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きまぐれな日々

 昨日(9/30)投開票された沖縄県知事選は、予想外の大差で玉城デニー候補が佐喜真淳候補に圧勝した。玉城候補の得票が396,632票(得票率55.1%)に対して佐喜真候補の得票が316,458票(得票率43.9%)であり、得票率で10ポイント以上の差がついた。

 55%対45%というと、たまたま20日の自民党総裁選での安倍晋三と石破茂の党員票の数字と同じだが、まああれは得票率でもないし裏返しの数字でもあるから偶然だ。

 しかし、自民党総裁選で安倍晋三が党員票で石破茂に追い上げられたことと、沖縄県知事選で佐喜真淳が思わぬ大差をつけられたこととの間には密接な関係があるとはいえるだろう。

 つまり、安倍晋三に対する忌避感が、全国の自民党員の間に続いて沖縄県民の間にも広がってきたことを意味する。

 その他にも、常識的に誰もが思う「弔い合戦」の効果(私など首長の死を受けた選挙の時にはいつも選挙戦中に時の首相だった大平正芳が急死した1980年の衆参同日選挙を思い出す)もあろうし、『広島瀬戸内新聞ニュース』が指摘した、小池百合子や松井一郎といった本土の大都市における新自由主義者の首長が佐喜真候補を応援したことで同候補への票が逃げたこと(「『公務員に天誅!』は大都会以外では通用しない」と表現されている)もあろう。特に後者には無視できない効果があると私も考えており、たとえば6月の新潟県知事選で小泉純一郎が新潟県入りして「野党共闘」の候補者を応援したこと及び共産党の志位和夫や立憲民主党の枝野幸男が小泉の新潟入りを歓迎するコメントを発したことは、新潟県知事選で「野党共闘」候補の票を逃がす原因の一つになったのではないか。こうした意見には賛同者は少ないのだが、ずっとそんな仮説を持っている。

 しかし、それよりも今回は「安倍晋三が滅茶苦茶な力の入れようをしている佐喜真淳候補には入れたくない」心理が強く働いたのではないかと思えてならない。こんなことを書くと「沖縄のことを何も知らない本土の人間がいい加減なことを言うな」とお叱りを受けるかもしれないが、一つの仮説として、全国的に大規模な「安倍離れ」が起き始める前兆が、自民党総裁選に続いて沖縄県知事選でも観測されたのではないかと考えている。

 独裁で締めつけを強めれば強めるほど、また誰にでもわかる嘘の上にさらに嘘を重ねることを続けるほど、地震が起きる前の状態にも似て、歪みのエネルギーが蓄積していく。そしてそのエネルギーはいつか解放される。そのエネルギーの解放が、他国に戦争に負けることによってしか実現しなかったのが前回の「崩壊の時代」が終わった1945年であって、日本の国民や日本に住んでいた人々の甚大な犠牲をもたらした。

 現在の「崩壊の時代」は、あの時の反省を踏まえて徐々にエネルギーを解放していくものでなければならない。今回の沖縄県知事選は、その絶好のきっかけになり得る可能性がある。

 もちろん、今回の知事選における玉城デニー陣営にも問題はいくつもあった。その最たるものは、存在するかどうか未だに疑いの晴れない「翁長知事の音声データ」であって、候補者が密室で選定された過程は、2000年に小渕恵三が倒れたあと自民党長老の談合で森喜朗が自民党総裁・日本国総理大臣になった経緯を思い出させるものだった。「新9条論」の推進者として一部で悪評を買っている東京新聞の記者が、今回の候補者選びを「どこの独裁国家の話か」と評した一幕があったが、「新9条」では彼に与しない私も、この候補者選びに対する彼の批判には同意する。

 それでなくても「野党共闘」には不透明な点が多く、特に政党としては泡沫政党としかいいようのない自由党の党首(代表)に過ぎない小沢一郎が異様な影響力を駆使し、自らやその配下の者が接着剤になる形で立憲民主党と共産党とをくっつける形を作り上げてしまっていることは不健全極まりない。

 小沢は先週、自らの改憲論を『AERA dot.』のインタビューに答える形で発表した(下記URL)。
https://dot.asahi.com/dot/2018092700037.html

