日経連が「新時代の『日本的経営』」を発表した年でもある。翌1996年の派遣労働法改正は、派遣業務が原則自由化された1999年の改正や、同改正で派遣禁止業務とされた製造業にまで派遣を解禁した2004年の同法改正ほどには言及されることが少ないが、99年改正への道を開いたのが96年改正だった。96年改正によって、派遣の対象となる業務が、16業務から26業務へと増えたのだが、これは単に業種を増やしたものではなく、日経連の「新時代の『日本的経営』」の方針に沿って、正社員の数を減らし、派遣労働を増やす狙いがあった。当時私が働いていた職場は、増えた10業務に属していたので、96年改正による労働環境の変化を肌で感じていた。
私が、消費税の問題以上に現民主党トロイカが罪深いと思うのは、この派遣労働法改正の件である。1999年改正では、小沢一郎の自由党は与党だったため当然賛成したし、野党の民主党も賛成した。当時の民主党代表は菅直人である。2004年の派遣法改正に民主党は反対したが、代表は岡田克也だった。派遣法改正に関しては、小沢一郎も菅直人もまごうかたなきA級戦犯である。
90年代後半というのは、今思い出してもひどい時代であって、何しろ今でいう新自由主義に反対する言論の力はきわめて弱かった。そうなった原因の一つとして、90年代前半の「政治改革」によって、社会党が弱体化したことが挙げられると思うが、この「政治改革」を主導したのも、小沢一郎や菅直人、鳩山由紀夫ら現「トロイカ」だった。もっとも、社会党も自らが政権与党の時代に主要な政策を次々と転換したあげく、消費税率引き上げへの道を開いたのだから責められて当然だ。
90年代後半にはやった言葉として、「グローバルスタンダード」がある。日本経済も、国際標準に従わなければならないという風潮があった。「グローバルスタンダード」なんて、正体は「アメリカンスタンダード」に過ぎない、という批判が目立つようになったのは、ようやく1998年頃からだった。この反対言論に私は飛びついたものである。しかし、その後に「小泉構造改革」という、さらなる新自由主義の猛攻が待ち構えていた。
小泉構造改革に対する反対言論は、小泉政権末期の2005年、郵政総選挙で自民党が圧勝したあとに、その反動として目立つようになった。私がこのブログを開設したのは2006年4月だが、その頃には「新自由主義」という言葉も論壇で普通に用いられるようになっていた。だから私は、安倍晋三ごときが小泉純一郎の跡を継いで総理大臣になろうとも、そんな政権は早晩潰れるだろうと、安倍がまだ総理大臣になる前から確信していたし、それどころか安倍が総理大臣になること自体阻止できると思っていたくらいだ。現実はそこまで甘くはなく、安倍は総理大臣になってしまったが、その政権は1年しか持たなかった。
NHKスペシャルが、現在も語り継がれる名番組「ワーキングプア」三部作を制作したのは2006年から2007年にかけてだったが、初回は小泉政権時代、第2回は安倍政権時代、第3回は福田政権時代だった。小泉純一郎の後を受けた政権は、新自由主義の政策を批判され、その後の麻生太郎も含めて、発足直後はそれなりの支持率を得たものの、いずれも急速に支持率を落とした。竹中平蔵は世紀の悪人呼ばわりされるに至り、2009年の政権交代につながった。
しかし、自民党に代わって政権与党となった民主党が、鳩山由紀夫・菅直人の両内閣で全然成果を挙げられないと、2006年以降退潮一方だったはずの新自由主義の言論が、一気に息を吹き返した。今回の菅再改造内閣自体、経済財政政策担当相に与謝野馨を起用したことに端的に表れているように、紛れもない新自由主義政権である。
与謝野馨入閣を批判する民主党議員は、主に小沢派だが、テレビに映っていたのは森ゆうこ、姫井由美子、三宅雪子、松木謙公らだった。このうち姫井由美子は自らが「改革クラブ」に行こうとしたのを引き留められて、1日で態度を豹変させた人間だから論外だけれど、三宅雪子と松木謙公は、ともに名古屋で河村たかしの市議会リコールに向けた署名運動に協力した人物である。与謝野馨の財政再建至上主義に反対するのは良いけれど、その代わりが「減税真理教」ではどうしようもない。財政再建至上主義も「減税真理教」も、ともに公共サービスを切り詰めるという点で、新自由主義のドグマにとらわれた思想といえることは、前回のエントリ「タイガーマスクと与謝野馨」でも触れた通りである。
