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きまぐれな日々

30年前の今日、といっても一日が終わろうとしている時間帯に書いているのだが、1月27日は、ロッキード事件に関与したとして受託収賄罪で起訴された田中角栄元首相の初公判が行われた日だった。当時、新聞に『田中、「よっしゃ」と応諾』という大見出しが踊ったのをよく覚えている。当時は、容疑者や刑事被告人は呼び捨てで報道されていた。

その前年の1976年に発覚したロッキード事件は、正解を大きく揺るがした。前首相の逮捕という大ニュースは特に衝撃的だったが、ポルノ男優・前野光保による児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件や、鬼頭史郎判事補による謀略電話事件など、当時の人気テレビ番組「ウィークエンダー」を騒がせた奇怪な事件がいくつも起きた。今にして思うと、政治の劇場化は、このロッキード事件あたりがはしりかもしれない。

1976年末の衆議院議員の任期満了にともなう総選挙で、自民党は安定多数を大きく割り込み、単純過半数を辛うじてクリアする敗北を喫し、かねてから「三木下ろし」と呼ばれた自民党内からの政権排斥運動に抗しきれなくなった三木首相は辞任し、福田赳夫政権がスタートした。

この福田氏は、昨年安倍晋三と総裁戦を戦うかと見られながら降りてしまった福田康夫氏のお父さんにあたるが、岸信介の流れを汲むタカ派の政治家であった。福田政権時代に有事立法が検討され、元号法制化への道筋が敷かれるなど、右寄りの政策がとられた。1978年の終戦記念日に福田氏は靖国神社を「内閣総理大臣」と記帳しながら「私的参拝」をするという詭弁も用いた。福田氏の指示ではなかったようだが、靖国神社にA級戦犯が合祀されたのも、福田政権下の1978年である(のち、大平政権に代わったあとの1979年4月に朝日新聞の報道によって明らかになった)。これも、福田政権の右寄り政策があったから、松平宮司が合祀に踏み切ったと解釈できるのではないかと私は考えている。

福田赳夫氏は、実は岸信介以来の岸派からの総理大臣だった。岸信介のあと首相になった池田勇人、佐藤栄作、田中角栄はいずれも吉田茂の流れを汲む政治家で(佐藤は岸の弟でありながら岸派ではなかった)、三木武夫内閣に至っては自民党の政治家とは思えない左派政権だった。田中角栄逮捕は、首相が三木だったから実現したのかもしれない。

ともあれ、福田は久々に現れた右派の総理大臣だったので、一気に右傾化政策を推進したのだが、その福田政権にとって最大の難関になったのが、1977年の参院選だった。

その3年前、1974年の参院選で自民党は敗れており、77年の参院選には、与野党逆転がかかっていた。当時は、ロッキード事件に由来する政治不信が国民の間に広がっていて、自民党から新自由クラブが分かれ、社会党から社会市民連合が分かれた。社会市民連合は、1977年3月に江田三郎が立ち上げたものだが、参院選を目前に控えた5月に江田は急死し、息子の江田五月があとを継いだのだった。菅直人は、参院選に社会市民連合から立候補して落選している。つまり、社市連は現在の民主党・菅グループのルーツなのである。

個人的な感想だが、この頃の社会党左派・社会主義協会の硬直性は実にひどくて、指導者の向坂逸郎に至っては、ソ連や東欧諸国を全然批判できないばかりか、将来的には憲法を改定して軍備を持ち、ワルシャワ条約機構に加入するとまで主張していた。要は左からの「改憲勢力」だったのだ。また、マルクスやレーニンの無謬性も主張していた。共産党よりもっと左の極左としかいいようがないが、こういう勢力が社会党を事実上牛耳っていたのである。私は、「憤死」としかいいようのない江田三郎氏の死に深く同情したものだ。その時の印象があるものだから、民主党は必ずしも支持しないけれど、いまだに菅直人や江田五月のシンパではある。

その当時、私のスタンスなんかは左翼から見たら「保守反動勢力」以外のなにものでもなかっただろう。当時はまだ選挙権もなかったが、一応反自民ではあったので、もちろん右翼でもなく、「中道」といえたと思う。しかし、その後の30年間で、世の中が大きく右傾し、私は相対的に「左」に位置することを余儀なくされるようになった。

ずいぶん脱線したが、30年前の参院選前には、自民党も社会党も分裂したばかりか、「革新自由連合」(左派の文化人やタレントが中心の政党)が旗揚げしたり、「中ピ連」が「女性党」を結成したり、あげくの果てには鬼頭前判事補まで謎の立候補をするなど、参議院選挙は大いに盛り上がった。