 これは、私の見るところ、『世界』2007年11月号に小沢が発表したアフガニスタンに展開するISAF(国際治安支援部隊)への自衛隊派兵論を思い出させるものだ。『世界』の「小沢論文」は当時大きな話題になり、左派から強い批判を受けたものだが、現在では打って変わって小沢の改憲構想はそもそも話題にもならない。それが、小沢の影響力が低下したことの反映であればまだしも、現実の野党間の政治においては、小沢が今も強い影響力を持っていることは明らかだ。先日も立憲民主党との間で国会議員の移籍があり、私はあれは今後行われる衆院選沖縄3区(沖縄県知事選の前までは自由党の玉城デニーが議席を持っていた)に立憲民主党から候補を出すことを容認する見返りなのではないかと推測している。つまり小沢一郎と枝野幸男とは「握っている」と想像するのだ。

 表面には出てこないが、立憲民主党以上に小沢が強い影響力を行使していると推測されるのは共産党に対してであって、ネットでも野党支持者たちの間で小沢の改憲構想に触れることが一種のタブーになっているのではないか。そう私は思っている。

 この現状は、安倍晋三の独裁政治の弊害によって日本社会に溜まっている歪みエネルギーを、大きな被害をもたらさない形で解放するためには、むしろ逆効果になっているとしか私には思われない。

 ちょうど安倍晋三が自らに「まつろわない」者は、たとえ自らと同じ極右である石破茂であっても容赦なく弾圧するのと同じように、今の「市民連合」と共産党とが表に立ち、背後(せいごではない)に影の最高指導者として小沢一郎が控える「野党共闘」は異論を許さずタブー化してしまっている。そのことは、反安倍・反自民の勢力の間に別の歪みエネルギーを溜め込むことになると同時に、「野党共闘」の勢力を拡大する上での障害にもなり、安倍独裁政治によって溜まった歪みエネルギーを徐々に解放するための阻害要因になってしまっているのだ。

 心ある反安倍・反自民の者にとっては、安倍晋三の独裁政治を打倒することももちろん必要だが、「市民連合」や「野党共闘」の同調圧力をはね返すことも求められると信じる。後者は、前者を実現するための必要条件だと思うからである。
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 少し前に、1515番目のエントリを最後にこのブログの更新を止めると書いたが、今回が1506番目になる。あと9回だが、現在のようにズルズルと更新しない状態をいつまでも続けていても仕方がないので、来年(2019年)春を目処に、この記事を含めてあと10本の記事を書き切って終わらせようと思うに至った。そのきっかけは、「はてなダイアリー」が来年春に終了することがある。はてなに開設している『kojitakenの日記』は、そのうち「はてなブログ」に移行させるが、もう少しはてなダイアリーにとどまって、ダイアリーの終了日時がはっきり告知された頃に移行しようと考えている。その移行のタイミングに合わせて、こちらのブログにも区切りをつけようと思うのだ。

 だから、今回の更新のあとは週末の沖縄県知事選を受けて来週月曜日に更新するつもりだ。

 今回は、自民党総裁選について簡単に書く。

 『kojitakenの日記』にも書いた通り、私は自民党総裁選では安倍晋三が党員票でも圧勝し、石破茂の政治生命が終わるだろうと思っていた。しかし、予想通り議員票で石破は2割弱しか得票できなかったものの、予想に反して石破は45%弱の党員票を獲得した、

 このことについて、『kojitakenの日記』には

安倍晋三は何もやらなきゃ圧勝だったのに誰の目にも明らかな形で変な圧力をかけたもんだから総裁選中に支持が離れたんだろう。

と書いたが、実はもう一つ異なる仮説を立てている。

 それは、党籍を持っている自民党員の方が、一般の自民党支持者よりも安倍晋三に対して厳しい目を向けているということだ。

 どんな世界でも、素人ほど惰性に流されやすく、既成観念にとらわれた因習的な考え方や感じ方しかできない。これが、この人生を通じて得た私の経験則だ。一般には、素人だからとらわれのない考え方ができると思われがちだが、実は真逆なのだ。だから、一般の自民党支持者や世論調査で安倍内閣を「支持する」と答えてしまう人たちは、簡単に「長いものに巻かれて」しまう。党籍を持つ自民党員の場合は、もう少し真面目に政治を考えているし、「自らへの異見を圧殺する」安倍晋三のあり方が、人の道に反しており、安倍に投票するわけにはいかないと考えた。今回の結果を公開酌することもできるし、案外こっちの方が当たっているかもしれない。