それと、最近の新自由主義言論の復活に伴ってか、政府や地方公共団体による再分配を強めよと主張する当ブログに対して、「ポジショントークだ」という批判が目立つようになった。これは実におかしな話であって、3年前に当ブログが浴びた「上から目線」批判と相通じるものがある。「上から目線」については、2008年1月29日付エントリ「『ポピュリズム』や『上から目線』などなど?大阪府知事選雑感」に書いたので、それをご参照いただきたいが、2009年7月12日付朝日新聞で、呉智英と宇野常寛が「『上から目線』で何が悪い」と題した対談をしていたらしい。これを取り上げている「みんななかよく」の記事から以下に引用する。
冒頭で、呉氏が、「上から目線」てえ非難は、根源的な問いかけをのっぺりしたものの中に塗り込めようとしていて、嫌なもんでやんすな、と言うと、宇野氏が、なんの、ありゃ、議論相手への罵倒語でありんす、と答えております。
(「みんななかよく」 2009年7月27日付エントリ「朝日新聞 耕論 『上から目線』で何が悪いか を読む」より)
このところ当ブログが立て続けに浴びている「ポジショントーク」という非難も、「上から目線」批判と全く変わらない。
ネット検索をかけてみると、面白い記事が見つかった。「モジログ」の2010年1月18日付エントリ「ポジショントーク大歓迎」である(下記URL)。
http://mojix.org/2010/01/18/position_talk_welcome
あまりに面白いので、以下に全文を引用する。
ポジショントーク大歓迎
ネットではしばしば、「それはお前に都合がいいだけのポジショントークだ」といった批判を見かける。
別にポジショントークでもいいんじゃないか?と私は思う。
ポジショントークかどうかが重要なのではなく、その人の言っていることが妥当なのか、有益な見方を含んでいるのかどうかが重要だろう。
「それはポジショントークだ」と批判する人は、要するに「もっと客観的な立場から発言せよ」と言っているのだと思うが、完全に客観的になることはそもそも不可能だ。それに、ヘタに客観的であろうとすると、何を言っても主観的になるように思えてきて、保留だらけの意味不明な発言になったり、結局何も言えなくなったりする。これはちょうど、失敗やリスクを徹底的に回避しようとすると、結局何もできなくなるのと似ている。
以前、ポール・グレアムの「反論ヒエラルキー」を紹介したことがある。
反論ヒエラルキー
http://mojix.org/2008/04/13/disagreement_hierarchy
「反論ヒエラルキー」は、最もレベルが低い「罵倒」から、最もレベルが高い「主眼論破」まで、反論を次の7段階に分類したものだ。
DH0. 罵倒(Name-calling): 「この低能が!!!」といったもの。発言者に対する罵倒。
DH1. 人身攻撃(Ad Hominem): 論旨でなく、発言者の属性に対する攻撃。
DH2. 論調批判(Responding to Tone): 発言のトーン(調子)に対する攻撃。
DH3. 単純否定(Contradiction): 論拠なしに、ただ否定。
DH4. 抗論(Counterargument): 論拠はあるが、もとの発言に対して論点がズレている。
DH5. 論破(Refutation): 論破できているが、もとの発言の主眼点は論破できていない。
DH6. 主眼論破(Refuting the Central Point): もとの発言の主眼点を論破できている。
この7段階において、「論拠なしに、ただ否定」という「単純否定」が、ちょうど真ん中の「DH3」であることに注目してほしい。論拠がないのだから、反論としてうまいものとはいえないが、それよりひどいものがあと3つあるのだ。
いちばんひどいのが「罵倒」で、これはわかりやすい。そしてその次にひどいのが「人身攻撃」、つまり「論旨でなく、発言者の属性に対する攻撃」なのだ。論拠で否定するのではなく、発言者の属性を攻撃するのは、「論拠なしに、ただ否定」よりも悪いのだ。その理由は、「人身攻撃」は論旨による反論になっていない上に、属性への攻撃を含んでいるからだ。
「罵倒」が単に一般的な汚い言葉であるのに対して、「人身攻撃」はその発言者自身の属性への攻撃なので、むしろ陰湿だとも言える。「それはポジショントークだ」という批判は、論旨ではなく発言者の「ポジション」を持ち出して、それによって発言の説得力を下げたり、発言者のイメージダウンを狙うものなので、この「人身攻撃」の一種だろう。