しかし、既成野党や乱立した新党は、いずれも支持をまとめることができず、結局自民党が過半数を確保し、与野党逆転はならなかったのである。

それまで、自民党の議席は増えたり減ったりを繰り返しながら、平均的に見れば徐々に退潮傾向にあったのだが、この選挙を境に流れが変わった。日本の社会は右傾化を始めたのである。

福田政権自体は、78年の総裁選で福田赳夫が大平正芳に思いがけない敗北を喫したことで終わり、以後岸?福田派の流れから総理大臣が誕生するのには、2000年の森喜朗まで待たなければならなかった。日本の右傾化が急激には進まなかったのは、この派閥が政権を握らなかったおかげではあるのだが、それでも、中曽根康弘が政権を長く握った時代もあるし、中曽根の親友である読売新聞の渡邉恒雄が読売の紙面を大きく右傾させたこともあって、日本社会の右傾化はじわじわと進んでいった。

それが、2000年以降の森、コイズミ、安倍と三代続く売国派閥出身の政権に、やりたい放題やられる原因になってしまった。

いまや憲法を改定するための法律である国民投票法案まで成立してしまいそうな情勢だが、敵はここまでくるのに30年の月日をかけて用意周到に進めてきたのである。それが、敵にとって大事な血筋を持つ、「岸信介の孫」安倍晋三によって、一気に進められようとしている。これは、敵の悲願をかけた闘いなのである。

こちらにとって幸運なのは、安倍晋三が岸信介とは似ても似つかない無能な政治家であることだ。そこを巧みに突いて、なんとか敵の目的の達成を妨げることはできるのではないかと考える。

但し、向こうには30年の蓄積があることを忘れてはならないと思う。国民の多くは、日本の軍国主義化など求めてはいないと思うが、だからといって改憲に賛成か反対かといわれると、戦争を好まなくても改憲を容認する人たちは大勢いるのである。安倍が対北朝鮮の強硬派姿勢を演出したがるのも、北朝鮮の脅威を強調することで、改憲を容認する世論を作りたいからであることは明らかだ。実際には、裏で北朝鮮と結びついているといわれている統一協会に祝電を送るような政治家だから、北朝鮮利権だって握っているだろうと想像されるのだが。

今年の参議院選挙にも与野党逆転がかかっているし、国民の政治不信が広がっているのも30年前と同じだ。但し、国民の意識は30年前とは比べものにならないくらい、政治思想的には「右」に偏っている。

だからこそ、差し迫った参院選に野党が勝つためには、改憲より生活問題、格差是正なのである。護憲か改憲かの論争なんて、まず選挙で自民党を叩きのめしてから改めて議論すれば良いことだ。

かつて、岸信介は国家をコントロールするためには政治思想よりも経済だ、と考えて、あえてエリートがあまり選ばない農商務省に入省した。岸には先見の明があった。

かつての巨大な敵に学びたいものだと思う。

今年の参院選では、30年ぶりに流れを変えたいものだ。


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30年前からの流れについて、大変勉強になりました。そして僕も現自民・公明政権を相手にするには、格差や労働条件など、経済的側面に重点を置いたほうがいいと思います。なぜなら国民は変化を求めているからです。

2007.01.28 01:36 URL | vannsonn #- [ 編集 ]

田中角栄逮捕とそれについての証人喚問など国中が大騒ぎした事が思い出されます。しかし詳しいいきさつは、系統立てて説明して頂いて改めて理解できた感じです。何時もの事ながら感心しつつ読ませていただきました尚、田中角栄の告発にはかなりアメリカの働きかけがあったらしいと言う噂でしたね。

2007.01.28 07:37 URL | わこ #- [ 編集 ]

そうですね。
管直人は土地の私有制を廃止するように提言していました。土地の私有が認められるかどうかは社会主義と資本主義を画する重要な要素です。管は明らかに社会主義者ですよ。

また、市街化区域内の農地の宅地並み課税を推進して都市農業を壊したのも管。自給率低下の一因をつくりました。責任を取って辞職してほしいです。

2008.09.29 11:50 URL | ゆうたん #uaIRrcRw [ 編集 ]

>ゆうたん氏

>市街化区域内の農地の宅地並み課税を推進して都市農業を壊したのも管。自給率低下の一因をつくりました。

管氏の台頭以前から都市部(および郊外)での農業は壊滅的でしたが?

寝言は寝てからにして下さいね。

2008.09.29 23:57 URL | てあとる☆北極の支配人 #DdiHOXp. [ 編集 ]













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