 この場合、石破茂は単なる「安倍晋三以外の候補者」であって、別に石破の極右的な思想信条や政策が支持されたのではない。ただ問題は、安倍に対抗する候補として総裁選に出馬できたのが極右の石破だけだったことだ。宏池会の岸田文雄だの「初の女性総理大臣を目指す」野田聖子だのは安倍支持に回ったが、今回の結果に舌打ちしているに違いない。彼らは、自ら「オワコン」になる道を選んでしまった。特に岸田については、何とか安倍晋三に「禅譲」してもらおうと今後醜態を晒し続けるであろうことが目に見えている。宏池会は、安倍晋三一派よりももっと未来のない完全な「オワコン」だとしか言いようがない。ことに、今後「保守本流」たちが共通して自らの信念としている財政再建原理主義が厳しい批判に晒される可能性が高い。

 蛇足ながら、宏池会系ではなく竹下登系の石破茂もまた「財政再建原理主義」の政治家であり、それにとどまらずこのイデオロギーは朝日新聞や立憲民主党の政治家やさらにはその支持者たちにも広く行き渡っている。私など、TBSのニュース番組で安倍政権に批判的な報じ方をしている最中に「国の借金」とか言い出すと、またかよ、それが安倍政権を助けてるんだよ、と苦々しい思いになる。

 その立場に立つ石破茂は、政治思想においても紛れもなく「右の極北」に位置する。こんな政治家を「リベラル・左派」たちが熱心に応援したのも目を覆うばかりだった。

 このところ、国会の閉会中には安倍晋三が追及されないために内閣支持率が上がる傾向があるが、それに加えて、自民党総裁選で自民党が注目されると自民党と内閣の支持率が上がる傾向が昔からある。

 この結果、自民党総裁選で「安倍一強」に綻びがはっきり見えてきたにもかかわらず、ここ最近の間では安倍内閣支持率がもっとも高いという、一件矛盾した現象が起きている。

 だがこれは、たとえてみれば夏至が過ぎてもその後1か月ほどは気温が上がり続けるのと似ている。たまたま一昨日は「秋分の日」だったが、遠からず安倍政権にも「秋の日はつるべ落とし」の日がくる。だが、没落しきらないうちにと安倍が焦って進めようとする改憲を、現在熱心に安倍を応援している読売新聞だのNHK(特に岩田明子)らが後押しするだろう。読売とNHKはそれぞれ影響力が絶大だし、イデオロギーというより「お祖父ちゃんが成し遂げられなかった改憲を僕ちゃんが成し遂げるんだ」という、妄執ともいうべき暗く強い情念に突き動かされている安倍晋三の突破力は絶対に侮れないほど強いので、今後無事に安倍政権が「終わってくれる」と楽観するのは絶対に禁物なのだ。

 何が何でも安倍(政権)を終わらせる。そんな強い気持ちを政権批判側が持たないと、安倍にしてやられてしまう。

 戦いはこれからが本番だ。
 このところ『kojitakenの日記』ではずっと「石破茂を応援する『リベラル』」を批判しているのだが、ここでは「崩壊の時代」の元凶・安倍晋三の論外な姿について、私としてはあまりにも当たり前で普段は改めて書く気もしない批判を書き留めておく。

 そもそも来月行われる自民党総裁選に、安倍晋三はまだ出馬表明すらしていないが、間違いなく出馬するといわれている。

 マスメディアの報道では、地方票で石破茂が検討するのではないかと願望混じりに言っている人もいるようだが、そうはならず、石破の政治生命が危うくなるくらいの安倍晋三の圧勝になるであろうことは疑う余地がない。