特定の立場にある人の意見が、あまりにもその立場に都合のいい意見だ、と感じられることは確かにある。しかしその場合も、「それはポジショントークだ」という「人身攻撃」で反論するのではなく、あくまでも論旨の上で反論すべきだろう。特定の立場にある人の意見が、必ずしも独善的な意見とは限らず、その立場にあるからこそ、平均的な一般人よりも「問題の構造」が見えている、という場合も少なくない。
ネットなどで「人身攻撃」を見かけたとき、私はたいてい、「この人は論旨で反論できないので、人身攻撃しているんだな」と感じる。私は「人身攻撃」している人に共感することはほとんどなく、むしろ「人身攻撃」している人には失望して、そこで攻撃されている人の意見のほうが逆に輝きを増すように感じることが多い。ムキになって否定する人が続出するような見解は、しばしば極端だったり大雑把だったりはするが、何らかの真理や鋭い見方を含んでいることが少なくないからだ。
ひとりひとりの個人に対して客観性を求める考え方は、発言を抑圧する方向に作用しがちで、日本人の「主観恐怖症」をますます強めてしまうだろう。そうではなく、ひとりひとりの個人はどんどん主観的に発言してもらって、それをたくさん集めることで、全体的な多様性によって客観性が実現される、というほうがいいと思う。
ポジショントークを批判するのではなく、むしろ歓迎して、いろいろな立場の人に、どんどん主観的に発言してもらおう。
(「モジログ」2010年1月18日付エントリ「ポジショントーク大歓迎」)
この記事を書いたブログ主は、「左派から市場原理主義者として批判を受けることのある」とのことだが、立場に関係なく、正しいものは正しい。自分の気に食わない言説を「ポジショントーク」だとして問答無用に切り捨てることは「人身攻撃」であるとする指摘は、痛快そのものだ。
格差や貧困の問題について論じる場合、1月7日付エントリ「本当に必要なのは減税ではなく、再分配の強化なのだ」でも飯田泰之の言説を引用・紹介したように、年収600万円の「中流層」は、実際には日本の全世帯の平均額も納税していないにもかかわらず、自らを「税金を払いすぎている金持ち」だと思い込んで、小泉純一郎の「構造改革」に賛同して貧乏人を放置しようとしている。飯田泰之に言わせれば、「年収1000万円以下はみんな『貧乏人』だ!」ということになる。私ももちろん貧乏人だし、「くーちゃん」とか「わくわく44」とか、他にも文句をつけてきた人間がいたと思うけれども、そういう輩もおそらく同類だろう。飯田泰之といえば、「みんなの党」シンパの学者だが、そんな人でさえ、小泉構造改革を批判し、再分配を重視している。それなのに、肝心の貧乏人が同じ貧乏人の意見発信を「ポジショントーク」呼ばわりしてどうする。声を大にしてそう言いたい。一般に、大衆は専門家たちよりずっと保守的で反動的だというのが私の意見だが、その確信がますます強まる事例だった。
私はむしろ、貧乏人の側から積極的に発言しないことは、格差や貧困を温存するか、ないしは悪化させる罪悪であると考えている。つまり、「堂々と語れ、ポジショントークを!」と叫ぶ次第である。
そのための「鍋党(鍋パーティー)」なのだが、昨年11月4日に開設したmixiコミュに加えて、このほど「鍋党」ブログを開設したので、お知らせする。ブログ名は、「Nabe Party ? 再分配を重視する市民の会」である。下記URLのリンク先に飛んでご参照いただきたい。
http://nabeparty744.blog111.fc2.com/
今のところ、私が書いた開設の挨拶のエントリがあるだけだが、このブログは、著者が "nabe-party" で、実際には「鍋党」の参加者が作るものである。つまり、「きまぐれな日々」は「私」のブログだが、「Nabe Party ? 再分配を重視する市民の会」は、「われわれ」のブログであり、鍋党の参加者が書いた原稿を "nabe-party" が記事にするというわけである。機動性がブログの特徴だと思うので、それを活かした運営をしていきたい。
当ブログにせよ、「Nabe Party ? 再分配を重視する市民の会」にせよ、堂々とポジショントークを語っていく。それが貧乏人の務めである。