 マスメディアの世界でさえ、テレビ朝日の小川彩佳のように「ちょっと自分の意見を言うこともあるけれども、基本的には原稿を読む人」(小川氏はアナウンサーだ)でさえ番組を追われるほど、「政権に対するちょっとの文句も許さない」言論空間ができつつある。

 前記小川アナの場合は、まさかあの程度の意見を言うくらいで番組を追われるとは信じられない。実際には昨年週刊誌に書き立てられた芸能人との結婚に伴う退社など、別の理由ではないかと最初は訝ったくらいだ。しかし、その後の報道を追うと、実際にはそうではなく、安倍晋三と昵懇といわれるテレビ朝日会長・早河洋の「鶴の一声」で決まった人事だそうだ。まさかと思っていたが、やはり「官邸筋」の人事ではないかとの心証を強めるに至った。

 小川アナの後任はかつてテレビ朝日のアナウンサーだった徳永有美だそうだが、この人はかつて芸能人との不倫騒動で局を追われた。2004年に報道ステーションが始まった時、1年間だけ木曜日と金曜日のスポーツコーナーを担当していたが、私はこの人にやってほしくないな、月曜から水曜までやっている武内絵美がずっとやれば良いじゃないかと思っていたら、同じことを思う視聴者が多かったせいか、翌年春の改編で徳永は外され、月曜から金曜まで武内アナがやるようになった。

 その徳永が戻ってくるというのだから、それでなくても番組の開始時刻から見ることがほとんどなくなった「報棄て」は、10月からはもうほとんど見なくなるのではないかと思う。徳永有美に「報道」のイメージなどない、とは誰もが思うことだろうし、報道ステーション自体、来年3月には視聴率低下を理由に打ち切られるのではないかとさえ私は疑っている。

 別に自民党員によって構成されているわけでもないテレビ局でさえこんなありさまだから、自民党内にはとんでもなく強い「同調圧力」が働いているとみなければならない。そんな「空気」にあっては、「物言えば唇寒し」だとか「長いものには巻かれろ」などといった諺に従って自民党員が行動するであろうことは火を見るよりも明らかだ。自民党総裁選は間違いなく安倍晋三の歴史的圧勝に終わる。

 しかし、独裁者の欲には本当に限りがないらしく、独裁権力を強めれば強めるほど、少しの文句を言う者も許せなくなるようだ。同じ体質は2008年の民主党代表選を無理矢理無投票にしてしまった小沢一郎にもあったが、小沢の場合はまだ民主党や「小沢信者」たちの間で独裁権力をふるっていたに過ぎなかった。安倍晋三の方が母集団が大きいだけに、小沢よりもずっと悪質だ。

 その表れの一つが、自民党総裁選で候補者同士の公開討論を行うことを安倍が阻止しようとしていることだ。前記の小沢一郎についても言えることだが、安倍は論戦をきわめて苦手としている。国会でも質問にまともに答えず、質問をはぐらかして答えになっていない妄言を延々と垂れ流して、自分が口を開かない場面ではニヤニヤ不敵に笑みを浮かべるというふざけた態度をとるのが常だが、それは安倍がその強大極まりない権力とは不釣り合いなほど論戦を苦手にしているからにほかならない。

 そんな背景を考えると、安倍の意向通り安倍晋三と石破茂との公開討論は行われないまま投票日に至り、自民党議員たちが「ハイル・晋三」と言わんばかりに万歳を三唱する姿が目に浮かぶ。これは絶対に間違いなく現実になる。

 思想信条や主義主張からいえば、石破茂の方がずっと右翼(極右)・タカ派色が強く、だからこそ石破を公然と応援する「リベラル」たちを私は日々批判しているのだが、政治手法に関しては、というより現在の力関係をそのまま反映して、石破のほうは普通の合意形成方法を主張するのに対して安倍晋三はひたすら権力で押しまくる。もっともこれについては、石破茂も万一総理大臣になった場合は、現在口にしているようなまっとうな合意形成方法をとるとは到底思われず、やはり権力をゴリ押しするであろうから、その点に注意が必要だ。

 いずれにせよ現時点では安倍晋三の方がずっと脅威だし、これまでに安倍が学習した独裁権力の揮い方から類推して、今後さほど長い時間をかけずに日本国憲法が改変される危険性は、現在「リベラル・左派」が楽観しているほど低くはなく、総裁戦後のこの国にとってきわめて大きな脅威になることは間違いない。

 坂野潤治は2013年春に毎日新聞のインタビューに答えて、現在の日本が「「異議を唱える者が絶え果てた『崩壊の時代』」に入ったと言った。その「崩壊の時代」においては、個々の人間が「長いものには巻かれろ」式の行動をとっている悪弊も見逃せないが、何より独裁権力者である安倍晋三が、「異議を唱える者を根絶やしにしようとしている」ことを見逃してはなるまい。

 こうして、「崩壊の時代」の帝王・安倍晋三が自らへの異見を圧殺し続けている間、あれほど独裁者を賛美する者たちが叫び続けてきた「日本スゴイ」のメッキはすっかり剥がれ、昨日(8/19)のTBS『サンデーモーニング』で保守論者の寺島実郎と大宅映子が言っていた通り、いまや日本の産業の世界的競争力は、かつての高度経済成長時代を反転させたかのような、高度凋落時代に差しかかった様相を呈しつつある。前回の「崩壊の時代」は日本の軍事が破滅して終わったが、どうやら今回の「崩壊の時代」は日本経済の崩落とともに終わる気配が見えてきた。

 なお、今回書いたような安倍晋三批判は私にとってはあまりにも当たり前のことで、だからこそこうしたことを前提にした上で、「リベラル・左派」の世界の中に働く同調圧力に流される人たちを批判する記事を書く方が、安倍を非難する記事を書くよりずっと頻度が多くなっている。

 だが、自民党総裁選のような機会を捉えて、たまには安倍の正体を指摘する記事を書いておかなければなるまい。そう思って今回の記事を書いた。
 今回の記事を含めてあと12回で終わらせると自ら決めているこのブログの記事だが、そのたった12回の更新にさえ気が乗らないくらい重苦しい空気にこの国は覆われている。

 昨夕(7/24)ようやく出された岸田文雄の自民党総裁選不出馬表明などあまりに予想通りで拍子抜けするくらいだった。岸田はおそらく3年後の安倍晋三から「禅譲」を受ける密約を交わしていると思われるが、そんなものはかつて岸信介と大野伴睦が交わした密約と同様に反故にされるに決まっている。そんなこともわからない岸田は、そもそも総理総裁の器でないとしか言いようがない。

 2015年の自民党総裁選もそうだったと記憶するが、安倍晋三はとことん政敵を総裁選不出馬に追い込む戦略を立てている。独裁志向の強い安倍ならではのことだが、これにはかつての民主党に先例がある。2008年の民主党代表選を無投票にしてしまった小沢一郎がそれだ。徹底的な反民主主義的体質という点で、小沢一郎と安倍晋三とは共通している。それと比較すると、2008年に麻生太郎が選ばれた当時の自民党には、まだ党内で競う文化が残っていたといえようか。今はもちろんそんな文化は影も形もなく、自民党内の民主主義などないに等しい。

 それよりももっと深刻だと私が思うのは、「野党共闘」勢力内部でも、自民党と同様にタブーだらけで自由にものが言える空気がないように見受けられることだ。

 タブーの対象はいくつかある。まず小沢一郎がそうだ。昨年、あれほどあからさまに前原誠司新代表の民進党と小池百合子とをくっつけようと画策し、その結果、小沢が小池に切られたのだが、驚いたことに「野党共闘」集団内で小沢が断罪されるどころか批判されることすらなく、元々小沢が属していた民進党系のみならず、共産党までもが小沢に選挙協力した。

 小沢がタブーの対象になっていることの論理的帰結として、小選挙区制の見直しもまた「野党共闘」集団内でのタブーになっている。

 また、最近特に気になっているのが、「野党共闘」集団内の「菊のタブー」である。

 これを考えるきっかけになったのが、白井聡のトンデモ本『国体論 - 菊と星条旗』(集英社新書)だった。この本のトンデモさを一言で指摘したのは中島岳志だった。中島は、本に開陳された白井の考えについて、下記のように鋭く指摘している。
http://bunshun.jp/articles/-/7756