その2年後、閉塞感を打ち破れとばかり現れたのが小泉純一郎であり、彼は「抵抗勢力」を設定して、それへの批判を集中させる手法で人気を得た。小泉の錦の御旗は「規制緩和」であり、官僚支配を脱して「官から民へ」と「改革」を行い、「小さな政府」を実現させれば、日本に明るい未来があるはずだった。だが、それは幻想に過ぎなかった。
90年代末にも「閉塞感」が語られたが、10年代初めにも再び「閉塞感」が語られている。だが、現在の陰鬱さは90年代末の比ではないように思われる。日本人は、小泉純一郎という権力を振りかざす人間にすがり、その小泉はめちゃくちゃをやったあげく、「小泉以前」より「小泉以後」はずっと悪い社会になってしまった。格差が拡大し、貧困が大きな社会問題になった。
現在、人々はやはり力の強い権力者にすがろうとしているように見える。そして、一度は下火になったはずの「自己責任論」が再び息を吹き返している。こういうトレンドが、強い指導者を渇望する時期にシンクロして起きるような気がするのは、錯覚だろうか。
前世紀末頃に流行した新自由主義のキャッチフレーズに、「努力した者が報われる社会を」というのがあった。昨年来の民主党政権批判には、政治思想面、経済政策面のいずれについても左右両方からのものがあるが、特に注意すべきは、経済右派からの批判だ。
たとえば、昨年12月18日、大阪・読売テレビの極右番組で、司会の辛坊治郎は、今回の税制改革で法人税を5%減税しても、これまで実施されてきた減税措置が廃止されるので、実質1?2%減にしかならない、これでは諸外国に比べて高いままだ、と言った上、「主に富裕層をターゲットにした個人増税」を槍玉に上げ、「下(低所得層)を引き上げるなら良いけれども、上(高所得層)を押し下げると社会の活力が損なわれる」と言った。
これに唱和したのが、昨年の参院選に東京選挙区から立候補して惨敗した自民党の東海由紀子と、同じく自民党参院議員の林芳正であり、彼らが口にしたのが「頑張った者が報われない社会だ」という言葉だった。これに悪乗りした森本敏に至っては、「社会主義を通り越して共産主義社会だ」とまで言い放っていた。
こんな言葉は、小泉純一郎たちの後継者たち(安倍晋三、福田康夫、麻生太郎)らが低支持率に悩んでいた2007年から2009年にかけてはほとんど聞かれなかったが、2009年の政権交代以降、鳩山、菅の両政権が全く成果を挙げられずにいると、みるみる力を盛り返してきた。しかし、国民の多くはそんな自己責任論など聞き飽きているばかりか、自らの生活が苦しい時に、経済強者たちの自己責任論を聞かされても、気が重くなるばかりだろう。それが証拠に、これだけ菅内閣や民主党の支持率が低下しても、自民党の支持率は大して上がっていない。民主党が支持を失っただけで、無党派層がますます増えている。
一部の往生際の悪い人たちは、悪いのは菅・仙谷・岡田・前原一派であって政権交代ではない、と言っているが、そんな言葉も多くの国民は信用しない。国民は、同じ人間に一度は騙されても、二度は騙されないからだ。だから、かつて国民を騙した自民党も民主党も鳩山由紀夫も小沢一郎も信用されないのである。いや、小沢一郎だけは総理大臣にならなかったから一部に幻想が残っており、いつまでも小沢一郎に幻想が固着していることが閉塞感をますます強めていると思うが、それも全体から見ればほんの一部だろう。
だから、また社会全体に破壊衝動が強まり、既得権益はすべて潰してしまえ、のような、いってみれば「希望は、戦争」のようなムードが広がり、そんな中で橋下徹や河村たかしへの支持が拡大していくのだが、今回はその話はせず、支持者が減ったとはいえ今なおうるさい、「頑張った者が報われる社会」の宣伝の嘘を批判しておく。
たとえば、「エコバヤシ」などといって現在LED電球の宣伝をしている、小林幸子という歌手がいるが、彼女は子供時代の1964年にデビューしたものの15年間は鳴かず飛ばずで、1979年に「おもいで酒」が大ヒットした時、年末の歌謡賞で拳を握りしめながら「苦節十数年」などと言って感極まっていた様子は、ちょっと異様なほどだった。その後30年以上売れっ子歌手を続けているわけだが、小林幸子は「おもいで酒」以前には努力が足りなかったから報われず、「おもいで酒」以降には、「おもいで酒」以前には決して行わなかった努力を30年以上続けているからその間ずっと売れているわけではないだろう。
何が言いたいかというと、年収だの財産だのというものは、決して本人が行った努力の質と量を掛け合わせたものには比例しないということだ。「働いても働いても楽にならない」ワーキングプアの人たちが、竹中平蔵より数桁も少ない努力しかしていないことなどあり得ない。
要するに、たまたま天職についたとか人の心をとらえる楽曲と巡り会ったとかいう幸運と、本人の努力の両方があって大成功する人が出てくるのだが、その結果、自分はアメリカにあるような豪邸に住んで、多くの使用人を雇って豪勢な生活をしてしかるべき人間であると考えるのがたとえば竹中平蔵のような人間であり、竹中平蔵ら富裕層が消費することによって経済を刺激し、景気が上向くというのがトリクルダウン理論である。
これに対し、人々が財産や所得に応じて応分の分担を行い、国や地方公共団体を通じて富を再分配した方が経済を活性化することができるという考え方がある。いかなる努力をしても所得が変わらなければ、それは誰も努力などせず、経済は停滞してしまうだろうが、努力しても努力しても報われることがなければ、やはり誰も努力する気になれず、経済は停滞してしまう。
要するに、最適な再分配の程度というものがあり、それが再分配が少ない方に振れすぎているのが現状ではないかと私は考えている。
その現状を改善する適切な方法が、果たして「所得税や住民税の減税」なのだろうか。税金とは、本当にろくに働きもしない公務員や高級官僚の天下りにしか使われていないのだろうか。
もちろん、高級官僚の天下りは現状のままで良いというつもりなど毛頭ない。言いたいのは、天下りに対する批判は、税金の使い道を適正化すべきであるいう主張につなげるべきであって、税金をなくしてしまえという主張につなげるべきではない、本当に叫ぶべきは、「適切な再分配を行え」ということだ。
リフレ派の経済学者・飯田泰之は、雨宮処凛との共著『脱貧困の経済学』(自由国民社、2009年)の中で、国と地方を合わせた税収は85兆円、それを日本の世帯数である5000万で割ると170万円であり、税を170万以上払っているのはだいたい年収1000万円以上の世帯だ、それなのに小泉の「頑張っている金持ちに報いよ」というフレーズにもっとも共感したのは年収600万前後の、いわゆる「中流層」だと指摘している。
話は結局河村たかしの「減税日本」批判へとつながるわけだが、要するに「減税日本」で得をするのは年収1000万以上の富裕層が中心だということだ。それが証拠に、河村の「減税日本」の一次公認候補27人には、会社役員多いという(女性が27人中4人しかいないのも問題)。
俺たちゃみんな貧乏人なんだ。「国や地方自治体は再分配をもっと強化せよ」と言って何が悪い。さあ、みんなで「鍋党?再分配を重視する市民の会」に集おうよ!
今年は連合会長・古賀伸明が年頭所感で「福祉をきちんとするためには我々も負担をしていく。消費増税は受け入れていかなければならない」と述べ、朝日新聞の元旦付社説「今年こそ改革を―与野党の妥協しかない」では、税制と社会保障の一体改革と環太平洋パートナーシップ(TPP)への参加の2点で、与野党が妥協するしかないと主張する。ここで朝日新聞が言う与野党とは、もちろん民主党と自民党のことであり、自民党は民主党以上に極端な消費税率引き上げを主張しているから、要するに民主・自民両党は消費税増税で歩調を揃えて実現させろと言っているのに等しい。TPPに関しても、朝日は各紙の中でももっとも強硬な推進派である。毎日新聞の元旦付社説「2011 扉を開こう 底力に自信持ち挑戦を」も、格調の低い、というかつまらない上共感できない文章であり、主筆・岸井成格の手になるのではないかと私は疑ったのだが、TPPは持ち出していないものの、「消費税増税を含めた財政再建」を課題として挙げている。毎日は、「与野党は妥協せよ」とは書いていないが、「自民党主体の政権時代から早急な解決が求められていた課題」をいくつか挙げているから、トーンは朝日と同じで、民主と自民が協力して取り組めと言っているようなものだ。
「消費税増ありきは国民騙し、海外比較では個人所得課税増が筋」という記事が、陰謀論系・小沢信者系の投稿が目立つ掲示板に掲載されている。掲示板記事にはリンクを張らないが、下記リンク先を元記事にしていた投稿だ。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/HATTORI-n/a220-6.htm