 白井は、今上天皇の決断に対する「共感と敬意」を述べ、その意思を民衆が受け止めることで、真の民主主義が稼働する可能性を模索する。

 この構想は危ない。君民一体の国体によって、君側の奸を撃つという昭和維新のイマジネーションが投入されているからだ。

(文春オンライン 2018年6月17日)


 もっとも、この文章のすぐあとに、中島は

白井は、そんなことを百も承知で、この構想を投げかける。それだけ安倍政権への危機意識が大きいのだろう。

 激しい問題提起の一冊である。

(同前)

という、なくもがなの文章をつけ加えて書評を締めくくり、せっかくの鋭い批判を自ら台無しにしてしまっているのだが、それでも、「君民一体の国体によって、君側の奸を撃つという昭和維新のイマジネーションが投入されている」という中島の指摘は貴重だ。

 ネットで見る限り、白井の思想は北一輝や2.26事件の青年将校を思わせるものだとの指摘は他にもあった。しかしそうした指摘をした人たちは少数で、しかも保守派が多かった。

 この点について、左派で見るべき指摘をしたのは、リフレ派の論客として特に旧民主・民進系の人たちから評判の悪い松尾匡くらいしか思い当たらない。松尾の指摘については、『kojitakenの日記』に紹介したばかりなので、興味のおありの方はそちらを参照されたい(下記URL)。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20180722/1532240003

 白井聡はひたすら「対米自立」を追い求めるのだが(その議論はかつて孫崎享がトンデモ本『戦後史の正体』と瓜二つであるように私には思われる)、それに対して、白井は

現実に対米自立が実現したらどんな自立になる可能性が一番高いかということについて、怖い想定を何もしていない

と指摘し、さらに

たとえきっかけでも、天皇の声に応答して、しかもその声が国民統合の仕事をさせてくれという声で、しかもその仕事が霊的な「祈り」である時に、現れる可能性が一番高いのは、やはり右翼ナショナリズムの運動でしょう。

と畳み掛ける松尾の議論に、私は強い説得力を感じる。

 しかし困ったことに、最近の白井聡は巧妙に日本共産党に食い込んでいて、同党の機関紙『しんぶん赤旗』に登場している。そのせいもあってか、共産党系の人たち(党執行部、党員、党支持者)から白井聡に対する批判が全く聞こえてこないのが現状だ。

 思い出すのは、数年前に共産党執行部の人たちが、確か脱原発デモでのことだったかと記憶するが、(国粋主義系「反米愛国右翼」である)孫崎享と肩を並べて行進していたことだ。あの頃から懸念していたが、共産党の右傾化は近年ますます露骨になってきている。

 なお、松尾匡の専門は、いうまでもなく天皇論ではなく経済学だが、近年松尾が出している一般書(その一部しか私は読んでいないが)に提言されている経済学は、特に松尾の専門である数理マルクス経済学からくるものというより、欧米のリベラル・左派言論ではごく一般的である「反緊縮」を基調として、その一環として安倍政権の経済政策のうち金融緩和のみを肯定的に評価しているものだと思われる。

 しかし、財務省や「保守本流」や朝日新聞が昔から財政再建にこだわり続けてきた伝統を無批判に受けついでいる(ようにしか見えない)旧民進党系の人たちには松尾の考え方は全く受け入れられないもののようだ。

 彼らの思考の硬直性も、前記の共産党系の人たち(「民主集中制」を、その縛りを受けないはずの非党員の一般支持者までもが進んで墨守しているように見える)に負けず劣らずひどい。

 彼らの中には松尾の政策の賛同者を「松尾信者」と呼ぶ者さえいるが、そんな彼ら自身が1997年と2014年の二度にわたって消費増税が景気を大きく悪化させた事実を直視できないのだから、彼ら自身こそ「消費増税信者」と呼ぶほかないのではなかろうかと私は思う。

 共産党系も旧民進党系(立憲民主党その他)もかくの如し。これが「崩壊の時代」の閉塞感というものか。

 あと何年か安倍晋三の悪政をやり過ごし、その後にくるであろう後継者の時代のカオス(混沌)をやり過ごしながら人生の終わりに近づくほかないのかと思うと、心底うんざりする。

 せめてあと11回更新して、このブログの最終回を迎えるまでには、少しは希望が見えれば良いのだが。
 11年前、2007年の6月は、「消えた年金」問題が発覚して、4月・5月に支持率を持ち直しつつあった第1次安倍内閣が一気に奈落に突き落とされるきっかけになった月だった。

 その11年後の2018年6月は、末期症状を呈しつつあるかに見えた安倍内閣支持率が、2015年と昨年、2017年のそれぞれ8月に続いて、三たび、あるいは四たびだろうか、支持率をV字回復させるという痛恨の月となった。現時点で既に、9月の自民党総裁選で安倍晋三が3選されることはほぼ不可避の情勢となった。

 この1か月では新潟県知事選と米朝首脳会談が大きかった。

 後者では安倍晋三は何もしなかった、というより何もできなかったのだが、NHKや読売、産経といった御用メディア、ことに大きなできごとになると頼る人々の多いNHKが「外交の安倍」という大キャンペーンを打って「大本営発表」を垂れ流した悪影響がもろに出た。これは、それに先立つ南北首脳会談で安倍が「蚊帳の外」に置かれていたとする正当な指摘に対して官邸が大々的な反撃に打って出たものとみるほかない。官邸の御用メディアコントロールといえば、文科省元事務次官の前川喜平を陥れようとした昨年6月の読売新聞の報道に典型的に見られるように、(もともと右翼の跳ねっ返りを喜ばせるためのメディアだと誰もが知っている産経新聞はともかく)、NHKや読売といった世間一般では(私は全くそうではないが)比較的信頼されている大メディアを使って臆面もなくフェイクニュースを垂れ流させるという由々しき段階に達した。その手口のおぞましさは、安倍晋三が政権をトリモロした2012年以前には想像もつかなかったほど厚かましく破廉恥そのものだ。中でも最悪なのは岩田明子の「解説」であって、あれはもはや朝鮮中央テレビを笑うことなど全くできないレベルにある。

 この御用メディアの大キャンペーンによって、昨年来「人柄が信用できない」とする人が増えて、しばらく前に謎の「失脚」をした木下ちがや(「こたつぬこ」)氏あたりが、もう以前のように内閣支持率が回復することはないと予言していた安倍内閣支持率が、木下氏の楽観的予想に反してまたしても「V字回復」を遂げてしまったのだった。

 私が連想するのは、1944年10月に突如大々的垂れ流された、台湾沖航空戦で日本軍が大戦果をあげたという「大本営発表」だ。久々の「日本軍の勝利」に当時の日本国民は沸き返ったというが、実際には日本軍の戦果など何もないただの虚報だった。今回の米朝首脳会談をめぐるNHKや読売の報道は実質的にそれと同じだ。二度目は笑劇として繰り返されている「崩壊の時代」の崩壊はもうここまできた。

 安倍晋三がここまでメディア支配を完成させるまでには、思えば長い年月があった。古くは2001年のNHK番組改変問題にまで遡れる。これを朝日新聞が報じたのは2005年だったか。しかし朝日は腰砕けとなって安倍と故中川昭一に謝罪してしまった。その間に魚住昭が安倍と中川からの圧力をあったことを立証する記事を月刊『現代』に発表したにもかかわらず、不可解な屈服だった(朝日は同じ誤りを2014年の「慰安婦報道」撤回で繰り返した)。

 その後、一時は政権を投げ出した安倍晋三は政権に返り咲くと、百田尚樹をNHK経営委員に、次いで籾井勝人をNHK会長に次々と送り込んで、NHKの報道を「大本営化」させてしまった。私はもう数年前からテレビのチャンネルをNHKに合わせることはほとんどなくなっている。ここ数年のNHKの報道に対する私の信頼度はゼロなのだが、このような人間では今の日本ではごく少数派なのだろうと自覚している。メディアを支配した権力の暴走はとどまるところを知らない。読売はいつだったか前記木下ちがやが指摘した通り、もはや渡邉恒雄(ナベツネ)はグリップしていないと見られるが、エピゴーネン(追随者)は常に本家本元よりもたちが悪いという私の経験則の通り、ナベツネ全盛時代でもみられなかったほど堕落してしまった(その代表例が前記の前川喜平をめぐる虚報だ)。