ここには、下記のように記述されている。
▼個人所得課税負担率が米国と同じなら16兆円税収増になる
※個人所得課税負担率をアメリカと同じ12.0%(日本7.6%なので4.4%増)にすれば単純計算で16兆円税収増になる。
2008年の国民所得384兆円なので(384×4.4%=16.8)となる
個人所得課税負担率は11ヶ国で最低の7.6%、他国は全て2桁
▼消費税増より個人所得課税増が筋
直間比率(個人所得課税負担率÷消費課税負担率)は高い順で米国がトップで日本は11ヶ国中5番目
米国 2.03、デンマーク1.66、カナだ1.43、スウェーデン1.19、日本1.10、フィンランド0.97、ーーー
福祉大国スウェーデンやデンマークよりも低い、これからも消費税増よりむしろ個人所得課税増が筋なのです、
※しかるに、政治家もエコノミストもマスコミも財源には消費税増のみだとしている
そもそも個人金融資産が1500兆円(うち現金と貯金は770兆円)もあるのに逆進性が高い消費税増が必要との意見は理屈に合わない
当ブログでは、以前から「(アメリカのように)サービスの小さな政府を目指すのであれば、税は所得税中心にせよ、大きな政府を目指す場合、直接税の税収を拡充したあと、それでも不足する分の財源として消費税を含む税制改革を検討すべきだ」と主張しており、上記リンク先記事は、それを補強するものである。
しかし、連合会長も、どちらかというと与党寄りの大新聞も、すべて経団連と同じように、与党は、経団連と仲が良くて与党どころではない獰猛な新自由主義をむき出しにしている野党第一党や、その傾向をさらに尖鋭化させた野党第三党と手を携えて、消費税増税に邁進せよと叫んでいる。八方美人の総理大臣は、当然のごとくその方向へ向かおうとしている。
翼賛体制とはこのことかもしれない。民主党と自民党、連合と経団連が協力して新自由主義を推進する。与党代表にして総理大臣、かつて党内左派と思われていたし(実際には党内でも中道左派程度だったと思うが)、野党第一党の総裁も、与党時代のように政治思想・経済政策とも右派色の強かった派閥からではなく、かつては保守本流とされていた派閥から出ているが、それにもかかわらず、与党も野党第一党も、ともに党の歴史でこれまでにも見られなかったほど「経済右派」に傾いている。特に野党第一党のそれは異常なくらいで、もっともっと法人税を下げよ、もっともっと消費税を上げよと絶叫している。これを応援しているのが読売新聞や産経新聞である。
これ以上書き連ねるのもいやになるほどだが、こんな現状がある以上、与党・民主党の党内抗争、「小沢対反小沢」がどうしたこうした、という記事をブログに書く気になどとうていなれない。そんなことはどうだって良い。
今年の政治でほぼ確実に予想できることが一つあって、それは菅直人首相の退陣である。昨年末に発覚した、たちあがれ日本との連立工作に私は激怒したが、この件で党内反主流派(小沢・鳩山派)から突き上げを食った菅政権は、年明け早々総辞職に追い込まれるかもしれないとも思った。しかしそうはなりそうになく、官房長官の首をすげ替えることで主流派と反主流派(菅直人と小沢一郎)が手打ちして、しばらくは内閣が延命しそうな状況だ。しかし、内閣は持って春までだろう。統一地方選は、主流派の体制が続いていようが、反主流派の体制に代わろうが、いずれにしても民主党の惨敗は間違いないので、菅代表・首相の責任が厳しく問われることは間違いない。反主流派としては、そのあとで現主流派の体制を倒して権力にありつくシナリオを描いているのではないかと想像する。だが、どう転んだところで「国民の生活が第一」をないがしろにした不毛な党内抗争としか言いようがないし、さりとて解散総選挙で自公政権が復活すれば、政治は現在よりさらに苛烈を極めるものになる。
そこを突いて出てこようとしているのが、「減税」で有権者をたぶらかそうとする勢力であるが、主に所得税と住民税を減税する彼らの政策は持続不可能であるから、いずれ消費税増税の話が出てくる。もともと「減税」というのは新自由主義と親和性の高い政策であるから、「民のかまど」どころか、金持ちだけが肥え太る社会になる。彼らの指導者たちは、それをわかっていて運動を推進しているものと私は考えている。
大企業経営者と結託した労働貴族が主導する現政権、大企業経営者と直結した階級政党である野党第一党、「減税」で国民をたぶらかそうとする詐欺師たちのいずれにも与せず、再分配の強化を求めていくのが、「鍋党?再分配を重視する市民の会」である。今年も引き続き参加者募集中なので、お気軽な参加をお待ちしている。もちろ前回エントリの新年のご挨拶にも書いたように、単にSNSの一コミュにとどまらない意見発信を、今年は行っていく予定にしている。
「日本版ティーパーティー」を目指す河村たかし・名古屋市長らに対抗して立ち上げる運動と名称として、前回のエントリで挙げた「鍋党」という名称には賛否両論があったものの、「鍋党」に代わる名称の候補としては、「朱の盤」さんから「ナベたたき党」という案をいただいたのみだった。朱の盤さんの案は、片仮名の「ナベ」である点に大いにウケたものの、「叩く」より「作る」イメージがあった方が良いなあと思うし、他に案を出された方がいなかったこともあって、とりあえずは「鍋党」という名称を用いたいと思う。ナベを叩くデモをやったあと、同じ道具を使って鍋料理をやる、というのも一興だろう。
「鍋党」運動の始め方について、『広島瀬戸内新聞ニュース』から大変参考になるTBをいただいている(下記URL)ので、引用して紹介する。
http://hiroseto.exblog.jp/13547458
とりあえず、mixiで、コミュニティーを立ち上げる。ブログもつくる。
その上で、情報発信を行うべきでしょう。1については、
- 税制や社会保障の現状と直面する課題について、情報を発信する。
- 議会改革について、冷静な情報発信を行う。
- 庶民にとって本当に負担が重いのは、年金保険料や介護保険料、国保料などであり、社会保障の保険料主義、さらには、企業主義的、家族主義的な日本の福祉が限界にきていること。
- 日本の政府規模は決して大きくないこと。社会保障や教育費も他の先進国と比べて低いし、これからは社会資本のメンテナンス需要も考えたら実は公共事業費だって一定程度は必要で、そうなるとある程度大きな政府にする必要がある。それにはある程度お金持ちから負担をいただく必要がある。
- 日本の税制はお金持ちに有利になってしまっている。
- 河村市長は、減税すれば、ボランティア活動にお金が回る、と主張するが、キリスト教の思想的な基盤(神様の恵みは世の中に還元するのが当然)がない日本にアメリカのような理屈が当てはまるのか?
- 日本の議員数は多くはない。また、河村市長は、ボランティア議員を主張するが、日本では北欧と比べても労働時間も長い。供託金も高い。そういう条件の違いを無視していいのか?また、給料も議員数も半減したら、議会機能が弱体化するのではないか?
などの論点を整理し、発信していきたいとおもいます。グラフや動画などビジュアルな資料も活用し、情報を発信していきたいとおもいます。
とりあえず、参考になるのは以下です。
政府税調専門家委員会会議資料
http://www.cao.go.jp/zei-cho/senmon/sensiryo.html
「とりあえず、mixiで、コミュニティーを立ち上げる」ことは、私も考えていたので、立ち上げてみた。コミュニティ(以下「コミュ」と略称)の名称は、「鍋党?再分配を重視する市民の会」とした(下記URL)。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=5325543
参加するには、mixiに未登録であればまず登録して(mixiは以前には「招待制」だったが、現在は自由に登録できるようになったと思う)、さらに、コミュへの参加をご申請いただくという2段階の手続きがあるが、mixiに登録いただければ上記リンク先から確認できるコミュの趣旨にご賛同いただける方であれば、どなたでも承認したいと考えているので、積極的なご参加をお待ちしている。
コミュは、税制や社会保障、議会制度などに関するものにしたいと思うが、現在ちょっと管理人の元気がないので、これを書いている時点で、コミュには現在自己紹介のトピックを一つ設けただけで、まだ何もない。参加者全員にトピックを立ち上げる権限があるので、皆さまの参加とトピ立てを期待する次第だ。
コミュの立ち上げは、ほんの第一歩に過ぎないが、再分配重視派の市民の声を結集して盛り上げて行ければ、と思う。
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