 ところで、腐敗した政権の暴走が末期的な段階に達しているにもかかわらず、「野党共闘」の迷走はもはやお花畑の域に達している。新潟県知事選の敗因を総括せよとは、たとえば世論調査の分析で定評のある「はる」氏や、私のあまり好まない菅野完なども言っているが、「野党共闘」の中核をなす指導者たち、具体的には志位和夫、小池晃、枝野幸男、辻元清美、岡田克也といった人たちの言動からは総括どころか反省の色さえみられない。

 特に頭にくるのは労働の規制緩和の総仕上げともいうべき「高プロ」反対のアピールが「モリカケ」問題追及に比べて力が入っていないように見えることと、それと対をなすかのように、新潟県知事選でもみられたように、こともあろうに小泉純一郎と「共闘」している惨状だ。

 高プロが世紀の悪法であることは言うを俟たないが、その前段階として派遣労働の対象拡大という労働の規制緩和があった。小泉純一郎はそのうち、製造業への派遣労働の解禁を定めた2003年の派遣法改定(改悪)に総理大臣として関与したゴリゴリの新自由主義者だ。首相在任中に竹中平蔵と組んだ悪行は実にひどかったが、そんな小泉純一郎と「脱原発」で共闘しているのが今の「野党共闘」だ。

 新潟県知事選の直後に、東京電力が同社の福島第二原発の4基を廃炉にする方針を表明したが、東電がこれを知事選の前ではなくあとに表明したのはむろん意図的だ。投票前に表明した場合、東電が保有する原発で残るのは柏崎刈羽原発だけとなるため、自動的に原発が知事選の争点になる。それを配慮したものであることは明らかだ。

 逆にいえば、2011年の東日本大震災字に起きた東電福島第一原発事故(以後、東電原発事故)以来、「脱原発」のベクトルの方向を持つ惰性力が強く働いており、それに権力ずくで対抗しようとしているのが安倍政権と経産省だといえる。

 米山隆一が勝った2016年の新潟県知事選では、その「空気」というか惰性力の強さを読めなかった自公候補の森民夫がうっかり原発を争点にしてしまったとも聞く。今回の花角英世は極右人士ばかり応援に仰ぐようなとんでもない人間だが、森民夫が犯した誤りは繰り返さなかった。「野党共闘」側は争点隠しだというが、そもそも不利な土俵に自分から上がる馬鹿はそうそういない。「脱原発シングルイシュー」あるいは「脱原発プラス『モリカケ』」で自公候補に勝てるという「野党共闘」側の甘い見通しこそ批判されなければならない。

 しかし、「民主集中制」の共産党と「元祖新保守主義・元祖新自由主義」の象徴にしてかつては多数の[信者」を抱えていた小沢一郎、それに「下からの(草の根)民主主義」というのはどうやら看板だけだったらしいことがはっきりしてきた、小沢と同根ではないかとさえ疑われる立憲民主党とが組んだ「野党共闘」にはどうやら批判に耳を傾けるつもりは毛頭ないらしい。ある意味安倍政権と似た体質を持っているともいえる。「野党共闘」内では、2013年に自由党の前身である生活の党が自民・維新とともにカジノ法案を共同提出した過去を問う議論さえタブーになっている。一説によると、当時生活の党がこれに加わったのは、前年の衆院選で袖にされた橋下徹との連携になお未練を持っていたからではないかともいわれる。橋下といえば、小泉純一郎に優るとも劣らない新自由主義者だ。

 こんなざまだから、「野党共闘」は高プロ反対の世論を盛り上げることさえままならず、敗北に敗北を重ね続けるのかと思ってしまう。

 2018年も早くも半分が過ぎようとしているが、年の前半はますます暗さを増す一方だった。